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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(81)

●「今」を知らない子どもたち

 私の知人がこう言った。「退職したら、Tさんと2人で、車で日本一周をするつもりです」と。し
かし私はその話を聞いたとき、「ではなぜ、今しないのか?」と思った。

 日本人は仏教というよりチベット密教の影響を強く受けているから、「結果」を重要視する。
「死に顔でその人の生涯が決まる」と教えている日本最大の宗教教団すらある。しかし大切な
のは、結果ではなく、「今」だ。が、それだけではない。

こうした結果を大切にする考え方は、日本人の生き方そのものにも大きな影響を与えている。
その一つが、「未来」のためにいつも「今」を犠牲にするという生き方。たとえば幼稚園は小学
校入学のため、小学校は中学校や高校の入学のため、さらに高校は大学入試のため、大学
は就職するためと考える親は多い。

そう考えるのは親の勝手だとしても、子どももまた、そういう生き方を身につけてしまう。そして
いつまでたっても「今」がつかめなくなる。しかしそれは愚かな生き方そのもの。イギリスには、
『休息を求めて疲れる』という格言がある。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているう
ちに、疲れてしまい何もできなくなる」という意味である。

 一度こういう生き方のパターンができてしまうと、それを変えるのは容易ではない。そのまま
一生つづくと言ってもよい。その一例として、休暇の過ごし方がある。たとえば今、10日間の休
暇が与えられたとする。そういうとき欧米の人なら、その「時」をそのまま楽しむ。……楽しむこ
とができる。

しかし日本人は、休暇中は今度は、休暇が終わってからの仕事を考える。子どももそうだ。子
どもが学校から3日間の休日を与えられたとする。そして子どもが家でブラブラしていたとす
る。すると親はそれを見て不安に思ったりする。「こんなことでいいの!」と。つまり日本人は休
みを休みとして楽しむことすらできない。

別の友人はこう言った。「10日も休みをもらっても、過ごし方がわらない」と。こうした生き方
は、よく「仕事中毒」という言葉で説明されるが、そんな簡単なことではない。根は深い。

 さて冒頭の話だが、私はその知人は、退職後、日本一周の旅には出ないと思う。しても旅か
ら帰ったあとの老後の話ばかりすると思う。それはちょうど試験週間の学生のようなものだ。試
験中というのは、ほとんどの学生は「試験が終わったら映画を見にいこう」とか、「旅行しよう」と
か考えるが、いざ試験が終わると、何もしたくなくなる。

あなたにもそういう経験があると思うが、抑圧された環境の中では夢だけがひとり歩きする。し
かしその抑圧から解放されると、同時に夢も消える。いや、その前に健康がそれまで続くかど
うかさえわからない。命だってあぶない。そんなあやふやな「未来」に夢を託してはいけない。
夢があるなら、条件をつけないで、「今」始めることだ。繰り返すが、結果は必ずあとからついて
くる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(82) 

●過関心は心をつぶす

 親が自分の子どもに関心をもつのは当然のことだが、それが度を超すと、過関心になる。そ
の過関心、とくに神経質な過関心は、子どもの心をつぶす。

 私は私の授業を例外なく、公開している。そういう中でも、ときに親の視線が強すぎて授業そ
のものがやりにくく感ずることがある。「強い」というより、「刺すような」視線である。それがピリ
ピリと伝わってくる。そこでそれとなくその親の方をみるのだが、表情を見る限り、とくに緊張し
ている様子はない。柔和な笑顔を浮かべていることさえある。しかし視線だけが、異常に強い
……!

 親の過関心が日常的につづくと、子どもの心は内閉したり、さらにそれが進むと萎縮したりす
る。(反対に粗放化する子どももいる。このタイプの子どもは、親の過関心をはね返した子ども
とみる。)子どもらしいハツラツとした表情が消え、顔もどんよりと曇ってくる。また自分で考えて
行動することができなくなるため、外の世界では、常識ハズレな行動をしやすい。

バスの窓から体を乗り出してみせた子ども(小4男児)や、先生のコップに、殺虫剤を入れた子
ども(中1男子)がいた。が、そういう事件を起こしても、親にはその自覚がない。ないばかり
か、かえって子どもを激しく叱ったりする。この悪循環が、子どもをますます悪い方向に追い込
む。

 実際、神経質な親は多い。子どもの持ち物は言うにおよばず、机の中や携帯電話の中まで、
こっそり調べたりする。子ども部屋に監視カメラをつけている親だっている。こうした親は、口で
は「私は子どもを愛しています」と言うが、その実、子どもを愛していない。自分の心のすき間を
埋めるために、子どもを利用しているだけ(失礼!)。

さらにその原因は何かと言えば、子どもを信じられないという不信感がある。「うちの子は何を
しても心配だ」という思いが転じて、過関心になる。もちろん親自身の情緒的欠陥が原因となる
こともある。このタイプの親は、うつ型タイプの人が多く、一度こまかいことを気にし始めると、
そのことばかり気にするようになる。そしてささいなことを問題にしては、おおげさに騒ぐ……。

 子どものことで、こまかいことが気になり始めたら、過関心を疑ってみる。そしてもしそうなら、
一度思い切って、子どものことは忘れ、子育てそのものから離れてみる。方法はいくらでもあ
る。サークルでも、ボランティアでも何でもすればよい。自分のまわりに、子育てとは関係のな
い世界をもつ。そしてその結果として、子育てそのものから遠ざかる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(83)

●生きるのがマトリックス(母体)

 生きるためにお金を稼ぐ。稼ぐために働く。働くために仕事をする。あくまでも生きることがマ
トリックス(母体)。それが今、逆転している。仕事が生きることより優先され、仕事のために生
きている人はいくらでもいる。たとえば休暇。

 私たちは「休みになったら、○○をしよう」と考えて仕事をする。それは問題ないが、休みにな
ったら、休みなったで、今度は仕事のことばかり考える。よく日本人は休暇の過ごし方を知らな
いと言われるが、その理由の一つはこんなところにもある。子どもの教育とて例外ではない。

土日が休みになって、子どもが家でゴロゴロと横になって休んでいたとする。そういうとき親は、
「勉強はしなくていいの?」とか、「もうすぐテストでしょ」とか言って、子どもを追い立てる。

 生きることがマトリックス(母体)とするなら、仕事の世界はまさに仮想現実の世界。この世界
にハマると、本来大切でないものまで大切と思い込むようになる。学歴だの出世だの、地位だ
の肩書きだの、そんなことばかりを気にするようになる。それだけならまだしも、その一方で、
本来大切にすべきものを、粗末にするようになる。よい例が、単身赴任だ。昔、私のオーストラ
リアの友人たちがこう言った。「家族がバラバラにされて何が仕事か!」と。

 もちろん仕事をするのが悪いと言っているのではない。しかし本分を忘れてはいけない。この
本分を忘れると、自分の人生そのものまで犠牲にすることになる。やっと楽になったと思った
ら、人生も終わっていた……、と。

 子どもをなぜ教育するかといえば、それは子どもたちに心豊かで、幸せな人生を歩んでほし
いからだ。教育に目的があるとするなら、私たちの知識や経験を武器として、子どもに与えるこ
とだ。つまりそれが教育のマトリックス(母体)。

たしかにこの日本には学歴社会があり、それにまつわる受験競争もある。しかしその本分は
忘れてはいけない。これを忘れると、子ども自身もまた、今のあなたと同じように、いつまでた
っても自分の人生をつかめなくなる。いや、その前に、あなたと子どもの関係は、まちがいなく
崩壊する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(84)

●愛情は落差の問題

 下の子どもが生まれたりすると、よく下の子どもが赤ちゃんがえりを起こしたりする。(赤ちゃ
んがえりをマイナス型とするなら、下の子をいじめたり、下の子に乱暴するのをプラス型という
ことができる。)本能的な嫉妬心が原因だが、本能の部分で行動するため、叱ったり説教して
も意味がない。叱れば叱るほど、子どもをますます悪い方向においやるので、注意する。

 こういうケースで、よく親は「上の子どもも、下の子どもも同じようにかわいがっています。どう
して上の子は不満なのでしょうか」と言う。親にしてみれば、フィフティフィフティ(50%50%)だ
から文句はないということになるが、上の子どもにしてみれば、その「50%」というのが不満な
のだ。つまり下の子どもが生まれるまでは、100%だった親の愛情が、50%に減ったことが
問題なのだ。

もっとわかりやすく言えば、子どもにとって愛情の問題というのは、「量」ではなく「落差」。それ
がわからなければ、あなたの夫(妻)が愛人をつくったことを考えてみればよい。あなたの夫が
愛人をつくり、あなたに「おまえも愛人も平等に愛している」とあなたに言ったとしたら、あなた
はそれに納得するだろうか。

 本来こういうことにならないために、下の子を妊娠したら、上の子どもを孤立させないように、
上の子教育を始める。わかりやすく言えば、上の子どもに、下の子どもが生まれてくるのを楽
しみにさせるような雰囲気づくりをする。「もうすぐあなたの弟(妹)が生まれてくるわね」「あなた
の新しい友だちよ」「いっしょに遊べるからいいね」と。

まずいのはいきなり下の子どもが生まれたというような印象を、上の子どもに与えること。そう
いう状態になると、子どもの心はゆがむ。ふつう、子ども(幼児)のばあい、嫉妬心と闘争心は
いじらないほうがよい。

 で、こうした赤ちゃんがえりや下の子いじめを始めたら、(1)様子があまりひどいようであれ
ば、以前と同じように、もう一度100%近い愛情を与えつつ、少しずつ、愛情を減らしていく。
(2)症状がそれほどひどくないよなら、フィフティフィフティ(50%50%)を貫き、そのつど、上
の子どもに納得させるのどちらかの方法をとる。あとはカルシウム、マグネシウムの多い食生
活にこころがける。


 

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(85)

●嫉妬はこころをゆがめる

 嫉妬心と闘争心。これら二つの感情は、おそらく人間がきわめて下等な生物であったときか
らもっていた原始的な感情ではないか。この二つをいじると、子どもの心はゆがむ。とくに嫉妬
心は、人間をして、えてして常識ハズレの行動へとかりたてる。

 たとえばいじめ。陰湿ないじめが、長期間にわたって続くときは、この嫉妬を疑ってみる。い
ろいろなケースがある。K子さん(小4)は、学校で、陰湿なもの隠しに苦しんでした。かばんや
上履きなどは言うにおよばず、教科書やノート、運動着さらには通知表まで隠された。そのた
めK子さんと母親は、転校まで考えていた。が、ひょんなことから、その犯人(こういう言い方は
好きではないが……)がわかった。

そのもの隠しをしていたのは、そのK子さんの一番の親友と思われていた子どもだった。その
子どもは、いつもK子さんの心配をしながら、最後の最後までいっしょになくなったものをさがし
てくれていたという。

 K子さんは背も高く、頭もよかった。学校でもたいへん目立つ子どもだった。一方、そのもの
隠しをしていた子どもは、背も低く、器量も悪かった。そんなところにその子どもが嫉妬する理
由があったのかもしれない。

 またこんなことも。Oさん(中2女子)も、同じようにもの隠しに悩んでいた。私に相談があった
ので、私はその母親にこう聞いた。「Oさんの一番そばにして、親友と思われる子どもはだれで
すか?」と。する母親はこう言った。「そう言えば、毎朝、娘を迎えにきてくれる子がいます」と。

私はその子どもをまず疑ってみるべきだと話したあと、母親にこう言った。「明日その子が迎え
にきたら、その子の目をしっかりと見て、『おばさんは何でも知っていますからね』とだけ言いな
さい」と。その母親は翌日、私が言ったとおりにしたが、その日を境に、Oさんのまわりでのもの
隠しは、ピタリとなくなった。

 つぎに闘争心だが、いわゆる動物的な、かつ攻撃的な闘争心は、幼児期はできるだけ避け
る。幼児期は「静かな心」づくりを大切にする。この時期に一度、攻撃的な闘争心(興奮状態に
なって、見境なく相手を暴力で攻撃するという闘争心)が身につくと、それをなおすのは容易で
はない。

スポーツの世界では、こうした闘争心がもてはやされることもある。たとえばサッカーなどでも、
能力というよりも、攻撃心の強い子どもほど、よい成績をあげたりする。ある程度の攻撃心は、
子どもを伸ばすのに必要だが、幼児期にはそれにも限度があるのでは……? 

もっともこれ以上のことは、親自身の判断と方針に任せるしかない。それがよいと思う人は、そ
うすればよいし、それが悪いと思う人は、やめればよい。あくまでも参考意見の一つと考えてほ
しい。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(86)

●仮面治癒に注意!

 子どもの心の問題をあつかっていると、ときどき不思議な現象にであう。私が最初にある子
どもに出会ったとき、「この子の心の問題がなおるには、数年かかるだろうな」と思ったとする。
で、それなりの対処をしているのだが、数か月もたたないうちに、「なおった?」ような状態にな
ることがある。

たとえばF君(年中児・5歳)がそうだった。最初母親も、「3歳のとき、病院で自閉症と診断され
ました」と話していた。(たしかに自閉傾向はあったが、私がみたところ自閉症ではなかった。
母親が聞きまちがえたのだろうとそのときはそう思った。)自分勝手な行動が目立ち、私の言う
ことなどほとんど聞かなかった。

が、指導を始めて数か月後のこと。ふと気づくと、F君が別人のようにおとなしく、しおらしい様
子で、私の指示に従っていた! 驚いてうしろで参観していた母親のほうを見ると、母親はそ
れを見て喜んでいたが、どうもおかしい。そこで母親からあれこれ話を聞くと、F君はある訓練
教室で訓練を受けているという。はげしい暴力的な訓練で有名な訓練教室である。

 こうしたケースは極端なケースだが、大前提として、子どもの心の問題は、簡単にはなおらな
い。無理をすれば一見、なおったかのように見えることがある。私はこれを仮面治癒と呼んで
いるが、仮面は仮面。なおったのではない。症状はさらに奥の深いところにもぐったと考える。
心の問題は、決しておさえてなおるものではない。むしろ反対に、不登校にせよ、引きこもりに
せよ、もろもろの情緒障害にせよ、心の問題は、外へ解放させることによってなおす。一年単
位の恐ろしく時間のかかる作業だが、これが大原則である。

こうした問題で、たとえば別の形で強度の恐怖心を与えたりすると、子どもは退避的に、自己コ
ントロールするようになる。F君がその教室で受けた訓練は、そういうものだったが、しかしそれ
は風邪をひいて熱を出している子どもに、頭から水をかけるようなものである。熱はさがるかも
しれないが、それですむわけがない。事実そのあと数か月もすると、F君に妙な現象が出てき
た。絵を描いているときでも、何を思ったのかひとりでニヤニヤ笑ってみせたり、突発的に大声
を張りあげて、泣き叫んだりするなど。

 子どもに心の問題を感じたら、親のほうが一歩も二歩も引きさがる。今の状態をそれ以上悪
くしないことだけを考えて、無理をしない。無理をすればするほど逆効果。さらに無理をすれ
ば、ここでいう仮面治癒を引き起こすことがある。こうなると、「教育」という場で対処できる問題
ではなくなってしまう。その訓練教室では、「なおった、なおった」とさかんに宣伝しているが、本
当に「なおった」とみてよいのか。私がいう仮面治癒に、皆さんもじゅうぶん注意してほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(87)

●しつけは普遍

 50歳を過ぎると、その人の持病がドンと前に出てくる。しかし60歳を過ぎると、その人の人
格がドンと前に出てくる。ごまかしがきかなくなる。たとえばTさん(70歳女性)は近所でも、「仏
様」と呼ばれていた。が、このところ様子がおかしくなってきた。近所を散歩しながら、よその家
の庭先にあったような植木鉢や小物を盗んできてしまうのだ。

人はそれを、Tさんが老人になったせいだと話していたが、実のところTさんの盗みグセは、Tさ
んが2、30歳のときからあった。ただ若いときは巧妙というか、そういう自分をごまかすだけの
気力があった。しかし70歳近くもなって、その気力そのものが急速に弱まってきた。と同時に、
それと反比例するかのように、Tさんの醜い性格が前に出てきた……。

 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むず
かしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで
決まる。しかもそれはその人が幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころに
は、すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。途
中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。

たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴ
ミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果し
かない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりす
る。

 さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がお
かしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというのは、もっと常識
的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわか
る。してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことをしたとき
には、どこか不快感が心に充満する。そういう常識に従って生きることを教えればよい。そして
それを教えるのが、「しつけ」ということになる。

そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味で私は、「しつけは
普遍」という。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(88)

●教師は聖職者にあらず

 たまたま私はこの原稿を、石川県のK市にあるホテルで書いている。小さな会議に出席する
ためにやってきた。約束の時刻までまだしばらくあるということで、何気なく、……というより部
屋の空気を入れかえるために窓をあけて眼下を見ると、露天風呂。しかも女湯! その無防
備さに、私は我が目を疑った。私の部屋からその露天風呂までは、ちょうど10階分の落差が
ある。女性たちがはっきりと見える距離ではないが、しかし遠過ぎるという距離でもない。とた
ん、私の鼓動が高まるのを覚えた。

 人は私のことを勝手に「教育評論家」と呼んでいる。最初はこの言葉に大きな抵抗を感じた
が、今では自分からこの名前を使うことがある。しかしこの言葉はどこかいやだ。「教育者」と
いうイメージが強過ぎる。たしかに私はいろいろな子育て論を論ずるが、しかし教育者ではな
い。いわんや教育者という言葉から受けるような聖職者ではない。

その証拠に、現に今、心臓がドキドキしている。54歳にもなって、そんな世界とはまあ、半ばあ
きらめたというか、無縁の世界にいるはずなのに、何という現象。何という愚かさ。しかしそれ
にしても露天風呂の女性たちの大胆さといったらない。大きな石の上に、まさにあぐらをかいて
連れ添った別の女性と話し込んでいる。小さな風呂だが、バシャバシャと足で蹴って、水しぶき
をたてているのもいる。

私はやがてそういう光景を見ている自分がなさけなくなった。今の私はまさに本能の虜(とりこ)
になっている。「見たところでどうということはないではないか」という私。これが理性のあるほう
の私。しかし「見ていたい」という私。これが本能の私。が、そのうち、こんなことに気づいた。
「こうした無防備さこそが、ホテル側の意図的な戦略ではないか?」「わざと私のような人間に
見せるようにしくんでいる?」と。とたん自分の心の中で、スーッと本能が冷めていくのを感じ
た。

 私はあえていう。教師は決して聖職者ではない。教師と言っても、あなたの夫や、あなたの兄
や弟とどこも違わない、ただの人間である。この私ですらそうなのだから……という言い方は変
だが、私はだれが見ても、「まじめな人間?」に見えるらしい。その私ですらそうなのだから、少
なくとも男の教師は皆、そうであるとみてよい。

露天風呂に遊ぶ若い女性を見て、「何も感じない」と、窓をしめる教師などいない。いたらいた
で、その「ふつうでないこと」を疑ってみたほうがよい。おなかがすけば何かを食べたくなる。そ
れと同じように、こうした性欲はだれにでもある。もっともあったからといって、それがまちがっ
ているというのではない。それが正常な人間ということになる。

 さて本論。よく教師による女生徒へのセクハラ事件が話題になる。教師がハレンチ事件を起
こすこともある。そういうとき世間は、鬼の首でもとったかのように騒ぐが、そもそもそういうスキ
を与えたのもその世間ではないのか。もっとはっきり言えば、教育のシステムをそういう前提、
つまり教師といえどもただの人間であるという前提で組み立てるべきではないのか。私はそん
なことを考えながら、今度は本気で窓を閉じた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(89)

●仮面をかぶらせるな

 心(情意)と表情が遊離し始めると、子どもは仮面をかぶるようになる。一般論として、情緒に
何らかの障害のある子どもは、外から見たとき、何を考えているか、わかりにくくなる。表面的
にはよい子ぶったり、柔和な表情を浮かべて親や教師の言うことに従ったりする。しかし仮面
は仮面。その仮面の下で、子どもは親や教師の印象とはまったく別のことを考えるようになる。
これがこわい。

 すなおな子どもというのは、心と表情が一致し、性格的なゆがみのない子どものことをいう。
不愉快だったら不愉快そうな顔をする。うれしいときには、うれしそうな顔をする。そういう子ど
もをすなおな子どもという。

が、たとえば家庭崩壊、育児拒否、愛情不足、親の暴力や虐待が日常化すると、子どもの心
はいつも緊張状態に置かれ、そういう状態のところに不安が入り込むと、その不安を解消しよ
うと、情緒が一挙に不安定になる。突発的に激怒する子どももいるが、反対にそうした不安定
さを内へ内へとためこんでしまう子どももいる。

そしてその結果、仮面をかぶるようになる。一見愛想はよいが、他人に心を許さない。あるい
は他人に裏切られる前に、自分から相手を裏切ったりする。よくある例は、自分が好意をよせ
ている相手に対して、わざと意地悪をしたり、いじめたりするなど。屈折した心の状態が、ひね
くれ、いじけ、ひがみ、つっぱりなどの症状を引き起こすこともある。

 そこでテスト。あなたの子どもはあなたの前で、言いたいことを言い、したいことをしているだ
ろうか。もしそうであれば問題はない。しかしどこか他人行儀で、よそよそしく、あなたから見
て、「何を考えているかわからない」といったふうであれば、家庭のあり方をかなり反省したほう
がよい。

子どもに「バカ!」と言われ怒る親もいる。平気な親もいる。「バカ!」と言うことを許せというの
ではないが、そういうことが言えないほどまでに、子どもをおさえ込んではいけない。

子どもの心は風船のようなもの。どこかで力を加えると、そのひずみは、別のどこかに必ず表
れる。で、もしあなたがあなたの子どもに、そんな「ひずみ」を感ずるなら、子どもの心を開放さ
せることを第一に考え、親のリズムを子どもに合わせる。「私は親だ」式の権威主義があれ
ば、改める。

そしてその時期は早ければ早いほどよい。満6歳でこうした症状が一度出たら、子どもをなお
すのに6年かかると思うこと。満10歳で出たら、10年かかると思うこと。心というのはそういう
もので、簡単にはなおらない。無理をすればするほど逆効果になるので、注意する。  





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(90)

●行きつくところまで行く

 子育ては、失敗してみて、それが失敗だったとはじめて気づく。その前の段階で、私のような
ものがあれこれ言ってもムダ。ほとんどの親は、「うちの子に限って」とか、「まだ何とかなる」と
考えて、無理に無理を重ねる。が、やがてそれも限界にくる。

 よくある例が、子どもの燃え尽き(バーントアウト)。概してまじめで、従順な子どもがなりやす
い。はげしい受験勉強をくぐりぬけ、やっとの思いで目的の学校へ入学したとたん、燃え尽きて
しまうなど。浜松市内でも1番と目されている進学校のA高校のばあい、1年生で、1クラス中、
2〜3人。2年生で、5〜6人が、燃え尽き症候群に襲われているという(B教師談)。1クラス4
0名だから、10%以上の子どもが、燃え尽きているということになる。この数を多いとみるか、
少ないとみるか? 

 燃え尽きは初期症状を的確にとらえ、その段階で適切に対処することが大切。登校前に体
や心の不調や、無気力、倦怠感を訴えたりする。不登校の初期症状に似た症状を示すことも
ある。そういうとき親が、「そうね、だれだってそういうときがあるよ」と言ってあげれば、どれだ
け子どもの心は救われることか。が、親にはそれがわからない。

ある母親はあとになって、私にこう言った。「無理をしているという気持ちはどこかにありました
が、目的の高校へ入ってくれれば、それで問題のすべては解決すると思っていました」と。もっ
ともこういうふうに反省できる親はまだよいほうだ。中には、「わかっていたら、どうしてもっと早
くアドバイスしてくれなかったのだ」と、私に食ってかかってきた父親がいた。

 結論を先に言えば、結局は親というのは、自分で行き着くところまで行かないと、自分で気づ
かない。一度(無理をする)→(症状が悪化する)→(ますます無理をする)の悪循環に入ると、
あとは底なしの泥沼状態に陥ってしまう。これは子育てにまつわる宿命のようなものだ。そこで
大切なことは、いつどのような形で、その悪循環に気づき、それをその段階で断ち切るかという
こと。もちろん早ければ早いほどよい。そしてつぎのことに気をつける。

(1)あきらめる……「あきらめは悟りの境地」という格言を以前、私は考えたが、あきらめる。

(2)今の状態を保つ……「何かおかしい」と感じたら、なおそうと考えないで、今の状態をそれ
以上悪くしないことだけを考える。

(3)一年単位でみる……子どもの「心」の問題は、すべて一年単位でみる。「心」の問題はその
つど一進一退を繰り返すが、それには一喜一憂しない。

 これは燃え尽きに限らず、子どもの心を考えるときの大鉄則と考えてよい。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(91)

●見栄、メンツ、世間体

 見栄、メンツ、世間体……どれも同じようなものだが、この3つから解放されたら、子育てにま
つわるほとんどの問題は解決する。親はこの3つに毒されると、とんでもないこと(失礼!)をし
始める。常識そのものが狂う。

 まず見栄。ある高校生(男子)が私のところにやってきて、こう言った。「先生、法政大学と明
治大学、どっちがカッコいいですかね」と。そこで私が「どうしてそんなことを聞くのか?」と言う
と、「結婚式での披露宴のこともありますから」と。まだ恋人もいないような高校生が、結婚式で
の見てくれを気にしていた。

 つぎにメンツ。このH市では、市内の進学校に進学できなかった子どもは、隣のS市の全寮
制の学校に入るということが、どこか習わしになっている。(もちろんそうでない子どもも多いが
……。)もともと無理をして受験したような子どもが多い。で、地元に残って、ランクの低い高校
へ入るよりは、そのほうが格好がつくと親や子どもは考える。

 3つ目に世間体。日本人ほど、他人の目を気にしながら生きる民族は少ない。長く続いた封
建時代が、こういう民族性をつくったと考えられる。まわりの人と同じことをしていれば安心、そ
うでなければ不安と。今でも、「世間が許さない」「世間が笑う」「世間体が悪い」などという言葉
を日常的に使う人はいくらでもいる。

それが子どもの世界に入ると、子どもの姿そのものまで見失うことになる。たとえば自分の子
どもが不登校児になったとき、子どもを地元の精神科医院に通わせるのは「恥ずかしいから」
という理由で、隣町の精神科医院に通わせていた母親がいた。あるいは近所をブラブラされる
と、やはり「恥ずかしいから」という理由で、不登校になった子どもを一日中マンションの一室に
閉じ込めていた母親もいた。

 しかしもうそろそろ日本人も、見栄、メンツ、世間体と決別してもよい時期にきているのではな
いだろうか。そういうものを気にするということは、その人自身が小さな世界で生きていることを
意味する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(92)

●汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはターレス(古代ギリシア・7賢人の1人)だが、自分を知ることは
難しい。こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中2男児)がいた。どこがどう問題児だったかは、
ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学校の
先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。

するとその子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきに
して、ぼくを怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子
どものことではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日1人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子
どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小1男児)のように、友だちのいない子
はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行って
ほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをす
るかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のど
こかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。

「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてし
まう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるな
ど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。そ
れに気づくことが、自分を知る第一歩である。

まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることであ
る。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(93)

●裸で生きる

 私には60人近いいとこがいる。そのいとこの中でも、1番の出世頭(こういう言い方は好きで
はないが)は、京都に住むUさんだ。Uさんは某一流大学(この言い方も好きではない)を出た
あと、これまた某一流銀行(この言い方も好きではない)に入社。あとはトントン拍子に出世し
て、現役時代はその銀行のドイツ支店の支店長も経験している。

 このUさんと同じ歳のいとこに、Bさんがいる。Bさんは田舎の中学を卒業すると、理容師な
り、今は長野県の山村で理容店を営んでいる。魚釣りがうまく、そのあたりでは「名人」というニ
ックネームで呼ばれている。が、それだけではない。魚釣りが高じて、Bさんは釣り竿を自分で
作るようになり、今ではBさんが作る釣り竿は、「芸術品」とまで評判されている。

 私はときどきUさんとBさんを頭の中で比較する。一昔前の尺度でみれば、Uさんは勝ち組
み、Bさんは負け組みということになる。しかし今、結果としてこの二人を比較すると、勝ち組
み、負け組みという言い方すら、空しく聞こえてくる。Uさんはあのバブル経済が崩壊したあと、
子会社の金融会社に出向している。それなりに出世したとはいえ、し烈な競争世界で犠牲にし
たものも多い。

金融会社に出向する少し前、Uさんは私の家にやってきて、こう言った。「いえね、こうなってみ
ると、何もかもむなしいよ。女房なんか、『私の人生は何だったの。返して!』と言って、ぼくを
困らすのだよ」と。Uさんはともかくも、夫の出世を陰で支えてきた妻の悲哀も、また大きい。

 もちろん今でもUさんは、自慢のいとこだ。ときどきいとこ会を開くが、Uさんが席の中央に座
っても、それをおかしいと思う人は一人もいない。人格的にも、Uさんは、すぐれた人だ。しかし
今、もし私にもう一度人生が与えられ、Uさんか、それともBさんのどちらか一つの人生を選べ
と言われたら、私は迷わず、Bさんの人生を選ぶ。現在の私の生活そのものがBさんのそれに
近いこともある。が、理由はもっとほかにある。

 人は生きるために、食べる。食べるためにお金を稼ぐ。そのお金を稼ぐために働くとしたら、
働くことはあくまでも補助的なことだ。その補助的なことが、本末転倒して、「柱」になったとして
も、それは錯覚でしかない。Uさんは銀行という会社のために人生を捧げたが、銀行に人生を
捧げること自体おかしなことなのだ。一見華々しい社会に見えるが、それは生きることとは本
来、無関係なものである。いくら華々しく働いたとしても、その人の人生が豊かになるわけでは
ない。人生の豊かさ、美しさは、もっと別のところにある。

もっと言えば、その人が裸になったとき、その人の価値が決まる。つまり「生きる」という原点を
みる限り、BさんのほうがUさんより、はるかに豊かな人生を送ったということになる。Bさんに
は地位や肩書きがないにしても、それがないからといって、Bさんの人生には何ら影響はな
い。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(94)

●知識と教養

 知識と教養は、まったく別物。たとえば幼稚園児がスラスラと掛け算の九九を言うのは知識。
しかしいくらこの知識があるからといって、その子どもが教養のある子どもということにはならな
い。教養とは、もともとその人の深い人間性と結びついたもの。

たとえばA君がB君に「チビ!」と言ったとする。そのときそれを聞いたC君がA君に、「そういう
ことを言ってはダメ」とたしなめたとする。そのたしなめる原動力となる深い人間性を、教養とい
う。

 ところがこの日本では、知識と教養が区別されていない。されていないばかりか、知識のある
子どもイコール、教養のある子どもということになってしまっている! あるいは勉強のよくでき
る子どもイコール、教養のある子どもとか、人格的にすぐれた子どもということになってしまって
いる! しかしこれはとんでもない誤解である。

むしろ事実は逆で、勉強のできる子どもよりも、勉強のできない子どものほうにこそ、豊かな人
間性を感ずることのほうが多い。福田恒存も「伝統に対する心構」の中でこう書いている。

「教育と教養は別物です。……教養を身につけた人間は、知識階級よりも職人や百姓のうちに
多く見出される」と。

福田ばかりではない。世界の哲学者も、知識に対する見方はきびしい。「思考と知識はつねに
歩みを一緒にすべきである。さもなければ、知識は死物で、不毛のまま死滅する」(語録)と言
ったパスツール。「教養と知識は別物だ。危険だと思われるのは、勉強していくにつれて陥る、
あの呪われた知識というヤツだ。どんなものもみな、頭を通らなくては気がすまなくなる」(青春
時代)と言ったヘッセなどがいる。

 もちろん知識を否定してはいけない。知識は人間がよりよい人生を築くための武器となる。し
かしその知識は常に両刃の剣。使い方をまちがえると、とんでもないことになる。そこでその使
い方を教えるのが、教養ということになる。

 さてあなたはどうだろうか。あなたは子どもに知識をつけさせることが教育だと誤解していな
いだろうか。そうでなければそれでよいが、もしそうなら、一度、知識と教養を頭の中で分けて
みたらどうだろうか。あなたの子どもについて言うなら、勉強がよくできるとかできないとかとい
うことではなく、「うちの子は本当に教養があるのだろうか」と、一度じっくりと観察してみたらど
うだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(95)

●子どもの自慰は笑ってすます

 ある母親からこんな相談が寄せられた。いわく、「私が居間で昼寝をしていたときのこと。6歳
になった息子が、そっと体を私の腰にすりよせてきました。小さいながらもペニスが固くなって
いるのがわかりました。やめさせたかったのですが、そうすれば息子のプライドをキズつけるよ
うに感じたので、そのまま黙ってウソ寝をしていました。こういうとき、どう対処したらいいのでし
ょうか」(32歳母親)と。

 フロイトは幼児の性欲について、次の3段階に分けている。(1)口唇期……口の中にいろい
ろなものを入れて快感を覚える。(2)肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなって肛門に
興味を示したり、そこをいじったりする。(3)男根期……満四歳くらいから、性器に特別の関心
をもつようになる。

 自慰に限らず、子どもがふつうでない行為を、習慣的に繰り返すときは、まず心の中のストレ
ス(生理的ひずみ)を疑ってみる。子どもはストレスを解消するために、何らかの代わりの行為
をする。これを代償行為という。指しゃぶり、爪かみ、髪いじり、体ゆすり、手洗いグセなど。自
慰もその一つと考える。

つまりこういう行為が日常的に見られたら、子どもの周辺にそのストレスの原因(ストレッサー)
となっているものがないかをさぐってみる。ふつう何らかの情緒不安症状(ふさぎ込み、ぐずぐ
ず、イライラ、気分のムラ、気難しい、興奮、衝動行為、暴力、暴言)をともなうことが多い。そ
のため頭ごなしの禁止命令は意味がないだけではなく、かえって症状を悪化させることもある
ので注意する。

 さらに幼児のばあい、接触願望としての自慰もある。幼児は肌をすり合わせることにより、自
分の情緒を調整しようとする。反対にこのスキンシップが不足すると、情緒が不安定になり、情
緒障害や精神不安の遠因となることもある。子どもが理由もなく、ぐずったり、訳のわからない
ことを言って、親をてこずらせるようなときは、そっと子どもを抱いてみるとよい。最初は抵抗す
るそぶりを見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。

 この相談のケースでは、親は子どもに遠慮する必要はない。いやだったらいやだと言い、サ
ラッと受け流すようにする。罪悪感をもたせないようにするのがコツ。

 一般論として、男児の性教育は父親に、女児の性教育は母親に任すとよい。異性だとどうし
ても、そこにとまどいが生まれ、そのとまどいが、子どもの異性観や性意識をゆがめることが
ある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(96)

●スキンシップは魔法の力 

 スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。もう20年ほど
前のことだが、こんな講演を聞いたことがある。アメリカのある自閉症児専門施設の先生の講
演だが、そのときその講師の先生は、こう言っていた。

「うちの施設では、とにかく『抱く』という方法で、すばらしい治療成績をあげています」と。その
施設の名前も先生の名前も忘れた。が、その後、私はいろいろな場面で、「なるほど」と思った
ことが、たびたびある。言いかえると、スキンシップを受けつけない子どもは、どこかに「心の問
題」があるとみてよい。

 たとえばかん黙児や自閉症児など、情緒障害児と呼ばれる子どもは、相手に心を許さない。
許さない分だけ、抱かれない。無理に抱いても、体をこわばらせてしまう。抱く側は、何かしら
丸太を抱いているような気分になる。

これに対して心を許している子どもは、抱く側にしっくりと身を寄せる。さらに肉体が融和してく
ると、呼吸のリズムまで同じになる。心臓の脈動まで同じになることがある。で、この話をある
席で話したら、そのあと一人の男性がこう言った。「子どもも女房も同じですな」と。つまり心が
通いあっているときは、女房も抱きごこちがよいが、そうでないときは悪い、と。不謹慎な話だ
が、しかし妙に言い当てている。

 このスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、「甘える」という行為である。一般論として、
濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受けた子どもほど、甘え方が自然である。「自
然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい柔和な表情で、人に甘える。甘えることがで
きる。心を開いているから、やさしくしてあげると、そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染
み込んでいくのがわかる。

 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児
拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人
に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんだり、苦しんでいる
のを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。

私「今日はいい天気だね」、子「いい天気ではない」、私「どうして?」、子「あそこに雲がある」、
私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。

 ……と、皆さんを不安にさせるようなことを書いてしまったが、子どもの心の問題で、何か行
きづまりを感じたら、子どもは抱いてみる。ぐずったり、泣いたり、だだをこねたりするようなとき
である。「何かおかしい」とか、「わけがわからない」と感じたときも、やさしく抱いてみる。しばら
くは抵抗する様子を見せるかもしれないが、やがて収まる。と、同時に、子どもの情緒(心)も
安定する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(97)

●慈善は家庭から

 『慈善は家庭から』。これはイギリスの格言。「善良な人になるための心の基本は家庭ででき
る」という意味だが、子どもは「絶対的な安心感のある家庭」の中でこそ、心をはぐくむことがで
きる。「絶対的」というのは、不安感や疑いを抱かないという意味。

子どもというのは、転勤や転校のような環境の変化など、物理的な変化にはたいへんタフな適
応能力をみせる。が、心、とくに愛情がからんだ変化にはたいへんもろい。もろいだけならまだ
しも、愛情がからんだ変化は子どもの心に大きな影響を与える。たとえば離婚。離婚そのもの
は子どもにはほとんど影響はないとみてよい。離婚が離婚として子どもに影響を与えるのは、
離婚にいたるまでの家庭不和、家庭騒動である。離婚するとしても、子どもの前での騒動は最
小限にする。

 一方、子どものやさしさ、思いやる心、いつくしむ心というのは、愛情豊かで、心穏やかな環
境ではぐくまれる。それがよいか悪いかということはさておき、(あまり好ましくないのは言うまで
もないが)、親の愛情をたっぷりと受けて育ったような溺愛児は、柔和で心も穏やか。それにた
いへんやさしい。

反対に生まれてまもなくから施設などに預けられた子どもは、愛情飢餓(きが)の状態におか
れ、独特の症状を示す。だれにも愛想がよい反面、他人に心を許さない。許さない分だけ、孤
立感が強く、情緒的に不安定になるなど。ほかに知育の発達が遅れがちになるとか、貧乏ゆ
すりなどの症状がつきやすいことを指摘する学者もいる(長畑氏ほか)。さらに親の育児拒否
や虐待を経験した子どもは、心の発達そのものが阻害されることが知られている。

 要するに子どもを心豊かな子どもにしたかったら、子どもは温かい家庭で包む。同じイギリス
の格言に、「子どもを幸せにするのが、最高の教育」というのがある。「幸せ」の中身も問題だ
が、「幸せな家庭」がどういうものであるかをいつも考えながら、そういう家庭づくりを考える。そ
れが本当の意味で「よい子」を育てるための、必要条件ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(98)

●4割の善と、4割の悪

社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、4割の善があり、4割の悪が
ある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世
界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、
「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。つまり子どもの世界をよくしたいと思った
ら、社会そのものと闘う。

 ただし一言。悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たち
のように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまった
ら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもし
ろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が
残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより
よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい
人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」
と。

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問
題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないと
いうのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたは
どれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘も
いる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、
君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘は、そういうことはしない
よ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その
知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。

こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題
なのだ。

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、
大きく変わる。子どもの世界も変わる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(99)

●常識を大切に

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(100)

●不登校は前兆をとらえる

 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま。が、その中でも恐怖症の症
状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」といって区
別している。これらの不登校は、症状と経過から、3つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソ
ン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわ
かりやすくしたのが次である。 
(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。 
(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで
歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」
と思うことが多い。 
(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不
安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子
どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わか
らなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。 
(4)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊
びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やが
て登校できるようになる。日に1〜2時間、週に1日〜2日、月に1週〜2週登校できるようにな
り、序々にその期間が長くなる。

 要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親
はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪
化させ、(2)のパニック期を招く。この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校
へ行きたくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。

一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考え
る。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪化する。 
はやし浩司のプロフィール





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(101)

教師言葉は裏から読む

 この世界には、「教師言葉」というのがある。先生というのは、奥歯にものがはさまったような
言い方をする。たとえば能力が遅れている子どもの親には、決して「能力が遅れています」とは
言わない。……言えない。言えば、たいへんなことになってしまう。

こういうとき先生は、「お宅の子どもは、運動面はすばらしいのですが……(勉強は、さっぱりで
きない)」「私のほうでも努力してみますが……(家庭で何とかしてほしい)」と言う。あるいは問
題のある子どもの親に向かっては、「先生方の間でも、注目されています……(悪い意味で目
立つ)」「元気で活発なのはいいのですが……(困り果てている)」「私の力不足です……(もうギ
ブアップしている)」「ほかの父母からの苦情は、私のほうでおさえておきます……(問題児だ)」
などと言う。

ほかに「静かな指導になじまないようです……(指導が不可能だ)」「女の子に、もう少し人気が
あってもいいのですが……(嫌われている)」「協調性に欠けるところがあります……(わがまま
で苦労している)」「ほかの面では問題はないのですが……(学習面では問題あり)」というのも
ある。

 一方、先生というのは、子どもをほめるときには、本音でほめる。先生に、「いい子ですね」と
言われたときは、すなおに喜んでよい。先生は、おせじではほめない。おせじを使わなければ
ならない理由そのもがない。裏を返して言うと、もしあなたの子どもが、園や学校の先生にほめ
られたことがないというのであれば、子どものどこかに問題がないか、それを疑ってみたほうが
よい。

幼児のばあい、一つの目安として、誕生パーティがある。あなたの子どもが、ほかの子どもの
誕生パーティによく招待されるならよし。そうでないなら、かなりの問題のある子どもとみてよ
い。実際、誰を招待するかを決めるのは親。その親は、自分の子どもや先生から耳にする、日
ごろの評判を基準にして、それを決める。

 生々しい話になってしまったが、もともと教育というのは、そういうもの。親と教師の価値観や
エゴが、互いに真正面からぶつかり合う。ふつうの世界と違うのは、そこに「子ども」が介在す
ること。だから本音と建前が、複雑に交錯する。こうした教師言葉は、そういう世界から必然的
に生まれた。ある意味でやむをえないものかもしれない。だいたいあなたという「親」だって、先
生の前では本音を言わない。……言えない。言えば、たいへんなことになってしまう。それをあ
なたは、よく知っている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(102)

●よい先生、悪い先生

 私のような、もともと性格のゆがんだ男が、かろうじて「まとも?」でいられるのは、「教える」と
いう立場にあるからだ。子ども、なかんずく幼児に接していると、その純粋さに毎日のように心
を洗われる。何かトラブルがあって、気分が滅入っているときでも、子どもたちと接したとたん、
それが吹っ飛んでしまう。よく「職場のストレス」を問題にする人がいる。しかし私のばあい、職
場そのものが、ストレス解消の場となっている。

 その子どもたちと接していると、ものの考え方が、どうしても子ども的になる。しかし誤解しな
いでほしい。「子ども的」というのは、幼稚という意味ではない。子どもは確かに知識は乏しく未
経験だが、決して幼稚ではない。むしろ人間は、おとなになるにつれて、多くの雑音の中で、自
分を見失っていく。醜くなる人だっている。「子ども的である」ということは、何ら恥ずべきことで
はない。

とくに私のばあい、若いときから、いろいろな世界をのぞいてきた。教育の世界や出版界はも
ちろんのこと、翻訳や通訳の世界も経験した。いくつかの会社の貿易業務に携わったこともあ
るし、医学の世界をかいま見たこともある。しかしこれだけは言える。園や学校の先生には、
心のゆがんだ人は、まずいないということ。少なくとも、ほかの世界よりは、はるかに少ない。

 そこで「よい先生」論である。いろいろな先生に会ってきたが、目線が子どもと同じ高さにいる
先生もいる。が、中には上から子どもを見おろしている先生もいる。このタイプの先生は妙に
権威主義的で、いばっている。そういう先生は、そういう先生なりに、「教育」を考えてそうしてい
るのだろうが、しかしすばらしい世界を、ムダにしている。

それはちょうど美しい花を見て、それを美しいと感動する前に、花の品種改良を考えるようなも
のだ。昔、こんな先生がいた。ことあるごとに、「親のしつけがなっていない」「あの子は問題児」
とこぼす先生である。決して悪い先生ではないが、しかしこういう先生に出会うと、子どもから明
るさが消える。

 そこで子どもと先生の相性があっているかどうかを見分ける、簡単な方法……。子どもに紙
とクレヨンを渡して、「園(学校)の先生と遊んでいるところをかいてね」と指示する。そのとき子
どもがあれこれ先生の話をしながら、楽しそうに絵をかけばよし。そうでなく、子どもが暗い表
情になったり、絵をかきたがらないようであれば、子どもと先生の相性は、よくないとみる。もし
そうであれば、この時期はできるだけ早い機会に、園長なら園長に相談して、子どもと先生の
関係を調整したほうがよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(103)

●温室から出ると風邪をひく

 過保護といっても、いろいろある。ある母親は、子どもが交通事故にあって以来、運動面で子
どもを過保護にした。また別の母親は、子どもが重病を患ったことが原因で、食事面で子ども
を過保護にした。親が子どもを過保護にする背景には、親がわに何らかの「心配」があるとみ
てよい。そのわだかまりが形を変えて、親は子どもを過保護にする。

 が、何が悪いかといって、精神面で子どもを過保護にするケースほど悪いものはない。子ど
もを小さな世界に閉じ込め、親子だけのマンツーマンの状態で育てるなど。そして「近所のA君
は悪い子だから、いっしょに遊んではダメ」「あの公園には乱暴な子がいるから行ってはダメ」
と、子どもの世界を、外の世界から遮(しゃ)断してしまう。そのため子どもは俗にいう「温室育
ち」になり、いわゆる「外へ出るとすぐ風邪をひく」タイプの子どもになる。

 過保護児の特徴としては、つぎのようなものがある。(1)人格の「核」形成が遅れ、その年齢
の子どもに比べて、全体に幼い感じになる。幼児性がそのまま持続することもある。(2)ブラン
コを横取りされても、それに抗議できないなど、社会性がなくなる。そのためストレスを内にた
めやすく、内弁慶外幽霊になりやすい。(3)柔和でやさしいが、ハキがなく、ものごとに追従的
になりやすい。そのためいわゆる野性味がなくなり、全体にひ弱な感じになる。

それが年齢とともにはっきりしてくるため、親は親でますます過保護にする。この悪循環がます
ます子どもをひ弱にする。どこかでその悪循環を断ち切らねばならないが、たいていの親はこ
う言う。「子どもがああなのは、生まれつきです」と。しかし実際には、そういう子どもにしたの
は、親自身にほかならない。それともあなたは赤ちゃんをみて、その赤ちゃんが過保護児かど
うか、それがわかるとでもいうのだろうか。

 子どもへの過保護を感じたら、何が「心配のタネ」になっているかを、さぐってみる。そのタネ
が何であるかがわかるだけでも、この問題の大半は解決したとみる。まずいのはそれに気づ
かないまま、いつまでもそのタネに振りまわされること。心のわだかまりというのはそういうもの
で、あなたをいつも裏から操(あやつ)る。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(104)

●死は厳粛に

 「死」をどう定義するかによってもちがうが、3歳以前の子どもには、まだ死は理解できない。
飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池を入れかえれば動く」と言った子ども(3歳男児)
がいた。「どうして起きないの?」と聞いた子ども(3歳男児)や、「病院へ連れて行こう」と言った
子ども(3歳男児)もいた。子どもが死を理解できるようになるのは、3歳以後だが、しかしその
概念はおとなとはかなり違ったものである。3〜7歳の子どもにとって「死」は、生活の一部(日
常的な生活が死によって変化する)でしかない。ときにこの時期の子どもは、家族の死すら平
気でやり過ごすことがある。

 このころ、子どもによっては、死に対して恐怖心をもつこともあるが、それは自分が「ひとりぼ
っちになる」という、孤立することへの恐怖心と考えてよい。たとえば母親が臨終を迎えたとき、
子どもが恐れるのは、「母親がいなくなること」であって、死そのものではない。

ちなみに小学五年生の子どもたちに、「死ぬことはこわいか?」と質問してみたが、8人全員
が、「こわくない」「私は死なない」と答えた。1人「60歳くらいになったら、考える」と言った子ど
も(女子)がいた。質問を変えて、「では、お父さんやお母さんが死ぬとしたらどうか」と聞くと、
「それはいやだ」「それは困る」と答えた。

 子どもが死を学ぶのは、周囲の人の様子からである。たとえば肉親の死に対して、家人がそ
れを嘆き悲しんだとする。その様子から子どもは、「死ぬ」ということがただごとではないと知
る。そこで大切なことは、「死はいつも厳粛に」である。死を茶化してはいけない。もてあそんで
もいけない。どんな生き物の死であれ、いつも厳粛にあつかう。

たとえば飼っていた小鳥が死んだとする。そのときその小鳥を、ゴミか何かのように紙で包ん
でポイと捨てれば、子どもは「死」というものはそういうものだと思うようになる。しかしそれでは
すまない。死があるから生がある。死への恐怖心があるから、人は生きることを大切にする。
死をていねいにとむらうということは、結局は生きることを大切にすることになる。が、死を粗末
にすれば、子どもは生きること、さらには命そのものまで粗末にするようになる。

 どんな宗教でも死はていねいにとむらう。もちろん残された人たちの悲しみをなぐさめるという
目的もあるが、死をとむらうことで、生きることの大切さを教えるためと考えてよい。そんなこと
も頭に入れながら、子どもにとって「死」は何であるかを考えるとよい。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(105)

●読解力と国語力

読解力……年中児ともなると、文字をスラスラと読む子どもが出てくる。しかしたいていは文字
を音に変えているだけ。私「ウサギさんは、だれに会いましたか?」、子「……わかんない」、私
「クマさんは、うれしかったのかな?」、子「……わかんない」と。読みの深い子どもは、一ペー
ジごとに、挿絵を見たり、前のページをのぞいたりするので、むしろ読む速度が落ちる。またそ
ういう読み方のほうが好ましいことは言うまでもない。

表現力……子どもに紙と鉛筆を渡し、こんなテストをしてみてほしい。「リスさんが歩いている
と、草の中に大きな穴がありました。リスさんは、その穴に落ちて、おおけがをするところでし
た。そこでリスさんは、あとから来た人が穴に落ちないように、立て札を立てることにしました。
その立て札には何と書けばよいでしょうか」と。

 文字の書き方がおかしいとか、字が抜けているとかいうことは問題にしてはいけない。子ども
が書けない文字があったら、そのつど教えてもかまわない。で、このテストで子どもが、「ここは
穴があるからあぶない」とか、「穴に気をつけて」というような文章が書ければよし。「これは立
て札です」とか、「あなたはここを歩いています」とか、どこかトンチンカンなことを書くようであれ
ば、あまり表現力はないとみる。ちなみに年長児で、まあまあそれらしき文章を書くことができ
るのは約50%。

抑揚……本を読ませてみたとき、言葉の抑揚が自然な子どもは、それだけ家で、おうちの人に
本などを読み聞かせてもらっている子どもとみる。どこか抑揚が不自然と感じたら、子どもには
たくさん本を読んであげるとよい。

国語力……中に「うちの子はたくさん本を読み聞かせているから、国語力がある」と誤解してい
る人がいる。決してムダではないが、国語力というのは、日常生活の中で身につく。たとえば
「ウサギさんの足はヒリヒリ痛みました」という文章があったとする。親はそれを読んであげるこ
とで、「ヒリヒリ」の意味を子どもが理解したと思う。しかしそれだけでは足りない。

子どもがその言葉の意味を理解するようになるためには、実際、子どもがけがをしたようなと
き、「ヒリヒリ痛いの?」と聞いてあげねばならない。そういう体験があってはじめて、子どもは
「ヒリヒリ」の意味がわかるようになる。

要するに子どもの国語力は、親の会話能力、あるいはその子どもを包む言葉環境で決まる。
もっと言えば、子どもが将来、国語が得意になるかどうかは、親の言葉能力で決まるというこ
と。学校で学ぶ国語は、その延長線上にあるにすぎない。いわんやワークやドリルで、国語力
がつくと考えるのは大きな誤解である。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(106)

●自慢は要注意

 日本人はもともと上下意識の強い民族。上下関係がないと落ち着かない。そのため無意識
のうちにも、上下関係を身の回りでつくろうとする。そしてその結果、「上」の人には必要以上に
ペコペコし、「下」の人には尊大ぶったり、いばったりする。が、その上下関係がはっきりしない
ときがある。

そういうとき日本人は、自慢話を始める。……と決めてかかるのも危険なことだが、日本人は
自慢することによって、相手を「下」におこうとする。先祖や家柄を自慢する人、学歴や経歴を
自慢する人、親類や子どもを自慢する人などがいる。自慢しながら、自分を優位な立場に置こ
うとする。で、その自慢のし方は、人さまざま。

(1)それとなく会話に中に自慢を折り込む人……「今度S高校(市内でも有名な進学校)の連
中と、同窓会をしましてね」とか、「いとこがA町で町長をしてましてね」とか。あるいは「今度の
選挙で、親類の選挙運動を頼まれました」とか言うなど。「私の先祖に、○○藩で家老をしてい
たのがいます」と、ストレートに自分を自慢する人もいる。  

(2)大物ぶる人……「定年退職をしたら、郷里で市長でもしようかな」とか、「先週、○○市の市
長から電話がありましてね」とか。「あの大臣がね、この町に来たときにね、パーティに出てほし
いと言われて、しかたなく出てきました」と言った人もいた。

 「今」という現実の中で、「私は私」と生きている人は、自慢などしない。しても意味がない。し
かし仮想現実の世界※で、他人の目を気にして生きている人は、どうしても自慢が多くなる。だ
いたいにおいて人間の上下関係などというのも、フィクション(架空)に過ぎない。人間に上下な
どない。あるわけがない。同じように名誉や地位、肩書き、社会的地位もフィクション。それは
ちょうど子どものゲームのようなもので、その世界にハマッた人にはその愚かさがわからない。

言いかえると自慢話をして自分を飾る人は、それだけ自分のない人とみる。たとえば議員バッ
ジを胸につけ、ふんぞりかえって歩く国会議員を思い浮かべればよい。はたから見るとこっけ
いなのだが、本人にはそれがわからない。

 ……と言いながら、実のところ私も、ときどき自慢話をする。しかしそのたびに、「くだらないか
らやめろ」という声も聞こえてくる。あるいは自慢話をしたあとというのは、どこか不愉快にな
る。自分がなさけなくなるときもある。「自慢」というのはそういうもので、自慢話をするときの自
分は、自分であって、自分でない。だから自慢はできるだけしない。しそうになると、「やめた」と
言って、自ら遠ざかる。私は私だ。他人がどう思うとも、私の知ったことではない。さてあなたは
どうだろうか。きわどい話になってしまったが、この項は、あくまでも一つの参考意見としてとら
えてほしい。

※……生きる本分を忘れた生活を、私は、「仮想現実の世界」と呼んでいる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(107)

●子どもは自慢せよ

 前の項で、「自慢は要注意」を書いた。が、「自慢してはいけない」と言っているのではない。
問題は、自慢の「質」だ。たとえば英語国では、親は平気で子どもを自慢する。「私は息子を誇
りに思う」とか、「私の息子は、○○コンテストで1位になった」とか。日本人はそういうほめ方は
しない。謙遜して自分の息子を、「愚息」とか、「バカ息子」とか言うことが多い。

 一般論として、子どもの努力とやさしさはほめる。顔やスタイルはほめない。「頭」については
ほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。そこで子どもの自慢も同じように考
えてよい。子どもが努力したことについては、遠慮なくほめる。自慢する。そういう前向きな姿
勢が、子どもを伸ばす。

……と言っても、はじめてアメリカへ行ったとき、向こうの親が自分の子どもを自慢するのを聞
いて、私は少なからず驚いた。日本でも自分の子どもを自慢する親はいるにはいるが、アメリ
カ人のように多くはない。が、そのうち日本と英語国では、自慢の「質」が違うことに気づいた。

日本では、見栄やメンツのために子どもを自慢することが多い。つまり何らかの下心をもって
自慢する。しかし英語国では、そういうものをクリアした段階で、子どもを自慢する。つまり親
は、子どもという人間だけをみて、子どもを自慢する。だから子どももそれをすなおに受け入れ
る。受け入れながら、子どもは、「父はぼくを信じていてくれるのだ」「父はぼくのことを喜んでい
てくれるのだ」というように思うようになる。

が、この日本ではそうはいかない。「うちの息子はA国立大学へ入いりましてね」と親が言った
りすると、どこかイヤ味に聞こえる。あるいはそれを言うほうにしても、相手はイヤ味に感ずる
だろうということがわかっているから、あえて話題にしない。

 ……と言っても今、日本の社会は大きく変わりつつある。欧米化というより、グローバル化が
進んでいる。外国の人に自分の息子を、「マイ・スチューピッド・サン(私の愚息)……」などと紹
介しようものなら、相手は目を白黒させて驚くだろう。つまりこうした言い方は日本以外の国で
は通用しない。(だからといって日本のやり方がまちがっているというのではない。念のため。)
しないならしないで、なぜ外国では通用しないかを考えてみることも、大切なことではないの
か。

もっと言えば、日本は日本で、長くつづいた島国根性の中で、ゆがめられた部分も多いという
こと。この「自慢」もその一つと考えてよい。本来、親はもっと自分の子どもの成長を、人前でも
すなおに喜んでもよいのではないか。しかしそれがこの日本では、どうもできない。できないと
ころが、その「ゆがみ」ということになる。この問題の「根」は、想像以上に深い。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(108)

●今を懸命に生きる

 バーチャルな世界に生きる人ほど、過去や未来(結果)にこだわる。先日もある男性(60歳)
が私にこう言った。「そういうことをすれば、私の先祖が許さない」と。私は思わず、「どこに先祖
がいるのですか?」と聞きそうになった。このタイプの人は、何ごとにつけ、家柄や出身にこだ
わる。それが生きがいになっていることもある。

一方、「死に際の様子で、その人の一生が決まる」と言った女性(45歳)がいた。死に際の様
子がよければそれでよし。そうでなければ、その人の一生はまちがっていたことになるのだ、
と。ある宗教団体に属する人だった。私はこの話を聞いて、「交通事故では死ねないな」と思っ
た。しかし交通事故にあうかあわないかは、偶然と確率の問題。仮に交通事故で死んだからと
いって、その人の人生がまちがっていたことにはならない。

 ロビン・ウィリアムズ主演の映画に「今を生きる」というのがあった。「今を懸命に生きろ」と教
える教師。進学指導中心の学校側。そのはざまで一人の高校生が自殺するという映画であ
る。この「今を生きる」という生き方が、バーチャルな生き方の正反対の位置にある。「過去や
未来などどこにもない。あるのは今という現実だけ。だったらこの現実の中で精一杯、人間らし
く生きよう。結果はあとからついてくる」と。

 概して日本人は仏教(チベット密教)の影響を大きく受けているから、結果を重視する。「終わ
りよければ、すべてよし」と。そしてこういう生きざまは子どもの教育にも大きな影響を与えてい
る。いつも結果を重要視するから、幼稚園教育は小学校の入試のため。小学校教育は中学
校の入試のため。さらに中学や高校は大学入試のため。大学は就職のため、と。また社会へ
出てからも、いつも「今」を未来のために犠牲にするようになる。

こうした生き方は、休暇のすごし方にもあらわれる。日本人はたまの休みが与えられても、そ
の休みの間は休みが終わったあとの仕事のことしか考えない。だからのんびりと休むこともで
きない。子どもについても同じ。子どもが日曜日に家でゴロゴロしていようものなら、親はこう言
う。「宿題はやったの?」「来週のテストはだいじょうぶ?」と。

 が、何といっても日本人の最大の悲劇は、そのバーチャルな世界に住みながらも、それがバ
ーチャルな世界だと気づかないところにある。それはまさしく映画「マトリックス」の世界といって
もよい。「今を生きる」という本分が、どこかへ飛んでいってしまい、わからなくなってしまう。

 ……と書いたが、ここから先は、それぞれの人の生きざまの問題。私のようなものがとやかく
いう問題ではない。あとは皆さんの判断による。ただ誤解しないでほしいのは、だからといって
先祖を粗末にしてよいとか、そういうことを言っているのではない。「あくまでも生きる本分を忘
れてはならない」と、私は言っているのである。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(109)

●生きる誇り

 私の留学の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏だった。皇后陛下の父君。そしてその
正田氏のもとで、実務を担当してくれたのが、坂本義行氏だった。坂本竜馬の直系のひ孫氏と
聞いていた。私は東京商工会議所の中にあった、日豪経済委員会から奨学金を得た。正田氏
はその委員会の中で、人物交流委員会の委員長をしていた。その東京商工会議所へ遊びに
行くたびに、正田氏は近くのソバ屋へ私を連れて行ってくれた。

そんなある日、私は正田氏に、「どうして私を(留学生に)選んでくれたのですか」と聞いたこと
がある。正田氏はそばを食べる手を休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。「浩司の『浩』が
同じだろ」と。そしてしばらく間をおいて、こう言った。「孫にも自由に会えんのだよ」と。

 おかげで私はとんでもない世界に足を踏み入れてしまった。私が寝泊まりをすることになった
メルボルン大学のカレッジは、各国の王族や皇族の子弟ばかり。私の隣人は西ジャワの王
子。その隣がモーリシャスの皇太子。さらにマレーシアの大蔵大臣の息子などなど。毎週金曜
日や土曜日の晩餐会には、各国の大使や政治家がやってきて、夕食を共にした。元首相たち
はもちろんのこと、その前年には、あのマダム・ガンジーも来た。

ときどき各国からノーベル賞級の研究者がやってきて、数カ月単位で宿泊することもあった。し
かし「慣れ」というのは、こわいものだ。そういう生活をしても、自分がそういう生活をしているこ
とすら忘れてしまう。ほかの学生たちも、そして私も、自分たちが特別の生活をしていると思っ
たことはない。意識したこともない。もちろんそれが最高の教育だと思ったこともない。が、一度
だけ、私は自分が最高の教育を受けていると実感したことがある。

 カレッジの玄関は長い通路になっていて、その通路の両側にいくつかの花瓶が並べてあっ
た。ある朝のこと、花瓶の1つを見ると、そのふちに50セント硬貨がのっていた。だれかが落と
したものを、別のだれかが拾ってそこへ置いたらしい。当時の50セントは、今の貨幣価値で8
00円くらいか。もって行こうと思えば、だれにでもできた。しかしそのコインは、次の日も、また
次の日も、そこにあった。4日後も、5日後もそこにあった。私はそのコインがそこにあるのを
見るたびに、誇らしさで胸がはりさけそうだった。そのときのことだ。私は「最高の教育を受けて
いる」と実感した。

 帰国後、私は商社に入社したが、その年の夏までに退職。数か月東京にいたあと、この浜松
市へやってきた。以後、社会的にも経済的にも、どん底の生活を強いられた。幼稚園で働いて
いるという自分の身分すら、高校や大学の同窓生には隠した。しかしそんなときでも、私を支
え、救ってくれたのは、あの50セント硬貨だった。

私は、情緒もそれほど安定していない。精神力も強くない。誘惑にも弱い。そんな私だったが、
曲がりなりにも、自分の道を踏みはずさないですんだのは、あの50セント硬貨のおかげだっ
た。私はあの五十セント硬貨を思い出すことで、いつでも、どこでも、気高く生きることができ
た。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(110)

●恐怖症は心の発熱

 先日私は、交通事故で、危うく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こうして文
を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れた。
夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように感じ
たのだ。私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった
……。恐怖症である。

子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。たとえば以前、「学校の怪談」というド
ラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたくない」と言う園児が続出した。これは単
なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。それが恐怖症だ
が、この恐怖症は子どもの場合、何に対して恐怖心をだくかによって、ふつう、次の三つに分
けて考える。

 【対人(集団)恐怖症】子ども、特に幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある程度の
警戒心を持つことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子どもや、注意力
が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無とんちゃくで、はじめて行ったような場所
でも、我が物顔で騒いだりする。が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出
ると、声が出なくなる(失語症)、顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわく
て行けなくなる(不登校)などの症状が現れる。

 【場面恐怖症】その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベータに乗れない
(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。私も子どものころ、暗いトイレがこ
わくて、用を足すことができなかった。そのせいかどうかは知らないが、今でもトンネルなどに
入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚える。

 【そのほかの恐怖症】動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、手の汚れやにおいを嫌う(疑惑
症)、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。ペットの死をきっかけに死を極端
にこわがるようになった子ども(年長男児)もいた。

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、しかっても
意味がない。一般に「心」の問題は、1年単位、2年単位で考える。子どもの立場で、子どもの
視点で、子どもの心を考える。無理な誘動や強引な押し付けは、タブー。無理をすればするほ
ど、逆効果。ますます子どもは物事をこわがるようになる。いわば心が熱を出したと思い、でき
るだけそのことを忘れさせるような環境を用意する。症状だけをみると、神経症と区別がつき
にくい。

私の場合も、その事故から数日間は、車の速度が50キロ前後を超えると、目が回るような状
態になってしまった。「気のせいだ」とは分かっていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと
汗をかいていた。恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。
そういう前提で、子どもの恐怖症に対処する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(111)

●疑わしきは罰する

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園
や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。六歳に
なっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしま
う。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、紙オムツ。最近の
紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子どもというのは、排尿後
の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削除されてしまった(M誌88年)。
「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮したためだ。根
拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人はいない。紙
オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。疑わしいが、はっきりとは言えないとい
うようなことである。その一つが住環境。高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定にな
りやすい…? 実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結果
がある。

とえば妊婦の流産率は、6階以上では24%、10階以上では39%(1〜5階は5〜7%)。流・
死産率でも6階以上では21%(全体8%)(東海大学医学部逢坂氏)。マンションなど集合住宅
に住む妊婦で、マタニティーブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建ての居住者の四倍(国立精
神神経センター北村俊則氏)など。

母親ですら、これだけの影響を受ける。いわんや子どもをや。さらに深刻な話もある。

 今どき野外活動か何かで、真っ黒に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよ
い。私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、1校もない。無頓(とん)着といえば無
頓着。無頓着過ぎる。オゾン層のオゾンが1%減少すると、有害な紫外線が2%増加し、皮膚
がんの発生率は4〜6%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、オーストラリアで
は,1992年までの7年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎年10%ずつふえて
いる。日光性角皮症や白内障も急増している。

そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用
の帽子とサングラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。オーストラリアの友人
は、こう言った。「何も対策をとっていない? 信じられない」と。ちなみにこの北半球でも、オゾ
ン層は、すでに10〜40%(日本上空で10%)も減少している(NHK「地球法廷」)。

 法律の世界では「疑わしきは罰せず」という。しかし教育の世界では「疑わしきは罰する」。子
どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。害が具体的に出るようになってから
では、手遅れ。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫外線防止用の帽
子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(112)

●今を生きる

 定年退職が近づくと、それぞれが退職後の夢を話し始める。「田舎へ入って農業をする」「妻
と船で世界を回る」「自動車で日本を一周する」など。「四国八八か所を歩いて回る」と言った人
もいた。しかし人生観などというのは、退職と同時にそんなに簡単に変えられるものではない。
「組織」というバーチャル(仮想現実)な世界に生きてきた人が、退職と同時に、「生きる本分」
に戻れるとは、私は思わない。

このタイプの人は、自分がバーチャルな世界にいることすら気づいていない。退職と同時に、
その気力も消えうせ、仮に旅に出たとしても、帰ってきてからの仕事ばかり考えるにちがいな
い。また退職後、しばらく仕事をしないでいると、体そのものが動かなくなることだってある。い
や、それまで健康がもつかどうかさえあやうい。

 地位、肩書き、名誉、さらに学歴、家柄がすべてバーチャルであるように、実のところ未来も
バーチャルとみる。そんなものはどこにもない。ないことは、飼っている犬を見ればわかる。庭
の土の上をうごめくアリを見ればわかる。そんなものはすべて、ここ1000年、あるいは2000
年のうちに人間が勝手に作り出したもの。数10万年もの人類の歴史からみれば、ほんの一瞬
のうちにできたものにすぎない。

大切なことは「今」という現実の中で、精一杯、自分らしく、この「時」をしっかりとつかみながら
生きること。過去という存在しないものにこだわる必要はない。同じように、未来という存在しな
いもののために、「今」を犠牲にしてはいけない。結果はあくまでも、あとからついてくる。あるい
はその結果として、地位、肩書き、名誉があるとするなら、それはそれでかまわない。大切なこ
とは生きる本分を忘れないことだ。これを忘れると、バーチャルな世界にハマってしまう。

 夢があるなら、「今」すればよい。決してあと回しにしてはいけない。田舎へ入って農業をした
ければ、今からする。近くに畑を借りて、野菜を育てるのもよいだろう。妻と船で世界を回りた
ければ、手始めに、韓国や台湾あたりに行ってみればよい。自動車で日本一周をしたけれ
ば、今度の日曜日には、あなたの町を一周してみればよい。今、やるべきこと。今、やれること
は、いくらでもある。それが「今を生きる」ということになる。

 子どもにしてもしかり。大切なことは、子どもが子どもらしく、いかに「今」という時の中で、自
分を輝かせていきるか、だ。それともあなたは……、いや、こんな愚かな母親だいた。息子(中
3)が高校受験に失敗したとき、その母親は息子にこう言った。「幼稚園のときから英語教室や
算数教室に通ったけど、みんなムダだったわね」と。バーチャルな世界に生きる人は、そういう
ようなものの考え方をする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(113)

●子どもの集中力

 集中力と子どもの知的能力は、表裏の関係にある。集中力のある子どもは、すぐれた知的
能力をみせる。このタイプの子どもは一度何かに集中し始めると、他人を寄せつけない気迫に
包まれる。一方、集中力のない子どももいる。何ごとにつけあきっぽく、しばらくするとすぐ、「退
屈〜ウ」とか、「つまらな〜イ」とか言い出す。

 そんなわけで、つまり知的能力を高める方法があまりないのと同じように、集中力をつける方
法というのも、それほどない。あるとすれば、集中力をなくさせるようなことをしないという消極
的なものでしかない。たとえば無理、強制、条件、比較などを日常的にして、子どもからやる気
を奪う。

慢性的な睡眠不足状態にするなど。言いかえると、子どもの集中力を最大限引き出すために
は、できるだけこうした方法を避けるということになる。が、それでも集中力が続かないとしたら
……。答は簡単。あきらめる。それがその子どもの能力の限界と知ったうえで、あきらめる。

 よく誤解されるが、サッカーならサッカーで、すぐれた集中力をみせるからといって、知的な面
でも集中力があるということにはならない。(もちろん両面ですぐれた集中力を示す子どももい
るが……。)脳の中でも運動面をつかさどるのが、大脳半球の中の運動野(中心前回)という
部分。知的能力をつかさどるのが、連合野という部分。連合野は人がサルから進化する過程
でとくに発達した部分であり、運動をつかさそる運動野とはまったく別物と考えるのが正しい。

 ただ教育的には方法がないわけではない。子どもの方向性を見きわめたうえで、うまく好奇
心を引き出しながらそれに集中させるなど。算数はきらいでも、虫が好きで、虫のこととなると
夢中で調べる子どもは、いくらでもいる。あるいは英語には、「楽しく学ぶ子どもはよく学ぶ」と
いうのもあるが、子どもを好きにさせるという方法もある。まずいのは、満腹状態の子どもに、
さらに食事を与えるような行為。集中力がなくなって当然である。

 この集中力がなくなると、子どもは、フリ勉(まじめに勉強しているフリだけをする)、ダラ勉
(ダラダラと身をもてあます)、時間ツブシ(つめをほじったり、やらなくてもよいような簡単な問
題ばかりをする)がうまくなる。こうした症状が出てきたら、できるだけ早い時期に、家庭教育の
あり方を猛省したほうがよい。小学低学年で一度そういう症状を身につけると、なおすのは容
易ではない。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(114)

●受験競争の魔力

 受験競争に巻き込まれれば巻き込まれるほど、子どもはもちろんのこと、親もその住む世界
を小さくする。この世界では、勝った負けたは、当たり前。取るか取られるか、蹴落とすか蹴落
とされるか……。教育とは名ばかり。その底流では、ドス黒い人間の欲望がはげしくウズを巻
いている。ある母親は受験どころか、子ども(中学生)がテスト週間を迎えるたびに病院通いを
していた。

いわく「テスト中は、お粥しかのどを通りません」と。子どもの受験競争が高じて、親どうしがい
がみあう例となると、まさに日常茶飯事。幼稚園という世界でも、珍しくない。現に今、言ったの
言わないのがこじれて、裁判ザタになっているケースすらある(小学校)。さらに息子(中3)が
高校受験に失敗したあと、自殺をはかった母親だっている!

 こうした狂騒は部外者が見ると、バカげているとわかるが、当の本人たちはそうでない。それ
はまさしく命がけ、血みどろの戦い。もっともこうした戦いが親の世界だけでとどまっているなら
まだしも、子どもの世界まで巻き込んでしまう。さらに学校という教育の世界まで巻き込んでし
まう。この受験競争だけが原因とは言えないが、そのため心を病む教師はあとを断たない。

東京都の調べによると、東京都に在籍する約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人
は、93年度から4年間は毎年210人から220人程度で推移していたが、97年度は、261
人。さらに98年度は355人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・九九年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。この数字は全休職者の約
52%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人で、精神系疾患者は、1619
人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約半数をしめていた
という。

 何だかんだといっても、受験が教育の柱になっている。もしこの日本から、受験という柱を抜
いたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育ですら崩壊する。問題はなぜ受験が教育の柱にな
っているかだが、それについては別のところで考えるとして、結論から先に言えば、受験が子
どもや親を大きくする要素などどこにもない。仮にそれに打ち勝ったとしても、「何とかうまくやっ
た」というあと味の悪さが残るだけ。

受験競争は決して教育ではない。そういう前提で、一歩退いてつきあう。そういう冷静さがあな
たの心を守り、あなたの子どもの心を守る。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(115)

●10%のニヒリズム

 テレビドラマに「三年B組金八先生」※というのがある。まさに熱血漢教師のドラマだが、実際
にはああいう教師はいない。それはちょうどアクションドラマの中で、暴力団と刑事がピストルで
バンバンと撃ちあうようなものだ。

ドラマとしてはおもしろいが、現実にはありえない。仮に金八先生のような教師がいたとすると、
その教師はあっという間に、身も心もボロボロにされる。第一、この世界には内政不干渉の原
則というのがある。いくら問題が家庭におよんでも、教師は家庭問題までクビをつっこんではい
けない。またその権利もなければ義務もない。つっこんだらつこんだで、たいへんなことにな
る。私にもいろいろな経験がある。

 私はある時期、毎日のように母親教室を開いていた。が、それがよくなかった。ある朝まだ床
の中で眠っていると、一人の男がいきなり飛び込んできて、こう叫んだ。「うちの女房が妊娠し
た。どうしてくれる!」と。寝耳に水とはまさにこのこと。私が驚いていると、その様子から察した
のか、その男はこう言った。「すまんすまん。カマだ」と。

話を聞くと、その男の妻がその前夜から家出をしたという。そこでその男は、妻がよく口にして
いた私のところへ逃げてきたと思ったらしい。その妻というのは、私の母親教室の熱心な受講
生だった。以来私は、毎日の母親教室を、週1回に減らした。同時に、子どもの子育ての問題
以外、「私は関係ない」という姿勢を貫くようにした。

 こうしたトラブルは、本当に多い。毎年少しずつ賢くなったつもりだが、つい油断をすると、同
じような失敗を繰り返す。そこで10%のニヒリズム。昔、どこかの教師が懇談会の席でそう教
えてくれた。

「どんなに教育に没頭しても、100%、全力投球してはいけない。最後の10%は自分のため
にとっておく。裏切られてもキズつかないようにするためだ」と。実際、この世界、報われること
よりも、裏切られることのほうが多い。10%のニヒリズムは、そのための処世術である。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(116)

●小食で困ったら、冷蔵庫をカラに

 体重15キロの子どもが、缶ジュースを1本飲むということは、体重60キロのおとなが、4本
飲む量に等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを4本は飲めない。飲めば飲んだで、腹の中が
ガボガボになってしまう。アイスやソフトクリームもそうだ。子どもの顔よりも大きなソフトクリー
ムを一個子どもに食べさせておきながら、「うちの子は小食で困っています」は、ない。

 突発的にキーキー声をはりあげて、興奮状態になる子どもは少なくない。このタイプの子ども
でまず疑ってみるべきは、低血糖。一度に甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を大量に
与えると、その血糖値をさげようとインスリンが大量に分泌される。が、血糖値がさがっても、さ
らに血中に残ったインスリンが、必要以上に血糖値をさげてしまう。

つまりこれが甘い食品を大量にとることによる低血糖のメカニズムだが、一度こういう状態にな
ると、脳の抑制命令が変調をきたす。そしてここに書いたように、突発的に興奮状態になって
大声をあげたり、暴れたりする。このタイプの子どもは、興奮してくるとなめらかな動きがなくな
り、カミソリでものを切るように、スパスパした動きになることが知られている。

アメリカで「過剰行動児」として、30年ほど前に話題になったことがある。日本でもこの分野の
研究者は多い(岩手大学名誉教授の大澤氏ほか)。そこでもしあなたの子どもにそういう症状
が見られたら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくて、ダメもと。一周間も続けると、子
どもによってはウソのように静かに落ち着く。

 話がそれたが、子どもの小食で悩んでいる親は多い。「食が細い」「好き嫌いがはげしい」「食
事がのろい」など。幼稚園児についていうなら、全体の約50%が、この問題で悩んでいる。
で、もしそうなら、一度冷蔵庫をカラにしてみる。お菓子やスナック菓子類は、思いきって捨て
る。「もったいない」という思いが、つぎからのムダ買いを止める力になる。そして子どもが食事
の間に口にできるものを一掃する。

子どもの小食で悩んでいる親というのは、たいてい無意識のうちにも、間食を黙認しているケ
ースが多い。もしそうなら、間食はいっさい、やめる。

(小食児へのアドバイス)

(1)ここに書いたように、冷蔵庫をカラにし、菓子類はすべて避ける。
(2)甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を断つ。
(3)カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。
(4)日中、汗をかかせるようにする。

 ただ小食といっても、家庭によって基準がちがうので、その基準も考えること。ふつうの家庭
よりも多い食物を与えながら、「少ない」と悩んでいるケースもある。子どもが健康なら、小食
(?)でも問題はないとみる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(117)

●常識は静かに引き出す

 ものごとを静かに考え、正しい判断をくだし、その判断に従って行動する力のことを、「バラン
ス感覚」という。このバランス感覚がないと、子どもはかたよった考え方や、極端なものの考え
方をするようになる。たとえば「この地球上の人間は、核兵器か何かで、半分くらいは死ねばい
い」と言った男子高校生がいた。あるいは「私は結婚して、早く未亡人になり、黒い喪服を着て
みたい」と言った女子高校生がいた。そういうようなものの考え方をするようになる。

 このバランス感覚を別の言葉で言いかえると、「豊かな常識」ということになる。この常識とい
うのは、だれにも平等に備わっているかのようにみえるが、そうではない。常識のない人はいく
らでもいる。しかも幼児期にすでにそれが決まる。そこで「教育!」ということになるが、実際に
は子どもに教えるのはたいへんむずかしい。

いや、教えて教えられるものではない。親としてせいぜいできることがあるとすれば、常識を奪
わないということ。威圧的な過干渉、権威主義的な押しつけ、神経質な過関心が日常化する
と、子どもはいわゆる常識ハズレの子どもになる。

昔、一生懸命粘土をコンセントに詰めて遊んでいた子ども(年長男児)がいた。先生のコップに
殺虫剤を入れた子ども(中学男子)がいた。バケツに絵の具を溶かして、それを二階のベラン
ダから下を歩く子どもにかけていた子ども(年長男児)などがいた。ふつう子どものいたずらと
いうと、どこかほのぼのとした子どもらしさを感ずるが、それがない。常識というブレーキがか
からないためと考える。

 一般に子どもがドラ息子化すると、子どもからこのバランス感覚が消える。子どもというのは
きびしさとやさしさが、ほどよく調和した環境の中で、心をはぐくむ。が、たとえば父親が極端に
きびしく、母親が極端に甘いとか、あるいはガミガミときびしい反面、結局は子どもの言いなり
になってしまうような甘い環境が続くと、子どもはドラ息子化する。症状としては、自分勝手でわ
がまま、約束や目標が守れない、依存心が強い割に無責任になるなど。

 常識力を養うためには、子どもには自分で考える時間を、たっぷりとあげる。「あなたはどう
思うの?」「あなたはどうしたいの?」と聞きながら、子どもが何かを答えるまでじっと待つ。そう
いう姿勢が子どもを常識豊かな子どもにする。


 


ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(118)

●個性とは

 「私は私」という生きざまを貫くことを、個性という。しかしこの日本にはそれを支えるだけの土
壌がまだない。社会のしくみそのものもそうだ。昨年(2001年)、東京に「フリーター撲滅運動」
なるものを始めた高校の校長がいた。

「撲滅」というのは、「たたきのめして滅ぼす」という意味だ。高校の校長という、きわめて恵ま
れた環境、つまり酸素もエサも自動的に与えられる水槽のような世界に住んでいる人が、そう
いうことを言うからおかしい。私はそのフリーターを、もう40年近くもしてきた。たしかに社会的
に不利だが、不利なのは、社会の制度がそれだけ不公平だからにほかならない。

 教育もまた、個性を伸ばすしくみになっていない。たとえば全国の小学校で英語教育が実験
的になされているが、いまだに「すべきかどうか」で議論している。その議論はちょうど平成元
年のころ議論が始まったから、もう20年以上になるのでは……? 

しかし北海道のハシから沖縄県のハシまで同じ教育というのはおかしい。英語についていえ
ば、英語教育が必要だと思う親もいれば、そうでないと思う親がいる。英語を学びたいと思って
いる子どももいれば、そうでないと思っている子どももいる。英語教育をしたいと思っている教
師もいれば、そうでない教師もいる。だったら、そういうのは、個人の選択に任せればよい。そ
の分学校を早く終わって、ドイツのように子どもたちはクラブへ行けばよい。

こうした実用的な教育は民間に任せたほうが、はるかに効率よくいく。またこういうのを教育の
自由化、あるいは規制緩和というのではないのか。学校の先生にしても、教育はもちろんのこ
と、しつけから心のケア、さらには家庭問題まで、こうまで押しつけられたらたまらない。……と
思っていると思う。ある小学校の教師はこう言った。「忙しすぎて、授業中だけが休みの場所で
す」と。

 「子どもの個性を伸ばせ」と簡単に言うが、ではあなた自身が、そういう個性を認めているか
どうかというと疑わしい。あるいは個性というのがどういうものか、本当にわかっているだろう
か。さらにあなたは「私は私」という生き方をしているだろうか。私たちは尾崎豊の言葉を借りる
なら、「しくまれた自由」(「卒業」)の中で、あがきもがいているだけではないのか。

 個性とは生きざまの問題。「私は私」という生きざまをどう確立するかで、その人の個性が決
まる。くだらないことだが、子どもの髪の毛を茶パツに染めたりすることは、個性とはいわな
い。また個性というのは、そのレベルの問題ではない。またどこか常識ハズレのことをするの
を個性と思っている人は多い。しかし個性というのは、繰り返すが、どこまでも生きざまの問題
であって、行動の問題ではない。またそのレベルの問題ではない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(119)

●赤ちゃんがえりを甘く見ない

 幼児の世界には、「赤ちゃんがえり」というよく知られた現象がある。これは下の子ども(弟、
妹)が生まれたことにより、上の子ども(兄、姉)が、赤ちゃんにもどる症状を示すことをいう。本
能的な嫉妬心から、もう一度赤ちゃんを演出することにより、親の愛を取り戻そうとするために
起きる現象と考えるとわかりやすい。

本能的であるため、叱ったり説教しても意味はない。子どもの理性ではどうにもならない問題で
あるという前提で対処する。

 症状は、おもらししたり、ぐずったり、ネチネチとわけのわからないことを言うタイプと、下の子
どもに暴力を振るったりするタイプに分けて考える。前者をマイナス型、後者をプラス型と私は
呼んでいるが、このほか情緒がきわめて不安定になり、神経症や恐怖症、さらには原因不明
の体の不調を訴えたりすることもある。

このタイプの子どもの症状はまさに千差万別で定型がない。月に数度、数日単位で発熱、腹
痛、下痢症状を訴えた子ども(年中女児)がいた。あるいは神経が異常に過敏になり、恐怖
症、潔癖症、不潔嫌悪症などの症状を一度に発症した子ども(年中男児)もいた。

 こうした赤ちゃんがえりを子どもが示したら、症状の軽重に応じて、対処する。症状がひどい
ばあいには、もう一度上の子どもに全面的な愛情をもどした上、1からやりなおす。やりなおす
というのは、一度そういう状態にもどしてから、1年単位で少しずつ愛情の割合を下の子どもに
移していく。コツは、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、根気よく子どもの症状に対処
すること。年齢的には満四〜五歳にもっとも不安定になり、小学校入学を迎えるころには急速
に症状が落ち着いてくる。(それ以後も母親のおっぱいを求めるなどの、残像が残ることはあ
るが……。)

 多くの親は子どもが赤ちゃんがえりを起こすと、子どもを叱ったり、あるいは「平等だ」という
が、上の子どもにしてみれば、「平等」ということ自体、納得できないのだ。また嫉妬は原始的
な感情の一つであるため、扱い方をまちがえると、子どもの精神そのものにまで大きな影響を
与えるので注意する。先に書いたプラス型の子どものばあい、下の子どもを「殺す」ところまで
する。嫉妬がからむと、子どもでもそこまでする。
 
要するに赤ちゃんがえりは甘くみてはいけない。



 
 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(120)

●子どもを叱れない親

叱れない……ということ自体、すでに断絶状態にあるとみる。原因は(1)リズムの乱れ(親側
がいつもワンテンポ早い)、(2)価値観の衝突(親側が旧態依然の価値観に固執している)、そ
れに(3)相互不信(「うちの子はダメだ」という思いが強い)。この状態で子どもを叱れば、あと
はドロ沼の悪循環!

親には3つの役目がある。(1)ガイドとして子どもの前を歩く。(2)保護者(プロテクター)として
子どものうしろを歩く。(3)友(フレンド)として子どもの横を歩く。日本人はこのうち三番目が苦
手、……というより、「私は親だ」という親意識だけがやたらと強く、子どもを友として見ることが
できない。

もしあなたが子どもをこわくて叱れないというのであれば、まず子どものリズムで歩き、親の価
値観を一方的に押しつけるのをやめる。そしてここが重要だが、子どもを対等の友として受け
入れる。英語国では、親子でも「お前はパパに何をしてほしい?」「パパは、私に何をしてほし
い」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。また一度断絶状態になったら、
「修復しよう」などとは考えないで、今の状態をより悪くしないことだけを考えて対処する。

 「叱る」というのは、本当のところは、たいへんむずかしい。子どもを叱るというのは、叱る側
にそれだけの「人格」がなければならない。たとえば教える立場でいうと、よく宿題を忘れてくる
子どもがいる。宿題ならまだしも、テキストや鉛筆すら忘れてくる子どもがいる。しかし私は、ど
うしてもそういう子どもを叱ることができない。理由は簡単だ。

私自身もよく忘れ物をするからだ。自分でもできないのに、どうして子どもを叱ることができる
のか。それともあなたは、あなたの子どもに向かって、「正しいことをしなさい」「まちがったこと
をしてはだめだ」と子どもを叱ることができるとでもいうのか。もしそうなら、きっとあなたはすば
らしい人だ。

 私は幼児を教えるようになって、もう40年になるが、どういうわけだか「叱る」ということに対し
て、おおきな抵抗を感ずる。ときどきは叱ることもあるが、そのたびに心のどこかで、「何を偉
そうなことを」と自分で思ってしまう。そして叱ることをやめてしまう。……そういう意味でも、子ど
もを叱るというのは、とてもむずかしい。この問題については、また別のところで考えてみる。




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