Jump13
はやし浩司のメイン・サイト
HOP STEP 子育てJump
幼児教育・ポータル・サイト・はやし浩司




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(481)

●家庭での学習指導のコツ

 子どもの学習を指導するときには、コツがある。まさに奥義(おうぎ)の公開……というのは、
大げさだが、そのコツにはつぎのようなものがある。

(1)子どものリズムをつかむ……それぞれの子どもには、それぞれの子どものリズムがある。
このリズムをつかむ。たとえば五分も勉強すると、もう気が散ってしまい、ザワザワする子ども
もいれば、三〇〜六〇分くらいなら、平気で学習に集中できる子どももいる。要は無理をしない
ということ。集中力が長くつづかないようなら、六〇分、いっしょにすわって、五〜一〇分、勉強
らしきことをすれば、よしとする。「勉強というのは、黙々とすべきもの」という先入観があれば、
それは改める。

(2)イライラしたら手を引く……子ども横に座っていて、イライラするようなら、手を引く。親のイ
ライラほど、子どもに悪影響を与えるものはない。一回や二回ならともかくも、そういう状態が、
半年とか、数年もつづくようなら、あなたには子どもを指導する資格はないと思うこと。子どもを
勉強好きにする最大のコツは、子どもを楽しませること。英語の格言にも、「楽しく学ぶ子ども
は、よく学ぶ」というのがある。

(3)レベルをさげる……家庭での学習は、思いきってレベルをさげる。親はどうしても、「より高
度なことを」と思うかもしれないが、そのちょっとした無理が、子どもの勉強ぐせをそいでしまう。
できるようするのではなく、やりとげたという達成感を大切にする。そしてここが大切だが、いつ
も終わるときは、ほめて仕上げる。「この前より、できるようになった」「ずいぶんと進歩した」な
どと言う。

(4)こまかいミスは、無視する……全体として、ほぼできれば、それでよしとする。こまかいミス
などは、無視する。一見、いいかげんな指導に見えるかもしれないが、もともと勉強というの
は、そういうもの。ワークにしても、半分はお絵描きになってもよいと考える。「適当にやる」とい
う姿勢は、決して悪いことではない。子どもはその「適当さ」の中で、息を抜く。自分を伸ばす。

(5)好きな勉強をさせる……家での学習は、好きな学習をさせる。一科目でも、得意科目がで
きると、その科目があとの科目を引きあげるということは、よく見られる現象。嫌いな科目や、
苦手な科目を伸ばそうと考えたら、まず好きな科目を、伸ばす。オールマイティな人間をめざす
と、たいてい失敗する。「やりたい勉強をすればいいのよ」というような言い方で、子どもを指導
する。

(6)依存心をつけない……子どもが親に頼る傾向がみられたら、親は親で、好き勝手なことを
すればよい。ときにはバカな親のフリをして、子どもの自立を促すのもよい。依存心がつけば、
ある段階から伸び悩むので注意する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(482)

●肩書き社会

 この日本では、肩書きで、ものが動く。人の価値、さらにはその中身まで、肩書きで判断す
る。これはいわば世界の常識で、長くつづいた身分制度という封建意識が、その底流にある。
が、それだけでは終わらない。

 長い間、その肩書き社会にどっぷりとつかっていると、自分の姿を見失う。ある役人(官僚)
は、こう言った。「私ももうすぐ定年でね。定年退職をしたら、長野のイナカへ帰って、村長でも
やろうかな、ははは」と。「村長でも」と、「でも」と言うところが恐ろしい。

 一般論として、肩書き社会を生きる人は、それだけ上下意識が強く、上下意識が強いという
ことは、それだけ権威主義的なものの考え方をするということ。このタイプの人は、独特の考え
方をするから、それがわかる。

 まず無意識のうちにも、人の上下を判断する。応対のし方が、相手によって変わる。自分よ
り目上の人には、ペコペコする反面、自分の支配下にある、目下の人には、尊大ぶったり、い
ばったりする。電話のかけ方を見れば、それがわかる。「ハイハイ、かしこまりました。仰せのと
おりにいたします」と言ったあと、私のような肩書きのないものに対しては、「君イ〜ネ〜、そう
は言ってもネ〜」と。

 家庭でも、ものの考え方が権威主義的だから、「親に向かって何だ!」というような言い方が
多くなる。「親が上」「夫が上」と。そういう上下関係の中に自分を置かないと、落ち着かない。
が、その分だけ、親として、夫として、よい家庭づくりに失敗しやすい。

 が、さらに悲劇はつづく。自分自身の価値すらも、その肩書きで決めるから、その肩書きか
ら、自分を解き放つことができない。定年退職をしたあとも、その肩書きを引きずって生きる人
は少なくない。私のいとこの義父がそうだった。退職したときは、国の出先機関の「長」まで勤
めた人だが、死ぬまで、本当に死ぬまで、その肩書きにこだわっていた。私が「幼稚園で働い
ています」と言ったときのこと。その人は私にこう言った。「どうせ、学生運動か何かをしてい
て、ロクな仕事につけなかったんだろう」と。幼稚園の教師の仕事は、「ロクな仕事ではない」
と。

 肩書きを引きずって生きるのは、その人の勝手。しかしその分だけ、結局は自分でさみしい
思いをするだけ。つい先日、ここに書いたいとこの義父が八〇歳の年齢でなくなった。が、葬式
に出た母はこう言った。「あんなさみしい葬式はなかった」と。実際、この私も、「ロクな仕事」と
言われてから、その義父の家には、一度も行かなかった。会いたいという気すら、まったく起き
なかった。「死んだ」と聞いたときも、「ああ、そう」ですんでしまった。心の通わない人の死という
のは、そういうものかもしれない。権威主義的なものの考え方をする人は、自ら人の心を閉ざ
す。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(483)

●いびつな行動

 こんな興味深い実験がある。日本体育大学名誉教授の正木健雄氏(教育生理学)らがした
実験だが、つぎのようなものだ。

 子どもにゴム球をもたせ、ランプの色により、握ったり放させたりさせ、指示どおりにできるか
どうかを調べた実験である。

 で、指示どおり、切り替えが正確にできるタイプを、「活発型」、握ってよいときに握らないの
を、「抑制型」、反対に握ってはいけないときに握るのを、「興奮型」とした。

 その結果、一九六九年に調べたところ、(1)幼児段階では、興奮も抑制も弱く、(2)小学校
低学年では興奮が強くなり、その後、(3)気持ちを抑える力がつくことがわかったという(読売
新聞、〇二年六月)。

 ところが、である。四年前に同じ調査をしてみたところ、六九年には見られなかった抑制型
が、小学一年生について、二〇%も現れたというのだ(長野県内、幼児〜中学生、四五〇人を
対象にした調査)。

 わかりやすく言うと、六九年にはいなかったが、四年前(一九九八年)には、「握ってよいとき
に握らない子どもが」、小学一年生で、二〇%も現れたということになる※。そしてその結果、
「ふだんはおとなしいが、ささいなきっかけで、抑えがとれると、興奮する。通常の発達過程を
たどらず、いびつな行動となって現れる」(同新聞)子どもがふえている、と。

原因としては、「食生活、生活リズムなどさまざまな理由が考えられるが、外での遊び、ふれあ
う機会が減っているためではないか」(信州大・寺沢宏次氏)とも。つまり運動や遊びなどで、仲
間と体を動かすことで、前頭葉が発達するが、それがないため、「いびつな行動」となる、と。

 実際、今、すなおな感情表現ができない子ども(幼稚園児)は、約二〇%はいる。皆がどっと
笑うようなときでも、笑わない子どもも、約二〇%はいる。この実験で、「二〇%」という数字が
出てきたのは、たいへん興味深い。これらの現象は、どこかで連動しているのかもしれない。

※……小学生で、興奮型の子どもが多い学年……1969年、二年生
                       1998年、六年生
         興奮型の割合(六年   ……1969年、25%
                       1998年、55%

 「興奮型が低学年から高学年に移り、割合がふえた。興奮する力が育ったあと、抑える力が
つくパターンが、崩れているようだ」(前述、正木健雄氏)とのこと。




        
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(484)

●自閉文化

 以前、こまかい丸だけをつなげて、黙々と絵を描いている女の子(年中児)がいた。担任の先
生に、「あの子はどういう子ですか?」と聞くと、その先生は、「根気のあるいい子でねえ」と言っ
た。しかしそういうのは「根気」とは言わない。「自閉」という。自閉症の初期によくみられる症状
のひとつである。

 ところで石川県の金沢市には、いくつかの伝統工芸がある。蒔絵(まきえ)にはじまり、金銀
細工、九谷焼など。全体の特徴としては、精緻(せいち)の一語に尽きる。しかし「精緻」と言え
ば聞こえはよいが、その実体は、「自閉文化」? 強権と圧制による恐怖政治の中で、民衆の
心は限りなく自閉した。

NHKの大河ドラマなどを見ていると、前田の藩主たちは結構、ものわかりのよい人物に描か
れているが、ああいうものに、だまされてはいけない。たとえば金沢市には、尾張町とか近江
町とかいう地名が残っている。昔、それぞれの地方から、強制的に移住させられた人たちがつ
くった町である。つまり当時の人たちは、それくらい過酷な生活を強いられた。

 一方、アメリアのテキサス州へ行ってみるとよい。ホテルに泊まってみるとよい。見た目には
結構、美しいものをつくるが、どれもこれも、実におおざっぱ。ホテルの家具にしても、裏から見
ると、「これが家具?」と、自分の目を疑いたくなるほど、おおざっぱ。金沢の文化を、自閉文化
というなら、テキサス州の文化は、開放文化ということになる。人間の心が外へ、外へと向かっ
ている。

 ……だからといって、日本の文化を否定しているのではない。しかしそれを「すばらしい」と評
価する前に、「どうしてそういう文化が生まれたのか」ということを疑ってみる必要はある。たと
えば歌舞伎にしても、封建時代には、きわめて限定された世界で、きわめて限定された範囲の
演劇しか許されなかった。演ずる人ですら、きわめて限定されていた。

今でも、家元制度というのだけが残り、それが伝統文化(?)として、代々と受け継がれてい
る。私たちはそういう文化だけをみて、「すばらしい」と評価しがちだが、その陰で、どれだけ多
くの民衆の、そしてその数に等しい創造的な文化が抑圧されたかを忘れてはならない。

 子どもの世界を見ていると、日本の文化そのものが見えてくることがある。私はあの女の子
のことを思い出すたびに、そこに金沢の文化をダブらせてしまう。金沢で学生生活を送ったと
いうこともある。「はたして金沢の伝統工芸は、幸せな民衆が生み出した文化であったか」と。

むしろ私は、そこに行き場をなくした、民衆の「怒り」を感ずる……と言うのは、少し考えすぎか
もしれないが、しかし少なくとも、外に向かった伸びやかさは、ない。あなたも今度金沢へ行っ
たら、そういう目で、あの工芸品を見てほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(485)

●消息

 インターネットで、ときどき、昔の知人を検索する。ヤフーの検索をつかえば、瞬時に、消息
が検索できる。本当に、瞬時だ。で、消息の消えた人。あるいは活躍している人など。消息が
消えたというのは、おおげさだが、要するに検索で見つからない人のこと。「どうしたのかな?」
と、考えてしまう。

とくに恩師の消息を検索するときは、ある種の緊張感が走る。「もう亡くなってしまったのでは…
…」という心配が、いつもつきまとう。

 もちろん活躍している人もいる。都市の総合大学で、教授になったり、学部長になった人もい
る。ビジネスの世界で、大輪の花を咲かせた人もいる。マスコミの世界で活躍している人もい
る。そういう人がいることは、本当にうれしい。見つけるたびに、女房に、「あの人はねえ……」
と、その人のエピソードを話す。

 一方、本当に亡くなってしまった人もいる。心配なときは、関係機関や、その所属先に電話を
入れて、たしかめている。若いころ世話になった、当時の年配の人は、大半がもうこの世の人
ではない。「いつかお礼に行こう」と思ってはいたが、自分の時間以上に早く、こうした人たちの
時間は、過ぎていった。三〇代、四〇代のころは、自分の人生を生きるだけで精一杯。過去を
振り返る余裕すらなかった。いや、時間が過ぎているという実感すらなかった。いつまでも、い
つでも、「その人」は、そこにいるものとばかり思っていた。が、「その人」は、もういない……。

 が、例外(?)もある。郷里の美濃市に住む、M氏だ。私が中学生のときであった、塾の先生
だが、当時すでに五〇歳前後の人だった。たいへんな気骨の持ち主で、一方で市議会議員を
したりしていた。市長選には何度も出馬した。年賀状ですら、元旦に自分で配達していた。夏に
なると、毎日、川で泳いでいたし、正月には山の上から凧をあげていた。ふつうの人ではなか
った。

 その恩師から、久しぶりに小冊子が届いた。見ると、「満八八歳の喜寿のときに書いた冊子」
という。その人の健康法、人生論などがつづられていた。若々しい文章だった。私はそれを読
んでうれしくなった。こう書いてあったからだ。「ものを書く力は、年齢とともに、かえって鋭くなっ
た」と。私は、ものを書く力(力というより、「鋭さ」)が消えるのが、何よりもこわい。「その力は、
年齢とともに、鋭くなった」と。

 ……と、その人の消息を知るたびに、人生の悲哀を、しみじみと感ずる。昔、ジャン・ダルジ
ー(フランスの詩人)が、「人、来たりて、また去る」と歌ったが、その意味がよくわかるようにな
った。インターネットには、そういう「力」もあるようだ。


 


ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(486)

●リストラ

 ある日突然、解雇を言い渡される……。

 それから受ける衝撃は、たいへんなものだ。実のところ、私も、そういう辛酸(しんさん)を何
度かなめさせられたことがある。(今は詳しくは書けないが、いつか時期がきたら、書くつも
り。)

それは、何というか、全人格、全人生を否定されたかのような衝撃だ。よくリストラされた人の
自殺が新聞で報道されるが、その衝撃は、そういった類(たぐい)のものと言ってよい。生はん
かなものではない。歳をとってからのほうほどそうで、怒りを通り越して、絶望感すら覚える。し
かし私のばあい、いつもそれをバネにしてきた。生来の負けず嫌いの性格もある。よく「林は、
ころんでもタダでは起きないな」と言われたが、そういうガッツ精神も、背景にある。

この世界には、「復讐」という言葉がある。私が使う「復讐」というのは、少し意味が違うが、そう
いうときはいつも、私は復讐を誓ってきた。

 復讐にも、二種類ある。他人に対する復讐と自分に向かう復讐。私のばあい、その相手を徹
底的に無視する。これが他人に対する復讐。解雇されたからといって、ジタバタしない。表面的
には、冷静さを保つ。ジタバタすれば、それは相手に対して負けを認めることになる。理由も聞
かない。もちろん異議も唱えない。「どうぞ、ご勝手に」という態度をつらぬく。……つらぬいた。
いくら解雇されても、自尊心までは捨てない。

 で、つぎに大切なことは、自分に対する復讐だ。自分の力なさ、思慮のなさ、さらに油断をの
ろう。のろって、のろって、のろいまくる。その復讐は、「どうしてお前はそういうことをされたの
だ」という思いから、始まる。そしてつぎに、徹底的に相手を分析する。女房は「無視しなさい
よ」とよく言ったが、私は分析した。相手の性格、知力、能力など。そして結論として、その相手
に負けている部分があれば、それ以上の自分になることで、自分の中の敗北感を消した。

で、ここで大切なのは、あくまでも相手の中身だ。肩書きや地位ではない。そういうものには勝
ち目がないし、そんなものを問題にしても意味はない。あくまでも中身だ。自分の中に、相手を
克服したと思えるほどまでに、自分自身を昇華する。(これは多分に、うぬぼれと思いあがりに
よるものかもしれないが、それはそれで構わない。)そうすることで、悲しみや、怒りや、そして
屈辱感を乗り越える……。

 今、いろいろと苦しい思いやつらい思いをしている人も多いと思うが、どうか負けないでほし
い。私はほんの一時期を除いて、人生の底辺を、それこそいつもバカにされて生きてきた。そ
ういうものには、そういうものの、哲学がある。一般世間の哲学とは違ったものかもしれない
が、ここに書いた生きざまは、そういう哲学から生まれた。参考になればうれしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(487)

●自分を知るバロメーター

人間というのは、相手と同等のときは、その相手に腹もたつ。しかし自分が相手を超えたという
実感のあるときは、腹もたたない。言いかえると、これをうまく利用すると、あなたのレベルを、
それで知ることができる。

たとえば今、あなたに不愉快に思っている相手がいたとする。「いやなヤツだ」とか、「顔を見た
だけで、けんかをしそうになる」とか。もしそうなら、あなたも、その相手と同等の人物にすぎな
いということ。あなたから見て、あなたよりはるかに「下」にいる人は、あなたは相手にしないは
ず。あなたと同等だから、あなたは相手にする……。このことは、子どもの世界を観察してみる
と、よくわかる。

たとえば「子どものいじめ」。いじめる側は、いじめる相手を「下」において、その相手をいじめ
る。本人は優越感を感じているかもしれないが、実際には、いじめる側のほうがレベルが低
い。が、その「いじめられる側」が、運動や学力で、相手を超えると、そのいじめが消える。

子どもどうしでも、相手に一目をおくようになるためである。だからよく子ども自身から、いじめ
の相談を受けると、私はその子どもにつぎのように言うようにしている。「君が苦しいのは、そ
れは君が、相手と同じレベルの人間だからだよ。だから相手が君に対して一目おくほど、君が
彼らを通り越せばいい。それがその苦しみと戦う唯一の方法だ」と。(だからといって、いじめを
肯定しているわけではない。)

もちろんいじめといっても、内容は複雑だし、当の本人は深刻な問題だ。ここに書くほど、簡単
な問題ではない。しかし私のばあい、いつも、いじめられることで、さらに自分をたくましくしてき
た。そして不思議なことだが、いじめられている最中というのは、その相手をうらんだり、憎んだ
りするが、自分が相手を超えてしまうと、その相手に対して、親近感すらもつようになる。相手
を「のむ」というのは、そういうことをいう。

 そこで私はいつもこう考えるようにしている。「今、一番不愉快に思っていることはだれか」と。
……いや、もっとも、不愉快に思っている人は、(あくまでも今のところだが……)、近辺にはい
ない。私が今、不愉快に思っているのは、日本の政治や、日本の社会にはびこるカルト(教団)
だ。

「敵は大きければ大きいほどよい」とは、よく言うが、大きな敵をもてばもつほど、身の回りのさ
さいなことが気にならなくなる。(だからといって、私が大物だとは思っていない。これは私の処
世術のようなもの。ささいなことが気になったら、その時点で、できるだけ大きな敵について考
える。そして結果として、そのささいなことを忘れ、それから遠ざかる。)

 少しかっこうのよいことを書いたが、この方法は、自分のレベルを知るのに、とてもよい方法
だと思う。一度、あなたも試してみたらどうだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(488)

●水戸黄門論

 テレビドラマに「水戸黄門」というのがある。葵三つ葉の紋章を見せて、側近のものが、「控え
おろう!」と一喝するシーンは、あまりにも有名である。今でも、視聴率が二〇〜二五%もある
というから、驚きである。

 で、あの水戸黄門というのは、水戸藩二代藩主の徳川光圀(みつくに)と、家来の中山市正と
井上玄洞をモデルとした漫遊記と言われている。隠居した光圀は、水戸の郊外、西山村に移り
住み、百姓光右衛門と名乗り、そのとき、先の二人を連れて、関東を漫遊したという。それが
芝居、映画、テレビドラマになり、「水戸黄門」が生まれた。(芝居の中では、二人の家来は、
佐々木助三郎(通称「助さん」)と、渥美格之進(通称「格さん」)になっている。)

 徳川光圀は実在した人物だが、ただ光圀自身は、関東地域からは一歩も出ていない。それ
はさておき、水戸黄門は、全国各地を漫遊しながら、悪代官をこらしめたり、仇討ちの助けをし
たりして、大活躍をする。日本人にはたいへん痛快な物語だが、ではなぜ「痛快」と思うかとい
うところに、大きな問題が隠されている。

以前、オーストラリアの友人が私にこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、日
本人はどうするのか」と。そこで私が「水戸黄門は悪いことはしないよ」と言うと、「それはおかし
い」と。

 考えてみれば、水戸黄門がたまたま善人だったからよいようなものの、もし悪人だったら、そ
の権威と権力を使って、したい放題のことができる。だれか文句を言う人がいたら、それこそ
「控えおろう!」と一喝すればすんでしまう。民衆の私たちは、水戸黄門の善行のみをみて、そ
れをたたえるが、権威や権力というのは、ひとつ使われ方がまちがうと、とんでもないことにな
る。

だいたいにおいて水戸黄門は封建時代の柱である、身分制度という制度をフルに利用してい
る。身分制度を巨悪とするなら、代官の悪行など、かわいいものだ。善行も何も、ない。「頂点
にたつ権力者は悪いことをしない」という錯覚は、恐らく日本人だけがもつ幻想ではないのか。
長くつづいた封建制度の中で、日本人は骨のズイまで魂を抜かれてしまった。もっと言えば、
あの番組を痛快と思う人は、無意識のうちにも、封建時代を是認し、身分制度を是認し、さら
に権威主義を是認していることになるのでは……? あるいは権威や権力に、あこがれをいだ
いている……?

 教育の世界には、まだ権威や権力がはびこっている。こうした権威や権力は、その世界に住
んでいる人には居心地のよいものらしいが、その外で、いかに多くの民衆が犠牲になっている
ことか。

むずかしいことはさておき、あのドラマを見るとき、一度でよいから、水戸黄門の目線ではなく、
その前で頭を地面にこすりつける庶民の目線で、あのドラマを見てほしい。あなたもあのドラマ
を見る目が変わるはずである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(489)

●講演について

 講演をするたびに、あとで後悔する。私はもともと早口なので、「早口でしゃべってしまった」と
か、反対に、「あれを言い忘れた、これを言い忘れた」と。しかしそれ以上に心配するのは、
「来てくれた人の役にたてただろうか」ということ。中には遠いところからわざわざ来てくれた人
もいただろう。仕事のつごうをつけて来てくれた人もいただろう。そんなことばかり考える。

 で、最近は、講演の前に、「一生懸命しよう」とは思わないことにしている。そう思えば思うほ
ど、あとで後悔する。それを発見した。そこで最近は、どんな小さな講演でも、「今日が最後だ
から、そう思ってしろ」と、自分に言い聞かせている。そう言い聞かせて講演をすると、講演が
終わったとき、「無事、終わってよかった」と。何だかその先に、まだ人生があるのを知って、ほ
っとする。

 ただこういうことは言える。多分、(私も他人の講演を聞いたとき、そう思ったが)、聞きに来て
くれる人は、私が楽にしゃべっているように思うかもしれない。しかし実際には、重労働。脳の
マラソンのようなものではないかと思っている。時間にすれば二時間かもしれないが、その前
後の調整がたいへん。前日くらいから体調を整え、当日は、講演の前にはほとんど食事をとら
ないことにしている。

これは私の低血圧によるもので、胃袋にモノが入ると、眠くなってしまうからである。実際、ある
講演では、その前に出してもらった昼食をとったため、講演中に瞬間だが、眠ってしまったこと
がある。

 体調を整えるということは、実のところたいへんなことでもある。これも一度だが、風邪ぎみ
で、その朝、風邪薬をのんでしまった。おかげで頭がボーッとしてしまい、途中で何を話してい
るかわからなくなってしまったこともある。全市をあげての大会のような講演会だったので、あ
のときほど自分の風邪をのろったことはない。

 また講演しているときは、同時に三つの脳が働く。その話題についてしゃべっている脳。全体
の地図のように働いている脳。それに聴衆の反応を見る脳である。この三つの脳が同時にう
まく働かないと、それこそ講演の内容がめちゃめちゃになってしまう。体や脳のコンディションが
悪いと、これがうまく働かなくなる。

 講演もなれの問題。三〇歳のころは、講演というだけで、数日前から不眠症になってしまっ
た。一度、有料の講演会をしたことがあるが、そのときも、数日前から不眠症になってしまっ
た。が、今は、そういうことはない。ただこういうことは言える。話しとしてする講演というのは、
書いた文による内容とくらべると、内容が「浅い」ということ。これは話すことにまつわる限界の
ようなものかもしれない。だから本当のところ、私は、講演よりも、書いたものを読んでもらいた
い。そのほうが、私としては安心できる。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(490)

●キレる子ども
 文部科学省が、「キレる子どもの生育歴に関する研究」を発表した(〇二年六月)。それによ
れば、「突発的に暴力をふるうなど、キレた子どもの八割近くに、過保護や行き過ぎた干渉、放
任といった家庭での不適切な対応があったことがわかった」という。

 その研究によれば、こうした子どもたちの性格は、(1)耐性欠如型(ささいなことにがまんで
きないタイプ)、(2)不満型(おとなしく目立たないが、不満をためこむタイプ)、(3)攻撃型(衝
動的で自制心に欠けるタイプ)の三つに分類されたという。そしてその割合は、つぎのようであ
ったという(キレたと思われる子ども、六五四件について調査。うち男子の報告例が、五七四人
で全体の88%)。

    耐性欠如型……70%
    不満型……  30%
    攻撃型……  42% 

 で、生育状況を類型化したところ、つぎのようになったという。

 不適切な養育態度(全体の76%)……過度の統制(きびしすぎるしつけ)……19%
                 ……過保護……14%
                 ……放任 ……15%

 さらに六割を超える子どもに、「家庭での緊張感」がみられ、その内訳は、
                 ……両親の離婚……25%
                 ……両親の不仲……13%
                 ……本人と家族の不仲……16%

 また家庭内での暴力、体罰を受けたケースも、全体の24%にのぼり、また全体の四分の一
の子どもに、孤立やいじめなどの「友人関係の問題」がみられたという。興味深い点は、「耐性
欠如型では、子どもを過度に統制しようとする母親と、育児に無関心な父親という組み合わせ
が多い」「不満型では、幼少期は『いい子』だが、そののち、不満型になる」という点を指摘して
いること。

 こうした分類方法は、子どもの世界を「上」からみる人が好んで用いる手法である。(明治時
代、動植物学というと、その分類が主体であった。その手法の範囲を一歩も出ていない。)しか
し実際には、現場ではまったくといってよいほど、役にたたない。

たとえば「学習面で遅れの目立つ子どもを、愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。この言
葉は好きではない)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型(多動性
があり、学習に集中できない)などに分けて考えるのに似ている(教育小辞典)。だからどうな
のかという部分が、まるで浮かびあがってこない。「分類するのは簡単だが、では実際、指導し
てみたらいかがでしょうか」ということになる。キレる子どもを考えるには、もっと別の手法を使う
べきである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(491)

●キレる子どもの原因?

 キレる子ども……、つまり突発的に過剰行動に出る子どもの原因として、最近にわかにクロ
ーズアップされてきたのが、「セロトニン悪玉説」である。つまり脳間伝達物質であるセロトニン
が異常に分泌され、それが毒性をもって、脳の抑制命令を狂わすという(生化学者、ミラー博
士ほか)。

アメリカでは、もう二〇年以上も前から指摘されていることだが、もう少し具体的に言うとこう
だ。たとえば白砂糖を多く含む甘い食品を、一時的に過剰に摂取すると、インスリンが多量に
分泌され、それがセロトニンの過剰分泌を促す。そしてそれがキレる原因となるという(岩手大
学の大澤名誉教授ほか)。

 このタイプの子どもは、独特の動き方をするのがわかっている。ちょうどカミソリの刃でスパス
パとものを切るように、動きが鋭くなる。なめらかな動作が消える。そしていったん怒りだすと、
カッとなり、見境なく暴れたり、ものを投げつけたりする。ギャーッと金切り声を出すことも珍しく
ない。幼児でいうと、突発的にキーキー声を出して、泣いたり、暴れたりする。興奮したとき、体
を小刻みに震わせることもある。

 そこでもしこういう症状が見られたら、まず食生活を改善してみる。甘い食品を控え、カルシ
ウム分やマグネシウム分の多い食生活に心がける。リン酸食品も控える。リン酸は日もちをよ
くしたり、鮮度を保つために多くの食品に使われている。リン酸をとると、せっかく摂取したカル
シウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。

一方、昔からイギリスでは、『カルシウムは紳士をつくる』という。日本でも戦前までは、カルシ
ウムは精神安定剤として使われていた。それはともかくも、子どもから静かな落ち着きが消え
たら、まずこのカルシウム不足を疑ってみる。ふつう子どものばあい、カルシウムが不足してく
ると、筋肉の緊張感が持続できず、座っていても体をクニャクニャとくねらせたり、ダラダラさせ
たりする。

 ここに書いたのはあくまでも一つの説だが、もしあなたの子どもに以上のような症状が見られ
たら、一度試してみる価値はある。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても子どもに缶ジュース
を一本与えておいて、「少食で悩んでいます」は、ない。体重一五キロの子どもに缶ジュースを
一本与えるということは、体重六〇キロのおとなが、同じ缶ジュースを四本飲むのに等しい。お
となでも四本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガボになってしまう。

もしどうしても「甘い食べもの」ということであれば、精製されていない黒砂糖を勧める。黒砂糖
には天然のミネラル分がバランスよく配合されているため、ここでいうような弊害は起きない。
ついでに一言。

 子どもはキャーキャーと声を張りあげるもの、うるさいものだと思っている人は多い。しかしそ
ういう考えは、南オーストラリア州の幼稚園を訪れてみると変わる。そこでは子どもたちがウソ
のように静かだ。サワサワとした風の音すら聞こえてくる。理由はすぐわかった。その地方では
どこの幼稚園にも、玄関先に大きなミルクタンクが置いてあり、子どもたちは水代わりに牛乳を
飲んでいた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(492)

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

 私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」母、横から、「おばあちゃんの家でし
ょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」私、再び、子どもに向かって、「楽
しかったかな」母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いな
さい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで子育てをするな
ど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもにな
る。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で
最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場
に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手
がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(493) 

●キレる子ども

 子どもたち(小三児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君は、まっ
たく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が突然、暴れ出し
た。突然というより、激変に近いものだった。ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあった
机とイスを足でけって、ひっくり返した。瞬間私は彼の目を見たが、それは恐ろしいほど冷たく、
すごんでいた……。

 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」(長崎大・中根允文氏
ほか)と位置づけられている。

躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・一八五六〜一九二六)だが、一般的に
は躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって交互に、あるいはケースによっ
ては、重複して起こることが多い。

それはそれとして、このキレた状態になると、子どもは突発的に凶暴になったり、大声でわめ
いたりする。(これに対して若い人の間では、ただ単に、激怒した状態、あるいは怒りが充満し
た状態を、「キレる」と言うことが多い。ここでは区別して考える。)

 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定の状態そのものを問題にする人がいる。し
かしそれはあくまでも表面的な症状にすぎない。情緒が不安定な子どもは、その根底に心の緊
張状態があるとみる。その緊張状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一
挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。

先のF君のケースでも、「問題が解けなかった」という思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状
態のところに、「先生に何かを言われるのではないか」という不安が入りこんで、一挙に情緒が
不安定になった。言いかえると、このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にある。気を抜か
ない。気を許さない。周囲に気をつかうなど。表情にだまされてはいけない。柔和でおだやかな
表情をしながら、その裏で心をゆがめる子どもは少なくない。これを心理学の世界では、「遊
離」と呼んでいる。一度こういう状態になると、「何を考えているかわからない子ども」といった感
じになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(494)

●すなおな子ども論 

 従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれは誤解。教
育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、すなおな子ど
もという。うれしいときには、うれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表情をする。不
愉快なときは、不愉快そうな顔をする。そういう子どもをすなおな子どもという。

しかし心と表情が遊離すると、それがチグハグになる。ブランコを横取りされても、ニコニコ笑
ってみせたり、いやなことがあっても、黙ってそれに従ったりするなど。中に従順な子どもを、
「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。

この時期、よくできた子どもというのは、いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの
子どもは大きなストレスを心の中でため、ためた分だけ、別のところで心をゆがめる。よく知ら
れた例としては、家庭内暴力を起こす子どもがいる。このタイプの子どもは、外の世界では借
りてきたネコの子のようにおとなしい。

 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追い込まないように、穏やかな生活を何
よりも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、(1)濃厚
なスキンシップをふやし、(2)食生活の面で、子どもの心を落ちつかせる。カルシウム、マグネ
シウム分の多い食生活に心がけ、リン酸食品をひかえる(※)。

リン酸は、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。もち
ろんストレスの原因(ストレッサー)があれば、それを除去し、心の負担を軽くすることも忘れて
はならない。

※……今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力
性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流
れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、
歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだ
やかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく
溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(495)

●育児疲れ

 育児だけならともかくも、つぎからつぎへと雑用が飛び込んでくる。何がなにやらわけがわか
らなくなる。わずらわしいことも多い。おまけに昨夜は下の子ども(二歳)が夜泣きをして、今日
は睡眠不足。夫は仕事だけ。朝早く家を出て、帰りはいつも深夜。しかも最近は、夫との関係
もどこかぎくしゃくしている。会話もない。家計もたいへん。今日も、通路へのゴミ出しのことで、
隣の人とトラブル。それに息子(小二)の通う学校の先生が、どうも気に入らない。気分的で、
つかみどころがない。息子のことで相談しても、ヘラヘラしているだけ。頭の中は情報だらけな
のに、どれが大切で、どれがそうでないかもわからない。何をしても、イライラがつのるばかり。
ああ、私はどうしたらいいの?

 今、ほとんどの母親たちは疲れている。日本女子社会教育会がした調査でも、七二%の母
親が、「子どものことでイライラする」と答えている。うち七%は、「いつもイライラする」と答えて
いる(平成七年)。

 キレる子どもが問題になっているが、キレるのは、子どもだけではない。母親だって、キレ
る。キレて、何が悪い! だいたい「男は仕事、女は家事」と、だれが決めた! 仕事をしてい
たほうが、よっぽど気が楽! 世の男どもよ、「仕事、仕事」と、偉そうな顔をするな! ……
と、少し熱くなりすぎたが、世の女性たちの本音は、こんなところにある。
 問題は、こうしたイライラを、どう解消するか、だ。子どものできがよければ、まだ多少は救わ
れるが、できが悪いと、さらにイライラは倍加される。

【第一段階】子どもに八つ当たりをする、グチを言う、暴言をはく、子どもに体罰を加える、怒鳴
り散らす。感情のコントロールが、不安定になる。

【第二段階】何をするにも無気力になる、元気がなくなる、返事をしても上の空、むなしい、つま
らない、やる気が出てこない。感情が抑制される。

 この第二段階になると、いろいろな神経症(頭重、頭痛、肩こり、腹痛など)を併発し、さらに
進むと、回避性障害(人と会うのを避ける)、節食障害(過食、拒食など)、行為障害(万引き、
ムダ買い)などの、精神障害が現れるようになる。こうなると育児ノイローゼと呼んでもよい。

 そこで解消法。もっとも効果的な解消法は、「汗をかく」こと。無我夢中で汗をかくような方法
がよい。東洋医学でも、「気」がうっ積するときは、「発散」という方法で、病気をなおす。湯液(と
うえき)を用いる方法もあるが、簡単に発散させる方法としては、「発汗」がある。うっ積した
「気」は、汗とともに、体外へ出る。論理的ではないが、現象的には、正しい。

 あなたもイライラしたら、どこかで思いっきり、汗をかいてみるとよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(496)

●子育て、はじめの一歩

 先日、あるところで講演をしたら、一人の父親からメールが届いた。いわく、「先生(私のこと)
は、親は子どもの友になれというが、親子にも上下関係は必要だと思う」と。

 こうした質問や反論は、多い。講演だと、どうしても時間的な制約があって、話のあちこちを
端(はし)折ることが多い。それでいつも誤解を招く。で、その人への説明……。

 テレビ番組にも良質のものもあれば、そうでないのもある。そういうのを一緒くたにして、「テ
レビは是か非か」と論じても意味がない。同じように、「(上下意識のある)親意識は必要か否
か」と論じても意味はない。親意識にも、つまり親子の上下関係にも、いろいろなケースがあ
る。私はそれを、善玉親意識と、悪玉親意識に分けている。

善玉親意識というのは、いわば親が、親の責任としてもつ親意識をいう。「親として、しっかりと
子どもを育てよう」とか、そういうふうに、自分に向かう親意識と思えばよい。一方、悪玉親意識
というのは、子どもに向かって、「私は親だ!」「親に向かって、何だ!」と、親風を吹かすことを
いう。

 つまりその中身を分析することなく、全体として親意識を論ずることは危険なことでもある。同
じように「上下意識」も、その中身を分析することなく論じてはいけない。当然、子どもを指導
し、保護するうえにおいては、上下意識はあるだろうし、またそれがなければ、子どもを指導す
ることも、保護することもできない。

しかし子どもの人格を認めるという点では、この上下意識は禁物である。あればじゃまになる。
親子もつきつめれば、一対一の人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから……」と、
「だから」論で、たがいをしばるのは、ときとしてたがいの姿を見失う原因となる。日本人は世界
的にみても、上下意識が強い民族。親子の間にも、(あるいは夫婦の間ですら)、この上下意
識をもちこんでしまう。そして結果として、それがたがいの間にキレツを入れ、さらにはたがい
を断絶させる。

 が、こうして疑問をもつことは、実は、子育ての「ドア」を開き、子育ての「階段」をのぼる、そ
の「はじめの一歩」でもある。冒頭の父親は、恐らく、「上下関係」というテーマについてそれま
で考えたことがなかったのかもしれない。しかし私の講演に疑問をもつことで、その一歩を踏み
出した。ここが重要なのである。もし疑問をもたなかったら、その上下意識についてすら、考え
ることはなかったかもしれない。

もっと言えば、親は、子育てをとおして、自ら賢くなる。「上下意識とは何か」「親意識とは何か」
「どうして日本人はその親意識が強いか」「親意識にはどんなものがあるか」などなど。そういう
ことを考えながら、自ら賢くなる。ここが重要なのである。

 子育ての奥は、本当に深い。私は自分の講演をとおして、これからもそれを訴えていきた
い。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(497)

●私のストレス発散法

 ストレス(生理的なひずみ、あるいは「気」のうっ積)で苦しんでいる人は、多い。実のところ、
私は三〇歳〜三五歳のころ、偏頭痛で苦しんだ。年に数回、あるいはもっと多い頻度で、偏頭
痛の発作が起きた。それこそ四転八転の苦しみを味わった。「頭を切ってくれ!」と叫んで、ふ
とんの中でもがいたことも多い。その苦しみは、偏頭痛を味わったものでないとわかるまい。

 もっとも当時は、偏頭痛に対する理解も治療法もなく、(あったかもしれないが、私が相談した
医師は、別の診断名をくだしていた。ある大病院では、脳腫瘍と診断し、開頭手術まで予定し
た)、市販の薬をのんでは、ゲーゲーとそれを吐き出していた。そういう意味では、まさに毎日
がストレスとの戦いでもあった。

 そんな中、やがて自分なりの対処法を身につけるようになった。

 まず第一に自分はストレスに弱いことを自覚した。そのため、ストレッサー(ストレスの原因)
となりやすいものは、できるだけ避けるようにした。たとえば人と会う約束も、一日一回にすると
か、など。あるいはスケジュールには、余裕をもたせるなど。

 つぎに、当然のことながら、治療法をさがした。たまたま東洋医学の研究もしていたので、あ
らゆる漢方薬を試してみた。しかし結局は、そのうち、たいへんよく効く西洋薬が開発されて、
それでなおるようになった。ただその薬は、のむと胃を荒らすので、できるだけのまないように
している。

 が、最善の治療法は、汗をかくこと。ただし、偏頭痛がひどくなってからでは、汗をかくと、か
えって……というより、運動することそのものができない。軽い段階で、思い切って汗をかく。運
動がよいことは言うまでもないが、その中でも、私のばあい、エンジン付の草刈り機で、バンバ
ンと草を刈るのが効果的。一汗かくと、偏頭痛そのものが消える。だから「おかしい」と感じた
ら、あたりかまわず草を刈ることにしている。理由はよくわからないが、下半身は毎日、自転車
できたえているため、走ったり、自転車にのっても、あまり汗をかかない。しかし上半身は、ほ
とんど鍛えていないので、草を刈るとその上半身を使うため、汗をかくのではないか……と、勝
手にそう解釈している。

 今でも、少し油断すると、頭重が起きる。しかしそれは同時に、私の健康のバロメーターでも
ある。持病もうまくつきあうと、それを反対に利用することができる。「少し頭が重くなったから、
仕事を減らせ」とか。そういうふうに、利用できる。

 この話は、子育てとは関係ないが、育児疲れや育児ノイローゼで、偏頭痛になる人も多いの
で、参考のために書いた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(498)

●スキンシップ

 よく「抱きぐせ」が問題になる。しかしその問題も、オーストラリアやアメリカへ行くと、吹っ飛ん
でしまう。オーストラリアやアメリカ、さらに中南米では、親子と言わず、夫婦でも、いつもベタベ
タしている。恋人どうしともなると、寸陰を惜しんで(?)、ベタベタしている。あのアメリカのブッ
シュ大統領ですら、いつも婦人と手をつないで歩いているではないか。

 一方、日本人は、「抱きぐせ」を問題にするほど、スキンシシップを嫌う。避ける。「抱きぐせが
つくと、子どもに依存心がつく」という、誤解と偏見も根強い。(依存心については、もっと別の
角度から、もっと別の視点から考えるべき問題。「抱きぐせがつくと、依存心がつく」とか、「抱き
ぐせがないから、自立心が旺盛」とかいうのは、誤解。そういうことを言う人もいるが、まったく
根拠がない。)

仮にあなたが、平均的な日本人より、数倍、子どもとベタベタしたとしても、恐らく平均的なオー
ストラリア人やアメリカ人の、数分の一程度のスキンシップでしかないだろう。この日本で、抱き
ぐせを問題にすること自体、おかしい。もちろんスキンシップと溺愛は分けて考えなければなら
ない。えてして溺愛は、濃密なスキンシップをともなう。それがスキンシップへの誤解と偏見とな
ることが多い。

 むしろ問題なのは、そのスキンシップが不足したばあい。サイレントベビーの名づけ親であ
る、小児科医の柳沢さとし氏は、つぎのように語っている。「母親たちは、添い寝やおんぶをあ
まりしなくなった。抱きぐせがつくから、抱っこはよくないという誤解も根強い。(泣かない赤ちゃ
んの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。
 もう少し専門的な研究としては、つぎのようなものがある。

 アメリカのマイアミ大学のT・フィールド博士らの研究によると、生後一〜六か月の乳児を対
象に、肌をさするタッチケアをつづけたところ、ストレスが多いと増えるホルモンの量が減ったと
いう。反対にスキンシップが足りないと、ストレスがたまり、赤ちゃんにさまざまな異変が起きる
ことも推察できる、とも。

先の柳沢氏は、「心と体の健やかな成長には、抱っこなどのスキンシップがたっぷり必要だ
が、まだまだじゅうぶんではないようだ」と語っている。ちなみに「一〇〇人に三人程度の割合
で、サイレントベビーが観察される」(聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院・堀内たけし氏)そ
うだ。

 母親、父親のみなさん。遠慮しないで、もっと、ベタベタしなさい!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(499)

●真昼の怪奇

 Gというレストランに女房と入った。食事がほぼ終わりかけたとき、隣の席に、明らかに大学
生と思われる、若い男女が座った。そのときだ。

 やや太り気味の男は、イスにデンと座ったまま。恋人と思われる女が、かいがいしくも、水を
運んだり、ジュースを運んだり、スープを運んだりしていた。往復で、三度は行き来しただろう
か。私はただただそれを見て、あきれるばかり。その間、男のほうは、メニューをのぞいたり、
少し離れたところにあるプラズマテレビの画面をながめたりしているだけ。その女を手伝おうと
もしない。いや、そんな意識は、毛頭もないといったふうだった。

 私はよほどその男に声をかけようと思った。そしてこう聞きたかった。「あなたはどういうつも
りですか?」と。

 日本では見慣れた光景かもしれない。そしてそういう光景を見ても、だれもおかしいとは思わ
ない。「そういう仕事は、女がするものだ」と、男は思っている。そして女自身も、「そういう仕事
は女がするものだ」と思っている。が、それこそ、まさに世界の非常識。そういう非常識が、日
常的にまかりとおっているところに、日本型の社会の問題がある。

 いや、その男女が、五〇歳代とか六〇歳代とかいうのなら、まだ話はわかる。しかしどうみて
も大学生。そういう若い男女が、いまだにその程度の意識しかもっていないとは!
 あとで女房とこんな会話をした。「家庭教育が問題だ」と。いや、教育というよりは、その男女
にしても、家庭の中で見慣れた光景を、そのレストランで繰り返しているにすぎない。教育とい
うよりは、私たち自身の意識の問題なのだ。

先日も、ある講演先で、「家事を夫も手伝うべきだ」というようなことを言ったら、ある男性から
反論のメールが届いた。いわく、「男は仕事で疲れて帰ってくる。その男が家に帰って、家事を
手伝うというのは現実的ではない」と。

 しかし言いかえると、世の男たちは、仕事にかこつけて、何もしない。「仕事」はあくまでも、方
便。方便であることは、その若い男女を見ればわかる。大学生といえば、たがいに平等のは
ず。その大学生の段階で、男の側にはすでに家事を手伝うという意識すらない。きっとあのレ
ストランの男も、いつか仕事から帰ってくると、妻にこう言うようになるだろう。「オイ、お茶!」
と。妻を奴隷のようにあつかいながら、その意識すらもたない。それは仕事で疲れているとか、
いないとかいうこととは関係、ない。

 私はまさに、真昼の怪奇を見せつけられた思いで、そのレストランを出た。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(500)

●意識の違い

 昔、ブラジルのサンパウロへ行ったときのこと。まだ日本人の観光客が珍しい時代で、行く
先々で、日系人が声をかけてきた。「あなたはどこから来ましたか。私の父はY県から来まし
た」と。

 正直言って、私にはそれが耳障りだった。うるさかった。だから心の中で、こう思った。「日系
人、日系人というが、ブラジル人ではないのか。どうしてブラジル人としてブラジル社会に溶け
込まないのか」と。たとえばブラジルにもドイツ系移民がいた。しかし彼らは移民したつぎの日
から、「私たちはブラジル人だ」と言いだす。

 で、その話を帰国してから、当時、六〇歳くらいの男性に話した。私は当然その男性は、私
に同意してくれるものとばかり思っていた。が、その男性は、私の話を聞くと、私に急に怒り出
した。「君は、ブラジルに移民した日本人の気持ちが理解できないのかね。向こうの人が、日
本人の君を見て、なつかしいと思ったのだよ。それをうるさいとは何だ。どの国に移民しても、
日本人は日本人だ」と。

 意識の違いというのは恐ろしい。私はその男性の剣幕に押されてしまった。当時の私は二七
歳。何かまちがったことを言ってしまったようで、そのまま小さくなった。しかし……。

 カナダのプロ野球選手が、アメリカの球団に移籍してプレーするようになったら、その時点か
ら、その選手はアメリカ人になる。カナダの放送局が、その選手を追いかけ回すようなことはし
ない。が、日本では、このところ毎日のように、アメリカンリーグで活躍する日本人選手が報道
されている。

アメリカという国は、もともと移民国家。その中にはアジア系アメリカ人も何割かはいる。日系
人もそのうちの何割かはいる。たまたまプロ野球で活躍しているからといって、「日本人、日本
人」と言うのはどうか。アメリカ人の男性と結婚した、ユキコという女性は、私にこう言った。「イ
チロー、イチローと騒いでいる日系人もいるが、彼らは、アメリカ社会に同化できない日系人で
すよ」と。

 どちらが正しいとかまちがっているとかいうことではない。ブラジル社会で、「日系人、日系
人」と言っている日系人と、アメリカで活躍する日本人選手を、「日本人、日本人」と言っている
日本人は、その底流でつながっている。ともに日本という島国の中でしか、世界を見ていない。
ちなみにアメリカでは、選手の人種や国籍を口にするのは、タブー。人種差別につながると彼
らは考える。

私はたまたま野茂が完封試合をしたとき、アメリカにいた。が、アナウンサーは最後の最後ま
で、野茂が日本人だということは口にしなかった(〇一年四月)。ただ試合の最後で、「日本人
のファンが喜んでいます」と、間接的な表現で、野茂が日本人ということをにおわせていた。ア
メリカ人ですら、そこまで気をつかって、野茂を、アメリカ社会に迎え入れようとしている。が、当
の日本人は、あえてそれに逆行するようなことをして騒いでいる。皆さんには、このおかしさが
わかるだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(501)

●いこいと、やすらぎと、そして、いやし

 家庭の役目は三つある。(1)いこい(憩い)、(2)やすらぎ(安らぎ)、(3)いやし(癒し)。

●いこいというのは、家族との心のふれあいをいう。たがいに心を開いた状態をいう。閉じてい
ては、いこうことはできない。

 心が開いているとき、子どもは自然な形で、親に甘えたり、スキンシップを求めてきたりする。
(甘えたり、スキンシップを求めてくることを悪いことと決めてかかってはいけない。)が、心が閉
じると、「すなおさ」が消える。いじけたり、つっぱったり、すねたり、ひねくれたりする。言いたい
ことを言いあい、したいことをしあうというのが、本来のあるべき家庭の姿ということになる。

●家庭は安らぐ場所でなければならない。そこでテスト。あなたの子どもは、あなたのいるとこ
ろや、あなたの見えるところで、平気で体を休めたりしているだろうか。もしそうなら、それでよ
し。そうではなく、あなたの姿を見ると、どこかへ消えたり、好んであなたのいないところで体を
休めているようなら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。

●家族はいやしあう。そのために五つの働きがある。助け合い、はげましあい、いたわりあ
い、守りあう、教えあう。

 日本人は、封建時代の昔から、「家」という形にこだわる一方、そのため中身を粗末にしてき
た。そのため「家庭論」とか、「家族論」というのが、ほとんど発達しないまま、現在に至ってい
る。ウソだと思うなら、アメリカへ行って、本屋をのぞいてみるとよい。

どこの本屋でも、学校教育の本と並んで、それと同じくらい数の、家庭教育の本が並んでい
る。もともとアメリカでは家庭教育が発達して、それが学校教育になったという歴史的な背景も
ある。それはそれだが、ホームスクーラー(学校へ行かないで、家庭で学習する子ども)には、
州政府が、教員まで派遣して、家庭での学習を指導している(アーカンソー州など、ほとんどの
州)。学校という場でも、「よき家庭人」を育てるが、教育の柱になっている。

 一方日本では、学校という場が、人間を選別する場として機能してきた。今もその機能は根
強く残っている。そのため「教育」というのが、「受験のための教育」と変貌(へんぼう)し、家庭
教育そのものをゆがめた。それでよいのか悪いのかという議論は、もうそれ自体、無意味とい
ってもよい。今こそ、日本の教育、なかんずく、家庭教育のあり方を考えなおすときではないの
か。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(502)

●あなたの家庭診断(試作)

 あなたの家庭は、子どもの側からみて、家庭として機能しているだろうか。こんな診断テスト
を考えてみた。あなたとあなたの子どもの関係に焦点をあてて、判断してみてほしい。(あなた
にとって居心地のよい家庭でも、子どもにはそうでないケースは、多い。このテストでは、子ども
の側からみた、あなたの家庭を診断する。)

( )去年とくらべて、同じようなリズムで親子の生活が流れている。親は親で、子どもは子ども
で、それぞれのリズムで、生活している。大きな変化はない。(+1)
( )疲れたとき、さみしいとき、つらいときなど、家庭がその「逃げ場」になっているようだ。学校
から帰ってくると、ほっとするような様子を見せる。(+1)
( )子どもはあなたに何でも言いたいことを言えるようだ。あなたの前でも態度も大きく、したい
ことを平気でしているようだ。(+1)
( )何か新しいことができるようになったとき、あるいはよいニュースがあったようなとき、それ
が家族全体の話題になる。たがいにそれを喜びあう雰囲気がある。(+1)
( )家庭の中にも、居場所や逃げ場をもっていて、それぞれが、いてもいなくても、気をつかう
ことなく、体を休めたり、心をいやしたりすることができる。(+1)
 一方、以上の五項目とは反対に……
( )親子のリズムがつかめない。どこかチグハグで、去年と比べても、大きく変化したようだ。
どこか毎日、あたふたとしているうちに過ぎていくといった感じ。(−1)
( )外から帰ってくるようなとき、どこか雰囲気が暗いときがある。気晴らしをするときも、好ん
で外の世界で(あるいは閉じこもって)しているようだ。(−1)
( )あなたの前では静かで、話しかけても、あまり返事をしない。どこかよい子ぶっているとこ
ろがある。何を考えているかわからないときがある。(−1)
( )親子の間に感動が少なくなった。よいニュースがあっても、自分だけの世界にそれを閉じ
こめようとする。自分だけで問題を解決しようとすることが多いようだ。(−1)
( )できるだけ親の顔や姿が見えないところで、体を休めている。家族と顔をあわせるのを避
け、顔を見ると、どこかへ姿を消すことが多い。(−1)

 以上の質問で、プラス・マイナスを合計して、プラス点であればよし。マイナス点であれば、こ
の時点を原点として、一年単位で「よき家庭づくり」を始める。「よき家庭」というのは、そういう
意味で、健康に似ている。怠惰(たいだ)な生活をしていると、すぐ崩壊する。「よい家庭」という
のは、家族が力をあわせて、つくりあげるもの。決して、向こうからやってくるものではない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(503)

●まじめな子ども

 基本的なまじめさは、幼児期に決まる。この時期までの、バランスのある生活が、子どもの
「まじめさ」をつくる。ここでいう「バランスのある生活」というのは、心静かで、おだやかな生活
をいう。まずいのは、アンバランスな生活。極端な甘やかしと、極端なきびしさが同居するよう
な生活は、子どもを育てる環境としては、決して好ましいものではない。

よくある例は、極端にきびしい母親と、子育てに無関心な父親、あるいはデレデレに甘い祖父
母と、しつけにきびしい母親との組みあわせ。育児拒否や家庭内騒動がよくないことは、言うま
でもない。こういう環境では、子どもは静かに考えること自体できない。

 そのまじめさは、いかに自分を律するかで決まる。こんな子ども(小四女子)がいた。たまた
まバス停で会ったので、私が「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけたときのこと。その子
どもはこう言った。「いえ、いりません。これから家に帰って夕ご飯を食べますから」と。こういう
子どもを、まじめな子どもという。

 一方、自分で考える習慣のない子どもは、行動がどこか、常識ハズレになりやすい。あるとき
年長児のクラスで、私が、「ブランコを横取りされたら、君はどうしますか」と聞いたときのこと。
一人の子ども(男児)は、こう言った。「そういうヤツはぶん殴ってやる。どうせ口で言ってもわ
かんねエ〜」と。

 まじめな子どもは、当然のことながら、自分を律する力が強い。よく子どもの非行が話題にな
るが、非行に走るか走らないかは、その子どもの抵抗力による。もっとわかりやすく言えば、抵
抗力に弱い子どもが、非行に走るようになる。で、その抵抗力というのは、ここでいう「自分を
律する力」をいう。まじめな子どもは、誘惑を受けたときも、その誘惑を自分で判断し、一時的
に負けることはあっても、やがてその誘惑に打ちかつ。しかしそうでない子どもは、そのまま誘
惑に負けて、非行へと進む。

 ……だから乳幼児期の教育が重要と書けば、私の手の内が見えてしまう。しかし事実は、そ
のとおりで、私の視点からすると、小学一年生ですら、おおきな子どもに見える。中学生ともな
ると、もう手の届かない、おとなに見える。だから中学生をもつ親から、「どうしたらいいでしょう
か」という相談を受けると、私は実のところ、何と答えてよいのかわからなくなる。「手遅れ」とい
う言葉は使いたくないが、しかしそれに近い印象をもつことは事実だ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(504)

●別れぎわの美学

 その月の最後のレッスンのとき。しかもその日の授業が終わったとき、生徒の一人が、私に
メモを渡した。見ると、「今日で、BW(私の教室)をやめます」と。母親の字だった。私はそのメ
モを読んで、体が震えた。「やめる」は、この世界では、クビ切りと同じ。そういうクビ切りを、た
った一枚のメモですますとは!

 ……と言っても、そういうことはこの世界では、日常茶飯事。いちいち怒っていたのでは、仕
事はできない。「元気でね、さようなら」と言い終わるときには、もうその生徒のことは忘れるこ
とにしている。が、それは同時に、私にとっても、決別のときでもある。そういうやめ方をする人
の子どもは、二度と教えない。それは私の意地というよりも、この世界に生きる人間のプライド
のようなものだ。地位や肩書きのない人間は、この日本では軽く見られる。その軽く見られた
分だけ、私は私の生きざまをつらぬく。

 が、当の親には、その意識がない。数週間もすると、またメールを送ってきて、「来週から、ま
たお世話になります」などと言ってきたりする。あるいは図々しくも(?)、今度は兄のことで相談
してきたりする。私はそういうとき、はっきりと「断わります」と言う。が、断われば断わったで、
そういう親ほど、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒り出す。もともと私をその程度
の人間にしか見ていないからだ。

 先日もこんなことがあった。私の書いた原稿を、私に無断で、あちこちに転送した女性がい
た。しかも私の原稿をズタズタにしたうえ、ほとんど一行ごとに、コメントを書き添えて、だ。それ
には「美人はとくね」と、私を揶揄(やゆ)したようなコメントまであった。最終的には、その原稿
は私のところへ回送されてきたが、そのときほど体が怒りで震えたことはない。

私はしがないもの書きだが、女房ですら、そこまではさせない。(女房だって、しない。)以後、
その女性とは縁を切ったが、この女性にも罪(?)の意識はなかった。何度かメールで、「どうし
て返事をくれないのですか」と言ってきた。が、返事など書けるものではない。平気で私信を、
それも許可なく転送する人に、返事など書けない。

 ……と、まあ、他人の批判ばかりしているが、私も他人に対して、同じようなことをするときが
ある。もともと性格がゆがんでいるから、キズつけられるよりも、キズつけることのほうが多い
かもしれない。偉そうなことは言えない。しかしこれだけは言える。

 人と出会うのは、簡単なことだ。しかし別れるときは、そうでない。言いかえると、人のつきあ
いは、別れぎわの美学で決まる。つまりいかに美しく、わだかまりなく別れるかで、その人の価
値が決まる。「価値」というと少しおおげさに聞こえるかもしれないが、人間の価値は、人との
「かかわり」の中で決まる。その「かかわり」は、別れるとき清算される。別れぎわが汚いという
ことは、それまでの「かかわり」を否定することになる。決してメモ一枚で、相手と別れてはいけ
ない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(505)

●親に甘えない子ども

 親に甘えることができない子どもは、多い。あなたの子どものことではない。あなた自身のこ
とだ。あなたは自分の親に、甘える、つまり全幅に心を開くことができるか。

 ある母親はこう言った。「今でも親の前へ行くと、気が疲れます」と。「実家へ帰るのが、苦痛
でならない」と言った母親もいた。「両親とも教師で、私は今でも親の前では、いい子ぶっていま
す」「親子なのに、私は親とは儀礼的なつきあいしかできません」と言った母親もいた。親子だ
から、それなりに親密のはずと決めてかかってはいけない。私が知る範囲でも、何割かの母親
は、実の親たちとのつきあいのことで、悩んでいる。

 が、もっと大きな悲劇は、そういう息子や娘をもちながら、とうの親たちは、「できのよい子ど
も」と誤解しているところにある。一人の母親は、こうメールに書いてきた。「私の両親は、私の
ことをできのいい娘と思っているようです。それに私が東京のT大学(国立)を出たことを自慢し
ていますが、私にはそれが不愉快でなりません。両親は私の仮面しか見ていないからです」
と。

 そこで今、あなたとあなたの子どもの関係をみてほしい。あなたの子どもは、あなたに対し
て、全幅に心を開いているだろうか。言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。ある
いは反対に、ひょっとしたら、あなたの前で仮面をかぶってはいないだろうか。あなたの前でよ
い子ぶったり、仮面をかぶっていないだろうか。

前者のようであればよし。しかしそうでなければ、親子のあり方を、かなり反省したほうがよい。
とくに権威主義は、親子のあいだに、大きなキレツを入れる。「私は親だ」「親に向かって、何
だ」というような言い方をしていて、どうして子どもはあなたに心を開くことができるのか。

 繰り返すが、「たがいに心を開いて、わかりあえる」。それが家族の第一の役目である。家族
が家族である理由は、すべてこの一語に行きつく。そのほかの問題は、すべてマイナーな問
題。どうでもよいとは言わないが、しかしこの役目の前では、ささいな問題と考えてよい。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(506)

●よい親子でいるために

 心というのは、一度、閉じると、開くのは容易ではない。中学生や高校生でも、親と会話すら
しない子どもは、いくらでもいる。なぜそうなるかは別として、子どもの心を安易に考えてはいけ
ない。一度閉じた心を開くのは、それこそ五年単位の時間と努力を必要とする。成人してから
も、ほとんど会話のない親子はいくらでもいる。私の知人のK氏は、今年三五歳になるが、父
親(六二歳)と、食事すら別々。廊下ですれ違うときも、目をそむけあっている。同居しているだ
けに、ことは深刻である。K氏の妻はこう言った。「毎日が一触即発の状態です。先日も、『殺
す』『殺してみろ』のおおげんかをしました」と。

 そこでもしあなたが、今、あなたの子どもの心が閉じ始めているのを感じたら、できるだけ初
期のうちに、手を打つのがよい。この問題だけは、遅れれば遅れるほど、こじれる。ある母親
は息子(小五)の受験勉強に狂奔しながら、こう言った。「私は息子には、ひどい母親に見える
かもしれません。しかしいつか息子が目的の中学校に入学したとき、私のことを理解し、感謝し
てくれると思います」と。が、残念ながら、そういうことはありえない。絶対にありえない。こういう
ケースのばあい、閉じるどころか、心そのものが破壊される。

 親というのは、皮肉なものだ。自分だって一度は子どもであったにもかかわらず、その子ども
の心がわからない。わからないまま、「子どものことは私が一番よく知っています」と、子どもの
心を、親の立場で決めてしまう。そしてやがて行き着くところまで行き、そこで失敗する。その途
中で、私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「私にかぎって」とか、「うちの子にかぎって」と
か言って、その時期を見逃してしまう。どれもこれも、結局は子どもの心を安易に考えるところ
から始まる。繰り返すが、子どもの心を決して安易に考えてはいけない。

(チェックテスト)
●あなたは子どもの心を安易に考えていないか。
●あなたは子どもの心をつかんでいると誤解していないか。
●あなたは自分のエゴを子どもに押しつけていないか。
 
 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(507)

●顔の見えない親たち

 まさに顔が見えない。インターネットで、メールを交換していると、「文」だけの関係になる。そ
のためおかしな現象が起きる。

 たとえばA市に住むAさんから、子育ての相談を受けたとする。で、数回、メールを交換したと
する。で、しばらくしたあと、今度はB市に住むBさんから、別の相談を受けたとする。で、同じ
ように数回、メールを交換したとする。こういうことを、全体として、何度も繰り返していると、だ
れがだれだかわからなくなってしまう。当然といえば、当然だが、そんなとき、「以前、相談した
ことのあるC市のCです」というようなメールをもらうと、頭の中が大混乱してしまう。

 ひとつの解決策としては、その人の写真を同時に送ってもらうことだが、まさか「写真を送って
ください」とは、言えない。相手が母親だとまずいが、父親だと、もっとまずい。へんに誤解され
てしまう。たぶんこのことは、相手の人にもそうだろう。「はやし浩司は一対、どんな男なのだろ
う」と思いながら、相談してくる人も多いと思う。今のところどのように解決したらよいのかわか
らないが、そのうちもう少しインターネットが発達すれば、テレビ電話のようなことができるよう
になるかもしれない。そうなれば、たがいに顔を見ながら、メールを打つことができるようになる
だろう。

 そこで私のばあいは、メールをくれる人には、住所と名前を書いてもらうことにしている。これ
はイタズラメールや、ウィルス入りのメールを防ぐ目的もあるが、そうすることで、「個性」を確認
することにしている。が、ここでもおかしな現象が起きる。名前やその人が住んでいる土地で、
その人のイメージが、勝手に頭の中でつくられてしまう。たとえば……(不謹慎だが、相手が母
親だと……)、

京都の京子さんという名前だと、舞妓さんのような女性をイメージしてしまう。大阪のマユミさん
という名前だと、都会的なキャリアウーマンをイメージしてしまう。一方岩手の岩枝さんだと…
…、これは書けない。ともかくも勝手に頭の中でイメージがつくられてしまう。そしてこれが誤解
と偏見の原因となる。

さてさてどうしたらよいものか? ……と思いつつ、今朝も数人の方に、メールの返事を書い
た。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(508)

●子どものトラブル解決法(1)

 子どもどうしのトラブルが、一定の限度を超えて、子どもの心に影響が出てくることがある。た
とえば深刻なケースとしては、不登校(学校恐怖症)にまで発展することもある。が、そこまでは
いかないにしても、相手の子どもの暴力や暴言、いじめなどが原因で、子どもの心が変調をき
たすことがある。ぐずったり、元気がなくなったり、反対に家で荒れたりする。そういうトラブルが
つづくと、当然のことながら親は、「学校に言うべきかどうか」で悩む。ひとつのケースを、モデ
ルに考えてみる。

【K君、小三男児のケース】
 K君は、スポーツも得意で、よくハメをはずすことはあるが、学校でも人気者で、性格も明る
かった。毎日そのため、いつも友だちの家で回り道をして帰ってきた。算数教室にも通ってい
たが、一度、友だちの家に集合し、そこからみなといっしょに算数教室へ通っていた。

 そのK君の様子がおかしくなったのは、秋も深くなった一一月のことだった。K君が「学校は
いやだ」「学校へ行きたくない」と言い出した。朝、起きてもぐずぐずしているだけで、したくすら
しない。そこで父親が理由を聞くと、「M君(同級生)がいじめるからだ」と。M君は、キレると別
人のように暴れるタイプの子どもだった。父親はこう言った。

 「それまでは、回り道をして帰ってくるのがふつうだったKですが、このところまっすぐ家に帰っ
てきます。それがかえって不自然な感じがします。それに母親が『算数教室のプリントをしたら』
というと、突発的に興奮状態になって、暴れます」と。

 不登校が長期にわたることが多いのに、学校恐怖症がある。この恐怖症には、ある一定の
前兆現象があるのが知られている。K君のケースでも、朝起きたとき、ぐずる、不平、不満が
多くなるなどの症状がみられる。ほかの神経症による症状、たとえば腹痛、頭痛などの症状が
今のところ見られないので、まだ初期の、初期症状と考えてよい。しかし様子は慎重に判断し
なければならない。この段階で、無理をして、子どもの心を見失うと、症状は一挙に加速、悪化
する。

 ここでは不登校を問題にしているのではない。ここでは、だれに、どのように相談し、問題を
解決したらよいかという問題を考える。当然、最終的には学校ということになるが、その前にや
るべきことは多い。(不登校については、別のところ読んでほしい。)

(1)家庭を心をいやすやすらぎの場と心得ること。外の世界で疲れた子どもを、温かくしっかり
と包み込むような雰囲気を大切にする。子どもの生活態度や生活習慣が乱れ、だらしなくなる
ことが多いが、それはそれとして、大目にみる。

(2)食事面で、Ca、Mgの多い食生活にこころがけ、子どもの心を落ちつかせることを大切に
する。そして家では子どもを、「あなたはよくやっている」というような言い方をして、子どもの心
を裏から支えるようにする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(509)

●子どものトラブル解決法(2)

 子どもどうしのトラブルが、限界を超えたら、(どこが限界かを判断するのはむずかしいが)、
学校の先生に相談、ということになる。その相談について……。

 これはどんなばあいでもそうだが、自分の子どものことを先生に相談するときは、子どもの症
状だけを、ていねいに訴えて、それですますこと。親が原因さがしをしたり、理由づけをしては
いけない。いわんや相手の子どもの名前を出したり、先生を批判してはいけない。あくまでも子
どもの症状だけを訴えて、それですます。判断や指導は、プロである先生に任す。

それがわからなければ、たとえばあなたが病気になったときのことを思い浮かべればよい。あ
なたはドクターに、自分の診断名や治療法を話すだろうか。そんなことをしても、意味がない。
ないばかりか、かえって、診断や治療のさまたげになる。学校という社会では、先生は、まさに
教育のドクター。が、それだけではない。

 この種のトラブルは、たとえばあなたが相手の子どもの名前を口にしたりすると、問題が思わ
ぬ方向に、飛び火したりする。一〇人もいれば、一人はまともでない親がいる。そのうちさらに
一〇人のうち一人は、頭のおかしい親(失礼!)がいる。そういう人をトラブルの中に巻き込む
と、それこそたいへんなことになる。現に今、私が知っている人の中には、「言ったの、言わな
いの」が、こじれて、親どうしで裁判闘争している人さえいる。こうなると、子どものトラブルでは
すまなくなる。

 私は、つぎのような格言を考えた。

●親どうしのつきあいは、如水淡交……親どうしのつきあいは、水のように淡(あわ)く、サラサ
ラとつきあうようにする。教師との関係もそうで、濃密だから、子どもに有利とか、そういうふう
に考えてはいけない。

●行為を責めても、友を責めるな……これはイギリスの格言だが、子どもが非行に走っても、
その行為を責めるにとどめ、友を責めてはいけない。「あの子と遊んではダメ」と子どもに言う
ことは、子どもに「親をとるか、友をとるか」の択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなた
をとればよいが、友をとれば、同時にあなたと子どもの間には大きなキレツが入ることになる。

同じように、学校でのトラブルでも、仮に先生に問題があっても、先生を責めてはいけない。症
状だけを訴えて、あとの判断は先生に任す。(もっともあなたが転校を覚悟しているのなら、話
は別だが……。)

●子どもどうしのトラブルは、一に静観、二にがまん。三、四がなくて、五にほかの親に相談…
…「ほかの親」というのは、同年齢もしくはやや年齢の大きい子どもをもつ親のこと。そういう親
に相談すると、「うちもこんなことがありまたよ……」というような会話で、大半の問題は解決す
る。学校の先生に相談するのは、そのあとということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(510)

●世間体論

 クイズ……「A氏(六五歳男性)の母親はBさん(他界)。しかし戸籍上は、A氏とBさんは弟姉
になっている。こんなことはありえるだろうか」

 古い世代の人は、このクイズはすぐ解ける。しかし若い世代の人には、むずかしい。つまり昔
の人は、それくらい世間体を気にした。

 先日もある母親から、こんな相談があった。「離婚をしたが、子どもを連れて、実家へは帰れ
ない。どうしたらいいか」と。私が「どうして?」と聞くと、「実家の両親が、世間体もあるから、実
家へ入れるわけにはいかないと言っている」と。つまり娘が離婚し、子ども(孫)を連れて帰って
くることを、親たちは「恥ずかしい」というのだ。

私はこの話を聞いたとき、第一に、その母親のことよりも、その実家の両親のことをかわしそう
に思った。年齢を察するに、私と同じくらいか。その親が、いまだに自分の人生観を確立するこ
とができないでいる! それだけではない。子どもを愛するということが、何であるかさえわかっ
ていない!

 あなたは世間体という魔物を知っているか? この世間体に毒されると、自分を見失う。家族
の心を見失う。この世間体は、もともと戦前の、もしくはそれ以前からの全体主義的なものの
考え方に由来する。みなと同じことをしていれば安心。そうでなければ不安。みなと同じことをし
ている人を受け入れる。そうでない人を排斥する。そういうものの考え方が基本にあって、日本
人は、その世間体を気にするようになった。「世間が笑う」「世間が許さない」という言い方も、
そこから生まれた。

 また子どもを愛するということは、子どもをあるがまま受け入れるということ。この親たちは、
子どもの苦しみや悲しみさえわかっていない。あるいはその苦しみや悲しみを、共有しようとい
う意識さえない。いったいこの親たちは、何のために、どうして子育てをしてきたのか? 娘の
苦しみや悲しみを救うことよりも、世間体のほうが大切にしている。自分のメンツや見てくれ、
体裁のほうが大切にしている。

その母親は離婚という状況に追いこまれたが、今どき、離婚など、どうということはない。その
両親は、さかんに孫のことを、「かわいそうだ」「あわれだ」と言っているそうだが、本当にかわ
いそうなのは、孫ではない。娘というその母親でもない。その母親の両親だ。自分をつかめな
い、両親だ。

 さて冒頭のクイズ。そのA氏は、私X児(今、この言葉は禁止語になっている)として生まれ
た。そこで世間体を気にしたBさんの父親が、自分の息子として戸籍に入れた。だから戸籍上
は、A氏とBさんは、戸籍上では、弟姉となった。戦前まではよくあったことである。あなたはこ
のクイズが解けただろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(511)

●時間論
 久しぶりに、自宅から市内にある教室まで歩いてみた。地図の上では、六キロだが、歩くと七
〇分もかかった。たまたまワールドカップの最中だったので、「前半と後半で、計九〇分間も走
り回るのも、結構たいへんだなあ」と、へんな感心をしながら歩いた。それともうひとつ。「江戸
時代には、みんなこの道を歩いたのかなあ」とも。が、そのうち、「時間」について考えるように
なった。

 車で行けば、一〇〜一五分の距離。それを歩いていくのは、時間のムダなのか。それともム
ダでないのか、と。ときどき若い男が、車で猛スピードで私の横を通り過ぎていったが、それを
見たとき、今度は反対のことを考えた。彼は時間を大切にしているのか。それとも大切にして
いないのか、と。

 話はぐんと現実的になるが、今、平均的な高校生で、一日、四〜五時間(各種調査)は、家で
テレビを見ている。学校での授業を、五〇分かける五時限として、一日、二五〇分。時間にな
おすと、四時間と少し。つまり学校で授業を受ける時間より、家でテレビを見る時間のほうが、
長い。影響ということを考えるなら、子どもたちは学校で受ける影響よりも、テレビでのほうで、
はるかに強い影響を受けている。

しかしこういうのを時間のムダというのではないのか。「娯楽」と言えば聞こえはよいが、低俗な
バラエティ番組を見ながら、ギャーギャーと笑うことが、本当に娯楽なのか。また高校生に、そ
んな娯楽が必要なのか。……と書くのは、ヤボなことだが、私はこのところ、「だからどうなの
か?」ということをよく考える。年齢のせいかもしれない。「急いで帰って、それがどうなのか」と
か、「テレビを見て楽しんで、それがどうなのか」と。最近は、億単位のお金を稼ぐ人の話を聞く
と、「必要以上に、お金を稼いで、それがどうなのか」と考えることもある。これは私のひがみの
ようなものかもしれない。

 結論から言うと、歩くことは、決してムダではない。健康にもよいが、それ以上に、時間という
ものを、しっかりと自分でつかむことができる。一方、何か理由があって急ぐのならともかくも、
そうでなければ車に乗ることは……? ムダとは言いきれないが、「だからどうなのか」という部
分が、どうしても浮かびあがってこない。若い男が猛スピードで走り去るのを見たときも、そうだ
った。私は「そんなに急いで、どうするのか?」と。

 考えてみれば人生で一番大切な財産は、時間だ。この時間は、お金にはかえられない。で、
そこで重要なことは、いかに自分のものとして、そのときどきの時間をつかむか、だ。いかにし
て納得してすごすかということになるかもしれない。その方法は、人さまざまだが、私のばあ
い、「生きる」ということは、「考える」こと。考えたときが、まさにつかんだ時間ということになる。
だからたとえばつまらないビデオを見たりして時間をムダにしたと感じたりすると、「しまった!」
と思うことがある。

 私はその六キロを歩きながら、そんなことを考えた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(512)

●日本の仏教

 日本の仏教には、多くの矛盾がある。矛盾だらけと言ってもよい。少し前になくなったが、東
大のN名誉教授は、さかんに「大乗非仏説」を唱えていた。つまりインドからヒマラヤ山脈の北
を回って中国、日本へと伝わった仏教(大乗仏教、北伝仏教)は、釈迦が唱えた仏教とは異質
のものである、と。

 私はすべてがそうだとは言わないが、矛盾がないわけではない。たとえば、インドでは男性だ
ったカノンが、日本では観音様という女性になっていること。日本の仏像が、(ガンダーラの仏
像もそうだが)、古代インドの服装ではなく、すべてヘレニズム文化の影響を受けた古代ギリシ
アの服装を身につけていること。

また経典の中に、よく、貨幣の話が出てくるが、釈迦の時代にはまだ貨幣はなかったこと、など
など。釈迦の生誕地に残る仏典(法句経)は別として、それ以外は、どうも?、というものが多
い。そういうものを根拠にして、仏教を説いても、あまり意味がないのではないのか。さらに総じ
てみれば日本の仏教は、あのチベット密教の影響をモロに受けている。それが中国の土着宗
教と結びついて、日本へ入ってきた。チベット密教そのものと言う人もいる。

 だからといって私は仏教を否定しているのではない。仮に仏教が否定されたとしても、
その仏教とともに生きてきた、何億何千万もの人たちの人生まで否定することはできない。た
だ、盲信するのはいけない。中には、経典の一言半句にまで深い意味を求める人もいるが、し
かしここにも書いたように、矛盾がないわけではない。そういう矛盾、つまり明らかなまちがい
まで押し殺して盲信するのは、危険なことでもある。

 大切なことは、自分で考えることだ。先日もある著名な仏教哲学者U氏の講演をテレビで見
ていたが、その中でその哲学者はこう言っていた。「○○経にXXという言葉がありますが、つま
り人間はみな、平等と釈迦は教えているのです」(NHK、〇二年六月)と。しかし、だ。何もおお
げさに経典の一節をもちださなくても、人間がみな平等というのは常識ではないのか。ほんの
少し自分自身の「常識」に照らし合わせれば、小学生にだってわかる。

それにその哲学者は、こうも言っていた。「人間は白人も、黒人も、黄色人種も、みな平等だ
と、そういうことを釈迦は教えているのです。すばらしいことです」と。しかしこの話はウソ。釈迦
の時代に、釈迦の周辺に、白人や黒人、黄色人種はいなかった!

 私たちは何の疑いもなく、日々の生活の中で、仏教的な儀式を繰り返している。そしてそれ
があるべき方法だと、信じて疑わないでいる。しかしそういう姿勢こそ、ひょっとしたら、釈迦が
もっとも嫌った姿勢ではないのか。話せば長くなるが、法句経で述べている釈迦の精神とは、
どこか違うような気がする。

 ここではこの程度にしておくが、もし興味があったら、あとは皆さんが、自分でたしかめてほし
い。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(513)

●妻の呼び名

 数年前になくなったが、私のオーストラリアの友人の父親は、彼の妻のことを、いつも「フレッ
ド(Fred)」と呼んでいた。「友」という意味である。

 で、私は家では、「晃子(あきこ)」と名前で呼んでいる。しかし文では、「女房」と書いている。
ところが最近、私はこの「女房」という言い方に、どこか抵抗を覚えるようになった。そこで女房
に相談すると、女房は、「ワイフでいいんじゃない?」と、言った。そこで今日から、女房の呼び
方(書き方)を変えることにした。「ワイフ」にした。

女房……何となく、古臭い。
妻……夫と妻というように、どこかに上下意識があっていけない。
家内……男尊女卑っぽい。
かみさん……どこか古臭い。
ワイフ……まあ、悪くない。
つれそい……どこか男尊女卑的。
フレッド……パクリっぽい。それにいちいち括弧づけで、「フレッド(妻)」と書かねばならない。

 いろいろあるが、そんなわけで、「ワイフ」にした。これからは、この呼び方で統一する。書くと
きも「ワイフ」にする。これなら上下意識も感じられない。ただひとつだけ気になることがある。
どうも本人とのイメージがあわない。私のワイフは、このところますます、「かみさん」風になって
きた。それを「ワイフ」とは? それにワイフが「ワイフ」なら、私は「ダーリン」か? どこかくすぐ
ったい感じがしないでもない。

 ……ともかくも、今日からワイフ。私の原稿で、「女房」と書いてあるのは、二〇〇二年六月二
八日以前のもの。「ワイフ」と書いてあるのは、六月二八日以後のもの。しかもこの子育て O
NE POINT アドバイス!の第513号が、その境目ということになる。どうでもよいことだが…
…。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(514)

●親の支配意識

 あなたは今、親だ。それはわかる。しかし親といっても、その意識は、みな違う。たとえば子ど
もを支配したいという意識がある。支配意識という。その意識は、人によってみな、違う。そこで
テスト。

 あなたの子ども(小学生〜中学生)が、何かの賞金で、少し高額のお金を手にしたとする。そ
のとき、あなたはそのお金をどう思うだろうか。

(1)子どものお金だから、私には、関係ないと思う。どう使おうと、子どもの勝手。私の知ったこ
とではない。(2)子どものものは、私のもの。当然、私が使う権利があると思う。使い道につい
ては、私が指示する。あるいは私のお金として使う。 

 ここに書いたのは、極端な例で、もちろんその中間もある。しかし支配意識の強い親ほど、
(2)のように考える。いろいろな例がある。

 ある女性(55歳)は夫が死んだあと、小さな店を継いだが、ときどきその店を手伝っていた自
分の娘(既婚、夫と別場所に住む)には、ほとんど給料を払わなかった。

 ある女性(七〇歳)はこう言った。「私は今の家に嫁いで四五年になるが、夫にさえ、嫁いだこ
ろは、お手伝いか、女C(この語は今、禁止語になっている)のようにしかあつかってもらえなか
った」※と。

 ある母親(七五歳)は、自分の息子のできがよいのを喜び、息子を自慢のタネにして、友人た
ちの間で、いばっている。「あの息子を育てたのは、私だ」と。

 支配意識の強い親ほど、「私のものは、私のもの。私の子どもは、私のもの。だから私の子
どものものは、私のもの」という考え方をする。「自分の娘だから、給料など払う必要はない」
「嫁は、家に嫁いできたのだから、まず家のために働くべき」「老後は、息子や娘の自慢話をす
るのが、何よりも楽しみ」と。

 しかしこうした考え方は、一方で、子どもの人格や人権を否定することになる。どう否定する
かということではない。支配意識をもつこと自体、否定していることになる。言いかえると、子ど
もの人格や人権を認めるためには、親自身が、この支配意識から抜け出さなければならな
い。もっと言えば、「あなたの人生はあなたのもの。どこまでいっても、あなたのもの」と、一〇
〇%の人生を子どもに手渡してこそ、子どもの人格や人権を認めたということになる。

 さてあなたの支配意識は、どの程度だろうか。だれにでも、ある程度の支配意識はある。
が、もしあなたが「うちの子のことは、私が一番よく知っている」という言葉を、日常的に使って
いるようなら、一度、この支配意識を疑ってみたらよい。

※……このケースは、夫が妻に対して支配意識の強いケースである。あなたは妻に対して、ど
の程度の支配意識をもっているか。反対にあなたの夫は、あなたに対してどの程度の支配意
識をもっているか。それを知るのも、何かの役にたつかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(515) 

●偏見と誤解

 教育の世界には、偏見と誤解が満ちあふれている。ここでひとつ、「心の実験」をしてみよう。
 あなたは「はやし浩司」という人間を、どう見ているだろうか。たぶん、あなたは私のことを、ま
じめで、融通のきかないカタブツ人間と思っているだろう。教育問題を論じているから、なおさら
そういうタイプの人間だと思っている。あるいはもっと別のイメージをもっているかもしれない。
あなたが私をどういう目で見ているか、だいたいのところ察しはつく。しかしつぎの文を読んで
ほしい。

 「いつも寝る前に、バイアグラと鉄分を含んだ鉄剤をのんでいた男がいた。朝起きると、彼の
頭はいつも北の方角をさしていたという。また別の老人は、いつもバイアグラを、一錠だけのん
でいた。ドクターが、『バイアグラは二錠のまないと効果がない』と言ったら、その老人は、こう
答えた。『いえ、わしは、小便するとき、足元をぬらさないためにのんでいるだけでサ』と。

カトリックの神父学校では、もちろんバイアグラは厳禁。小便のあと、あれを何回まで振ってよ
いかも決まっている。聞くところによると、三回まではよいそうだ。四回以上は、マスターベーシ
ョンになるからダメだそうだ」(オーストラリアのB君のメールより)。

 この文を読んで、たいていの人は、強いショックを受けるにちがいない。もちろんこれはつくり
話である。私とて男だから、この程度のメールのやりとりは、いつもしている。が、問題はその
ことではない。

 このときあなたの頭の中では、バチバチと偏見と誤解がショートを起こして火花を飛び散って
いるにちがいない。「教育評論家が何てことを書くのだ!」「バイアグラをテーマにするなんて、
どういうことだ!」と。

 さて、本題。偏見と誤解について。私たちは日常的な常識(私がいう「常識論」の常識とは別)
の中で生きている。そしてその常識が、一方でひとつの固定観念をつくる。固定観念がまちが
っているというのではない。その固定観念が、ときとして偏見と誤解を生む。教育の世界はとく
にそうだ。その中でも最大のものは、教職は聖職であるという偏見と誤解。中には、教師のこと
を、牧師か出家者のように思っている人がいる。

私も教育の世界をかいまみて三二年になるが、これほどまでの偏見と誤解が満ちあふれた世
界はほかに知らない。しかし教師といっても、あなたやあなたの夫や妻と、どこも違わない。違
うほうがおかしい。大学で教育言論を履修したとか、多少の実習を受けたということをのぞけ
ば、会社へ入社した社員と、どこも違わない。

 実は、教育論もそうだ。本来、教育論は、もっと生々しく、もっと人間くさいもの。教育を「教
育」として構えてしまうから、話がおかしくなる。そのおかしさを、逆説的にわかってほしかった
から、あえてここで「心の実験」をしてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(516)

●同性愛

 「君には好きな子がいないのか?」と聞くと、J君(高一男子)は、さみしそうにうなずいた。ピリ
ッとした緊張感が走ったが、心のどこかで私の話を拒絶したのかもしれない。あるいは罪の意
識をもっていたのかもしれない。

 J君は、決してもてないタイプの男ではない。色白で、整った顔立ちをしていた。その気になれ
ば、いくらでもガールフレンドなどできたであろう。で、そこでまた、「女の子に興味がないの
か?」と聞くと、J君は黙ったまま、下を向いてしまった。

 この時期に、同性愛者かどうかの傾向がはっきりする。私は女子の同性愛については、まっ
たくわからないが、男子のそれはよくわかる。私が「男」であることによるためかもしれない。本
能的な部分で、それをかぎ分けることができる。私は「濃い男」か、「薄い男」かと聞かれれば、
「濃い男」だ。女性から遠い位置にいる男を、「濃い男」、女性に近い位置にいる男を、「薄い
男」という。これは私が勝手に作った言葉だが、つまり私自身が濃い男であるがゆえに、そうで
ない薄い男がよくわかる。

 こういうケースでは、私としてはなすべきことは、何もない。あるがままを認めて、あるがまま
を受け入れるしかない。いつかオーストラリアの友人がこう言ったのを覚えている。「白人の男
性の、約三分の一は、同性愛者だ」と。日本では、そこまで多くないかもしれないが、しかし「い
ない」わけではない。それに同性愛者といっても、いろいろなタイプがある。私の知人の中に
は、同性愛者でありながら、一方で平穏な結婚生活を営んでいる人もいる。

 J君が、どのようなタイプなのかはわからない。心の奥まで、私とてのぞくことはできない。た
だ「できれば……」という思いが働いて、教育の場で何とかできないものかということは考える。
ときどき冗談をまじえながら、「女性のヌード写真くらいはもっているだろ?」とか、自分の失敗
談を話したりして、それとなく反応をみるのだが、まったくと言ってよいほど、そういう話には乗
ってこない。「親に報告すべきか」ということで迷うこともあるが、しかしそれをしたところで、そ
れがどうだというのか? そもそも同性愛は、まちがっているのか? それはいけないことなの
か?

 私はさまざまな問題にかかわってきたが、こと「性」の問題については、「我、関せず」を貫い
ている。さらに最近は、この問題は、教育の問題ではないとさえ考え始めている。もっと言え
ば、性の問題は、教育の向こうにある問題、と。ただ、子どもが同性愛者になる前の段階とし
て、いろいろなすべきことはあるように思う。環境、なかんずく父母の性格や子育て観が大きく
影響することは考えられる。しかしその分野まで、教育が踏み込むのは、はたして正しいことな
のか。許されるべきことなのか。

 J君を前にするたびに、私は深く考え込んでしまう。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(517)

●同性愛者になる子ども

 実のところ、この問題は、今日、はじめて考える。だからこの原稿は、あくまでもこれからの叩
き台でしかない。あるいは「入り口」と考えてほしい。不勉強で、まちがっているかもしれない。

 男子の同性愛傾向は、いくつかのパターンに分けられる。(1)女の子に興味をもたないタイ
プ、(2)女の子を嫌悪するタイプ、(3)男子に興味をもつタイプ、(4)自分が「男」というより、
「女」と思っているタイプ。いろいろなケースがあった。 

タイプ(1)女の子に興味をもたないタイプ……フロイト風に段階的に分類するなら、男子は肛
門期以後、乳房期(乳房に強い関心とあこがれをもつ)、女性器期(女性の性器に強い関心を
もつ)、接触期(女性との肉体的接触に強くひかれ、それを求める)という段階を経て、性にめ
ざめる。このうち女の子に興味がないタイプは、肛門期以後、ここにあげたような、段階的興味
をもたない。「おっぱい」の話をすると、小学校の低学年児でも恥ずかしそうにニヤニヤする
が。そういった反応がない。中学生になっても、女体や女性器に興味をもたない。女の子とは、
それなりに「友」としてつきあうが、それ以上の関係には発展しない。

タイプ(2)女の子を嫌悪するタイプ……女性そのものに嫌悪感をもち、そのため女性には関心
があっても、女性を女性と意識すると同時に、恐怖心に襲われる。強度の母親恐怖症など、何
らかの環境的理由が、子どもにそういう恐怖心をもたせる。これは女子のケースだが、印象に
残っている女の子(中学生)に、こんな子どもがいた。

その女の子は、男を男とも思わないというか、完全に男を軽蔑していた。原因は家庭環境にあ
った。父親は静かでおとなしく、まったく風采のあがらない人だった。一方、母親は、あらゆる会
の会長を務めるなど、まさにバリバリのやり手ママといったふうだった。その女の子は、そうい
う環境の中で、母親の、ものの考え方や男性観をそっくりそのまま受け継いでいた。同じように
母親の存在感が強過ぎることが原因で、女性恐怖症になる男子は少なくない。

タイプ(3)男子に興味をもつ……こうした同性愛的傾向は、それぞれの時期に、一時的に見ら
れることはよくある。が、その程度が著しく超え、男子に興味をもち、理想の男性に強いあこが
れをもつ。よくあるケースは、兵士やスポーツ選手、さらに筋肉的な男性を理想像と思い、そう
いう男性に傾注する。男性としての自己コンプレックスの変形とも考えられる。

タイプ(4)自分が「男」というより、「女」と思っているタイプ……独特のしぐさを見せるようになる
ので、それと区別できる。隣の子どもが何かの拍子に、足を蹴られたとき、「イヤ〜ン」という声
を出した子ども(小四男子)がいた。歩き方も、どこかナヨナヨしていて、女性的なものを身につ
けたり、ほしがったりする。花柄のパンツ、花柄のノートや下敷きをもっていた男子高校生もい
た。

 こうした子どもへの対処法は、ケースバイケースだが、残念ながら私は指導した経験がない
ので、これ以上のことはわからない。これからのテーマとしたい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(518)

●家族のルール、一〇か条

●ルール1……家族へのプレゼントは、お金で買ったものはだめ。とくに誕生日、クリスマスな
ど、心のお祝いをするときは、お金で買ったものはだめ。家族の間で、たがいにそう取り決め
ておく。

●ルール2……食事のあとしまつは、それぞれがする。使った食器、食べ残したものは、それ
ぞれが自分で始末する。食器を洗い、フキンでふいて、それを棚へしまうまで、個人の責任と
する。

●ルール3……たがいを判定(ジャッジ)しない。相手の意見は聞き、自分の意見は言っても、
たがいを評価したり、判定したりしない。「あなたはダメな子ね」式の人格攻撃はタブー中のタ
ブー。

●ルール4……家族の言い争いは一日で消す。どんな言い争いをしても、その争いは一日で
すます。あとでむしかえしたり、「この前も……」という言い方はしてはいけない。あれこ過去も
ちだすのはタブー。

●ルール5……家族の悪口は言わない。どんなばあいも、家族で、家族の悪口は言わない。
不平、不満も言わない。不平や不満があるときは、本人だけに言い、その範囲でおさめる。
「あなたのお父さんはだらしないね」式の批判は、タブー。

●ルール6……喜びあい、ほめあうときは皆の前でする。何かよいニュースがあったら、おお
げさに喜びあい、ほめあう。「忠告はひそかに、賞賛は公(おおやけ)に」(シルス)と言った、古
代ローマの劇作家がいた。

●ルール7……家族の秘密をあばかない。個人あての手紙、メール、メモなどは、絶対に見な
い。携帯電話を調べたり、バッグの中をのぞいたり、子ども部屋を調べたりするのは、タブー。
そういうことをしなければならないという状況になったら、すでに家族は破壊されたとみる。夫婦
でも、このルールは守る。

●ルール8……家族は、助け合い、はげましあい、いたわりあい、守りあう、教えあう。これに
もうひとつ。「家族は同居する」。単身赴任などという状態は、あってはならない

●という前提で、考える。仕事は大切だが、家族のために仕事を犠牲にしてはいけない。皆が
そういう意識をもったとき、日本のこのゆがんだ制度は、改善される。

●ルール9……家族にはウソは言わない。隠しごとはしない。いつもすべて話せというわけで
はない。自分から言う必要がないと判断すれば言わなくてもよい。しかし聞かれたら、ウソは言
わない。隠しごとはしない。どうしても言いたくなければ、黙っていればよい。

●ルール10……命令、禁止命令はしない。夫婦の間はもちろんのこと、親子の間でも、命令
はしない。しかしこれを守るのは実際にはたいへんむずかしい。だからあくまでも努力目標とい
うことになる。そういう前提で、できるだけ命令口調はひかえる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(519)

●他人に左右されない人生

 個性とは……、他人に左右されない人生をいう。人間は個性的に生きるから人間。言いかえ
ると、他人の目を意識した人生ほど、つまらないものはない。人生そのものを、棒に振ることに
もなる。はたから見ても、それほど見苦しい生き方もない。

 たとえば「出世」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、その裏で、他人の目を意識した言
葉はない。こうした言葉に毒されると、自分を見失う。自分だけではない。政治家や役人に利
用されると、国の方向性すらゆがむ。最近でも、鈴木Mという代議士がいる。出世欲にとりつ
かれた餓鬼(がき)としか、言いようがない。ああいう政治家の見苦しさを、私たちは今ここで、
しっかりと頭に焼きつけておかねばならない。

 たとえば「偉い」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、人間の上下を位置づける言葉はな
い。この日本では、「偉い人」というときは、地位の高い人や、肩書きのある人をいう。よい例が
水戸黄門だが、どうして水戸黄門は偉いのか。どうして民衆は、彼に頭をさげるのか。

英語国では、日本人が「偉い人」と言いそうなとき、「尊敬される人(respected man)」という
言い方をする。だから親は子どもにこう言う。「尊敬される人になりなさい」と。「偉い人」と、「尊
敬される人」との間には、越えがたいほど大きなへだたりがある。「尊敬される人」というときに
は、地位や肩書きには関係ない。

 たとえば「立派」という言葉がある。この言葉のおかしさは、今の中国をみればわかる。あの
国では、国をあげて「立派な国民」づくりに狂奔している。少し前の日本にそっくりと言ってもよ
い。「立派になる」というのは、偉い人になって出世することを意味する。

 たとえば「世間体」という言葉がある。日本人は皆と同じことをしていれば安心、そうでなけれ
ば不安と、どこか全体主義的な生き方をよい生き方としている。そのため幸福観も相対的なも
ので、「皆よりいい生活をしているから幸福」「皆より悪い生活をしているから不幸」という考え
方をする。しかしそういうものの考え方が強くなればなるほど、自分を見失う。

 私たちは今、生きている。たった一度しかない人生を、この大宇宙の中で、しかも何十億年と
いう時間の、その瞬間を生きている。だったら、思いっきり、自分らしく生きよう。私は私だ。あ
なたはあなただ。もしそれがまちがっているというのなら、それを言う人のほうがまちがってい
る。たとえ神や仏でも、この生き方をじゃますることはできない。




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(520)

●変わった性意識

 うちへ遊びにきた女子高校生たち四人が、春休みにドライブに行くと言う。みんな私の教え子
だ。そこで話を聞くと、うち三人は高校の教師と、もう一人は中学時代の部活の顧問と行くとい
う。

しかも四人の教師のうち、独身なのは一人だけ。あとは妻帯者。私はその話を聞いて、こう言
った。「大のおとなが一日つぶしてドライブに行くということが、どういうことだか、君たちにわか
るか。無事では帰れないぞ」と。それに答えてその高校生たちは明るく笑いながら、こう言っ
た。「先生、古〜イ。ヘンなこと想像しないでエ!」と。

 しかし私は悩んだ。親に言うべきか否か、と。言えば、行くのをやめる。しかしそうすればした
で、それで私と彼女たちの信頼関係は消える。私は悩みに悩んだあげく、女房に相談した。す
ると女房はこう言った。「ふ〜ン。私も(高校時代に)もっと遊んでおけばよかった」と。

私はその一言にドキッとしたが、それは女房の冗談だと思った。思って、いよいよ春休みという
間ぎわになって、その中の一人に電話をした。そしてこう言った。「これは君たちを教えたこと
のある、一人の教師の意見として聞いてほしい。ドライブに行ってはダメだ」と。するとその女子
高校生はしばらく沈黙したあと、こう言った。「じゃあ、先生、あんたが連れてってヨ。あんたは
車の運転ができないのでしょ!」と。

 以来一〇年近くになるが、私は一切、この類の話には、「我、関せず」を貫いている。はっき
り言えば、今の若い人たちの考え方が、どうにもこうにも理解できない。私たち団塊の世代にと
っては、男はいつも加害者であり、女はいつも被害者。遊ぶのは男、遊ばれるのは女と考え
る。

しかし今ではこの図式は通用しない。女が遊び、男が遊ばれる時代になった。だから時折、援
助交際についても意見を求められるが、私には答えようがない。私が理解できる常識の範囲
を超えている。ただ言えることは、世代ごとに性に対する考え方は大きく変わったし、変わった
という前提で議論するしかないということ。避妊教育や性病教育を徹底する一方、未婚の母問
題にも一定の結論を出す。

やがては学校内に託児所を設置したり、授業でセックスのし方についての指導をすることも考
えなくてはならない。厚生省の調査によると、女子高校生の三九%が性交渉を経験し、一〇代
の中絶者は、三万五〇〇〇人に達したという(九九年)。しかしこの数字とて、控え目なもの
だ。

つまりこの問題だけは、「おさえる」という視点では解決しないし、おさえても意味がない。ただ
許せないのは、分別もあるはずのおとなたちが、若い人たちを食いものにして、金を儲けたり
遊んだりすることだ。先に生まれた者が、あとに生まれた者を食いものにするとは、何ごと
ぞ!、と。私はもともと法科出身なので、すぐこういう発想になってしまうが、こういうおとなたち
は厳罰に処すればよい。アメリカ並に、未成年者と性交渉をもったら、即、逮捕する、とか。し
かしこういう考え方そのものも、もう古いのかもしれない。

 かつて今東光氏は、私が東京のがんセンターに彼を見舞ったとき、こう教えてくれた。「所
詮、性なんて、無だよ、無」と。……実は私もそう思い始めている。




【検索キーワード】 BW子どもクラブ BW教室 BWきょうしつ BWこどもクラブ 教育評論 教育評論家 子育て格言 幼児の心幼
児の心理 幼児心理 子育て講演会 育児講演会 教育講演会 講師 講演会講師 母親講演会 はやし浩司 林浩司 林浩 子供の悩
み 幼児教育 幼児心理 心理学 はやし浩司 親子の問題 子供 心理 子供の心 親子関係 反抗期 はやし浩司 育児診断 育児評
論 育児評論家 幼児教育家 教育評論家 子育て評論家 子育ての悩みはやし浩司 教育評論 育児論 幼児教育論 育児論 子育
て論 はやし浩司 林浩司 教育評論家 評論家 子供の心理 幼児の心理 幼児心理 幼児心理学 子供の心理 子育て問題 はやし
浩司 子育ての悩み 子供の心 育児相談 育児問題 はやし浩司 幼児の心 幼児の心理 育児 はやし浩司 育児疲れ 子育てポイ
ント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩
司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ
 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 
教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス 現場からの子育
てQ&A 実践から生まれたの育児診断 子育てエッセイ 育児診断 ママ診断 はやし浩司の総合情報 はやし浩司 知能テスト 生活力
テスト 子どもの能力テスト 子どもの巣立ち はやし浩司 子育て診断 子育て情報 育児相談 子育て実践論 最前線の子育て論 子
育て格言 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 育児相談 子どもの心 子供の心 子どもの心理 子供の心 はやし浩司 不登校 
登校拒否 学校恐怖症 はやし浩司 子育て実例集 子育て定期検診 子どもの学習指導 はやし浩司 子供の学習 学習指導 子供の
学習指導 はやし浩司 子どもの生活指導 子供の生活 子どもの心を育てる 子供の心を考える 発語障害 浜松中日文化センター 
BW教室 はやし浩司の才能教室 幼児教室 幼児知能教室 浜松市 BWこどもクラブ はやし浩司 子育て診断 育児アドバイス 子育
てアドバイス 子育て情報 育児情報 育児調査 はやし浩司 子育ての悩み 育児問題 育児相談 はやし浩司 子育て調査 子育て疲
労 育児疲れ 子どもの世界 中日新聞 Hiroshi Hayashi Hamamatsu Shizuoka/Shizuoka pref. Japan 次ページの目次から選んでく
ださい はやし浩司のホームページ 悩み調査 はやし浩司の経歴 はやし浩司 経歴 人物 子どもの叱り方 ポケモンカルト ポケモ
ン・カルト 子どもの知能 世にも不思議な留学記 武義高・武義高校同窓会 古城会 ドラえもん野比家の子育て論 クレヨンしんちゃん
野原家の子育て論 子育て教室 はやし浩司 浜松 静岡県 はやし浩司 子どもの指導法 子どもの学習指導 家族主義 子どものチ
ェックシート はやし浩司 はやしひろし 林ひろし 林浩司 静岡県浜松市 岐阜県美濃市 美濃 経済委員会給費留学生 金沢大学法
文学部法学科 三井物産社員 ニット部輸出課 大阪支店 教育評論家 幼児教育家 はやし浩司 子育てアドバイザー・育児相談 混
迷の時代の子育て論 Melbourne Australia International House/international house/Hiroshi Hayashi/1970/ はやし浩司 ママ診断 
過保護 過干渉・溺愛 過関心 教育論 子どもの巣立ち論 メルマガ Eマガ はやし浩司 子育て最前線のあなたへ・子育てはじめの一
歩 子育て はじめの一歩・最前線の子育て論 子育て最前線の育児論 はやし浩司 入野町 林浩司 林 浩司 東洋医学基礎 目で
見る漢方・幼児教育評論家 子育てアドバイザー 子どもの世界 子供の世界 育児如同播種・育児相談 子育てアドバイス 教育相談
 はやし浩司・はやしひろし 林ひろし 林浩司 林こうじ 浜松市入野町 テレビ寺子屋 最前線の子育て論 子育てストレス 最前線の
子育て はやし浩司 著述 執筆 評論 ファミリス ママ診断 メルボルン大学 はやし浩司 日豪経済委員会 日韓交換学生 三井物産
元社員 子どもの世界 子供の世界 子育ての悩み 育児一般 子供の心 子どもの心 子育て実戦 実践 静岡県在住 はやし浩司 
浜松 静岡県浜松市 子育て 育児相談 育児問題 子どもの心 子供の心 はやし浩司 心理 心理学 幼児教育 BW教室 はやし浩
司 子どもの問題 子供の問題 発達心理 育児問題 はやし浩司子育て情報 子育ての悩み 無料相談 はやし浩司 無料マガジン 
子育て情報 育児情報 はやし浩司 林浩司 林ひろし 浜松 講演会 講演 はやし浩司 林浩司 林 浩司 林こうじ コージ 林浩司 
はやしひろし はやしこうじ 林浩二 浩司 東洋医学 経穴 基礎 はやし浩司 教材研究 教材 育児如同播種 育児評論 子育て論 
子供の学習 学習指導 はやし浩司 野比家の子育て論 ポケモン カルト 野原家の子育て論 はやし浩司 飛鳥新社 100の箴言 
日豪経済委員会 給費 留学生 1970 東京商工会議所 子育ての最前線にいるあなたへ 中日新聞出版 はやし浩司 林浩司
子育てエッセイ 子育てエッセー 子育て随筆 子育て談話 はやし浩司 育児相談 子育て相談 子どもの問題 育児全般 はやし浩司
 子どもの心理 子育て 悩み 育児悩み 悩み相談 子どもの問題 育児悩み 子どもの心理 子供の心理 発達心理 幼児の心 はや
し浩司 幼児の問題 幼児 相談 随筆家 育児 随筆家 育児エッセー 育児エッセイ 母親の心理 母親の問題 育児全般 はやし浩
司 林浩司 林こうじ はやしこうじ はやしひろし 子育て アドバイス アドバイザー 子供の悩み 子どもの悩み 子育て情報 ADHD 
不登校 学校恐怖症 怠学 はやし浩司 浜松市
はやし浩司 タイプ別育児論 赤ちゃんがえり 赤ちゃん言葉 悪筆 頭のいい子ども 頭をよくする あと片づけ 家出 いじめ 子供の依
存と愛着 育児ノイローゼ 一芸論 ウソ 内弁慶 右脳教育 エディプス・コンプレックス おてんばな子おねしょ(夜尿症) おむつ(高層
住宅) 親意識 親の愛 親離れ 音読と黙読 学習机 学力 学歴信仰 学校はやし浩司 タイプ別育児論 恐怖症 家庭教師 過保護 
過剰行動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども
 虚言(ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、
読解力 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 
叱り方 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 
神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学
教育 体罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生
意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非
行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホ
ームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 
やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘
れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別
育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論
へ)東洋医学 漢方 目で見る漢方診断 東洋医学基礎編 はやし浩司 東洋医学 黄帝内経 素問 霊枢 幼児教育 はやし浩 林浩
司 林浩 幼児教育研究 子育て評論 子育て評論家 子どもの心 子どもの心理 子ども相談 子ども相談 はやし浩司 育児論 子育
て論 幼児教育論 幼児教育 子育て問題 育児問題 はやし浩司 林浩司

戻る
戻る