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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(401)

●忠臣蔵論

 浅野さん(浅野内匠頭)が、吉良さん(吉良上野介)に、どんな恨みがあったかは知らない
が、ナイフ(刀)で切りかかった。傷害事件である。が、ただの傷害事件でなかったのは、何と
いても、場所が悪かった。浅野さんが吉良さんに切りかかったのは、もっとも権威のある場所と
される松之大廊下。今風に言えば、国会の中の廊下のようなところだった。浅野さんは、即
刻、守衛に取り押さえられ、逮捕、拘束。

 ここから問題である。浅野さんは、そのあと死刑(切腹)。「たかが傷害事件で死刑とは!」
と、今の人ならそう思うかもしれない。しかし三〇〇年前(元禄一四年、一七〇一年)の法律で
は、そうなっていた。

が、ここで注意しなければならないのは、浅野さんを死刑にしたのは、吉良さんではない。浅野
さんを死刑にしたのは、当時の幕府である。そしてその結果、浅野家は閉鎖(城地召しあげ)。
今風に言えば、法人組織の解散ということになり、その結果、四二九人(藩士)の失業者が出
た。自治体の首長が死刑にあたいするような犯罪を犯したため、その自治体がつぶれた。もと
もと何かと問題のある自治体だった。

わかりやすく言えばそういうことだが、なぜ首長の交代だけですませなかったのか? 少なくと
も自治体の職員たちにまで責任をとらされることはなかった。……と、考えるのはヤボなこと。
当時の主従関係は、下の者が上の者に徹底的な忠誠を誓うことで成りたっていた。今でもそ
の片鱗はヤクザの世界に残っている。親分だけを取り替えるなどということは、制度的にもあり
えなかった。

 で、いよいよ核心部分。浅野さんの子分たちは、どういうわけか吉良さんに復讐を誓い、最終
的には吉良さんを暗殺した。「吉良さんが浅野さんをいじめたから、浅野さんはやむにやまれ
ず刀を抜いたのだ」というのが、その根拠になっている(「仮名手本忠臣蔵」)。そうでもしなけ
れば、話のつじつまが合わないからだ。

なぜなら繰り返すが、浅野さんを処刑にしたのは、吉良さんではない。幕府である。だったら、
なぜ浅野さんの子分たちは、幕府に文句を言わなかったのかということになる。「死刑というの
は重過ぎる」とか、「吉良が悪いのだ」とか。もっとも当時は封建時代。幕府にたてつくというこ
とは、制度そのもの否定につながる。自分たちが武士という超特権階級にいながら、その幕府
を批判するなどということはありえない。そこで、その矛先を、吉良さんに向けた。

 ……日本人にはなじみのある物語だが、しかしオーストラリア人にはそうでなかった。一度、
この話が友人の中で話題になったとき、私は彼らの質問攻めの中で、最終的には説明できな
くなってしまった。ひとつには、彼らにもそういう主従関係はあるが、契約で成りたっている。つ
まり彼らの論理からすれば、「軽率な振るまいで子分の職場を台なしにした浅野さん自身に、
責任がある」ということになる。

 さてあなたなら、こうした疑問にどう答えるだろうか。彼らにはたいへん理解しがたい物語だ
が、その理解しがたいところが、そのまま日本のわかりにくさの原点にもなっている。「日本異
質論」も、こんなところから生まれた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(402)

●政治家へのワイロ

 ある県のある都市での話。もう時効になったと思うから話す。今から三〇年ほど前には、そ
の都市の市議会議員への謝礼は、一回の口利きで、一〇〜一五万円(当時)と相場が決まっ
ていた。

たとえば就学前の学校区変更でも、正当な手続きをふむと、最低でも二〜三か月はかかっ
た。しかしこれではA小学校への入試には間にあわない……というようなとき、そのスジの人の
紹介で、親は市議会議員の自宅へ走る。そうするとたいてい一、二週間のうちには、学校区の
変更ができた。そのときの謝礼もやはり、一〇〜一五万円だった。

もちろんこうしたことをよしとしない議員もいただろうが、この話をしてくれた人は、「そういう議
員はこの町にはいなかったなア」と言った。

 今朝の新聞(〇二年六月)によれば、国会議員の鈴木M氏も、同じように謝礼を受け取って
いたという。その額、六〇〇万円! 一回の口利きで、である。しかもその謝礼を払った会社
は、いままでほとんど話題になったことがない会社である。

ということは、鈴木M氏は、無数の、こうした謝礼を受け取っていたのではないかという疑惑が
わいてくる。……と言っても、私は驚かない。三〇年前の市議会議員が一〇万円とするなら、
現在の国会議員が六〇〇万円というのは、それなりに連続性がある。この世界にはこの世界
の、ルールや相場というものがあるらしい。それがよいとか悪いとか言う前に(悪いに決まって
いるが)、政治というのは、そういう「しくみ」で動くらしい。

 だからといって、私は政治家が悪いといっているのではない。私はたびたび自分の頭の中
で、こんなシミュレーションをしてみる。仮に目の前に数一〇〇万円の現金が置かれたとする。
そのときたった一回の電話でそれが自分のものになるとしたら、それを断わる勇気が、私には
あるか、と。

で、何度シミュレーションしても答は同じ。「私にはその勇気はない」だった。恐らく私のように、
来月の生活費はともかくも、これから先、老後をどうやって過ごそうかと考えている人なら、多
分、私と同じことを考えるだろうと思う。いわんや来月の生活費をどうしようと考えている人な
ら、数一〇〇万でなくても、数一〇万円でもありがたい。あるいはあなたならこういうばあい、ど
うするか?

 こうした人間の弱さをコントロールするには、厳罰主義しかない。たった一回でもワイロを受
け取ったら、一〇年の懲役刑にするとか、そういうふうにする。私にしても、一〇年の懲役刑は
こわい。もしそうなら、数一〇〇〇万円でも、私は受け取らない。机の上に積まれた札束を見
ただけで、私はふるえあがるだろう。

 幸か不幸か(本当のところ、どちらかよくわからないが)、私はいまだかって、そういう苦しい
(?)立場に置かれたことがない。また自分のそうした弱さを知っているから、私は政治家には
なれない。仮にワイロを断わったとすると、あとで後悔するかもしれない。「ああ、あのときもら
っておけばよかった」と。だから要するに、そういう世界とは近づかないことだと心に決めてい
る。ちなみに私は過去三〇年間、無数の子育て相談に応じてきたが、一度だって、お金を請求
したことも、受け取ったこともない。念のため。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(403)

●不安の構造

 生きることには不安はつきものか。若いころは若いころで、自分の将来に大きな不安感をも
つ。結婚してからも、そして子どもをもってからも、この不安はつきることがない。それはちょう
ど健康と病気のような関係ではないか。健康だと思っていても、どこかに病気、あるいはそのタ
ネのようなものがある。本当に健康だと思える日のほうが、少ない。

言いかえると、その不安があるからこそ、人はその不安と戦うことで、生きる力を得る。もしま
ったく不安のない状態に落とされたら、その人は生きる気力さえなくしてしまうかもしれない。い
や、不安と戦うたびに、人は強くなる。とくに子育てにおいては、そうだ。こんなことがあった。

 アメリカにいる二男からある日、こんなメールが届いた。「一六輪の大型トラックが、ぼくの車
にバックアップしてきて、ぼくの車はめちゃめちゃになってしまった」と。「バックアップ」の意味
を、私は「追突」ととらえた。私は大事故を想像し、すぐ電話を入れたが、つながらない。ますま
す不安になり、アメリカ人の友人にも、様子を調べるよう依頼した。当時ガールフレンドもいた
ので、そちらにも電話した。

が、アメリカは真夜中のことで、思うように連絡がとれない。気ばかりがあせって、頭の中はパ
ニック状態になった。

 で、(アメリカの)翌朝、電話がやっとつながった。話を聞くと、「ガソリンスタンドで停車してい
たら、前にいた大型トラックがバックしてきて、自分の車の前部にぶつかった」ということだっ
た。「バックアップ」の意味が違っていた。私はひとまず安心したが、それ以後、どういうわけ
か、二男の運転のことでは心配にならなくなった。

それまでの私は、「交通事故を起こすのではないか」と、毎日のように、そればかりを心配して
いた。が、その事件以来、そういう心配をしなくなった。ほかに以前は、二男が日本とアメリカを
往復するたびに、飛行機事故を心配したが、一度、二男が乗るべき飛行機に乗らず、しかも乗
客名簿に名前がないことを知って、おお騒ぎしたことがある。

そのときも、二男はただ飛行機に乗り遅れただけということがわかって、安心したが、以後、二
男の飛行機では心配しなくなった。……などなど。

 親というのは、子どものことで心配させられるたびに、そしてその心配を克服するたびに、大
きく成長(?)するものらしい。「あきらめる」ということかもしれない。つまりそういう形で、人生
の一部、一部を、子どもに手渡しながら、子離れしていく。

 さて今、私は老後のことを考えると、不安でならない。あと一〇年は戦えるとしても、その先の
設計図がまったくわからない。へたをすると、それ以後は収入さえなくなるかもしれない。しか
し、だ。そういう不安があるから、今こうして、仕事をする。懸命に仕事をする。安楽に暮らせる
年金が手に入るとわかったら、恐らくこうまでは仕事をしないだろう。不安であることが悪いこと
ばかりではないようだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(404)

●生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、
「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。

が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、
春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そ
のものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれる
だけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。

仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がい
た。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許し
て忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。
が、若い親にはそれがわからない。

ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の
読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。この先、将
来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてし
まう。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(405)

●Nさんの相談より

Nさん(九州福岡)の相談より。「最近、息子(中一)の勉強が空回りしているようです。国語嫌
いがたたって、その影響がすべての科目に出てきています。せっかく買った月刊のワークブッ
クも、このところやらないまま、たまっていく一方です。このままうちの子がダメになるのではな
いかと、心配でなりません。どうしたらいいでしょうか」と。つづいて息子(M君とする)について、
詳しく書かれていた。

M君は小学生のころから、国語が苦手だった。漢字がつまずきの原因だった。そのため本を
読むのが嫌いになった。やさしい性格がかえってわざわい(?)して、競争心が弱く、何でも「ま
あ、まあ」という状態ですますようになった。図書館へ毎週連れていって、読書をするよう指導
はしてみたが、効果は一時的だったように思う。

とくに漢字については、(できない)→(逃げる)の悪循環の中で、ますます苦手になっていっ
た。そしてその結果(?)、社会も理科も、漢字を使うところでつまずいてしまっている。能力的
には、問題はないと思う。頭のやわらかさ、思考力も、ふつうの子ども以上にある、と。

 国語がすべての科目に影響するということは、よくある。日本のばあい、理科、社会という科
目についても、「理科的な国語」「社会的な国語」と思ったほうがよい。だから国語力(読解力、
表現力、表記力)が落ちると、同時に理科や社会の成績が落ちるということはよくある。

反対に、国語力があがると、同時に理科や社会の成績があがるということもよくある。(もちろ
ん理科でも、数学的な部分はあるし、数学でも国語的な部分はある。)だから小学校の低学年
児についていえば、ここでいう国語力の養成を大切にする。

方法としてはすべて、本読みにはじまり、本読みに終わる。本来ならその方向性に従って、子
どもの教育は始まるのだが、この日本では、書き順だの、トメ、ハネ、ハライだの、そういう
「形」ばかりにこだわる。こだわることは、オーストラリアの教育とくらべてもそれがよくわかる。
たった二六文字しかない英語にしても、書き順など、ない。スペル(つづり)にしても、彼らは実
に自由に書いている。

一度壁に張られた子どもたちの作文を見て私は驚いた。そこで先生(小三担当)に「なおさない
のですか?」と聞くと、その先生は笑ってこう言った。「シェークスピアの時代から、正しいスペ
ルというのはありません。大切なのはルール(文法やスペル)ではなく、中身です」と。残念なが
ら、日本には、こういうおおらかさはない。ある小学校の校長は私にこう言った。「林先生は、そ
うは言うが、書き順などというのは、最初にしっかり教えないと、なおすことができないのです」
と。

 だったら私はあえて言う。書き順など、どうでもよいではないか。「口」という漢字にしても、四
角を書けば、それでよい。どうして日本人よ、そんな常識がわからないのか! 大切なのは、
ルールではなく、中身だ。どうして日本人よ、そんな常識がわからないのか!  ある程度でき
ればそれでよしとする「おおらかさ」が、子どもを伸ばす。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(406)

●Nさんの相談より(2)

 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。祖母がいた。「ハネやハライが、メチャメ
チャだ。ちゃんと見てほしい」と。私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつけて返したとき
のことである。

あるいはときどき、市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。そういうときも私
は同じように、大きな丸をつけ、子どもに返す。が、それにも抗議。「答がちがっているのに、ど
うして丸をつけるのか!」と。

 日本人ほど、「型」にこだわる国民はいない。よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。最
近でこそうるさく言わなくなったが、利き手もそうだ。「右利きはいいが、左利きはダメ」と。私の
二男は生まれながらにして左利きだったが、小学校に入ると、先生にガンガンと注意された。
書道の先生ということもあった。

そこで私が直接、「左利きを認めてやってほしい」と懇願すると、その先生はこう言った。「冷蔵
庫でもドアでも、右利き用にできているから、なおしたほうがよい」と。そのため二男は、左右反
対の文字や部分的に反転した文字を書くようになってしまった。書き順どころではない。文字に
対して恐怖心までもつようになり、本をまったく読もうとしなくなってしまった。

 近く小学校でも、英語教育が始まる。その会議が一〇年ほど前、この浜松市であった。その
会議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してくれた。

「Uは、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。つまり二画と決まりました。同じようにMとW
は四画と決まりました」と。私はその話を聞いて、驚いた。英語国にもないような書き順が、こ
の日本にあるとは! 

そう言えば私も中学生のとき、英語の文字は、二五度傾けて書けと教えられたことがある。今
から思うとバカげた教育だが、しかしこういうことばかりしているから、日本の教育はおもしろく
ない。つまらない。

たとえば作文にしても、子どもたちは文を書く楽しみを覚える前に、文字そのものを嫌いになっ
てしまう。日本のアニメやコミックは、世界一だと言われているが、その背景に、子どもたちの
文字嫌いがあるとしたら、喜んでばかりはおられない。だいたいこのコンピュータの時代に、ハ
ネやハライなど、毛筆時代の亡霊を、こうまでかたくなに守らねばならない理由が、一体どこに
あるのか。「型」と「個性」は、正反対の位置にある。子どもを型に押し込めようとすればするほ
ど、子どもの個性はつぶれる。子どもはやる気をなくす。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(407)

●Nさんの相談より(3)

 正しい文字かどうかということは、つぎのつぎ。文字を通して、子どもの意思が伝われば、そ
れでよし。それを喜んでみせる。そういう積み重ねがあって、子どもは文を書く楽しみを覚え
る。

オーストラリアでは、すでに一〇年以上も前に小学三年生から。今ではほとんどの幼稚園で、
コンピュータの授業をしている。一〇年以上も前に中学でも高校でも生徒たちは、フロッピーデ
ィスクで宿題を提出していたが、それが今では、インターネットに置きかわった。先生と生徒
が、常時インターネットでつながっている。こういう時代がすでにもう来ているのに、何がトメだ、
ハネだ、ハライだ! 

(注:この原稿を書いたのは、2000年ごろです。)

 冒頭に書いたワークにしても、しかり。子どもが使うワークなど、半分がお絵かきになったとし
ても、よい。だいたいにおいて、あのワークほど、いいかげんなものはない。それについては、
また別のところで書くが、そういうものにこだわるほうが、おかしい。

左利きにしても、人類の約五%が、左利きといわれている(日本人は三〜四%)。原因は、どち
らか一方の大脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生
活習慣によって決まるという生活習慣説などがある。

一般的には乳幼児には左利きが多く、三〜四歳までに決まるが、どの説にせよ、左利きが悪
いというのは、あくまでも偏見でしかない。冷蔵庫やドアにしても、確かに右利き用にはできて
いるが、しかしそんなのは慣れ。慣れれば何でもない。

 子どもの懸命さを少しでも感じたら、それをほめる。たとえヘタな文字でも、子どもが一生懸
命書いたら、「ほお、じょうずになったね」とほめる。そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。
これは幼児教育の大原則。昔からこう言うではないか。「エビでタイを釣る」と。しかし愚かな人
はタイを釣る前に、エビを食べてしまう。こまかいこと(=エビ)を言って、子どもの意欲(=タイ)
を、そいでしまう。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(408)

Nさんの相談より(4)

 「書き順などなくせ」という私の意見に対して、「日本語には日本語の美しさがある。トメ、ハ
ネ、ハライもその一つ。それを子どもに伝えていくのも、教育の役目だ」「小学低学年でそれを
しっかりと教えておかないと、なおすことができなくなる」と言う人がいた。

しかし私はこういう意見を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。その第一、「トメ、ハネ、ハライが
美しい」と誰が決めたのか? それはその道の書道家たちがそう思うだけで、そういう「美」を、
勝手に押しつけてもらっては困る。要はバランスの問題だが、文字の役目は、意思を相手に伝
えること。「型」ばかりにこだわっていると、文字本来の目的がどこかへ飛んでいってしまう。

私は毎晩、涙をポロポロこぼしながら漢字の書き取りをしていた二男の姿を、今でもよく思い
出す。二男にとっては、右手で文字を書くというのは、私たちが足の指に鉛筆をはさんで文字
を書くのと同じくらい、つらいことだったのだろう。二男には本当に申し訳ないことをしたと思っ
ている。この原稿には、そういう私の、父親としての気持ちを織り込んだ。

ついでながら、経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・二〇〇〇
年調査)によれば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(一五歳)の
うち、五三%が、「しない」と答えている。この割合は、参加国三二か国中、最多であった。また
同じ調査だが、読解力の点数こそ、日本は中位よりやや上の八位であったが、記述式の問題
について無回答が目立った。無回答率はカナダは五%、アメリカは四%。しかし日本は二
九%! 

文部科学省は、「わからないものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれる」(毎日
新聞)とコメントを寄せているが、本当にそうか? それだけの理由か? 日本の子どもたちの
読書嫌いの「根」は、もっと深いとみるべきではないのか。

 
 


ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(409)

●Nさんの相談より(5)

 アメリカでは、読書指導が、学校での教育のひとつの大きな「柱」になっている。どこの小学
校を訪れても、図書室が学校の中心部、あるいは玄関のすぐ奥にある。図書室には、専門の
司書(ライブラリアン)がいて、子どもたちは週に一度の、読書指導が義務づけられている。

私が「コンパルサリー(義務教育)ですか?」と聞くと、担当の先生は、「そうです」(アーカンソー
州)と笑った。ふつうの教師は大学卒の学位をもった人でもできるが、司書は、大学院を出た
マスターディグリー(修士号)をもった先生があたるとのこと。つまり「それだけ重要」というわけ
である。

 日本でも最近、読み聞かせや、読書指導に力を入れる学校がふえてきた。日本独自の姿勢
というよりは、「外国の教育との、あまりの違い」の差をうめるために、そうなりつつあると考え
るほうが正しい。

しかしよい傾向であることには、違いない。言うまでもなく、文字にはふたつの美しさがある。ひ
とつは、「形」としての美しさ。もうひとつは、「文」としての美しさ。しかし「形」としての美しさは、
その道の書道家に任せればよいことであって、「文」としての美しさと比べれば、かぎりなくマイ
ナーな部分である。現に今、私はこうして文章を書いているが、一〇〇%、パソコンを使って書
いている。「形」と「文」は、まったく異質のものである。

ある程度は「形」も尊重しなければならない。しかしそれはあくまでも「ある程度」。文字が文字
であり、言葉が言葉であるのは、「形」ではなく、「文」であるからにほかならない。
 で、問題は、いかにすれば、子どもを読書好きにさせることができるか、である。これについ
てはいくつかのコツがある。

(1)子どもの方向性をみる……子どもの好きな分野の本を与えるということ。子どもがサッカー
が好きなら、サッカーの本で、よい。よく「夏休みの推薦図書」などという名前にだまされて(失
礼!)、どこか文学もどきの本を、「それがいい本」と錯覚して子どもに与える親がいる。しかし
実際、自分で読んでみることだ。おもしろいか、おもしろくないかということになれば、あれほど
おもしろくない本もない。

(2)レベルをさげる……子どもに与える本は、思い切って一、二年レベルをさげる。もともとレ
ベルなどというものはないはずだが、おかしなことに、この日本にはある。「うちの子は読書が
苦手」と感じたら、レベルをさげる。自分の子どもが小学三年生であったりすると、親は「小学
四年」と書かれた本に手が届くが、そういうちょっとした無理が、子どもを本嫌いにする。

(3)読書を楽しむ……ここが一番重要だが、読書の楽しさを子どもといっしょに味わう。しかし
実際には、今、年中児(四歳)でも、「名前を書いてごらん」と指示すると、体をこわばらせる子
どもが、二〇%はいる。泣き出す子どもすらいる。家庭での無理な指導が、明らかに子どもを
文字嫌いにしていると考えられる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(410)

●Nさんの相談より(6)

 中学生になって国語嫌いが表面化すると、その影響は理科、社会、さらには英語という科目
にまで影響する。漢字にしても、理科では、「細胞」を、「さいぼう」とひらがなで書いても、一応
「丸(○)」ということになっているが、誤字で書かれていたりすると、その丸をつけることもでき
ない。

さらに英語となると、「私は走る」と、「私は走っている」の意味の違いがわからないと、進行形
を教えることすらできなくなってしまう。最近では「I  AM  RUNNING.」を「私、走っているのよ」
と訳してもよいではないかという意見もある。

しかし感覚的でもよいから、「走る」(事実)と、「走っている」(進行中)の意味の違いがわかって
いてそういう訳をつけるのと、意味の違いがわからないままそういう訳をつけるというのでは、
中身はまったく違う。先へ進めば進むほど、子どもは混乱する。少なくとも、現在の受験英語で
は、混乱する。

 そこで私は一度こういう症状が子どもに見られたら、もう一度、読書指導をすることにしてい
る。方法としては、毎週一冊、文庫本を読ませるという方法がある。その時期は早ければ早い
ほど、よい。たとえばこの静岡県では、高校入試が受験競争の関門になっているので、遅くとも
中学一年前後にはそれを始める。二年、三年になれば、読書だけをしているというわけにはい
かない。

しかも実際には、仮に子どもの同意があったとしても、そうはうまくはいかない。読書を好きにさ
せるということよりも、その前に、子どもの心をがんじがらめに取り巻いている「嫌い」のヒモを、
一本ずつ解きほぐさねばならない。その作業が、これまたたいへんである。やり方をまちがえ
ると、子どもをますます国語嫌いに追いやってしまう。

 が、一つ、望みがないわけではない。実のところ私の二男も三男も、私が「書き順など、どう
でいい」という考え方をしていたこともあり、大の国語嫌いになってしまった。そのため国語のみ
ならず、社会、理科、さらには英語でも苦しんだが、しかしそれも高校へ入ると、消えた。

(そういう意味では高校はおおらかなところで、三男などは、「口」という漢字にしても、左下から
上方向へ、そこから右へと四角を書いていたが、だれもとがめなかった。今でもほとんどの文
字を、我流で書いている。)それからは自由に、文を読んだり、書いたりするのを楽しむように
なった。

そういう意味で、「国語嫌い」は一時的なものと考えてよい。それより大切なことは、こまかいこ
とを、うるさく言い過ぎて、その土台まで崩してしまわないこと。「だれでも苦手なところはある」
というような言い方でカバーしてあげることではないのか。たとえそれが、あらゆる科目に影響
を与える国語力であっても、だ。そういうおおらかさがあると、子どもは自分で立ちなおることが
できる。

 何とも実務的な話になってしまったが、(私はこういう話はあまり好きではない)、大学受験を
最終的な目標とするなら、そういうことになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(411)

●最後の受験指導

 ある日ふと見ると、三男がさみしそうにパソコンをいじっていた。どこかうわの空という感じだ
った。そこで私が「大学なんてものはね、行ける大学へ行けばいいのだよ」と声をかけると、三
男はしばらく黙ったあと、こう言った。「パパ、ぼくを、中学三年のときのように、しぼってよ」と。

 三男は市内でも一番という進学高校へは入ったものの、ほとんど勉強しなかった。部活に生
徒会活動、そんなことばかりしていた。そのときも高校の文化祭の実行委員長をして、ちょうど
それが終わったときだった。部活も山岳部に属し、その部長を務めていた。

中学の終わりまでは私も三男の成績を知っていたが、高校へ入ってからは成績表すら見たこ
とがなかった。女房の話では、「英語以外は、クラスでもビリよ」ということだった。三男が苦しん
でいる姿が私にもよくわかった。三男がこれから高校三年生になるという三月のはじめのこと
だった。

 私は「わかった。しかし明日からではない。これからだよ」と言うと、三男は元気よくうなずい
た。私は受験指導に関しては自信があった。恐らく私の右に出る教師はいないと思っている。
英語にしても、数学にしても、予習なしで高校三年生を教えられる教師は、そんなにいない。
が、私はできた。ポイントもコツも知り尽くしている。しかしそれをさかのぼる一〇年ほど前、大
学の受験指導とは縁を切った。むなしい稼業だった。

 私はその夜、三男の勉強を四時間みた。つぎつぎとプリントをつくり、それを三男につぎつぎ
とさせるという指導法である。私が本気で指導するときは、いつもこの方法をつかう。しかし五
〇歳を過ぎた私には決して楽な指導法ではない。一、二時間もこれをすると、ヘトヘトに疲れ
る。が、私は私よりも、三男の様子が気になった。黙々と従う姿を見ながら、私は私で懸命にプ
リントを作った。

が、予定の四時間が終わると、三男はそれまで見せたことがないすがすがしさを私に見せた。
「明日も四時間するよ」と私が言うと、三男はうれしそうにうなずいた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(412)

●三男の受験勉強(2)

 それから一か月、私はかかさず毎晩四〜五時間、三男の受験勉強をみた。土日は、七〜八
時間になることもあった。最初の数週間は英語だけ。それから少しずつ数学へと範囲を広げて
いった。「得意な科目からすればいい」と私は言った。

「まず英語をかたづけよう」と。で、英語は高校三年の教科書は、二週間程度で終わった。つづ
く数一、数二Bもつぎの数週間で終わった。山のようになったプリントを見ながら、三男はうれし
そうだった。毎晩勉強が終わると、プリントの枚数を札束でも数えるかのように一枚一枚数えて
いた。

しかしさすがの私も体力の限界を感じ始めていた。三男は私が仕事から帰るのを待ちながら、
それまで自分のベッドで眠った。そんなわけで三男の受験勉強を始めるのは、午後一〇時ご
ろということになった。そして朝方の二時、三時前後までつづく。三男はともかくも、私も頭を使
うため、脳が覚醒してしまい、眠られない日がつづいた。三か月目に入ると、勉強時間はさらに
五時間から六時間へとふえた。私も最後の気力をふりしぼって、三男と対峙した。「これが最
後の受験指導だ」と。

 そのころになると高校での模擬試験にも、少しずつだが効果が見え始めた。志望校はY大の
工学部建設学科。三男はいつしか宇宙工学をしたいと言っていた。しかしそれまでの模擬試験
の結果はEランク。Aランクが合格圏、Bランクが合格可能圏。Cランクは努力圏。D、Eランク
は番外で、「とても無理」という状態だった。

 が、三男は、私がギブアップしてからも、つまり私は四か月目に入るとき、「とてもつきあいき
れない」と、三男から離れたあとも、ひとりで受験勉強をつづけた。それは私から見ても、もの
すごいがんばり方だった。学校の帰りに、ひとりで予備校の自習室へしのび込み、そこで毎晩
夜一一時まで勉強した。時間数にすれば、毎晩七時間ということになる。あとになって三男はこ
う言った。「毎晩、頭が熱くなりすぎて、気がヘンになりそうだった」と。

 で、夏休みが終わるころには、Cランクになり、Bランクに入るようになった。さらにセンター試
験を受けるころにはAランクになった。その結果だが、三男は、Y大の工学部へ、センター試験
の結果では、学部二位の成績で合格した。東大の工学部へも楽に入れる成績だった。しかし
それが私の最後の受験指導の終わりでもあった。

 三男が合格発表を受けたとき、私は女房にこう言った。「これでぼくは、父親としてやりのこし
たことはない」と。うれしかったというより、親としての満足感のほうが強かった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(413)

●子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそん
な年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の
腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子
が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイ
をしめてやったとき。そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのこ
とだ。

二男が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教えてくれ
た。「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がないた
め、落とされそうだから」と。その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ
以後は二男を、子どもというよりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わっ
てみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられ
る。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてや
ればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。そ
していつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこ
と。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかっ
た。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房が、「S
よ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手
なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭
い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そ
ういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。そのときはわ
からなかった。

その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは! 子育てというのは、そうい
うものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいなあ」と思ってしまう。そしてそ
う思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。

レストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たち
も、ああだったなあ」と。問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、
ない。それぞれが皆、何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わって
みると、その時代が人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労
しているなら、やがてくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(414)

●子どもの心が不安定になるとき

 子どもの心をキズつけるものに、恐怖、嫉妬、不安の三つがある。言いかえると、この三つ
は、家庭教育ではタブー。

 はげしい家庭騒動、夫婦げんか、叱責は、そのまま子どもにとっては恐怖体験となる。また
子どもというのは、絶対的な安心感のある家庭環境で、心をはぐくむことができる。「絶対的」と
いうのは、疑いをいだかないという意味。しかしその安心感がゆらぐと、子どもの心はゆがむ。
すねる、いじける、ひねくれる、つっぱるなど。

その一つに赤ちゃんがえりと言われる、よく知られた現象がある。下の子どもが生まれたこと
などにより、上の子どもが、赤ちゃんぽくなったりすることをいう。しかしたいていのケースで
は、その程度ではすまない。すまないことは、たとえばあなたの夫に愛人ができた状態を想像
してみればわかる。あなたは平静でいられるだろうか。もっともおとなのばあいは、理性の範囲
で処理できるが、子どものばあいは、それが本能の領域まで影響を与える。赤ちゃんがえりが
こじれると、精神状態そのものがおかしくなることがある。

 叱責も、ある一定の範囲、つまり親子のきずながしっかりしていて、その範囲でなされるなら
問題はない。しかしその範囲を超えると、子どもの心に深刻な影響を与える。ある女の子(ニ
歳児)は、母親に強く叱られたのが原因で、一人二役の、ひとり言を言うようになってしまった。
母親は「気持ちが悪い」と言ったが、一度こういう症状を示すと、なおすのは容易ではない。ほ
かにやはり強く叱られたため、自閉傾向(意味もなく、ニヤニヤと笑うなど)を示すようになった
男の子(年中児)もいた。

 とくに〇歳から少年少女期へ移行する満五歳前後までは、この三つについては、慎重でなけ
ればならない。心豊かで、おだやかな家庭環境を大切にする。とくにここにあげたような恐怖体
験は、冒頭にタブーと書いたが、タブー中のタブーと心得る。

 さらに万が一キズつけてしまったら、つぎの二つに注意する。ひとつは、同じようなキズを繰り
返しつけないこと。繰り返せば繰り返すほど、キズは深くなり、長く残る。もう一つはキズのこと
を気にしないこと。このタイプのキズは、遠ざかること(できるだけ忘れること)で、対処する。そ
のほうが立なおりを促す。親が気にすればするほど、やはりキズは深くなり、長く残る。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(415)

●子はかすがい?

 コの字型の大型のクギを、かすがいという。夫婦の間を、ちょうどそのかすがいのように子ど
もがつなぎとめるので、「子はかすがい」という。しかし本当にそうか? 中には、子どもがいる
ため、離婚したくても離婚できず、悶々と苦しんでいる夫婦がいる。

こういうケースでは、子はかすがいどころか、子は足かせということになる。つまり「子はかすが
い」は、「夫婦は別れるものではない」が、前提になっている。しかし「夫婦だって別れることもあ
る」が、前提になると、「子はかすがい」説は吹っ飛んでしまう。多少ニュアンスは違うが、日本
には、「子は三界の首かせ」ということわざもある。「親というのは、子どもを思う心で、一生の
自由を奪われるものだ」(事典)という意味だ。

 どちらにせよ、こうした言い方をすることにより、人はものの本質を見誤る。とくに人と人の関
係は、安易なことわざや、格言で決めてかかってはいけない。日本人はどうしても、ものごとを
「型」にはめて考える傾向が強い。そのほうが考えることを省略できるからだ。便利といえば便
利だが、その便利さに溺れるあまり。自分を見失う。

たとえば年配の女性が、わかったようなフリをして、「子はかすがいだからねえ」と言ったりす
る。あなたもそう言われたことがあるだろう。しかし実のところ、その女性は何もわかっていな
い。何も考えていない。こうした例は、ほかにもある。

 「親なら子どもを愛しているはず」「子を思わない親はいない」「親子の縁など、切れるもので
はない」「子が親のめんどうをみるのは当たり前」などなど。こうした言い方は、それなりの家庭
にいる人がよく使う。しかしみながみな、それなりの家庭にいるとはかぎらない。たとえば今、人
知れず、わが子を愛することができず苦しんでいる母親は、七〜一〇%はいる。

はっきりとした統計があるわけではないが、「子どもなんてうんざり」「わが子でも、もう顔もみた
くない」と思っている親も、同じくらいはいる。さらに「子が親のめんどうをみるのは当たり前」と
いう常識(?)に甘えて、それを暗に子どもに強制している親となると、いくらでもいる。あるいは
子ども自身がその常識にがんじがらめになって、苦しんでいる人も多い。

 日本人は今、旧来の家庭観から急速に脱皮しようとしている。しかしそのとき、こうした旧来
の常識(?)が、まさに足かせになることが多い。その一例として、ここでは「子はかすがい」と
いうことわざを取りあげたが、新しい家庭観をもつということは、こうした旧来の家庭観がもつク
サリを、ひとつひとつ、ほぐしていくことでもある。それをしないと、結局は、流れそのものが、そ
のつど、せき止められてしまう。

「子はかずがいではない」、また「かすがいであってはならない」。つまりそういうふうに子どもを
利用するのは、子どもに対して、失礼というもの。あなたの子どもだって、それを望まないだろ
う。ものごとは、あくまでも本質をみて、考える。判断する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(416)

●フリーハンドの人生
 
 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに
生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。
親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの
人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。

子どもを「家」や、安易な孝行論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、
いけない。もちろん子どもがそのあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするとい
うのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏
が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育て
られました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。

はじめ私は、I氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI
氏の母親が、本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。五〇歳も過
ぎたI氏に、そこまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとした
ら、I氏の母親はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったのかもしれな
い。

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。 

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。

こんな調査結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」
と答えた日本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかい
ない。自由意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六
三%である(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大き
な転換期にきているとみるべきではないのか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(417)

●子離れできない親

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし
て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん
は、夜なべをして……」という、あの歌である。

戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しかしこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがまし
い歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさんの歌』は、三番まであるが、それぞれ三、四
行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになってい
る。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう
に違いない。

 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と
織り込まれている! 

……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。自分のことを言うのに、「D家(け)は…
…」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言うと、「ぼくはD家の跡
取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞いた。今でもそういう言
葉を使う人は、いるにはいる。

 子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のものでもない。一見
ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。私たちは親と
いう立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。親のために犠
牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの親もそれを望
まないだろう。

いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え方ではない。あくまでもフリー
ハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命に生きる。あなたはあなたで、
懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(418)

●考えない子ども

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小四レベル)。その前の段
階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。そのあと、「では
1分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることができる。が、
そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できない子どもにも、ふた
つのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考えることそのものから逃げて
しまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいていその途中
で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプの子どもは、いくら
ヒントを出しても、それに食いついてこない。

「15分で、長い針はどこまでくるかな?」「15分で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90
度回るとすると、1分では何度かな?」と。そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もとも
と理解しようという意欲すらない。どうでもよいといった様子で、ただぼんやりしている。

さらに考えることをうながすと、「先生、これは掛け算の問題?」と聞いてくる。決して特別な子
どもではない。今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い子どもは、約二五%は
いる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで遊ぶときは、それなりに活発
に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だし、ぼんやり型の子ども(愚鈍児)
特有の、ぼんやりとした様子も見られない。

ただ「考える」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察すると、考える
という習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないといった様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たいへん浅
いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。待てば待っ
たで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、以後な
おすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。やっとできる
ようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる……。あとはこの繰
り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで考える
が、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身に、考えると
いう習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。勉強ができないと
いうのは、決して子どもだけの問題ではない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(419)

●考えない子ども(2)

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。こ
の言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型
(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。

しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれてこな
い。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準をつくり、こうした
子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生まれてこない。つまりこ
うした見方は、教育的には、まったく意味がない。

言うまでもなく、子どもの教育で重要なのは、診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、
「どうすれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養うことができるか」である。
 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることがで
きるという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっていると
きというのは、考えるのもおっくうなものだ。

そういう状態がここでいう(1)の状態。何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニッ
ク状態になって、何から手をつけてよいかわからなくなることがある。それが(2)の状態。パソ
コン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何がなんだかさ
っぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。歳をとってから、ドイツ語を学びはじめた
とする。単語を覚えるのだが、覚えられるのはその場だけ。つぎの週には、きれいに忘れてし
まう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)〜(4)の状態が、日常的に起こると考えると
わかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわかると、「ではどう
すればよいか」という部分が浮かびあがってくる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(420)

(1)思考力そのものが散漫なタイプ

思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の仕事
を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。そういうと
きというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そのあたりにあるコーヒ
ーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がかかってきても、話の内容は上
の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に指示されても、そのすべてがどう
でもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てられない……。

もしあなたがそういう状態になったら、あなたはどうするだろうか。一時的には、コーヒーを口に
したり、ガムをかんだりして、頭の回転をはやくしようとするかもしれない。効果がないわけでは
ない。が、だからといって、体の疲れがとれるわけではない。そういうときあなたの夫(あるいは
妻)に、「何をしているの! さっさと勉強しなさい」と、言われたとする。あなたはあなたで、「し
なければならない」という気持ちがあっても、ひょっとしたら、あなたはどうすることもできない。
漢字や数字をみただけで、眠気が襲ってくる。ほんの少し油断すると、目がかすんできてしま
う。横で夫(あるいは妻)が、横でガミガミとうるさく言えば言うほど、やる気も消える。

思考力が弱い子どもは、まさにそういう状態にあると思えばよい。本人の力だけでは、どうしよ
うもない。またそういう前提で、子どもを理解する。「どうすればよいか」という問題については、
あなたならどうしてもらえばよいかと考えればわかる。疲労困ぱいして、ソファに寝そべってい
るようなとき、あなたなら、どうすればやる気が出てくるだろうか。

そういう視点で考えればよい。そういうときでも、あなたにとって興味がもてること、関心がある
こと、さらに好きなことなら、あなたは身を起こしてそれに取り組むかもしれない。まさにこのタ
イプの子どもは、そういう指導法が効果的である。これを「動機づけ」というが、その動機づけを
どうするかが、このタイプの子どもの対処法ということになる。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(421)

(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよい
かわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでその支度(し
たく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から落ちてけがをし
た。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている……!

一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あなたも学
生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が数問ある。しかし
刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あせればあせるほど、自分
でも何をしているかわからなくなる。

このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たとえば「時
計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますか」という問題のとき、しばらくは
分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何やら式を書いて計算するフリ
をする。

私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っていると、また分度器を見て、同じような行為を繰
りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書いた式とくらべると、まったく同じ。あとはその繰り返
し……。

一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子どもはいく
つものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見を発表させたり
すると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった様子を見せる。そこで
あなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態になったら、どうするだろう
か。またどうすることが最善と思うだろうか。

 ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引き出すと
いう方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからどこまで進みます
か」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これを「誘導」というが、どの段
階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども次第。絵をかいたところで、「わかっ
た」と言って理解する子どももいるが、最後の最後まで理解しない子どももいる。そういうときは
それこそ、からんだ糸をほぐすような根気が必要となる。

しかもこのタイプの子どもは、仮に「1分で長い針は6度進む」とわかっても、今度は「短い針は
1時間で何度進むか」という問題ができるようになるとはかぎらない。少し問題の質が変わった
りすると、再びパニック状態になってしまう。パニックなることそのものが、クセになっているよう
なところがある。あるいはヒントを出すということが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マ
イナスに作用することもある。

 方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導するし
かないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(422)

(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、何がな
んだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、Readme.
txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使って解凍。そのあとで直接
インストールのこと」と。

このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくことができ
ない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」という意
味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。「角とは何
か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。

そのため、頭の中が混乱してしまう。「角の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわから
ない。それはちょうどここに書いたように、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使
って、段落全体の位置を、下へさげてください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落をさ
げたい」という意欲がどこかにあれば、まだそれがヒントにもなるが、「左インデントとは何か」
「段落とは何か」「どうして段落をさげなければならないのか」と考えているうちに、何がなんだ
かさっぱりわけがわからなくなってしまう。このタイプの子どもも、まさにそれと同じような状態に
なっていると思えばよい。

そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。学習
の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツクンした
ところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがっていればいるほど、
手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている三角形をさして、「ここが
一番、痛い」などと言う。
そこで「どうして痛いの」とか、「とがっているところを調べる方法はないの」とか言いながら、学
習へと誘導していく。

 このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、どこか
夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと考えてよい。
占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断力がないから、そ
ういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合理的な判断力が育たない
のかは、よくわからないが……。)

さらに受身の学習態度が日常化していて、「勉強というのは、与えられてするもの」と思い込ん
でいる。もしそうなら、家庭での指導そのものを反省する。子どもが望む前に、「ほら、英語教
室」「ほら、算数教室」「ほら、水泳教室」とやっていると、子どもは、受身になる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(423)

(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それについ
てはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。

 思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパターン化
という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な生活はス
ムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、すぐものを
書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が起きると、すぐ暴
力を使って解決しようとする?)問題は、そのパターンの中でも、好ましくないパターンである。

 子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語のア
ルファベットを、三〜六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではない。そういう
子どもが全体の二〇%前後はいる。

そういう子どもを観察してみると、記憶力が悪いとか、覚える気力が弱いということではないこと
がわかる。結構、その場では真剣に、かつ懸命に覚えようとしている。しかしそれが記憶の中
にとどまっていかない。そこでさらに観察してみると、こんなことがわかる。

「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につごうの悪い
ことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶というのは、脳の中
で反復されてはじめて脳の中に記憶される。その「反復」をしない。(記憶は覚えている時間の
長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。

また記憶される情報のタイプで、認知記憶と手続記憶に分類される。学習で学んだアルファベ
ットなどは、認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、短期記憶の形で記憶されるが、そ
れを長期記憶にするためには、大脳連合野に格納されねばならない。その大脳連合野に格納
するとき、反復作業が必要となる。その反復作業をしない。)

つまり反復しないという行為そのものが、パターン化していて、結果的に記憶されないという状
態になる。無意識下における、拒否反応と考えることもできる。

 原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書いて
ごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対してある
種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、文字嫌いになる
だけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようになる。結果的に、教えて
も、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、そういう思考回路ができて
しまっている。

 記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」と、
ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと別のところ
にある。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(424)

●西暦二一〇〇年の世界

 とても悲しいことだが、二一〇〇年には、人類は滅亡している。よく気象学者は、二一〇〇年
までに地球の気温は、三〜四度上昇すると言うが、そんな程度ではすまないことは、常識。

気温が一、二度あがると、不測の事態がまた別の不測の事態を生み、気温は二次関数的に
上昇する。たとえばシベリアのツンドラ地帯の凍土が溶け出す、海流が変化する、など。その
結果、地球の気温は金星並に、四〇〇度近くまでになるという説もある。もちろんそうなれば、
人類どころか、あらゆる生物が死滅する。いや、ごく一部の生物だけが生き残る可能性はあ
る。火山地帯のマグマの周辺でも生きている微生物がいるということだから、そういう生物にと
っては、四〇〇度なんてものは、どうということはない?

 問題は、人類が滅亡することではない。仮に人類が滅亡しても、ある種の生物が生き残り、
そして人類がそうであったように進化をしつづけ、数億年後には別の知的生物になっている可
能性がある。

そういう知的生物が、たとえばゴキブリが進化したゴキブリ人でもよいが、今の人類の化石を
掘り返して、「おおきいな」「すごいね」「この化石は何の化石?」「昔しいた、バカナヒト・ザウル
スの化石だよ」というような会話をすればよい。人類はあまりにも勝手なことをしすぎた。その
結果、人類が滅んだとしても、それこそ自業自得というもの。

 問題はそのことではなく、気温上昇とともに、食料不足、水不足、それにともなく経済的混
乱、戦争が各地で勃発すること。エイズのような病気がまんえんすることも考えられる。そうな
ればなったで、この地球上は、まさに地獄と化する。人類は静かに滅亡する、あるいは滅亡で
きるような生き物ではない。わずかな食料を求めて、隣人と殺しあうような地獄絵図が、それこ
そ日常茶飯事に起こるようになるかもしれない。

 ……というようなことを考えると、身のまわりの、ありとあらゆる問題が小さく見えてくるから不
思議である。もちろんここに書いたのは、ウソとまでは言えないが、そのまま信じてもらっては
困る。人類には、「知恵」という武器がある。地球の温暖化をおさえるために、地球に亜硫酸ガ
スの傘(かさ)をかぶせるという方法もある。食料不足にしても、遺伝子工学のレベルで、人工
タンパクが合成されるようになるかもしれない。

地球温暖化は大きな問題だが、しかし人類がもつ知恵を信ずることも忘れてはならない。たと
えばたった一〇〇年前には不可能と思われていたようなことが、今ではつぎつぎと可能になっ
ている。あのドラえもんの時代にさえ不可能と思われていた「どこでも電話」が、今では携帯電
話となって、それをもっていない人のほうが少ないくらいになった。

同じように今は不可能と思われているようなことが、一〇〇年後には、これまたつぎつぎと可能
になることだって考えられる。だから「今のレベル」を基準にして、一〇〇年後を考えてはいけ
ない。が、しかし油断してもいけない。地球温暖化は、もう深刻な問題になりつつある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(425)

●UFO

 私と女房は、巨大なUFOを目撃している。このことは、新聞のコラム(中日新聞東海版)に書
いたので、興味がある人は、それを読んでほしい。で、そのあと、つまり新聞のコラムに書いた
あと、「同じものを見た」という人物が、二人も名乗り出てきた。

見た場所と時間は違っていたが、地図でそのUFOが飛んだ方向を調べたら、私が見たのは、
正確に真西から真東に、そして彼らの見たのは、正確に真東から真西に飛んでいることがわ
かった。それはともかくも、「見たものは見た」(コラム)。

 しかし、だ。それほどまでに衝撃的な事件であったにもかかわらず、私にとっては、それほど
衝撃的ではなかった。(同じものを見たと名乗り出てきた人には、衝撃的だったようだ。二人と
も、それで人生観が変わってしまったと言っていた。一人は、そのあとインドへ仏教の研究に出
かけている。)私にとっては、子どものころ、飛行機を見たときの衝撃のほうが、ずっと強かっ
たように思う。だから今、あの夜のことを思い出しても、「まあ、確かに見たなあ」という程度の
印象しかない。「見た、見た」と騒がなければならないほど、重大なできごとでもないと思ってい
る。

 しかし改めて考えてみると、やはりこれは重大なことだ。私が見たUFOは、ハバだけでも、一
〜二キロメートルはあった。正確な大きさはわからないが、そこらのジャンボジェットの大きさで
はない。しかもその消え方が、ふつうではなかった。(これについては、先の二人も同じように
証言している。)まるで空の中に、溶け込むかのようにして消えた。私といっしょに目撃した女
房も、「飛行機のようにだんだん遠ざかって消えたのではない」と言っている。……となると、あ
のUFOはいったい、何だったのか?

 私も女房も丸い窓のようなものを見ている。で、それが本当に窓だとすると、あのUFOの中
には、それなりの知的生物がいたということになる。しかもその知的生物は、人間よりはるかに
知的であるはずだ。私が見たUFOは、音もなく、途中からは猛スピードで飛び去っていった。
人間が常識とする乗り物とは、まるで違っていた。いやいや、回りくどい言い方はやめよう。

 宇宙人は、確実に、いる。それも地球からきわめて近い距離に、いる。そして私たち人間を、
どういう形でかはわからないが、観察している。ただ私にはわからないのは、どうしてもっと
堂々と出てこないかということ。人間が混乱するのを避けるためと言う研究家もいるが、もうこ
こまで正体がバレているのだから、出てきてもよいのではないか。あるいはほかに、出てこら
れない理由があるのかもしれない。それは私にはわからないが、しかしコソコソと隠れるように
して地球へくる必要はない。

……いや、これとて私の勝手な解釈なのかもしれない。が、少なくとも私は、以来、「宇宙人は
いる」という前提で、ものを考えるようになった。この話は、あくまでも余談。教育論とは関係な
い。ははは。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(426) 

●見たものは、見た

見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、そ
れを見た。見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで「ひょっとしたら
…」という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。「ま
ちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を
過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並ん
で飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思
った。

そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。あとで聞くと女房も同じことをしていたという。
が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲むよう
に、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこに現われたからだ。私がヨタカだと思ったの
は、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対
の方向に、音もなく飛び去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFOと
は思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、ま
さかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。

が、このことを矢追純一氏(UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を届
けてくれた。当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。
矢追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもあ
る。私と女房はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形の
UFOがあったからだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考
えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多
分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしくはない。もしあの夜見
たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はその人と闘う。
闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくないし、第一ウソ
ということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。

 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は
教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と
言う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっ
ても、教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野
だ。東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国
語にも翻訳されている。

そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえばこの世界
では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそれについて書い
てみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(427)

●学習内容の三割削減

 学習内容の三割削減が始まった(二〇〇二年春)。具体的には、たとえば小学六年生の算
数では、今までは(1)分数の掛け算、割り算をしていたのが、分数の足し算、引き算になった。
(2)円すいや角すいなどの立体の体積の計算をしていたのが、立方体や直方体の体積になっ
た。

教える側の実感としても、ガクンと楽になった。三割という数字だけをみると、六年掛ける〇・三
で、一・八年、つまり約二年分の学習内容が削減されたことになる。単純に計算すれば、今ま
での小学六年生は、小学四年生のレベルになったことになる。削減のし方にもいろいろある
が、これはもう大削減というにふさわしい。

 で、教える側もそうだが、学ぶ子どもたちも驚いた。それぞれの学年の子どもたちが、「簡単
になった」と喜んでいた。が、喜んでいたのは、四月、五月だけ。六月に入ると、もう様子が変
わってきた。学習内容が簡単になったはずなのに、「簡単だ」と言う子どもが減り、前と同じよう
に、「わからない」「できない」という子どもがふえ始めた。つまり削減されたものの、今度はそ
のレベルで、またもとの状態に戻ってしまった。私はこの現象に、改めて驚いた。で、私は、こ
んなことを考えた。

 サングラスをかけると、かけたとたんというのは、サングラスの色に周囲が見える。しかししば
らくかけたままにしていると、やがてサングラスをかけていること自体を忘れる。と、同時に、周
囲の色は、それなりにもとの色のように見えてくる。仮に青いサングラスをかけていても、赤い
花は赤く、ピンクの花はピンクに見えてくる。もちろん青い空も青い空に見えてくる。

 生活もそうで、忙しい人も、そうでない人も、それぞれの生活をしばらくつづけていると、それ
なりにヒマに感じたり、忙しく感じたりする。仕事量がへったとか、あるいは労働時間がへった
からといって、楽になるとは限らない。しばらくそういう状態がつづくと、新しい環境にそれなりに
体もなれてしまう。子どもの世界も、同じ。

 話を戻すが、「ゆとり教育」の名のもとに、今回の三割削減は実施された。しかし本当にそれ
が「ゆとり」になったかどうかと問われれば、私は、なっていないと思う。もう少し時間が経過し
なければ結果ははっきりしないが、しかしこの六月の段階をみても、それは言える。

つまり今回の三割削減は、結局はその一方で、さらに根本的な問題を先送りしただけではない
のか。少なくとも肝心の子どもたちは、楽になったとは思っていない。与えられた環境になれる
につれて、その環境の中からその「ゆとり」は消える。そしてやがて、もとの状態にもどる……。

 が、ここで考えなければなら
ないのは、こうした削減を繰り返すうちに、日本の子どもたちの学力はますます低下し、教育水
準も低下するということ。日本に追いつけ、日本を追い越せとがんばっている国にとっては、ま
ことにつごうがよい三割削減だが、それは同時に日本が衰退することを意味する。日本よ、日
本人よ、本当に、それでよいのか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(428)

●教育の実情

 K県(静岡県ではない)に住む、I氏(私立幼稚園理事長)が、こんな話をしてくれた。何でもI氏
がある小学校の校庭の横に車をとめて、校庭の様子を見ていたときのこと。チャイムの音とも
に、校庭で体育の授業(小五?)が始まったという。

見ていると、チャイムの音が鳴り終わってから、教師と数人の生徒が、とび箱とマットを外へ運
びだし始めた。その間、一〇分前後。教師が生徒を並べて、とび箱のとび方を実演してみせた
のは、さらにそのあと一〇分くらいしてから。生徒たちはそれぞれが勝手に動き回り、とても教
師の話を聞いているようでもなかったという。

で、指導(?)は、同じく一〇分ほどで終わり、そのあとしばらくすると、今度は片づけが始まっ
た。で、チャイムが鳴るころには、運動場はきれいに片づいていた……。I氏はこう言った。「子
どもたちがとび箱をとんだのは、正味一〇分もなかったのでは」と。

 ここまで書いて終わると、その教師の指導ぶりを批判する人がいるかもしれない。「何て、だ
らしない授業だ!」と。しかし実際のところ、こうした光景は、今、日本のどこでも見られる。多
かれ少なかれ、ごく標準的な「風景」と言ってもよい。しかし教師だけを責めるわけにはいかな
い。こんな事実もある。

この私ですら、活発盛りの小学生を相手に授業をすると、ものの一時間でヘトヘトに疲れてし
まう。彼らがもつエネルギーは、一人ずつだけをみても、おとなの数倍はある。そういう子ども
を、三〇〜三五人も相手にして指導するというのは、まさに重労働。いかに重労働であるか
は、たった一人の子どもをもてあましているあなた自身が、一番よく知っているはずである。

が、そういう重労働を、学校の教師はそれこそ毎時間している。それも朝八時から、夕方六時
まで。が、それで終わるわけではない。生活指導、家庭教育指導、成績管理などなど。しかも
上からの管理、また管理。ある女性教師(小学校)はこう言った。「毎日、携帯電話に入るメー
ルの返事を書くだけでも、夕食後一時間はかかります」と。

また別の女性教師(小学校)は、「子どもが生きるの死ぬのという家庭問題をかかえて、授業ど
ころではありません」と言った。「授業中だけが、息を抜ける時間です」と言った男性教師(小学
校)もいた。

要するに、日本の教育の問題は、日本自体がかかえる構造的な問題であるということ。現象
面だけをみて、それを問題にしても意味はないということ。その構造的な問題が基本にあって、
ここにあげたK県でのような授業が蔓延(まんえん)化している。言いかえると、その構造的な
問題を解決しないかぎり、日本の教育はよくならなし、改革もない。さらに言えば、日本の未来
に明日はない。なぜならその明日をつくるのは、まさに今の子どもたちだからである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(429)

●若い女性は「こやし」?

 歌舞伎役者のG氏(七〇歳、人間国宝)が、五一歳年下の若い女性と、不倫関係(?)にある
という。写真週刊誌にフォーカスされ、それで今(〇二年六月)、世間で騒がれている。昼のワ
イドショーでも取りあげられた。見ると、G氏は悪びれるようすでもなく、ヘラヘラと笑いながら、
「若い女性にもてないようでは、芸もできない」などというようなことを言っていた。

おとなの交際していたのは事実だろう。別れ際、ホテルのドアのところで、G氏はその女性に、
チンチンを出して見せていた(写真週刊誌「F」)。

 が、私が驚いたことはそのことではない。そのワイドショーは街の人の声と称して、一〇人近
い男性にインタビューしていたが、だれひとりとて、そのG氏を責める男がいなかったことだ。責
めるどころか、「うらやましい」「自分もしてみたい」「敬服する」「尊敬する」「芸のこやしになるの
では」と。

司会の男まで、「男のカガミ」とまで言い切った。モラルの崩壊というよりも、その前提となる倫
理観も道徳心もない。思考能力さえ、ない。どの人も通俗的な情報を、そのまま受け売りしてい
るだけ。またそういうことを軽く言うのが、「人生の経験者」とでも思っているようなフシすらあ
る。

 不倫するなら、命がけで、しかも哲学をもってすればよい。しかも「この女性しかいない」と、
世界で最高の女性とすればよい。妻が許すとか許さないとかいうことではなく、自分の人間性
をかけてすればよい。もしそれがまちがっているというのなら、人間であることがまちがってい
る……、そこまで言い切れるような、そんな不倫をすればよい。

が、七〇歳の老人が、顔中コラーゲンを打ち込んだような(多分?)テカテカな顔をして、しかも
人間国宝の看板をぶらさげて、何というぶざまなことよ。相手の女性は、孫よりも年齢が下? 
不倫が発覚しても、一言の哲学めいた思想を口にすることもできない。日本人も、この程度か
と、ただただあきれる。彼は人間国宝という立場で、いったい何を人に教えてきたというのか。

彼の妻は、今、日本国の大臣までしている。夫婦そろって、一着数一〇万円もする(多分?)よ
うな服や着物を着て、好き勝手なことをしている。そういうリーダーや政治家に、庶民の、その
生活のいったい何がわかるというのか。

 私はあえて言う。G氏は男のカガミでも何でもない。いや、彼が自分の名誉と地位と財力にも
のを言わせて何をしようと、それは彼の勝手。しかし一般庶民のあなたよ、ああいう人物を評
価してはいけない。あなたがああいう人物にシッポを振れば振るほど、それはあなたの敗北を
意味する。それこそああいう人物の思うツボ。彼らはあなたのような、名誉も地位も財力もない
人たちを食いものにして生きているだけ。

もし私がここでいうことがまちがっていると思うなら、あなたが男性なら、あなたの妻や娘に聞
いてみることだ。「女性は男のトイレか?」と。あなたが女性なら、……もう言うまでもないだろ
う。その怒りを、もっと外に向かって表現してほしい。

 そうそうアメリカでは、一八歳未満の女性とセックスをすれば、理由のいかんを問わず、即逮
捕、即投獄である。G氏の愛人は、ギリギリの一九歳だった。念のため。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(430)

●親の自己中心性

 「自己中心」という言葉がある。自分を中心にものを考えることをいう。その自己中心性に
は、二つの方向性がある。(1)社会的自己中心性と、(2)時間的自己中心性の二つである。

何ともカタイ話になりそうだが、要するに、自分のまわりのことだけしかものを考えないのが、
社会的自己中心性。自分の時代を中心にしかものを考えないのが、時間的自己中心性とい
う。この(2)の時間的自己中心性というのは、私が考えた。親を見ているときに気づいた。こん
な人がいた。

 「子どもを育てるのは、自分の老後のため」と、その女性(五〇歳)は言った。もう少し別の言
い方をしたが、結論をまとめると、そういうことになる。つまり「自分の老後のめんどうをみてく
れるような子どもを育てるのが、子育てだ」と。たいへん親意識の強い人だった。「子どもが親
のめんどうをみるのは当たり前」という前提で、すべてを考えていた。だから他人の子どもを評
価するときも、親のそばにいて、親孝行する子どもを、「できのいい子」。そうでない子どもを、
「できの悪い子」とした。

つまりその女性は、自分の時代を中心にしかものを考えていない。これが私がいう、時間的自
己中心性である。ほかにもこんな例がある。

 ある女性(六〇歳)は、病弱な息子(三〇歳)と二人暮しをしていた。たしかに病弱は病弱だっ
たが、そのためその女性はお決まりの溺愛と過干渉。息子は超マザコンタイプの、ハキのない
男性になった。その男性について、その女性はいつもこう言っている。「私が死ぬときは、息子
も一緒に死にます」と。

つまりそれくらい親子のきずなが太く、その女性は親として息子をあとに残しては死ねない、
と。そこで私がその女性に、「息子さんには息子さんの人生というものがあるでしょう。それはど
うするのですか」と聞くと、その女性はこう言った。「息子の心は、私が一番よく知っています」
「私が死ねば、息子は不幸になるだけです」と。

 この女性もまた、自分の時代を中心にしかものを考えていないのがわかる。つぎの世代に、
よりよき時代を残す、あるいは伝えていくという姿勢がどこにもない。一見、息子の将来を心配
しているようにみえるが、その実、子どもの将来など、まるで考えていない。自分が死んだら、
あとは野となれ、山となれというわけである。

もし本当に息子の将来を心配するなら、息子を自立させるために、親としてもっとほかにするこ
とがあるはずである。それもしないで、つまり手厚い親の庇護(ひご)のもとだけに子どもを置
き、その子どもを溺愛するのは、まさにここでいう自己中心性ということになる。

 こうして自己中心性をふたつに分けて考えると、親が子育てで見せる自己中心性を、もう少し
詳しく理解することができる。あなたも一度、身のまわりの人で、この見方を利用してみてはど
うだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(431)

●親の思い込み

 「残り勉強」というのがある。たとえば勉強がじゅうぶん消化できなかった子どもを、放課後残
して、勉強させるのが、それ。教師はその残り勉強を、子どものためと思ってするかもしれな
い。が、子ども自身は、そうは思わない。バツととらえる。だから教師が子どもを残り勉強させ
ればさせるほど、やり方をまちがえると、かえって子どもをマイナス方向に追いやってしまう。

こういうのを意識のズレという。家庭教育でも、同じような意識のズレが起きるときがある。たと
えば親が子どもに向かって、「勉強しなさい!」と言うとき。

 親は子どものため(?)を考えて、「勉強しなさい」と言うかもしれない。しかし一日の学校生活
を終えて、やっと家に帰ってきた子どもに、それを言うのは、どうか? 反対の立場で考えてみ
れば、それがわかる。あなたが外で仕事をして、家に帰ってきたとする。そのときあなたの妻
(あるいは夫)が、あなたに向って、「もっと仕事をしなさい」と言ったら、あなたはどう感ずるだ
ろうか。妻(あるいは夫)が、あなたのためにそう言ってくれると、あなたは思うだろうか。

 一般的に、子どもの前ばかりを歩く親は、何でもかんでも、親が先に決めてしまう。「子どもの
ことは私が一番、よく知っている」と。子どもが保育園や幼稚園へ通うようになると、子どもの気
持ちや意思を確かめることなく、「ほら、算数教室」「ほら、英語教室」とやりだす。やめるときも
そうだ。

親が勝手につぎの教室に申し込み書を出したあと、子どもにはこう言う。「来月からは、今のA
教室をやめて、B教室へ行きますからね。B教室の先生のほうが、いい先生だから」と。

 子どもは親の傲慢(ごうまん)さに、引っ張りまわされているだけ。が、本当の悲劇はここから
始まる。こういうケースでは、親は、「子どもは自分に感謝しているはず」と思い込む。「子ども
の心をつかんでいるはず」と思い込む。そしてそうすることが、子どもにとって最善と思い込む。

しかし思い込みは思い込み。子どもの心はもっと別のところにある。やがて親子はこんな会話
をするようになる。親「あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっ
ているの。私が高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ。それがわか
っているの!」、子「いつ、だれがお前にそんなことをしてくれと、頼んだア!」と。

 もっともこのように反発する子どもは、まだよいほうだ。中には、親の言うままになって、かぎ
りなく依存心をもつ子どもがいる。そうなればなったで、それこそ家庭教育は大失敗。子どもが
依存心をもてばもつほど、子どもの自立は遅れる。要するに親の「思い込み」に注意。「子ども
のため」と思い込んでいることでも、結局は子どものためになっていないことは、実に多い。どう
かご注意!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(432)

●依存心という魔物

 依存心が強ければ強いほど、当然のことながら、子どもの成績は伸び悩む。理由の第一。こ
のタイプの子どもは、与えられることになれ、また与えられてからすることになれている。万事
が受身で、そのため、たとえば自分の頭の中に、自分で「学習の地図」をつくることができな
い。自分が何のために、またどういう方向性をもって勉強しているかが、わからない。どこにい
るかさえわからなくなってしまう子どもすら、いる。こんな小学生(小四男子)がいた。何かの問
題を解いていて、それをまちがえたらしい。

子「まちがえたところは、消すのですか」、
私「そうだ」、
子「消しゴムで消すのですか」、
私「そうだ」、
子「きれいに消すのですか」、
私「そうだ」、
子「計算式も消すのですか」、
私「それはいい」と。

 あるいは中学生になると、こんな会話をする。

 子「今日は、どこを勉強するのですか」、私「この前のつづきをしないさい」、子「……」と。そこ
でどんな勉強を始めるかと待っているのだが、一〇分たっても、二〇分たっても、一向に勉強
を始める気配がない。そこで私がしびれを切らせて、「何か、勉強を始めたら?」とうながすと、
「どこで終わったか、忘れました」と。

 こうした依存性は、すでに年中児(四歳児)のときにあらわれる。原因のほとんどは、過保護
と親の先走り。何でもかんでも、「先へ、先へ」と親が、しすぎるほど用意してしまう。子どもはそ
れに引っ張りまわされているだけ。が、なおたちの悪いことに、そういう親の姿勢を批判して
も、それに気づく親は、まずいない。たいていの親は、「自分は子どものために正しいことをし
ている」と思い込んでいる。

しかもそうした世話をするのが、親の務めと誤解している。ある母親はこう言った。「あの子は、
生まれつきああいう子ですから……」と。子どもに生まれつきも、生まれつきもない。そういう子
どもにしたのは、親自身なのだ。それに気づいていない。

 子どもに依存心がつくかどうかは、結局は、子育てのリズムで決まる。そういったリズム(過
保護傾向、先走り傾向)があれば、できるだけ早い時期にそれに気づく。そしてそのリズムを
変える。勉強ができる、できないは、あくまでもその結果でしかない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(433)

●今どきの子どもたち

 「騒いでる子どもは、チンチンをハサミで切るぞ」と私が言ったときのこと。一人の女の子(小
五)が、「私にはないわ」と言った。ふつうはここで会話が終わるはずだったが、そのときはそう
ではなかった。すかさず別の男の子が、こう叫んだ。「何、言ってるんだ! クリトリスがあるだ
ろ!」と。

 今どきの子どもたちの性知識は、ふつうではない。先日も、一人の男の子がニヤニヤ笑いな
がら、「先生、フェラって知っている?」と。「何だ、それ!」と言い返すと、「知ってるくせに……」
と、笑いつづけた。

 今どき、小学生で、「セックス」を知らない子どもはいない。これはもう一〇年近くも前のことだ
が、一人の女子中学生が、私にこう聞いた。「先生は純情か?」と。そこで私が「そうだ」と言う
と、「そんなハズないでしょう。子どもがいるクセに!」と。直後、私はその意味がわからなかっ
た。が、しばらく考えてやっと理解できた。さらにこんなことも。

 ある日、一人の女子大生が私に会いたいと電話をかけてきた。「どうしても相談したいことが
ある」と。そこで会って話を聞くと、「先生の知り合いで、私を援助交際してくれる人はいない
か?」と。「先生、あなたでもいい。一か月二〇万円ならいい」と。私の教え子だったが、美しい
女の子だった。……そう思っていた。そういう私の「プライベートな思い」が、どこかで伝わり、そ
れが誤解されてしまったらしい。

 私はもうこの種の話にはうんざり。私とて「ふつうの男」だから、興味がないわけではない。し
かしここまで性が乱れてくると、もう手の施しようがない。それはちょうど、野に放たれた小鳥の
ようなものだ。つかまえることすら、できない。

 ……あのアダムとイブが、禁断の実を食べたという説話は、こういった状況を言ったものか。
しかしここで考え方を一転させて、「性そのものなど、何でもない」という前提に立つと、話が変
わる。思いきって、「性」を、単なる排泄行為と考えてはどうか。

毎日小便や大便をするように、人は、セックスをする、と。アダムとイブについて言うなら、禁断
の実を禁断の実とするから、話がおかしくなる。小鳥について言うなら、カゴの中に閉じ込めて
おこうとすことのほうが、おかしい、と。

 この問題については、また別の機会に考える。しかしこんな事実もあることを忘れないでほし
い。アメリカの中西部に、アーカンソー州という州がある。その州に、H州立大学がある。その
H州立大学でのこと。フットボールクラブのメンバー六〇人を調べたところ、そのうち一五人(二
五%)が、HIV(エイズ)検査で陽性だったという(二〇〇〇年)。たいへんな数だし、きわめて深
刻な問題といってもよい。

しかしそれはそのまま日本の、近未来の姿でもある。野放しがよいというわけではない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(434)

●指導方法

 子どもに限らず、人を指導するには、簡単に言えば、ふたつの方法がある。ひとつは、(1)脅
(おど)す方法。もう一つは、(2)自分で考えさせる方法。

 ほとんどの宗教は、(1)の「脅す方法」を使う。バチ論や地獄論がそれ。あるいは反対に、
「この教えに従ったら、幸福になれる」とか、「天国へ行ける」というのもそれ。(「従わなければ
天国へ行けない」イコール、「地獄へ落ちる」というのは、立派な脅しである。)

 カルトになると、さらにそれがはっきりする。「この信仰をやめたら、地獄へ落ちる」と教える宗
教教団もある。常識で考えれば、とんでもない教えなのだが、人はそれにハマると、冷静な判
断力すらなくす。

 もうひとつの方法は、(2)の「自分で考えさせる方法」。倫理とか道徳、さらには哲学というの
が、それにあたる。ものの道理や善悪を教えながら、子どもや人を指導する。この方法こそ
が、まさに「教育」ということになるが、むずかしいところは、「考える」という習慣をどう養うか、
である。

たいていの人は、「考える」という習慣がないまま、自分では考えていると思っている。あるい
は、そう思い込んでいる。たとえば夜のバラエティ番組の司会者を見てほしい。実に軽いこと
を、即興でペラペラとしゃべっている。一見、何かを考えているように見えるかもしれないが、実
のところ、彼らは何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工し
て言葉にしているだけ。

「考える」ということには、ある種の苦痛がともなう。「苦痛」そのものと言ってもよい。だからた
いていの人は、自ら考えることを避けようとする。考えることそのものを放棄している人も、少な
くない。子どもや学生とて、同じ。東大の元副総長だった田丸謙二先生も、「日本の教育の欠
陥は、考える子どもを育てないこと」と書いている。

 前にも書いたが、「人間は考えるから人間である」。パスカルも『パンセ』の中で、「思考こそ
が、人間の偉大さをなす」と書いている。私は宗教を否定するものではないが、しかし人間の
英知は、その宗教すらも超える力をもっている。まだほんの入り口に立ったばかりだが、しかし
自らの足で立つところにこそ、人間が人間であるすばらしさがある。

 問題は何を基準にするかだ。つまり人間は何を基準にして、ものを考えればよいかだ。私
は、その基準として「常識」をあげる。いつも自分の心に、その常識を問いかけながら、考えて
いる。「何が、おかしいか」「何が、おかしくないか」と。そしてあとはその常識に従って、自分の
方向性を定める。ものを考え、それを文章にする。それを繰り返す。

言うまでもなく、私たちの体には、数一〇万年という長い年月を生きてきたという「常識」がしみ
ついている。その常識に耳を傾ければ、おのずと道が見えてくる。その常識に従えば、人間は
やがて真理にたどりつくことができる。少なくとも私は、それを信じている。あくまでもひとつの
参考意見にすぎないが……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(435)

●子どもたちへ

すねたり
いじけたり
つっぱったりしないでさ、
自分の心に静かに
耳を傾けてみようよ
そしてね、
その心にすなおに
したがってみようよ

つまらないよ
自分の心をごまかしてもね
そんなことをすればね
自分をキズつけ
相手をキズつけ
みんなをキズつけるだけ

むずかしいことではないよ
今、何をしたいか、
どうしたいか、
それを静かに
考えればいいのだよ

仲よくしたかったら、
仲よくすればいい
頭をさげて
ごめんねと言うことは
決してまけることでは
ないのだよ
ウソだと思ったら
一度、そうしてみてごらん
今より、ずっとずっと
心が軽くなるよ





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(436)

●生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。
人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうこと
だ。もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。そのとき、ここちよい響きがすれば、そ
れが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あとはその善悪の判断に従って行動すれば
よい。

人間には生まれながらにして、そういう力がすでに備わっている。それを「常識」というが、決し
てむずかしいことではない。もしあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に
問いかけてみればよい。

 人間は過去数一〇万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や
倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たと
えば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過去数一〇万もの
間、生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生
きていくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかに
して自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそうい
う常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に
反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をご
まかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、
あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。しか
もその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い人
も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもってい
る。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、静
かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。



 

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(437)

●常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。無理をすることは、ない。

道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで汚れた空を気持ちよいと
思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それが「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて五〇円、
余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその五〇円を返す
と、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、
みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱった
り……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。
「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつも
りでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まり
たいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たか
った。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言って
もよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(438)
 
●子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(439)

●子どもに善と悪を教えるとき

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪
がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの
世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった
り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校
の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放
り投げていた。その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に
対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親
は、少ない。

話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たち
のように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまった
ら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもし
ろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が
残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより
よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい
人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」
と。

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問
題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。

そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについ
て、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。私の知人の中には五〇歳にもなるというの
に、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞
いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。

するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまと
もだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交
際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世
界をゆがめる。それが問題なのだ。

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、
大きく変わる。子どもの世界も変わる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(440)

●もの書き屋の年輪

 ものを書くことによって、どこかで年輪を重ねていくように感ずることがある。たとえば私。一
〇年前に書いた文章、二〇年前に書いた文章、さらに三〇年前に書いた文章がある。自分の
書いた文を読みかえすとき大切なことは、文の体裁よりも、そのときどきにおいて、いかに真実
であったか、だ。

自分を飾った名文(?)など、意味がない。反対に、いかにヘタでも、そのときの自分を正直に
書いた文ほど、意味がある。要するに、中身ということ。私はこれを勝手に、「深み」と呼んでい
る。文は、その「深み」で判断するが、これは自分の文に限ったことではない。

 他人の文を読むとき、私は「深み」をさぐろうとする。もちろん文のじょうずへたも大切だが、
それよりも大切なのは、「深み」だ。で、そのとき、私はその人の年輪がどこにあるかを知る。
たとえば今、三〇歳の人の書いた文を読んだとする。そのときその文と自分が三〇歳のときの
文とをくらべる。あるいは自分なら、三〇歳のとき、どう書いただろうかと考える。

その結果、私が三〇歳のときの年輪より、深みのある文を書く人がいたとすると、それはその
まま畏敬の念にかわる。しかし同じ文でも、それが六〇歳の人だと、そうは思わない。もちろん
同年齢で、私より深みのある文を書く人はいくらでもいるし、そういう人の文は、読んでいても
気持ちよい。楽しい。参考になる。とくに分野の違う人の文は、おもしろい。

 ……と、まあ、いっぱしの作家気取りのようなことを書いてしまったが、一方、こんなこともあ
った。ミニコミ誌を自分で発行している人がいた。別の仕事で親しくなったので、ある日私が、こ
う申し出た。「何か、文を書くことで、手伝ってあげましょうか」と。するとその人は、胸を張ってこ
う言った。「君イ〜ネ〜、文というのはね、書けるようになるまでに、一〇年はかかるよ。人に読
んでもらえるような文を書けるようになるまでに、さらに一〇年はかかるよ」と。つまり私の文で
は、ダメだ、と。

つまり文というのは、その人の主観で、その評価が決まる。私の文をうまいと思って読んでくれ
る人もいれば、そうでないと思っている人もいる。だからここが一番大切だが、文を書くときは、
他人の目など気にしないこと。私はそうしている。それがよくても悪くても、私自身だからであ
る。




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阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
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