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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(441)

●神々との対話

 女房とドライブしていたときのこと。あるキリスト教会の前を通った。「人類が滅ぶときに、神
の手で救われる」と教える教団の教会である。私がそれを女房に説明すると、女房がこう言っ
た。「ほかの人たちはどうなるの?」と。

 地球温暖化がこれだけ現実のものとなってくると、「地球はあと一〇〇年ももたない」という説
が、にわかに信憑(しんぴょう)性をおびてくる。とくにここ数年の気温上昇(たった数年!)は、
ふつうではない。この速度で上昇したら、西暦二一〇〇年までには、地球の気温は四〇〇度
にまでなってしまう! (これに対して学者たちの予想では、二一〇〇年までに三〜四度。最大
で六度前後となっている。)まさにそのとき、(あるいはそれ以前に)、「人類が滅ぶとき」がやっ
てくる。

 「信じた人だけが助かるというのは、卑怯(ひきょう)だ」と私。
 「どうして?」と女房。
 「もし、そんなに信じてほしかったら、神様も、今、ここに姿を現せばいい。そうすれば、だれ
だって神様を信ずるようになる」
 「死んでからでは、遅いということ?」
 「いいや。死んだとき、目の前に神様が現れれば、だれだって神様を信ずるようになる。それ
から信じても、遅くはない」
 「神様は、信ずるのも、信じないのも、お前たちの勝手と、人間を突き放しているのではない
かしら」

 私たちは今、懸命に生きている。野に咲く花や、空を飛ぶ鳥のように。地面をはう虫や海を
泳ぐ魚のように。そういう私たちを「まちがっている」と言うのなら、それを言うほうがまちがって
いる。たしかに人間は未熟で、未完成だが、しかし今、懸命に自分の足で立ちあがろうとしてい
る。

医療にしても社会にしても政治にしても、もし今、ここに神様が現れて、病気を治したり、神の
国をつくったらどうなるか。人間は自らの足で立ちあがることをやめてしまう。あのトルストイも
『カラマーゾフの兄弟』の中で、同じようなことを書いている。

 しかしその懸命さが、思わぬ方向に進みつつある。それこそ地球温暖化によって、人間どこ
ろか、あらゆる生き物まで犠牲になってしまう。だったら今、「突き放している」ほうがおかしい。
あるいはすでに神様は、地球そのものまで放棄してしまったというのか。

 この問題は、「私たち人間は助かるべきか、それとも助かるべきではないか」という、究極の
命題にまで、行き着く。しかしこれだけは言える。仮に私たちの未来が絶望的なものであって
も、最後の最後まで、足をふんばって生きる。そこに「懸命に生きる人間の尊さ」がある。神様
に救ってもらおうと考えるのは、まさにその人間の敗北を認めるようなものだ。あとの判断は、
それこそ神様に任せればよい。





子育て ONE POINT (442)子どもに生きる意味を教えるとき 

●生きる価値

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすれば
よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちがなぜあの
高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。

たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるよう
で、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人
は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、な
ぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇年あまり。私もこ
の問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争
と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の
目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエー
ル。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進
むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、
生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っ
ている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』
と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、
そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命
に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。

言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もな
い。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわ
からない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われ
たとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでし
かない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていた
ら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら
繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれな
い。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(443)

●頭のよい子

 五〇人に一人とか、それ以上の中に一人という、頭のよい子どもが、いる。よく「能力は平等
だ」という人がいるが、こと知的能力についていえば、平等ではない。専門的に言えば、「脳の
神経シナプスは、非同時的に発達する」※という。この「非同時性」が、子どもの「差」となって
表れる。

 で、その頭のよい子どもの特徴としては、(1)目つきが鋭く、静かに落ち着いている、(2)集
中力があって、いったん集中し始めると、他人を寄せつけない気迫を見せる、(3)言葉を頭の
中で反すうする(何度もかみくだく)ため、それだけ言葉が重くなる傾向を示す、など。動作もど
こか鈍くなることが多い。

 ここでいう(3)「言葉を反すうする」というのは、同時進行の形でいろいろなことを考えることを
いう。たとえば「地球が暖かくなることをどう思うか」と問いかけると、知的能力の「深さ」によっ
て、子どもの反応は大きく変化する。

レベル0……「暖かくなる」という意味そのものが理解できない。
レベル1……「暖かくなっていい」などと言って、そのレベルで思考を停止する。
レベル2……「暖かくなって、冬なども過ごしやすくなる」などと言って、自分にとってつごうのよ
いことだけを考える。
レベル3……「暖かくなると、困ることもある」などと言って、問題点をあれこれさぐる。
レベル4……「どうして暖かくなるのか」とか、「どうして困るのか」などと言って、いろいろな情報
を集めて、それを分析しようとする。
レベル5……問題の深刻さが理解でき、「どうすればいいのか」「どんな問題が起きるのか」「ど
う対処したらいいのか」というレベルまで考えを切りこんでいく。

 こうしたレベルは、作文を書かせてみればわかる。考えの「深い」子どもは、その片りんを文
のはしばしで、それを示す。

 中学生について言うなら、ほとんどの子どもが、レベル0〜2の範囲に入る。「五〇〇字程度
の作文を書いてください」と指示しても、すぐ書き始める子どもは少ない。これは日ごろから、
「考える」という習慣そのものがないためと思われる。

※シナプスの過剰生産と選択は、脳の異なった部分で異なった速度で進む。(Huttenlocher 
and Dabholkar, 1997) 本来の視覚皮質ではシナプスの密度は比較的速やかにピークに達す
る。中間の正面の外皮では、明らかにより高度な認識の働きをするところであるが、その過程
は更にゆっくりと進み、シナプス生成は誕生より前に始まり、シナプスの密度は五、六歳の年
齢まで増え続く。

※ 選択過程は、概念的にはパターンの主な組織に相当するものであるが、更にそれに続く
四、五年続き、初期の青年期で終わる。このように脳の部分で異なった速度で進むことは、そ
れぞれの皮質のニューロンでも異なったインプットを受けて、異なった速度で進む可能性が高
い。(Juraska, 1982, on animal studies 参照)





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(444)

●頭のよい子(2)

 実際に中学生(一〜三年生、一〇人)に、「地球温暖化について」というテーマで作文を書か
せてみた。

 最初の一〇分間で、作文を書き始めた子どもは、ゼロ。一〇分ぐらいたってから、何となく鉛
筆を動かし始めた子どもは、二人だけ。あとは黙ったまま。そこで強く促すと、残りの六人が、
何かを書き始めた。しかし残った二人は、体をぶらぶらさせるだけ。私が「思っていることを書
けばいい」と言うと、「だって、何を書いたらいいのか、わかんないもん」(女子二人)と。

 二〇分後、まだ書いている途中だったが、そこで中断。以下、子どもたちの書いた作文を紹
介する。(句読点を含めて、原文のまま)

(M女、中一)「いままで夏は暑いのに地球温暖化がすすんでいったらどうなってしまうのだろ
う。まだ6月なのにこんなに暑くて、7時ごろまでひがのぼっていて、明るい。今年は桜がさくの
もきょ年より何日もはやかったから、何年かたったら、冬ごろでも暑いかもしれない」

(T女、中一)「今、学校でも、総合の時間に地球環境や、温暖化についてやっています。私は
地球温暖化の一番いけない理由は、地球が汚れてしまったことだと思います。車や工場から
出た有害ガスが、地球の森林をなくしてしまったりしたことだと思います。外国では日本よりもっ
と早くから行動をおこしている国もあると聞いたので、日本もいろいろなことをして、温暖化が
少しでもなくなるようにしたらいいのにと思いました。私も身近な事から環境が悪く……」

(J君、中二)「南極や北極の氷がとけて大洪水になり人間などが住むばしょがなくなる……」

(G君、中三)「ここら5、6年だけでもかなり変化があったので危機感を感じている。『あと、どの
ぐらいで人間は住めなくなるのだろうか?』『なぜこのようなことになる前に気がつかなかったの
だろう?』こんなことを考えると恐ろしくなる」

 上から順に、M女は、温暖化の事例を集めているにすぎない。レベル2〜3。
 T女は、温暖化の理由を懸命にさぐろうとしている。レベル3。
 J君は、具体的に原因をとらえ、結果について考えようとしている。レベル3。
 G君は、危機を感覚的にとらえているが、分析性がない。レベル2。

 何も書かなかった子どもが、レベル0ということにはならないが、外から観察すると、思考が
ループ状態に入っているのがわかる。言いかえると、思考力のない子どもというのは、きわめ
て浅いレベルで、思考がループ状態に入る子どもということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(445)

●母親が育児ノイローゼになるとき

 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(四
歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。
気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところ
で、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うところだった。

次に店にやってきた客へのつり銭をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかっ
た。あせればあせるほど、頭の中で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

 Aさん(母親、三六歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と
診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあ
と、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何
とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。

そういうAさんを、夫は「だらしない」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの
米屋だったが、店の経営はAさんに任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったの
に、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別
に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そして
こう言った。

「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょうか」と。冒頭
に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。
(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。

こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。
脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い
込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまっ
たり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。Aさんのケー
スでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Aさんも、
子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。そ
れではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、
そのときの手紙をまとめたものである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(446)

●母親がアイドリングするとき 
 
 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。

結婚したのは二四歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃
に打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と
何となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

  R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道
の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人
公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の
叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻
に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あ
まり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャー
ドと結婚していた。

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

  昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こ
んな話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしま
った。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買
う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。

晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今
氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生
の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなた
がアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止
まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するときがくる。そのときが
新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進
む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の
人間として。それでまた風は吹き始める。人生は動き始める。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(447)

●保守的な人々

 「日本軍が満州を侵略し、満州兵の抵抗を受けた」というようなことを、原稿に書いたときのこ
と。その雑誌の編集者が電話をかけてきて、こう言った。「はやしさん、日本軍は満州なんか、
侵略していませんよ」と。驚いて、「どうしてですか」と聞くと、その編集者はこう言った。「第一、
当時、満州にはだれも住んでいなかった。無人の荒野だった。だから日本がそこへ入り、開拓
してやったのです。だから、当然、満州兵などいなかった。あとになって中国は勝手に『満州は
中国の領土だ』『日本軍と戦ったのは中国兵だ』と言い出しただけです」と。さらに私が驚いて
いると、こうも言った。

「中国にせよ、朝鮮にせよ、日本が進駐してやったおかげで、発展することができたのですよ。
港もつくってやったし、道路や鉄道もつくってやった」「もし日本が進駐しなければ、ロシアやアメ
リカに侵略され、中国はもっと悲惨なめにあっていたはずです」と。

 もしこの論理が通るなら、どんな侵略戦争も正当化されてしまう。仮に明日、どこかの国が日
本を侵略してきても、だれも文句が言えない。

 で、私がそう反論すると、その編集者はこう言った。「あなたはそれでも日本人か。日本がま
ちがっていたと言うのは勝手だが、それを言うということは、自ら、日本人であることを否定す
ることと同じですよ」と。

 悲しいかな、こういう保守的な人は、実際にはいる。しかもその編集者と言うのは、年配の人
ではない。あとで年齢を聞いたら、三五歳ということだった。あなたはこの編集者の意見をどう
思うか。

 そうそうそれ以後、その雑誌社から執筆依頼が途絶えて、ちょうど二年になる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(448)

●肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいるのではな
い。それがこの日本では、常識。

 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやってき
た。総勢三〇人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ箱大の国
旗を縫い込んでいた。が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された使節団だ」
と、やたらとそればかりを強調していた。つまりそうことを口にすれば、歓迎されると思っていた
らしい。

 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。よい例があのテレビドラマの『水戸
黄門』である。今でもあの番組は、平均して二〇〜二三%もの視聴率を稼いでいるという。が、
その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。つまりその使節団のし
たことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控えおろう」と叫んだのと
同じ。あるいはどこがどう違うのか。

が、オーストラリア人にはそれが理解できない。ある日、ひとりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、
もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。それでも日本人は頭をさげるのか」と。

 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで別人の
ように電話のかけ方を変える人は多い。私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。
相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたしま
す」と言ったあと、私のような地位も肩書きもないような人間には、「君イ〜ネ〜、そうは言って
もネ〜」と。

しかもそういうことを、若い、それこそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のうちにそうし
ているから、おかしい。つまりその「無意識」なところが、日本人の特性そのものということにな
る。

 こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。説明
しても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権威主義を振り
まわす。「親に向かって何だ!」と。子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しな
いとき、それは親子の間に大きなキレツを入れることになる。親が権威主義的であればあるほ
ど、子どもは親の前で仮面をかぶる。つまりその仮面をかぶった分だけ、子どもの子は親から
離れる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見渡してみてほしい。あなたの叔父や叔母の中には、権威
主義の人もいるだろう。そうでない人もいるだろう。しかし親が権威主義的であればあるほど、
その親子関係はぎくしゃくしているはずである。

 ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられても、
ただニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいばっていた。この
ことは「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから三〇年あまり。日本も変わったが、基本
的には、今もつづいている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(449)

●夫に不満?

 先日、女房の友人(四八歳)が私の家に来て、こう言った。「うちのダンナなんか、冷蔵庫から
牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫にしまうことすらしないんだわサ。だから牛乳な
んて、すぐ腐ってしまうんだわサ」と。

話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこのかた、トイレ掃除はおろか、トイレットペーパーすら取
り替えたことがないという。私が、「ペーパーがないときはどうするのですか?」と聞くと、「何で
も『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。

 国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ五
〇%以上もいるという(二〇〇〇年)(※)。年代別の調査ではないのでわからないが、五〇歳
以上の男性について言うなら、何か特別な事情のある人を除いて、そのほとんどが家事をして
いないとみてよい。

この年代の男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強くもっている。男ばかり
ではない。私も子どものころ台所に立っただけで、よく母から、「男はこんなところへ来るもんじ
ゃない」と叱られた。こうしたものの考え方は今でも残っていて、女性自らが、こうした偏見に手
を貸している。「夫が家事をすることには反対」という女性が、二三%もいるという(同調査)。

 が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ始めている。私が九九年に浜松市内でした調査
では、二〇代、三〇代の若い夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という
夫が、六五%にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。

※……国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくし
ない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上であったという。
 部屋の掃除をまったくしない夫          ……五六・〇%
 洗濯をまったくしない夫             ……六一・二%
 炊事をまったくしない夫             ……五三・五%
 育児で子どもの食事の世話をまったくしない夫   ……三〇・二%
 育児で子どもを寝かしつけない夫(まったくしない)……三九・三%
 育児で子どものおむつがえをまったくしない夫   ……三四・〇% 
(全国の配偶者のいる女性約一四〇〇〇人について調査・九八年)
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(450)

●男女平等

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているの
が、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベ
ッテルグレン女史はこう言った。

「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏
見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「とくに女性であるからという理由だけで、不利益
を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっとベッテルグレン女史が言ったこと
を理解できる国になった。

 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は…
…」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことが
ない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば
遊んだで、「女たらし」とバカにされた。

そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出がまったく、ない。が、その後、いろい
ろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らされた。その中でも決定的に私を変え
たのは、次のような事実を知ったときだ。

つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人もの
ドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠
後三か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激
を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はそ
のまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。

このことを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八
〇度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえ
ると、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」と
いう考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる
が、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。男性側の意識改革だけではなく、
女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念す
べきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(厚生省の国立問題研究所が発表した
「第二回、全国家庭動向調査」・九八年)。こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。

「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一
九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家
事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(451)

●ワールドカップに思う

 ワールドカップは、いわば世界的な祭(まつり)。その祭には、「熱狂」はつきものだが、しかし
その熱狂ぶりは、ふつうの祭とは、かなり違う。つまり「熱狂」そのものが、演出されたものであ
るということ。そのことは、選手をかいま見ただけで、涙を流して喜ぶサポーターたちの姿を見
ればわかる。彼らはアイドルという虚像に涙を流しているにすぎない。

 たとえば今、窓の外に一本の栗の木がある。秋になると色があせ、一枚ずつ、葉を落とす。
そのときその葉が落ちることには、だれも関心を払わない。が、この段階で、一枚一枚の葉に
それぞれの国名をつけ、最後まで残った「葉」が勝ちということにしたとする。つまりこの段階で
ゲーム性が生まれる。

が、これではまだ「熱狂」は生まれない。そこでこうする。最後まで勝ち残った葉(国)には、栄
誉を与えるとする。そしてマスメディアを使って、世界中に報道する。この段階で、その道の解
説者たちが、もっともらしいコメントを語れば、ゲームはさらにおもしろくなる。「A国の葉は、根
元が太いですね。ただ色が少しあせているので、風に弱いでしょう。しかしB国の葉は、面積が
やや小さい。風には有利に働くでしょう」とか。

 が、ここでひとつ、重要な要素を忘れてはいけない。ゲームである以上、人間が介在しなけれ
ばならない。そこで「選手」の登場ということになる。このゲームでは、名前を「栗の葉落とし」と
するが、この栗の葉ゲームでは、たとえば栗の木の下から、息を吹きかける選手を考えたらど
うか。各国から肺活量の大きい選手にきてもらい、下から息を吹きかける。そして相手の国の
葉を、その息で落とす……。

 一枚ずつ葉が落ちるごとに、世界中がまさに一喜一憂する。自分の応援する国の葉が先に
落ちれば、ため息と落胆の嘆き。相手の応援する国の葉が先に落ちれば、笑いと歓喜の叫
び。こうして「熱狂」は少しずつ、増幅され、やがて最終局面を迎える。最後の二枚だけ、葉が
残ったとする。一枚は「X国」と書かれた葉。もう一枚は「Y国」と書かれた葉。下から息を吹き
かける選手は、ますます真剣になる。一息吹きかけるごとに、そして葉がゆれるごとに、轟音
のようなエールとブー音が入りまざる。

 が、問題は、なぜ実際には、ワールドカップというゲームには世界中が熱狂し、栗の葉ゲー
ムには、世界中が熱狂しないかということ。この違いはどこからくるのか。つまりその「違い」を
つくるのが、演出ということになる。ワールドカップは、そういう意味では、巧みな演出によって
つくられたゲームということになる。が、問題はこのことではない。

 この時点で、「私」自身が、その演出によって、踊らされるということ。いつの間にか、自分自
身もその熱狂の「輪」にハマってしまい、自分が自分でなくなってしまう。ゲームだからよいよう
なものの、それがもし別のものであったら……。

考えるだけでも、どこかソラ恐ろしい感じがする。感じがするが、ああああ、今日もそのワール
ドカップが気になってしかたない。六月一四日。今日で予選リーグが終了する。日本、よくやっ
ている!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(452)

●教師は聖職者か?

 知性(大脳新新皮質)と、生命維持(間脳の視床下部ほか)とは、つねに対立する。いざとな
ったら、どちらが優位にたつのか。また優位なのか。わかりやすい例で言えば、性欲がある。

 この性欲をコントロールすることは、不可能? よく聖職者や出家者は、禁欲生活をするとい
うが、禁欲などできるものではないし、またそれをしたところで、あまり意味はない。知性(大脳
新新皮質)の活動が、すばらしくなるということはない。

もともと脳の中でも、機能する部分が違う。(性行動そのものは、ホルモン、つまり男性はアンド
ロゲンで、女性はエストロゲンとプロゲステロンによって、コントロールされている。)あるいはホ
ルモンをコントロールすれば、性行動そのものもコントロールできることになるが、それは可能
なのか。いや、可能かどうかを論ずるよりも、コントロールなどする必要はない。性欲があるか
ら、聖職者や出家者として失格だとか、性欲がないから失格でないと考えるほうが、おかしい。

 私はよく生徒たちに、「先生はスケベか?」と聞かれる。そういうとき私は、「君たちのお父さ
んと同じだよ。お父さんに聞いてみな」と言うようにしている。同性愛者でないことは事実だが、
性欲はたぶんふつうの人程度にはあると思う。

が、大切なことは、ここから先。その性欲を、日常生活の中でうまくコントロールできるかどうか
ということ。これについては、まさに「知性」がからんでくる。もっと言えば、「性的衝動」と、「行
動」の間には、一定の距離がある。この距離こそが、知性ということになる。

 ひとつの例だが、夏場になると、あらわな服装で教室へやってくる女子高校生がいる。(最近
は高校生をほとんど教えていないが、以前は教えていた。)そういう女生徒が、これまた無頓着
に、胸元を広げて見せたり、あるいは目の前で大きくかがんだりする。そういうとき目のやり場
に困る。で、ある日、そのとき私より三〇歳くらい年上の教師にそれを相談すると、その教師は
こう言った。「いやあ、そういうのは見ておけばいいのですよ」と。

 一見、クソまじめに見える私ですらそうなのだから、いわんや……。この先は書けないが、と
もかくも、私は過去において、性欲は自分なりにコントロールしてきた。だからといって知性が
あるということにはならないが、しかしこんなことはある。

 私は二〇代のころは、幼稚園という職場で母親恐怖症になってしまった。また職場はもちろ
んのこと、講演にしても九九%近くは女性ばかりである。そういう環境で三〇年以上も仕事をし
てきたため、多分、今の私なら、平気で混浴風呂でも入れると思う。

つまり平常心で、風呂の中で世間話ができると思う。(実際にはしたことがないが……。)とくに
相手を、「母親」と意識したとき、その人から「女」が消える。これは自分でも、おもしろい現象だ
と思う。長い前置きになったが、よく「教師は聖職者か」ということが話題になるが、私はこうし
た議論そのものが、ナンセンスだと思う。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(453)

●古い世代との対立
 講演をしていると、いろいろな人から抗議を受ける。(たいていは質問という形だが、「私はそ
うは思わない」「林の意見にはついていけない」というのが多い。そういうのも含めて、ここでは
「抗議」と呼んでいる。)
 しかしそのほとんどは、五〇代、六〇代の男性からのもの。私の意見は、世の男性たちに
は、支持されないようだ。この数か月だけでも、こんな抗議があった。

●「『母さんの歌』(窪田聡作詞、作曲)の歌はすばらしい歌だ」(私は何も、その歌を否定して
いるのではない。)

●「父親は家で、威厳があることこそ重要だ」(威厳というのは、互いの間に尊敬の念があって
はじめて生まれる。親の権威を一方的に子どもに押しつけるのはどうか。)

●「子どもの人生は子どものものとはいうが、実際には、子どもに老後のめんどうをみてもらわ
ねばならない」(親孝行を否定しているのではない。強要してはいけないと言っている。)

●「妻たちに、ヘンな知恵をつけてほしくない。そうでなくても、妻と両親(祖父母)との関係がむ
ずかしい」(言語道断!)

●「林は親孝行を否定するが、親孝行は日本人の美徳である」(献身的、犠牲的な孝行を、子
どもに求めてはいけない。強要してはいけない。あくまでも「心」の問題。心を通いあわせること
こそ、真の孝行ではないのか。)

●「夫は仕事で疲れて帰ってくる。その上、家事を分担せよというのは、現実的ではない」(最
初から何もしなくてよいという意識と、分担しなければならないが、それができないという意識で
は、おのずと違いがでてくる。夫は、家事、育児のたいへんさをもっと理解すべきと私は言って
いる。)

●「産んでいただきましたと子どもが親に感謝するのは、当然だ」(恩着せがましい子育ては、
親子の間にキレツを入れることになるから注意したいと私は言っている。それでもかまわない
というのなら、私もかまわない。)

●「親子のきずなは切れない。親子の縁など、切れない」(しかしそういう日本的な常識(?)の
中で苦しんでいる子どもも多い。こうした常識を子どもに押しつけてはいけない。)

●「母性は本能だ。どんな親でも、子どもを愛しているはず」(もしそうなら、虐待などないはず
だが……。)

●「子どもにもっときびしくし、子どもをきたえるべきだ」(きびしくすれば、それでよいという考え
では、これからの子どもを指導することはできない。)

●「子どもの世界が乱れているのは、甘やかしが原因。親が子どもの友になるなんて、とんで
もない」(ひとりの人間として、認めようと、私は言っている。)ほか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(454)

●スパルタ方式への疑問

 スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷に任
せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そのきびし
い兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。

 そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中心的
で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主張する評
論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考えるのは、あまりに
も短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。やり方をまちがえると、
かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。

 むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない。)その欠陥
のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。たとえばこの
日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、「宿題がある」
「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。

こうした日本の特異性は、外国の子育てと比較してみると、よくわかる。ニュージラーンドやオ
ーストラリアでは、子どもたちは学校が終わり家に帰ったあとは、夕食がすむまで家事を手伝う
のが日課になっている。こういう国々では、学校の宿題よりも、家事のほうが優先される。が、
この日本では、何かにつけて、仕事優先。勉強優先。そしてその一方で、生活は便利になった
が、その分、子どものできる仕事が減った。

私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言ったときのこと、ある母親は、こう言った。「何をさせれ
ばいいのですか」と。聞くと、「掃除は掃除機でものの一〇分ですんでしまう。料理も、電子レン
ジですんでしまう。洗濯は、全自動。さらに食材は、食材屋さんが届けてくれます」と。こういうス
キをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。で、ここからが問題だが、ではそういう形でドラ
息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」ことができるか、である。

 が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ドラ娘に
なった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。それはちょうど
一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻したで、子どもはたい
へんなストレスをかかえこむ。本来なら失敗する前に、その失敗に気づかねばならない。

が、乳幼児期に、さんざん、目いっぱいのことを子どもにしておき、ある程度大きくなってから、
「あなたをなおします」というのは、あまりにも親の身勝手というもの。子どもの問題というより、
日本人が全体としてかかえる問題と考えたほうがよい。だから私は「欠陥」という。いわんやス
パルタ教育というのは! もしその教育をしたかったら、親は自分自身にしてみることだ。子ど
もにすべき教育ではない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(455)

●人生の後悔

 ときどき自分の過去を振りかえり、「しまった!」と思うことがある。このところ、それがふえて
きた。

 「後悔」という言葉がある。私にとっての後悔は、K社という放送会社で、犬のようにペコペコ
とシッポを振って仕事をしていたこと。たいした才能(タレント性)があったわけではないのに、
「何かある」という見返りだけをいつも期待しながら、結局は、五年以上、あの会社で働いてし
まった。

会社に問題があるというよりは、K社の人たちである。まさに受験競争を勝ち抜いてきただけと
いう人ばかりで、しかも目が上ばかり向いていた。その上、中央意識が強く、権威主義で、どの
人もいばっていた。多少の収入は得たが、総合すれば、働いた時間掛けるパートタイムの時
間給より、少なかったのでは? 皮肉なことに、儲けたといえば、そのK社の株で儲けたお金
のほうが多かったように思う。情報だけは、あれこれ入ったし、私は社員ではなかったから、株
を買うことができた。

 時間をムダにした……。今でも、あの時代を思い出すと、そんな思いが、ぐっと胸をしめつけ
る。私にはもっとほかにすべきことがあった。できることがあった。もっともそれはK社の責任で
はない。私が愚かだった。無知だった。それに今、こうして後悔するのは、自分自身の残りの
人生が、「少なくなった」と思えるほどまでに、押し迫ってきたからだ。いや、それだけではない。

私はときどき、「忙しいですか?」と人に聞かれる。そういうとき私は、「忙しくはないですが、時
間がありません」と答える。そこに遠い道があるのを知れば知るほど、その時間がないのを知
る。その時間を、あまりにもムダにしすぎた。

 が、本当に私を「しまった!」と思わせるのは、そのことではない。ここに書いたように、「シッ
ポを振ってしまった」ということ。関係の社員には、盆暮れのつけ届けを欠かしたことがない。
一方、彼らはまた、弱い立場の私を見越して、さんざん私を利用した。延べにすれば、一〇〇
人以上もの社員が、飲み食いをするだけのために、この浜松へやってきた。

もちろんこちらが望んで接待したこともあるが、ほとんどは一方的なものだった。そういう人た
ちを接待しながら、「犬」のように振る舞った自分を、今、ただただ後悔する。

 考えてみれば、彼らとて、K社という看板を背負っただけの、ただの「人」。私はそれにもっと
早く気づくべきだった。戦後の高度成長期に、私たち日本人は、「大企業」についてある種の幻
想をいだいた。その社員にも、同じような幻想をいだいた。つまり考えてみれば何のことはな
い。私自身も、その幻想にとりつかれていた。いや、大企業はともかくも、そこで働く社員たち
が、それだけ高次元な人たちかということになれば、そういうことはまったくない。あるはずもな
い。

 この文を最後に、私はK社のOBの人も含めて、K社の人たちすべてと、絶縁する。二度とあ
のK社の玄関をくぐることはない。さようなら!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(456)

●薬物の使用は個人の自由?

 文部科学省の調査によれば、覚せい剤などの薬物使用について、「他人に迷惑をかけてい
ないので、個人の自由」とする割合は、つぎのようであったという(平成一二年、小学校の高学
年、中高校生生、計七三〇〇〇人について、一一月調査)。

 高校一年生……一〇・七%
 高校二年生……一一・五%
 高校三年生……一三・〇%、と。

 学年があがるごとに、割合が高くなるが、同様の傾向は、高校生女子のほか、小中学生でも
みられる。つまり、学年があがるにつれて、「心のタガ」がよりはずれるということ? 同じ調査
によれば、「薬物を使ったり、もったりすることを『悪いことだ』と答えた高校生はつぎのようであ
った。

 高校一年生……五九・九%
 高校二年生……五七・二%
 高校三年生……五五・六%、と。

 反対に、学年があがるごとに、割合が低くなっている。

 よく「日本はアメリカとくらべて、薬物を使用する子どもが少ない。自由主義のアメリカのほう
が、かえって善悪の判断のできない子どもにする」と言われる。しかしこの日本で、たまたま薬
物の使用が少ないのは、子どもたちの善悪の判断によるものというよりは、取り締まりのきび
しさによるところが大きい。もし仮に、アメリカ並に、薬物が一般社会に蔓延(まんえん)するよ
うになったら、日本の若者たちは、はるかに急速に薬物に浸透していくと思われる。ひとつの例
として、援助交際と呼ばれる「売春」がある。

 問題は、学年が高くなるにつれて、なぜこうした「善悪」の判断にうとくなり、また自分にブレー
キをかけることができなくなるか、である。神戸大学のK教授は、「さまざまな悩みをかかえる高
校生が、薬物使用に共感できる部分があるいからだろう」(日本教育新聞))とコメントを寄せて
いるが、私はもっと問題の「根」は深いと思う。これについては、また別の機会に考えてみるこ
とにする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(457)

●善玉依存心、悪玉依存心

 人間は、何かに依存しなければ生きていかれない、か弱き存在なのか。もちろんその程度
は、人さまざま。何かにどっぷりと依存しながら生きている人もいれば、そうでない人もいる。し
かし本当の問題は、何に依存するか、だ。

 その依存心には、善玉依存心と悪玉依存心がある。悪玉のほうが話しやすいので、悪玉依
存心について先に書く。

モノ、金、地位、名誉、財産など、自分を離れたものに依存するのを、悪玉依存心という。家
柄、宗教に依存するもの、これに含めてよい。このタイプの依存は、その対象物がゆらいだと
き、自分自身もゆらぐという心配がある。これは極端な例だが、熱心な信仰者が、その信仰に
疑問をもったとき、精神的な混乱(狂乱)状態になることはよく知られている。

 しかし自分自身に依存するのには、そういう心配はない。そういう意味で、自分自身に依存す
ることを、善玉依存心という。こんなことがある。

 私はときどき講演している最中に、多くの聴衆を前にして、ふとこんなことを思う。「どうして私
がこんなところに立っているのだろう」と。私には私を背後から支える、名誉も地位も肩書きも
ない。何もない。そういう私が、なぜ立っているか、と。

そういうときかろうじて私を支えているのは、「私ほど、子育ての現場を踏んだ人間はいない」と
いう思いと、「私は今朝も朝、五時から原稿を書いたではないか。そんなことをしている人間が
ほかにいない」というなぐさめである。そのつど、心のどこかで自分を励ましながら、自分を立て
なおす。

自分に依存するというのは、だれにも「私の中から私を奪えない」ということ。そういう意味で
は、強い。悪玉依存心と違って、なくすことを心配する必要はない。裏切られることもない。だ
から……と書くと、手前味噌のようになってしまうが、同じ依存心をもつなら、善玉依存心のほ
うがよいに決まっている。

 で、問題は、夫(あるいは妻)や、子どもに依存するのはどうかという問題。私たちは依存した
くなくても、いつの間にか依存することになるかもしれないが、原則としては依存しないほうがよ
いのでは……? 家族については、どうなのかという問題については、まだ私にもよくわからな
いので、また別の機会に考えることにする。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(458)

●短絡的な子育て法

大阪にある、とあるリトルリーグでの光景。子どもたちが広いグランドで、野球をしている。掛け
声だけは一人前? 独特のホーホーという声を空になびかせて、練習に励んでいる。しかし…
…。

 監督やコーチへの接待、食事の用意はもちろんのこと、準備もあと始末も、すべて同行して
いる母親たちの役目。子どもたちがグランドへ入るころには、ベースも並べられ、ボールも用
意されている。試合が終われば終わったで、それを片づけるのも、母親たちの役目。そういう
姿を見て、大阪市で幼稚園を経営しているS氏は、こう言った。「何かがおかしいですね」「高校
の野球部で監督をしている友人がね、『リトルリーグで育った部員は、扱いにくい』と言ってまし
たよ」と話してくれた。

S氏によれば、そういう「甘い環境」で育った子どもは、野球はうまいかもしれないが、「何もで
きない」のだそうだ。

 「もっと子どもにきびしくせよ」という意見が、今、あちこちからわきあがっている。武士道や、
スパルタ方式の教育法を説く人もいる。わがままで自分勝手な子どもがふえてきたことが、そ
の理由である。しかし頭からこういうことを、子どもに押しつけても、意味はない。もっとはっきり
言えば、あまりにも短絡的。

 子どもがわがままで、自分勝手になったのには、もっと別の理由や原因がある。そういう理由
や原因を考えないで、現象面だけをみて、いきなり「きびしくせよ」というのは、どうか? たとえ
ばこの日本では、「あと片づけ」にはうるさいが、「あと始末」には、甘い。

たとえば子どもが食事をしたあと、その食器を洗わせる、フキンでふかせる、食器棚にしまわ
せる親は少ない。風呂から出るときも、タオルを洗わせる、アワを流させる、タブにフタをさせる
親は少ない。起きたときも、ベッドをなおさせる、パジャマをたたませる親は少ない。こうした家
庭教育は、日本以外の世界では常識なのだが、この日本ではしない。とくに男性や子どもが、
ひどい。

今でも「男は仕事だけしていればいい」とか、「子どもは勉強だけをしていればいい」と考えてい
る人は、母親も含めて多い。これだけが理由ではないが、こうしたスキをついて、子どもは、ド
ラ息子化、ドラ娘化する。

 短絡的なものの考え方は、一見、威勢がよく、わかりやすい。が、えてしてものの本質を見誤
らせる。中には、大声で怒鳴り散らし、親や子どもを罵倒しながら、子どもの不登校をなおす人
もいるそうだ。しかしその陰で、どれほど子どもは心をゆがめることか。一五年ほど前にも、Tヨ
ットスクールというのがあった。海に中へ子どもを突き落として、子どもの心を「なおす」(?)と
いうスクールだった。そのため何人かの死者も出たのだが、ときどきこういう「とんでもない教
育法」(?)が、世に現れては消える。

 みなさんも、どうか、こうした教育法には、くれぐれも注意してほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(459)

●バーチャルリアリィティの世界(ショートストーリィ)

 講演会場へ入ったら、たまたまどこかの劇団がリハーサルをしていた。予定の時刻まで、ま
だ時間があった。私はそのリハーサルを、うしろのほうの席で見ることにした。神様をテーマに
した、風刺劇のようだった。中央に身をかがめた神様らしき人を、多くの若者が取り囲んで、何
やら大声で叫びあっていた。

 ふと人の気配を感じてうしろを見ると、一人の同年齢の男がそこにすわっていた。瞬間、目と
目があった。少し座席の位置が高かったこともある。私を見おろすようにして、「あなたは?」と
その男は私に聞いた。私も劇団の関係者だと思ったらしい。そこで私が、「いえ、夕方ここで講
演することになっているものです」と言うと、その男は返事もしないで、そのまま黙ってしまった。

 舞台では、ひっきりなしに会話が飛び交っていた。いわゆる「劇団演技」といわれるもので、ど
こかわざとらしく、どこか不自然な演技だった。一人の男がこう叫んだ。「神は幻想だ」「神こ
そ、我々の発明品だ」と。

 どれくらい時間が流れただろうか。三時からは、私たちがその会場を使うことになっている。
時計を見ると、その三時になるところだった。また人の気配を感じてうしろを見ると、先ほどの
男が席を立つところだった。また視線があったので、軽く会釈すると、再びその男が私に話し
かけてきた。

 「あなたは神か?」と。この質問には驚いたが、私は「あなたがそう思うのなら、それに近い」
と言ってしまった。言うべき言葉ではなかった。するとその男は、またあの笑みを浮かべて、こ
う言った。

 「あんたのような頭のおかしい人間がいるから、世の中がおかしくなる。だいたい神などという
ものは、存在しない。この見えるもの、感ずるもの、聞こえるものが、すべて。それを現実とい
う。あなたのような神ぶったインテリこそ、人間の敵だ」

 能弁な男だった。私が「それがこの劇のテーマですか」と聞くと、「そうだ」と。そして席を立ち
ながら、こう言った。まさに神すらも恐れない、ふてぶてしい言い方だった。「あんたは本物のバ
カだよ。ここで講演の講師をするらしいが、あんたのようなバカがする講演に、どれだけの意味
があるというのか」と。そこで私が、「あなたの見ている世界が、すべて幻想だったら、あなたは
どうしますか」と聞くと、「バカな……ありえない」と。

 そこで私はぐっと息を吸い込んだ。ときどき、夢を見ながら、それが夢だと気づくときがある。
そのときがそうだった。そして目をゆっくりと開いた。白い光が視界全体に広がった。先ほどの
男の動きが止まったと思うと同時に、その顔が光に包まれた。私はさらに大きく目を開いた。
朝だった。時計の時刻は七時半を示していた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(460)

●見えない過去

 あなたの、ごく日常的な生活を、できれば他人の目で観察してみてほしい。「私は私」と決め
てかかる前に、謙虚な気持ちで、観察してみてほしい。そのとき、あなたはそれでも、「私は私」
と言いきることができるだろうか。

 私たちは無数の過去をもっている。もっているだけならまだしも、その過去に引きずりまわさ
れている。つまり日常的な生活というのは、あくまでもその結果でしかない。たとえば……。

 NHKに『ひるどき、日本』という番組があった。司会者とタレントが、地方を訪れ、その地方の
名物や名物料理を楽しむという番組であった。私はあの番組が、どうしても好きになれなかっ
た。しばらく見ていると、やがて不愉快になった。が、長い間、その理由がわからなかった。
が、ある日、その理由に気づいた。

 私は若いころ、あるテレビ放送局で下請けの仕事を手伝ったことがある。そのときのこと。私
は「いつか、大きな仕事をさせてもらえるのではないか」「テレビの表舞台に立たせてもらえる
のではないか」という期待をもっていた。そのため、犬のようにシッポを振った。いや、まさに犬
そのものだった。

 一方、テレビ局の人たちは、そういう私の「下心」を見抜いていた。そして何だかんだと理由を
つけては、この浜松へやってきた。いわゆる「たかり」である。私は内心ではそれと知りつつも、
飲み食いの接待はもちろんのこと、さらには宿泊のめんどうまでみた。短い期間だったが、延
べにすれば、一〇〇人以上もの人を接待しただろうか。が、結局は利用されただけ。

 あの『昼どき、日本』を見ているとき、私は無意識のうちにも、あの当時の「東京人」のずうず
うしさを思い出していたのかもしれない。慣れた口調で、ぺラぺラと調子のよいことを言って、
地方の人間をおだてる。「おしいですね」「こんなところに住んでみたいですね」「空気は新鮮
で、うらやましい」と。地方の人間は地方の人間で、その言葉に乗せられるまま、相手がNHK
の人間というだけで、手厚くもてなす。……それはまさに、自分自身の姿でもあった。

 これはほんの一例だが、私たちはそのつど、過去のわだかまりにこだわりながら生きてい
る。ひょっとしたら、「私」という部分のほうが少ないのかもしれない。趣味や好みはもちろんの
こと、不安になったり、悩んだり、苦しんだりすることも、すべて、どこかで過去のこだわりにつ
ながっている。そこでもあなたが、心のどこかに「自分でない私」を見つけたら、それが自分の
過去とどこかで結びついていないかをさぐってみるとよい。何か、あるはずである。私はそれを
「見えない過去」と呼んでいる。その過去に気づくことは、自分を知る、第一歩でもある。それは
ある意味で、こわいことかもしれないが、勇気を出して、自分を見つめてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(461)

●子を思う、親心

 遠くに離れて暮らす息子や娘に、(1)「帰ってきてくれ」とそのつど懇願する親もいれば、(2)
「親や家のことは心配しなくてもいいから、帰ってくるな」と言い放つ親もいる。あなたというよ
り、あなたの親は、どちらのタイプだろうか。

 少し乱暴な結論かもしれないが、それを先に言えば、子離れできず、依存心の強い親は、
(1)のタイプということになる。旧来型の日本人は、たいていこのタイプとみてよい。一方、独立
心が旺盛で、前向きに生きている親は、(2)のタイプということになる。

【依存型の親】自分でもだれかに依存したいという、潜在的な願望が、無意識にも、子どもの依
存性を容認するようになる。このタイプの親は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい
子イコール、よい子とする。そしてそのつど、これまた無意識のうちにも、子どもに対して、「産
んでやった」「育ててやった」と、恩を着せる。(子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもら
った」と言うようになり、さらに「親のめんどうをみるのは子の役目」などと公言したりする。自分
自身が、マザコンになっているケースも多い。)

【非依存型の親】子育てをしながらも、じょうずに子離れをする。「私の人生は私のもの」という
考え方が強く、その一方で、子どもには、「あなたの人生はあなたのもの」という考え方をする。
外国で活躍している息子に対して、「私が死ぬまで、日本に帰ってくるな」と言いつけた親もい
た。このタイプの親は、自分の子どもが自分のために犠牲的になるのを、望まない。そういう犠
牲的な姿をみると、かえってそれをつらく思ったりする。

 あなたや、あなたの親がどちらのタイプであるにせよ、これは意識の中でも、脳のCPU(中央
演算部)にかかわる問題。だからたがいに、たがいが理解できない。(1)のタイプの親からみ
れば、遠くで生活する子どもを、「親不孝な子ども」ととらえる。一方、(2)のタイプの親からみ
れば、(1)の親の心が理解できない。どちらも「親心」が基本にはなっているとはいうものの、
依存性があるかないかで、子どもへの対処のし方が、一八〇度違う。

 さてさて、あなたというより、あなたの親は、どちらのタイプだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(462)

●自然教育について

 「自然を大切にしましょう」「自然はすばらしい」という意見を聞くたびに、私は「日本人は、どう
してこうまでオメデタイのだろう」「どうしてこうまで井の中の蛙(かわず)で、世間(=世界)知ら
ずなのだろう」と思ってしまう。

 外国を歩いてみると、彼らの自然観は、日本人と一八〇度違うのがわかる。日本以外のほと
んどの国では、自然は人間に害を与える、戦うべき相手なのだ。ブラジルでもそうだ。彼らはあ
のジャングルを「愛すべき自然」とはとらえていない。

彼らにすれば、自然は、「脅威」であり、「敵」なのだ。このことはアラブの砂漠の国へ行くと、も
っとはっきりする。そういう国で、「自然を大切にしましょう」「自然はすばらしい」などと言おうも
のなら、「お前、アホか?」と笑われる。

 日本という国の中では、自然はいつも恵みを与えてくれる存在でしかない。そういう意味で、
たしかに恵まれた国だと言ってもよい。しかしそういう価値観を、世界の人に押しつけてはいけ
ない。そこで発想を変える。

 オーストラリアの学校には、「環境保護」という科目がある。もう少しグローバルな視点から、
地球の環境を考えようという科目である。そして一方、「キャンピング」という科目もある。私が
ある中学校(メルボルン市ウェズリー中学校)に、「その科目は必須(コンパルサリー)科目です
か」と電話で問いあわせると、「そうです」という返事がかえってきた。このキャンピングという科
目を通して、オーストラリアの子どもは、原野の中で生き抜く術(すべ)を学ぶ。ここでも、「自然
は戦うべき相手」という発想が、その原点にある。

 もちろんだからといって、私は「自然を大切にしなくてもいい」と言っているのではない。しかし
こういうことは言える。だいたい「自然保護」を声高に言う人というのは、都会の人だということ。
自分たちでさんざん自然を破壊しておいて、他人に向かっては、「大切にしましょう」と。

破壊しないまでも、破壊した状態の中で、便利な生活(?)をさんざん楽しんでいる。こういう身
勝手さは、田舎に住んで、田舎人の視点から見るとわかる。ときどき郊外で、家庭菜園をした
り、植樹のまねごとをする程度で、「自然を守っています」などとは言ってほしくない。そういう言
い方は、本当に、田舎の人を怒らせる。

そうそう本当に自然を大切にしたいのなら、多少の洪水があったくらいで、川の護岸工事など
しないことだ。自然を守るということは、自然をあるがまま受け入れること。それをしないで、
「何が、自然を守る」だ!

 自然を大切にするということは、人間自身も、自然の一部であることを認識することだ。この
ことについては、書くと長くなるので、ここまでにしておくが、自然を守るということは、もっと別の
視点から考えるべきことなのである。






ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(463)

●自然教育について(2)

 世界の中でも、たまたま日本が、緑豊かな国なのは、日本人がそれだけ自然を愛しているか
らではない。日本人がそれを守ったからでもない。浜松市の駅前に、Aタワーと呼ばれる高層
ビルがある。ためしにあのビルに、のぼってみるとよい。四〇数階の展望台から見ると、眼下
に浜松市が一望できる。

が、皮肉なことに、そこから見る浜松市は、まるでゴミの山。あそこから浜松市を見て、浜松市
が美しい町だと思う人は、まずいない。

 このことは、東京、大阪、名古屋についても言える。ほうっておいても緑だけは育つという国
であるために、かろうじて緑があるだけ。「緑の破壊力」ということだけを考えるなら、日本人が
もつ破壊力は、恐らく世界一ではないのか。今では山の中の山道ですら、コンクリートで舗装
し、ブロックで、カベを塗り固めている。そういう現実を一方で放置しておいて、「何が、自然教
育だ」ということになる。

 私たちの自然教育が自然教育であるためには、一方で、日本がかかえる構造的な問題、さ
らには日本人の思考回路そのものと戦わねばならない。構造的な問題というのは、市の土木
予算が、二〇〜三〇%(浜松市の土木建設費)もあるということ。日本人の思考回路というの
は、コンクリートで塗り固めることが、「発展」と思い込んでいる誤解をいう。

たとえばアメリカのミズリー川は、何年かに一度は、大洪水を起こして周辺の家屋を押し流して
いる。二〇〇〇年※の夏にも大洪水を起こした。しかし当の住人たちは、護岸工事に反対して
いる。理由の第一は、「自然の景観を破壊する」である。そして行政当局も、護岸工事にお金
をかけるよりも、そのつど被害を受けた家に補償したほうが安いと計算して、工事をしないでい
る。今、日本人に求められているのは、そういう発想である。

 もし自然教育を望むなら、あなたも明日から、車に乗ることをやめ、自転車に乗ることだ。ク
ーラーをとめ、扇風機で体を冷やすことだ。そして土日は、山の中をゴミを拾って歩くことだ。少
なくとも「教育」で、子どもだけを作り変えようという発想は、あまりにもおとなたちの身勝手とい
うもの。そういう発想では、もう子どもたちを指導することはできない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(464)

●自然教育について(3)

 五月の一時期、野生のジャスミンが咲き誇る。甘い匂いだ。それが終わると野イチゴの季
節。そしてやがて空をホトトギスが飛ぶようになる……。

 浜松市内と引佐町T村での二重生活をするようになって、もう六年になる。週日は市内で仕
事をして、週末はT村ですごす。距離にして車で四〇分足らずのところだが、この二つの生活
はまるで違う。市内での生活は便利であることが、当たり前。T村での生活は不便であること
が、当たり前。大雨が降るたびに、水は止まる。冬の渇水期には、もちろん水はかれる。カミナ
リが落ちるたびに停電。先日は電柱の分電器の中にアリが巣を作って、それで停電した。道路
舗装も浄化槽の清掃も、自分でする。

こう書くと「田舎生活はたいへんだ」と思う人がいるかもしれない。しかし実際には、T村での生
活の方が楽しい。T村での生活には、いつも「生きている」という実感がともなう。庭に出したベ
ンチにすわって、「テッペンカケタカ」と鳴きながら飛ぶホトトギスを見ていると、生きている喜び
さえ覚える。

 で、私の場合、どうしてこうまで田舎志向型の人間になってしまったかということ。いや、都会
生活はどうにもこうにも、肌に合わない。数時間、街の雑踏の中を歩いただけで、頭が痛くな
る。疲れる。排気ガスに、けばけばしい看板。それに食堂街の悪臭など。いろいろあるが、とも
かくも肌に合わない。田舎生活を始めて、その傾向はさらに強くなった。

女房は「あなたも歳よ…」というが、どうもそれだけではないようだ。私は今、自分の「原点」にも
どりつつあるように思う。私は子どものころ、岐阜の山奥で、いつも日が暮れるまで遊んだ。魚
をとった。そういう自分に、だ。

 で、今、自然教育という言葉がよく使われる。しかし数百人単位で、ゾロゾロと山間にある合
宿センターにきても、私は自然教育にはならないと思う。かえってそういう体験を嫌う子どもす
ら出てくる。自然教育が自然教育であるためには、子どもの中に「原点」を養わねばならない。
数日間、あるいはそれ以上の間、人の気配を感じない世界で、のんびりと暮らす。好き勝手な
ことをしながら、自活する。そういう体験が体の中に染み込んではじめて、原点となる。

 ……私はヒグラシの声が大好きだ。カナカナカナという鳴き声を聞いていると、眠るのも惜しく
なる。今夜もその声が、近くの森の中を、静かに流れている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(465)

●ゆがんだ自然観

 もう二〇年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。「夜空の星
は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよう」と。この
詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。

小さな虫を見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多
い。自然教育が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこ
ない。

 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、
人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかっ
た。が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベ
ーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには一七四
〇年に始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、
「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。が、戦後、アメリカ型社
会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、日本を支配した。その顕
著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんどん破壊された。埼玉県で
は、この四〇年間だけでも、三〇%弱の森林や農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて
考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。

もっと言えば、人間も自然の一部でしかないという事実の再認識である。さらにもっと言えば、
山の中に道路を一本通すにしても、そこに住む動物や植物の了解を求めてからする……とい
うのは無理としても、そういう謙虚さをもつことである。少なくとも森の中の高速道路を走りなが
ら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にしましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手
さは、もう許されない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(466)

●日本の常識、世界の非常識

●「子はかすがい」論……たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよく
ある。夫婦のきずなも、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならな
い。夫婦関係がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、
子はまさに「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。

●「親のうしろ姿」論……生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では
「子は親のうしろ姿を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がい
る。「親のうしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見
せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)
恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとす
る。

●「親の威厳」論……「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場に
いるものには、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。
その分だけ上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというも
のは、百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権
威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。

●「育自」論……よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちが
ってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越
え、谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん
人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係
のないこと。子育てにかこつける必要はない。

●「親孝行」論……安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的
な「孝行」を子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも
子どもの問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。た
がいにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲にな
るのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。あくまでも「尊敬する」「尊
敬される」という関係をめざす。

●「産んでいただきました」論……よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきまし
た」「言葉を教えていただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そう
いうふうに思わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして
恩着せがましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わさせてしまう。いわゆ
る依存型子育てというのが、それ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(467)

●日本の常識、世界の非常識(2)

●「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっ
ているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=
巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわ
からないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ
伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いこと
をしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ一九歳の舞妓を、「仕事のこやし」と称して、
手玉にして遊ぶこともできる。

●「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。そ
の背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」
と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食
い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすと
いうことは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、
ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

●「森進一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民
族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい
人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論に
はじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分の
マザコン性を正当化する傾向がある。

●「かあさんの歌」論……窪田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)
は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待
ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙
を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買
っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村の
みんなと温泉に行ってくるよ」だ。

●「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いら
れた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるま
でもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約二
三%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、二三・三%もいることがわかった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(468)

●「♪おくふろさん」論

 森進一が歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし
……。日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日
本人独特の子育て法と言ってもよい。

あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たちは、子どもに依存心をもたせるのに、あ
まりにも無関心すぎる」と言った。そして結果として、日本では昔から、親にベタベタと甘える子
どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独立心が旺盛な子どもを、「鬼っ子」として
嫌う。

 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。親が子どもに対して保護意
識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するようになる。こんな子ども(年中男
児)がいた。

生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ着はもちろん
のこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげたまま、教室に戻って
きたりする。あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出すこともできな
い。できないというより、じっと待っているだけ。

多分、家でそうすれば、家族の誰かが助けてくれるのだろう。そこであれこれ指示をするのだ
が、それがどこかチグハグになってしまう。こぼしたミルクを服でふいたり、使ったタオルをその
ままゴミ箱へ捨ててしまったりするなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系の家庭で
は、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え
方が徹底している。こんなことがあった。

一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこと。そのとき母親は本を読んでいたのだ
が、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてきた。母親はひととおり娘の話に耳を傾け
たあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるのよ。じゃましないでね」と。

 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させる
こと」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。そこであなたの子どもはどう
だろうか。依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というのが、そ
れである。

たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすいたア〜(だから何
とかしてくれ)」と言う。ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。もう少し依
存心が強くなると、こういう言い方をする。私「この問題をやりなおしなさい」子「ケシで消してか
らするのですか」私「そうだ」子「きれいに消すのですか」私「そうだ」子「全部消すのですか」私
「自分で考えなさい」子「どこを消すのですか」と。実際私が、小学四年生の男児とした会話であ
る。こういう問答が、いつまでも続く。

 さて森進一の歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ
……」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、
日本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(469)

●夫婦の別称制度

 日本人の上下意識は、近年、急速に崩れ始めている。とくに夫婦の間の上下意識にそれが
顕著に表れている。内閣府は、夫婦別姓問題(選択的夫婦別姓制度)について、次のような世
論調査結果を発表した(二〇〇一年)。

それによると、同制度導入のための法律改正に賛成するという回答は四二・一%で、反対した
人(二九・九%)を上回った。前回調査(九六年)では反対派が多数だったが、賛成派が逆転。
さらに職場や各種証明書などで旧姓(通称)を使用する法改正について容認する人も含めれ
ば、肯定派は計六五・一%(前回五五・〇%)にあがったというのだ。

調査によると、旧姓使用を含め法律改正を容認する人は女性が六八・一%と男性(六一・
八%)より多く、世代別では、三〇代女性の八六・六%が最高。別姓問題に直面する可能性が
高い二〇代、三〇代では、男女とも容認回答が八割前後の高率。「姓が違うと家族の一体感
に影響が出るか」の質問では、過半数の五二・〇%が「影響がない」と答え、「一体感が弱ま
る」(四一・六%)との差は前回調査より広がった。

ただ、夫婦別姓が子供に与える影響については、「好ましくない影響がある」が六六・〇%で、
「影響はない」の二六・八%を大きく上回った。調査は二〇〇一年五月、全国の二〇歳以上の
五〇〇〇人を対象に実施され、回収率は六九・四%だった。なお夫婦別姓制度導入のための
法改正に賛成する人に対し、実現したばあいに結婚前の姓を名乗ることを希望するかどうか
尋ねたところ、希望者は一八・二%にとどまったという。

わかりやすく言えば、若い人ほど夫婦別姓に賛成だということだが、夫婦別姓が問題になるこ
と自体、私たちの世代では考えられないことであった。「結婚した女性は、その家に入るもの」
という考え方が、常識でもあった。言いかえると、今、私たちが経験しつつある変化は、まさに
革命的とも言えるものである。それこそ一〇〇〇年単位でつづいた日本の常識が、ここでひっ
くり返ろうとしている。そうした目で、この問題を考える必要がある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(470)

●マザコン型人間

 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。こ
のうち本能的な愛と代償的愛に溺れた状態を、溺愛という。そしてその溺愛がつづくと、いわゆ
る溺愛児と呼ばれる子どもが生まれる。

 その溺愛児は、たいていつぎのような経過をたどる。ひとつはそのまま溺愛児のままおとな
になるタイプ。もうひとつは、その途中で、急変するタイプ。ふつうの急変ではない。たいていは
げしい家庭内暴力をともなう。

 で、そのまま進むと、いわゆるマザーコンプレックス(マザコン)タイプのおとなになる。おとな
になっても、何かにつけて、「ママ、ママ」とか、「お母さん、お母さん」と言うようになる。このマザ
コンタイプの人の特徴は、(1)マザコン的であることを、理想の息子と思い込むこと。(圧倒的
に母と息子の関係が多いので、ここでは母と息子の関係で考える。)それはちょうど溺愛ママ
が、溺愛を、「親の深い愛」と誤解するのに似ている。そして献身的かつ犠牲的に、母親に尽く
すことを美徳とし、それを他人に誇る。これも溺愛ママが、自分の溺愛ぶりを他人に誇示する
のに似ている。

 つぎに(2)自分のマザコンぶりを正当化するため、このタイプの男性は、親を徹底的に美化
しようとする。「そういうすばらしい親だから、自分が親に尽くすのは、正しいことだ」と。そういう
前提を自分の中につくる。そのために、親のささいな言動をとらえて、それをおおげさに評価す
ることが多い。これを「誇大視化」という。「巨大視化」という言葉を使う人もいる。「私の母は、
○○のとき、こう言って、私を導いてくれました」とかなど。カルト教団の信者たちが、よく自分た
ちの指導者を誇大視することがあるが、それに似ている。「親孝行こそ最大の美徳」と説く人
は、たいていこのタイプの男性とみてよい。G氏(五四歳男性)もそうだ。

何かにつけて、一〇年ほど前に死んだ自分の母親を自慢する。だれかが批判めいたことを言
おうものなら、猛烈にそれに反発する。あるいは自分を悪者にしたてても、死んだ母親をかば
おうとする。

 マザコンタイプの人は、自分では結構ハッピーなのだろうが、問題は、そのため、たいていは
夫婦関係がおかしくなる。妻が、夫のマザコンぶりに耐えられないというケースが多い。しかし
悲劇はそれで終わらない。マザコンタイプの夫は、自分でそれに気づくことは、まずない。「親
をとるか、妻をとるか」と迫られたりすると、「親をとる」とか、「当然、親」と答えたりする。

反対に妻に、「親のめんどうをしっかりみてくれなければ、離婚する」などと言うこともある。そも
そも結婚するとき、婚約者に「(私と結婚するなら)親のめんどうをみること」というような条件を
出すことが多い。親は親で、そういう息子を、できのよい息子と喜ぶ。あとはこの繰り返し。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(471)

●マザコン・テスト

 つぎの一二の質問項目のうち、六つ以上、当てはまれば、かなりのマザコン人間とみてよ
い。(権威主義的なものの考え方が混在しているタイプのマザコン人間)

( )いつも生活の中心に親がいる。親がいないと何も始まらないという感じ。重要なことは、何
でも親に相談したり、報告したりする。
( )「親は絶対」という意識が強く、親に反抗したり、親を粗末にするということは、考えられな
い。献身的かつ犠牲的な親孝行をするのが、子どもの務めと考えている。
( )「親を選ぶか、妻を選ぶか」という択一に迫られたようなとき、「親!」と当然のように考え
る。そういう意味では、妻は、親の前では家政婦のような存在でしかない。
( )親の悪口を言ったりする人を許さない。あるいは徹底的に反論し、それを「息子のカガミ」
と、かえって他人に誇示することが多い。
( )常日ごろから、「産んでいただきました」「育てていただきました」と、親に感謝することを美
徳とする。また自分の息子や娘にも、同じように思うように求める。
( )親を喜ばすことを、最大の目標とし、一方親は親で、そういう息子を、「親孝行で、できのい
い息子」と評価することが多い。
( )家庭や家族の中での上下意識が強く、自分の親には服従的である一方、自分の子どもが
反抗したりすると、「親に向かって何だ!」というような言い方をする。
( )妻や家族といるよりも親といるほうが、なごやかな雰囲気になり、安心しているような様子
や表情を見せる。
( )自分の妻よりも、母親のほうに、より広く心を開くことができる。悲しいことやつらいことが
あると、妻に相談するよりも先に、母親に相談することが多い。
( )森進一の「おふくろさん」を聞いたりすると、涙を流さんばかりに感動したり、それを「すばら
しい歌」と評価する。
( )親の間では、まさに「子ども」といった感じになる。親は親で、まるで子ども扱いをし、またそ
う扱われることを当然と納得している。
( )親を必要以上に美化することが多い。親のささいな部分をとらえて、親のすばらしさ、ある
いは自分の親のすばらしさを強調する。

 こうしたマザコン人間に、それを指摘すると、猛烈に反発するので、注意すること。マザコンで
あること自体が、その人の人生観の基本になっていることが多い。したがって妻の立場でいう
なら、仮に夫がマザコン人間であるなら、それを受け入れるしかない。この問題は対処のし方
をまちがえると、たいへんな家庭騒動に発展する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(472)

●いかに子離れするか

 いかに子どもを育てるかという問題と、いかに子離れするかという問題は、本来、同等のも
の。しかしこの日本では、後者(子離れ)は、なおざりにされ、むしろ、親は子離れなどすべきで
はないという考え方が支配的である。「親子の縁は切れるものいではない」という言い方をする
人もいる。そしてその返す刀で、子どもが親離れすることを、「悪」と決めてかかる。あるいはそ
れを許さない。

 こうした風習は、地方の山村地域ほど顕著で、私が生まれ育った岐阜県の地方では、親に
ベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。そして独立心が旺盛で、
親を親とも思わない子どもを、鬼ッ子として忌(い)み嫌う。こうした傾向は、旧来型の日本の社
会ではふつうに見られることで、多かれ少なかれ、ほとんどの日本人に残っている。そしてそれ
が全体として、日本独特の親子関係をつくる。

 たとえば日本人は子どもを育てるとき、子どもによい思いをさせることが、親子のきずなを太
くする方法のひとつと考える。またそうすることで、子どもは親に感謝しているはずと考える。た
がいの依存心を何よりも大切にする。(甘え、甘えられる)関係といってもよい。それがあるべ
き親子の理想の姿と考えている人も多い。

 一般論として、子どもが依存心をもつことに無トンチャンクな親というのは、自分自身も潜在
的に、だれかに依存したいという潜在的な願望をもっている。つまりその潜在的な願望が、子
どもの依存心に甘くなるというわけである。そしてそれがさらに全体として、日本型の子育て法
として、親から子へと、代々と受けつがれていく……。

 が、ここにきて、その「流れ」に大きな変化がみられるようになった。若い世代を中心に、欧米
型の個人主義が台頭し、旧来型の親子関係を否定する動きである。尾崎豊の言葉を借りるな
ら、「しくまれた自由からの卒業」(「卒業」)ということになる。が、それは同時に、そのまま家庭
教育に混乱となってはねかえってきた。

結果として「家庭の教育力は低下した」(S県教育委員会)が、しかし実際には、家庭の教育力
は低下していない。むしろ教育力は高くなっている。親子のふれあいの時間は、四〇年前、三
〇年前とくらべても、飛躍的にふえている。問題は、教育力の低下ではなく、新しい価値観にな
じめない親たち、新しい価値観を認めない親たちにある。さらにもっと言えば、古い価値観を否
定はしたものの、それにかわる価値観を作りだすことができない親たちにある。

 話がそれたが、子どもを育てるということは、いかに子離れしていくかという、その一言に尽き
る。いつもこの二つの問題は、常に同時進行の形で、処理されるべき問題なのである。日本人
は子離れ、親離れの問題を、あまりにも軽んじてきた。論ずる人も、(私をのぞいて)いない。し
かしそれでは、今の日本をおおう、もろもろの問題は解決しない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(473)

●代償的不満

 ある女性がこう言った。「私の夫は、あと片づけをほとんどしません。親から、そういう教育を
受けていないからです」と。こういうのを代償的不満という。本来の不満を覆い隠しながら、別
の不満にすりかえる不満と考えればよい。で、どこが代償的不満?

 このケースのばあい、(夫があと片づけをしない)という不満が、本来の不満。しかしこの女性
は、それを(親からそういう教育を受けていない)という形にすりかえている。が、実のところ、こ
れも代償的不満。

 このケースのばあい、(夫そのものへの不満)、さらには、恐らく(夫の両親への不満)も、そ
の背景にある。つまりそうい不満が、姿を変えて、(教育を受けていない)(あと片づけしない)と
いう不満へとなっていった。

 こうした代償的不満は、子育ての世界では、ごくふつう見られる。よくあるケースが、学校の
先生に対する親の不満。「私の子どもの先生は、宿題の出し方が不規則で、気分的で困りま
す」など。こういうケースでは、その背景に、(自分の子どもをていねいにみてくれないという不
満)、さらには、恐らく(自分の子どもの学力が思うように伸びないという不満)も、ある。こうした
不満が、姿を変えて、先生への批判へとなっていく。

 また子どももそうだ。たとえば子どもは、塾などへ行きたくなくなると、「行きたくない」とは言わ
ない。そういうときは、塾の先生の悪口を言い始める。「まじめに教えてくれない」「えこひいきを
する」「さぼって雑誌を読んでいた」など。つまりそういうことを親に言いながら、親をして、「そん
ならやめなさい」と言うようにしむける。A君(小五)は、学校の先生に、「今度宿題をやってこな
かったら、親に電話する」と脅されたのがきっかけで、その日から毎日、学校の先生の悪口を
言うようになった。いわば先手を打ったということになるが、こうしたケースは日常茶飯事。 

 子どもの意見に耳を傾けるのは、大切なことだが、しかし本来の原因(問題)がどこにあるか
を判断することも忘れてはいけない。そのひとつのヒントが、ここでいう代償的不満。この言葉
を知っているだけでも、子どもの心がよりはっきりと読めるようになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(474)

●臨機応変に行動する

 私の印象に残っている事件に、こういうのがあった。

 ある日、自分の教室へ入ると、A組のA先生のチョーク箱が、起き忘れてあった。そこで園庭
で遊んでいた、ひとりの女の子(年長児)をつかまえて、そのチョーク箱を、A組のA先生のとこ
ろへもっていってくれるように頼んだ。その女の子は、「ハーイ」と元気な声でそれに応じてくれ
たが、心配だったのでその女の子を見ていると、その女の子は、またチョーク箱をもってかえっ
てきてしまった。

 そこで私が、「どうしてチョーク箱をもって帰ってきたの?」と聞くと、その女の子はこう言った。
「だって、A組に先生がいなかったもん」と。当時、園舎はコの字型の廊下になっていて、その
女の子が走っていく様子がよくわかった。その廊下で、帰ってくるとき、その女の子は、A先生
とすれちがっていた。そこでまた私が、「廊下ですれちがったとき、どうしてA先生に渡してくれ
なかったの?」と聞くと、その女の子はこう言った。「だって、先生は、教室にいなかったもん」
と。

 その女の子は、(A組でA先生に渡す)ということにこだわった。その気持ちはわからないでも
ないが、チョーク箱を渡すという目的からすれば、その女の子の行動は、どこか的がはずれて
いる。こういう例は、ほかにもある。

 B君が教室に忘れ物をしたときのこと。私は近くにいたC君(年長児)に「これをB君にもって
いってあげて」と頼んだ。C君はすぐ追いかけたものの、これまたすぐ戻ってきてしまった。「どう
したの?」と聞くと、C君はこう言った。「もういなかった」と。C君は、うわばきをはいていた。そ
れで「外(庭)へは出られなかった」と。C君は、B君を呼びとめようと思えば、それができたはず
である。しかしC君は、それを思いつかなかった?

 このタイプの子どもは、頭がかたいというふうにも考えるが、もうひとつは社会性の不足という
ことも考えられる。その場、その場で臨機応変にものを考えることができない。もっと言えば、
頭の中で大局的にものを考えることができない。言われたことは忠実にするが、「なぜ自分が
そうしなければならないか」、また「その目的は何か」ということが考えられない。

威圧的な過干渉、親の先走り、心配先行型の子育てが日常化すると、子どもは自分で考える
ことができなくなり、ここでいうような症状を示すようになる。

 もしあなたが「うちの子の行動は、いつもどこか的がはずれている」と感ずるなら、子どもの問
題というよりは、育てかたの問題と考え、反省する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(475)

●タレントの世界

 ときどき「タレントになりたい」という子どもがいる。そういうとき私は、「よしなさい」と言うことに
している。理由がある。

 私は若いころ、いろいろなテレビ番組の企画を書いていた。そのとき、ときどきモデルが必要
なときがあった。そのときのこと。これから先は、事実だけを書く。

 モデルが必要なときは、テレビ局の正面玄関とは別にある、裏玄関の掲示板に、メモを張
る。「Aショー、○月○日、水着モデル、一名」と。するとそのメモを、通称「人買いのおばちゃ
ん」という人が読み、あちこちからモデルを集めてくる。たいていは年配の女性がその仕事をし
ていたので、「おばちゃん」と呼んでいた。で、全国放送ともなると、一回の募集で、二〇〜三〇
人の若い女性が集まった。

 そういうときは、その場でオーディションを開く。N局のばあい、別棟の二階がそういう部屋に
あてられていた。その部屋の一室に、女の子たちを並べる。そしてディレクターが、こう声をか
ける。「ハーイ、上を脱いで!」と。すると女の子たちが、一斉に服を脱ぎ始める。中にはモジモ
ジしている女の子もいる。するとディレクターがつづいて、そういう女の子に対しては、「あんた
とあんたは、もう帰っていい」と。

 で、その中から、もっともスタイルのよい女の子を選ぶ。一度、裸にするのは、「テレビに出た
ときの度胸を試すため」だ、そうだ。が、ここで終わるわけではない。

 ある夜、その翌日出演予定の、Kというタレントとホテルの一室で打ち合わせをしていたとき
のこと。突然、連絡なしに、モデルの女の子がそのホテルへたずねてきた。人買いのおばちゃ
んに連れられてやってきた。一応「あいさつにきた」ということだったが、実は一夜をそのKとい
うタレントと過ごすためである。当時はそうしたあいさつ(?)は、半ば常識だった。つまりモデル
志望の女の子は、そういう形で、体を売りながら、マスコミの世界で自分の立場をつくってい
た?

 それから二五年になる。今は、状況も違うだろう。システムも変わったかもしれない。モデルと
かタレントとかいっても、いろいろなレベルの人がいる。だからみながみな、こうしたオーディシ
ョンやあいさつ(?)をしているわけではない。しかしその世界は、私たちがテレビ画面から見る
のとは大違い。少なくとも二五年前には、その背後ではドス黒い人間の欲望と、策謀が渦巻い
ていた。きれいか汚いかと言われれば、あれほど汚い世界はなかった。だから私は言う。「よし
なさい」と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(476)

●言葉教育

 私はときどき、英語で原稿を書く。そこで書いたあと、アメリカやオーストラリアの友人に添削
を頼む。だが、ここでおもしろい現象に出あう。どの人も、「それで意味がわかるから、このまま
でいい」と、なおしてくれない。「文法のミスはないか?」と聞くと、「あるが、それでわかるからい
い」と。こうしたおおらかさは、日本には、ない。

 最近、あることがあって、アメリカの友人が、冷やし中華のことを書いてきた。日本で食べた、
冷やし中華がおいしかったので、そのレシピを教えてほしい、と。そのときのことだが、彼は、
「中華」を、「tyuka」と書いてきた。正しくは、「chuka」か?

 ……と考えたところで、私はハタと自分の愚かさに気づいた。そんなのは、どちらでもよいで
はないか、と。しかもそういうことにこだわるのは、日本人の悪いクセだ。実際、世界広しといえ
ども、日本人ほど「形」や「型」にこだわる民族はいない。いないものは、いないのであって、どう
しようもない。

アメリカでも、オーストラリアでも、子どもたちの作文を見ても、あちらの先生は、スペルや文法
(ルール)のまちがいには、ほとんど関心を払わない。大切なのは、中身という考え方が徹底し
ている。ウソだと思うなら、ここに私が書いていることを、あなたの周囲にいるアメリカ人やオー
ストラリア人に確かめてみることだ。「言葉教育」に対して、考え方が基本的な部分で違う。日
本の教育は、子どもたちが将来、文法学者になるためには、きわめてすぐれた体系をもってい
る。しかし将来、文法学者になる子どもは、いったい、何%いるというのか。数学にしても、英
語にしても、そうだ。日本の教育は、将来数学者や、英語の文法学者になるのは、きわめてす
ぐれた体系をもっている。しかし、将来そういう道に進む子どもは、何%いるというのか?

 日本の教育は、もともとどこかのエラーイ大学の先生たちが作った。だからおもしろくない。だ
から役にたたない。言葉教育(作文、読書)についても、同じ。茶道や華道ではあるまいし、もっ
とおおらかでいいのではないのか。

大切なのは、いかに考え、いかに的確に表現し、いかに正しく相手に自分の気持ちを伝える
か、あるいはいかに正しく相手の気持ちを知るか、だ。本筋を忘れたとき、教育は基本的な部
分でゆがむ。日本の教育は、その本筋を忘れている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(477)

●東京文化

 この浜松では、何でも「東京からきた」というだけで、ありがたがる。その傾向がきわめて強
い。悲しき、田舎根性というのである。そしてその返す刀で、同じ地方に住む、仲間の価値を認
めない。あるいは軽く見る。タレントの世界には、こんな合言葉がある。「東京で有名になって、
地方で稼げ」と。

 しかし皆さん、少し冷静に考えてみてほしい。本当に東京文化は、すぐれているか、と。考え
てみれば、あんなゴチャゴチャした、コンクリートの巨大なゴミ箱の中に住んでいるような人たち
から、すぐれた文化など生まれるはずはない。そのことは朝のワイドショーを垣間(かいま)見
ればわかるはず。彼らがおりなすドラマには、一片の知性も理性もない。犬や猫でも、あそこま
ではしないという、痴話(ちわ)話ばかり。が、悲劇は、ここで終わらない。

 先日もある出版社へ原稿を持ちこんだら、そこの若い編集者がこう言った。「地方紙ではね
え……」と。私がC新聞でコラムを書いていますと自己紹介したときのことだ。「地方紙でいくら
コラムを書いても、意味がない」と。そういうことを、そこらの若い編集者が言うからおかしい。
中身をまるで見ない。中身で判断しない。テレビに出ているかとか、知名度はどうかとか、そう
いうことでしか、人を判断しない。

 この傾向は、実はこの浜松という地方でも、同じ。私は以前、G社という出版社で、幼児教室
向けの教材一式をつくった。全部で四八巻である。その教材を使って、近くの幼児教室が教室
を始めた。私としてはそれを喜ばねばならないところだが、聞くところによると、その教室では、
私の名前を消して、その教材を使っているという。同じ浜松に住む人間が作った教材では、価
値がないとでも思っているのだろうか。(あるいはもっと別の理由があるのかもしれない。)

 日本は奈良時代の昔から、中央集権国家。すべてが、中央から地方へと、上位下達方式で
流れている。その逆はめったにない。魂そのものまで抜かれてしまっている。だから、それを疑
問に思う人すらいない。これをうまく利用すると、日本ではうまく金儲けができる。しかしその陰
で、いかに多くの善良な文化が犠牲になっていることか。差し引きすれば、損害のほうがはる
かに大きい。

つい先日も、あるタレントが、浜松市内で講演をして帰った。どこかのスポーツジムに属するタ
レントだそうだが、実に軽薄な感じのする男だった。そういう男が、この浜松で「教育講演」をす
るから、話がおかしくなる。聞くところによると、一回の講演料が、八〇万円! プラス宿泊費
その他である。彼らにしてみれば、地方こそ、よいカモなのだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(478)

●誇大視化

 カルト教団の指導法には、いくつかの特徴がある。その一つが「誇大視化」。「巨大視化」と呼
ぶ人もいる。ささいな矛盾や、ささいなまちがいをとらえて、ことさらそれを大げさに問題にし、さ
らにその矛盾やまちがいを理由に、相手を否定するという手法である。

 しかしこうした手法は、何もカルト教団に限らない。教育カルトと呼ばれる団体でも、ごくふつ
うに見られる現象である。あるいは教育パパ、教育ママと呼ばれる人たちの間でも、ごくふつう
に見られる現象である。つい先日も、こんなことがあった。

 私はときどき、席を立ってフラフラ歩いている子どもに、こう言うことがある。「パンツにウンチ
がついているなら、立っていていい」と。もちろん冗談だし、そういう言い方のほうが、「座ってい
なさい」「立っていてはだめ」と言うより、ずっと楽しい(?)。そのときもそうだった。

が、ここでハプニングが起きた。そばにいた別の子どもが、その子ども(小二男児)のおしりに
顔をうずめて、「クサイ!」と言ってしまったのだ。「先生、コイツのおしり、本当にクサイ!」と。

 で、そのときは皆が、それで笑ってすんだ。が、その夜、彼の父親から猛烈な抗議の電話が
かかってきた。「息子のパンツのウンチのことで、恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。私
はただ平謝りに謝るしかなった。が、それで終わったわけではない。それから三か月もたった
ある日のこと。その子どもが突然、私の教室をやめると言い出した。見ると、父親からの手紙
が添えられてあった。いわく、「お前は、教師として失格だ。あちこちで講演をしているというが、
今すぐ講演活動をやめろ。それでもお前は日本人か」と。

 ここまで否定されると、私とて黙ってはおれない。すぐ電話をすると、母親が出たが、母親
は、「すみません、すみません」と言うだけで、会話にならなかった。で、私のほうも、それです
ますしかなかったが、それがここでいう、「誇大視化」である。たしかに私は失敗をした。しかし
そういう失敗は、こういう世界ではつきもの。その失敗を恐れていたら、教育そのものができな
い。教育といっても、基本的には人間関係で決まる。で、そういう一部の失敗をことさら大げさ
にとらえ、それでもって、相手を否定する。ふつうの否定ではない。全人格すら否定する。

 そういえば、あるカルト教団では、相手の顔色をみて、その人の全人格を判断するという。
「死に際の様子を見れば、その人の全生涯がわかる」と説く教団もある。それはまさに誇大視
化である。皆さんも、じゅうぶん、この誇大視化には、注意されたい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(479)

●子どもの人権

 私は幼児教育をするようになって、三二年になる。三二年もしていると、いつも幼児の視点
で、この世界を見る。そういう視点から見ると、あのNHKの『お母さんといっしょ』など、恥ずか
しくて見ていられない。

おとなが、動物のぬいぐるみを着て、「♪おなかをゴロゴロ、ポンポンポン……」などと言って、
子どもを踊らせている。それを見たりすると、「子どもをバカにするな!」と、思わず叫びそうに
なる。子どもの意思や気持ちなど、まるで無視。動物の飼育でも、あそこまでしない。こんなこと
があった。

 その日はたまたまKさん(年中女児)の、母親が参観にきていた。そのためか、Kさんはいつ
もよりはりきって、「ハーイ」と元気な声で手をあげて、私の質問に答えた。そこで私は少し大げ
さにKさんをほめた。ほめて、みなに、手をたたかせた。するとKさんが、スーッと細い涙を流し
た。私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても大げさである。

で、授業が終わってからKさんに、「どうして泣いたのかな?」と聞くと、Kさんはこう言った。「私
がほめられたから、お母さんが喜んでいると思った。お母さんが喜んでいると思ったら、涙が出
てきてしまった」と。Kさんは、自分のために涙を流したのではなく、お母さんの気持ちになって
涙を流していたのだ! この事件以来、私は幼児を見る目を変えた。

 幼児はたしかに未熟で未経験だ。しかしそれをのぞけば、私たちおとなとどこも違わない。嫉
妬(しっと)もするし、自尊心もある。日本人の子育てで、一番問題なのは、子どもを子どもの世
界に閉じ込め、子ども扱いすることで、その人権を無視すること。こんなこともあった。

 ある女性(六〇歳くらい)が、小学四年生くらいの女の子(孫)に、電話をかけてこう言った。
「おばあちゃんのところへ、遊びに来てよ。お小遣いをあげるから。ほしいものを買ってあげる
から」と。

 一見、ほほえましい光景に見えるかもしれないが、その女性のしていることは、エサで、孫の
気持ちを釣っていることに等しい。こういうことが平気でできるところに、またそういうことをする
のに、何の疑問ももたないところに、日本型の子育ての問題点が隠されている。

 さてあなたもそういう視点で、あの『お母さんといっしょ』を見てほしい。うむを言わせず、一方
的に子どもを踊らせている。子どもに「踊ろうか」と声をかけているふうでもないし、ほめている
ふうでもない。ただ一方的に、まねをさせているだけ。少なくとも私はこの三二年間、幼児をあ
のように指導したことは一度もない。幼児にも、人権というものがある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(480)

●私の政治信条

 こういう仕事をしていると、よく政治信条を聞かれる。左翼系であっても、右翼系であってもい
けないということだが、それについて、ここでウソ隠しなく、明白にしておく。

 私は自分では「浮動票の王様」と呼んでいる。選挙のたびに支持政党が変わる。しかも私が
支持した政党が、そのつど、躍進する。それでいつしか自分をそう呼ぶようになった。 
 ここ一〇年だけでも、選挙で自民党に入れたことも、公明党に入れたこともある。共産党に
入れたこともあるし、自由党や民主党に入れたこともある。政治はいつも流動的であるべきだ
し、またそれが「自由の象徴」と、私は思っている。

よく浮動票層を、「いいかげんな人」と評する人がいるが、浮動票層であることは、何ら恥ずべ
きことではない。……と、私は勝手に考えている。もっともこうして浮動票層でいられるのは、そ
のスジの団体とは、一切かかわりをもたないことによる。あちこちの教育委員会から招かれて
講演をすることはあるが、だからといって、私はいわゆる「保守層」でもない。

 私が抵抗しているのは、旧型の日本人社会である。封建時代の遺物の清算、全体主義的思
考の清算、権威主義社会の清算などなど。私たち日本人の、ものの考え方そのものの変革と
いってもよい。

しかしこれらは政治とは本来、関係がない。そして私は同時に、男女の平等社会と、家族主義
を訴える。その先には、「世界から相手にされる日本」があり、さらにその先には、「日本人の
グローバル化」がある。今でも、この日本は、世界から見ると、どこかおかしい。どこか異質。
つい先日も、ワールドカップで日本チームを監督したフランス人のフィリップ・トルシエ監督は、
日本を去るにあたって、外国の新聞社にこう語っている。「さらば、不可解な国(日本)」(読売
新聞、〇二年六月)と。この「不可解さ」があるかぎり、日本はいつまでたっても、世界から受け
入れられることはない。

 もちろんそういう私に対して、反論も多い。ときどき、そういった内容の抗議も届く。「あなたは
それでも日本人か!」と、手紙で怒ってきた女性(四〇歳)もいた。「先祖を否定するような者
は、教育講演をする資格はない」とも。(私は一度だって、先祖を否定したことはないのだが…
…。)

 これからも私は、政治活動をするつもりはない。どこかの団体に属するつもりもない。私はい
つも自分の身の回りをフリーにすることで、「自由」を守ってきた。だれかに遠慮したり、だれか
の利益を守るようなことはしたくない。(「したくない」と言いながら、結構しているが……。それ
が私の弱点でもある。そういう意味では、ずいぶんといいかげんなところがある。)

 まだまだ書きたいことはあるが、これ以上書いても、堂々巡りになるだけ。教育は宗教、哲
学、科学など、あらゆる面に関係するが、同時にあらゆる政党とも関係する。ひとつの政党に
こだわらねばならない理由そのものがない。




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阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
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