ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(161)
●残像症状
「残像症状」という言葉は、私が考えた。たとえば子どもが何かの心の問題をもったとする。
赤ちゃんがえりなら赤ちゃんがえりでもよい。赤ちゃんがえりは、五〜六歳をピークに、この時 期を過ぎると急速に症状が消えていく。しかしそのあと「残像」のようなものが残る。後遺症とい うような症状ではないが、しかし関係がないとは言えないような症状をいう。はっきりとした形で 残るときもあるが、別の形となって残るときもある。私はそれを勝手に「残像症状」と呼んでい る。いろいろな残像症状がある。
赤ちゃんがえり……幼児期に赤ちゃんがえりを経験した子どもは、気むずかしい、いじけや
すい、くじけやすい、意地っ張りになりやすいなど。形としてはわかりにくが、ほかにケチになり やすい、意地悪、仮面をかぶる、よい子ぶる、さみしがり屋など。愛情への屈折した欲求不満 が、どこかすなおでない子ども像をつくる。
分離不安……孤独に弱い、恐怖心をもちやすい、人なつっこい、心をいつわりやすい、相手
にあわせて行動する、人の心にとりいるなど。一度幼児期に分離不安になると、分離不安はい ろいろな形であらわれてくる。ある妻は、夫の帰りが少し遅いだけで、極度の不安状態になっ てしまう。あるいは夫が出張で家をあけたりすると、不安で不眠症にねっつぃまうなど。
指しゃぶり……髪いじり、爪かみなどを総称して、代償的行為という。心を償うために代わり
にする行為と考えるとわかりやすい。つまり代償的行為をすることによって、子どもは不安定な 自分の情緒を安定させようとする。だからこうした行為を叱ったり、禁止しても意味がない。無 理にやめさせると、かえって子どもの情緒を不安定にする。
で、こうした代償的行為は、おとなにも見られる。これはベトナム戦争に行ったオーストラリアの
友人から聞いた話だが、サイゴンに帰ったオーストラリア兵は、皆、「女を買った」そうだ。しか しセックスが目的ではない。皆、女性を買って、一番中、女性の乳首を吸っていたそうだ。戦争 という極度の緊張状態に置かれた兵隊たちは、そういう形で、自分の心をなぐさめた。
こうした指しゃぶりは、おとなにもよく見られる。指の腹を吸う、なめるなど。ヘビースモーカー
の人は、よく「くちびるがさみしいからタバコを吸う」というが、それも代償的行為と考えてよい。 もともと情緒が不安定の人とみてよい。
以上、おとなでも残像症状をもっている人はいくらでもいる。で、あなた自身はどうか。一度自
分を静かに観察してみるとおもしろい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(162)
●互いに別世界
子育てには尺度がない。標準もなければ、平均もない。あるのは「自分」という尺度だけ。そう
いう意味では、親は独断と偏見の世界にハりやすい。
こんなことがあった。S君(年中児)という、これまたどうしようもないドラ息子がいた。自分勝手
でわがまま。ゲームに負けただけで、机を蹴っておおあばれしたりした。そこである日、私は母 親にこう言った。「もっと家事を分担させ、子どもをつかいなさい」と。が、母親はこう言った。「ち ゃんとさせています!」と。そこで驚いて、どんなことをさせていますかと聞くと、こう言った。「ち ゃんと箸並べと靴並べをしてくれます」と。
一方、こんな子どももいた。ある日道で通りかかると、Y君(年長男児)は、メモを片手に、町
の中を走り回っていた。父親は会社勤め、母親は洋品店を経営していた。だからこまかい仕事 は、すべてY君の仕事だった。が、ある日、私がそのことでY君をほめると、母親はこう言った。 「いいえ、先生。うちの子は何もしてくれないんですよ」と。
箸並べや靴並べ程度でほめる親もいれば、家事のほとんどをさせながら、「何もしてくれな
い」とこぼす親もいる。たまたま同じ時期に私はS君とY君に接したので、その違いがよけいに 強烈に記憶に残った。つまり、互いに別世界。
こうした例は幼児教育の世界では、実に多い。たとえばかなり能力的に遅れがある子どもで
も、「優秀な子ども」と親が誤解しているケースがある一方で、すばらしい能力をもっているにも かかわらず、「うちの子はだめだ」と親が誤解しているケースなど。先日も、学校の勉強につい ていくだけでもたいへんだろうな思われる子ども(小6女児)をもった親が、こう言った。
「今度学習内容が3割削減されるというが、うちの子はだいじょうぶか。学力がさがるのではな
いかと心配だ」と。その母親は、「私立中学では今までどおり教えるというが、それは不公平 だ。あなたのところその3割を補充してほしい」と言ったが、こうしたおめでたさ(失礼!)は、多 かれ少なかれ、どの親ももっている。
それはというもの、結局は、互いに別世界に住んでいるからにほかならない。互いにもう少し風
通しがよければ、こうした誤解は防げるのだが……。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(163)
●たくましさは緊急時にわかる
やさしさ……ブランコを横取りされたとき、ニコニコ笑いながら、黙って明け渡すような子ども
を、「やさしい子ども」と誤解している人がいる。しかしそういう子どもを、やさしい子どもとは言 わない。やさしい子どもというのは、相手を喜ばすことを知っている子どもをいう。
ある男の子(年長男児)は幼稚園でみかけると、いつもだれかを三輪車に乗せ、それを押して
いた。で、ある日、私が「たまには君が押してもらってはどう?」と聞くと、その子どもはこう言っ た。「ぼくはこのほうが楽しいもん」と。そういう子どもをやさしい子どもという。
まじめ……言われたことをきちんとする子どもを、「まじめな子」と誤解している人がいる。従
順で、すなおな子どもを、だ。しかしこれも誤解。まじめな子どもというのは、自らを律する力を もっている子どもをいう。こんな子ども(小3女児)がいた。バス停でたまたま出あったので、「ジ ュースを買ってあげようか」と声をかけたときのこと。その子どもはこう言った。「これから家でご はんを食べますからいいです」と。こういう子どもをまじめな子どもという。
がまん……サッカーならサッカーを一日しているから、がまん強いということにはならない。そ
の子どもは好きなことをしているだけ。子どもにとって、がまんとは、いやなことをする力のこと をいう。たとえば台所の生ゴミを手で始末するなど。おばあさんの吐いたものを、タオルでぬぐ ってあげていた子ども(年長女児)がいたが、そういう子どもをがまん強い子どもという。
すなお……心の状態と顔の表情が一致している子どもをすなおな子どもという。あるいは、い
じけ、ひがみ、つっぱり、がんこなど、心のゆがみのない子どもをすなおな子どもという。子ども は、おとなもそうだが、心がゆがんでくると、心の状態と表情が一致しなくなる。これを心理学 の世界では、「遊離」と呼んでいる。こうした遊離は、たいへん危険なものである。親からすれ ば、「何を考えているか、わけのわからない子ども」ということになる。子どもはその表情の裏 で、心をゆがめる。
最後に、たくましさ……子どものたくましさは、緊急時をみて判断する。けんかが強いとか、そ
ういうことではない。ある子ども(年長男児)は、急用で家をあけなければならなくなったとき、食 事の世話、戸締り、消灯など、さらには妹の世話まで、すべてをひとりでやりこなした。こういう 子どもをたくましい子どもという。母親は「やらせればできるものですねえ」と笑っていた。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(164)
●ただより高いものはない
昔から『ただより高いものはない』という。教育の世界ほどそうで、とくに受験勉強のような「き
わもの」は、割り切ってプロに任せたほうがよい。実のところ、私も若いころ、受験塾の講師も したことがあるが、身内や親戚、あるいは親しい知人の子どもについては、引き受けなかっ た。理由はいくつかある。
まず受験勉強ほど、その子どものプライバシーに切り込むものはない。学校での成績を知る
ということは、そういうことをいう。つぎに成績があがればよいが、そうでなければ、たいていは 人間関係そのものまでおかしくなる。ばあいによっては、うらまれる。さらに身内や親類となる と、そこに「甘え」が生じ、この甘えが、金銭関係をルーズにする。
私もある時期、遠い親戚の子ども(小2のときから中2まで)教えたことがあるが、最後は月謝
といっても、ほとんどただに近いものだった。しかし最初こそ感謝されても、半年、一年とたつ と、それが当たり前になってしまう。が、本当の問題は、これだけではない。
受験指導というが、子どもの側からみると、「しごき」以外の何ものでもない。子どもの側で考
えてみれば、それがわかる。勉強がしたくて勉強する子どもなど、いない。偏差値はどうだ、順 位はどうだ、希望校はどこだとやっているうちに、子どもの心はどんどんと離れていく。
またほんの数年前までだが、受験期の子どもについては、無料で(本当に無料で!)、7月か
ら11月ごろまで、ほとんど毎晩部屋を開放して受験指導をしたことがある。夜7時から一一時 ごろまで、である。教えたといっても、ときどき顔を出し、勉強の進みぐあいをみたり、わからな いところを教えた程度だが、しかし率直に言えば、親に感謝されたことはあっても、子どもに感 謝されたことは一度もなかった。
受験勉強というのは、もともとそういうもの。「教育」という名前を使う人もいるが、受験指導は
指導であって、教育ではない。もともと豊かな人間関係が育つ土壌など、どこにもない。
そこで本論。中に子どもの受験勉強を、親類や知人に頼む人がいる。そのほうが安いだろう
とか、ていねいにみてもらえるだろうとか考えてそうするが、実際には、冒頭に書いたように、 ただより高いものはない。相手がプロなら、成績がさがれば、「クビ!」と言うこともできるが、 親類や知人ではそういうわけにもいかない。ズルズルしている間に、あっという間に受験期は 過ぎてしまう。
そんなわけで教訓。受験勉強は、多少お金を出しても、その道のプロに任せたほうがよい。結
局はそのほうが安全だし、長い目で見て、安あがりになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(165)
●未来を楽しみにさせる
『未来をおどさない』は大鉄則だが、これを裏がえしていうと、『未来を楽しみにさせる』という
ことになる。たとえば幼稚園への入園を迎えるころには、「幼稚園は楽しい」「先生はいい人」 「あなたは先生にほめられる」など、そのつど前向きに暗示をかける。まちがっても、「幼稚園 はこわい」式の暗示をかけてはいけない。一人、こんなことを言う母親がいた。
「幼稚園では、10数えるうちに服を着られないと、先生に怒られる。先生はママと違ってこわい
わよ」と。あるいは「幼稚園では先生の言うことを聞かないと、叱られる」と。
その母親は子どもに緊張感をもたせるためにそう言ったのかもしれないが、子どもによって
は、まさに逆効果。しかもこの時期、一度未来に対して不安をいだくようになると、それがその まま一つの思考回路となって残り、子どもはいつも未来に対して不安をいだくようになる。そう なればなったで、家庭教育の大失敗というもの。
ところで集団生活が苦手になるかどうかは、子どもがはじめて集団に触れたときの印象で決
まる。これは私が入園式のときの子どもの様子を観察していて発見したことであるが、その瞬 間、心を解放してワーッと集団に溶け込めた子どもは、そのまま集団に溶け込むことができ る。
が、そのとき、ある種の緊張感に包まれた子どもは、その緊張感を克服するのにかなりの時
間がかかる。中にはその緊張感がいつまでも続いたり、あるいはそれが原因で情緒が不安定 になる子どもがいる。そういう意味でも、その「はじめの一歩」を大切にする。無理をしない。無 理強いをしない。無理を押しつけない。そっと子どもを包むようなおおらかさで、少しずつ集団 に溶け込ませるようにする。
中に「わがまま」とか、「気のせい」とか言う親がいるが、これは誤解である。とくに乳児期から
親とのマンツーマンで育てられたような子どもほど、注意する。このタイプの子どもは、外の世 界に対して、免疫性がないので、最初の段階で失敗しやすい。
方法としては、徐々に子どもの心をもりあげていくようにする。「あなたは服を早く着られるか
ら、先生にほめられるわよ」「友だちがたくさん待っているよ」と。そしていよいよ当日に近づい たら、あたかもピクニックか何かでも行くような雰囲気にする。こうして子どもの緊張感をすっか り取っておく。
ともかくも、子どもの未来はおどさない。その一語に尽きる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(166)
●旅は歩く
私はときどき旅先で絵を描く。すると当然のことだが、その描いた絵のシーンは、強烈に印象
に残る。
同じように、私はできるだけ旅先では歩くようにしている。いや、それが私たちの世代にとって
は、ごくふつうのことだった。が、車の発達とともに、それが変わってきた。今ではほんの近くに 行くのにさえ、車を利用する。行動半径はそれだけ広くなったが、その分だけ記憶の密度が薄 くなった……?
もっともこれは個人の趣味の問題だから、私がとやかく言うものではないかもしれない。『旅は
歩け』というのは、オーストラリアの友人が口グセのように言っていた言葉だが、しかしもしあな たが子どもと旅をするなら、歩いたほうがよい。健康にもよい。記憶にも残る。親子の旅なら、 親子のきずなを太くする。こんなことがあった。
私は息子たちとよく、行き当たりばったりの「冒険旅行」をした。目的地を決めないで、そのつ
どそこからつぎの目的地をさがして行くという旅行だった。その旅行でのこと。ある田舎町の夜 遅く着いたのだが、どこをさがしてもホテルがなかった。「パパ、だいじょうぶ?」「だいじょうぶ だ」と、互いに励ましあいながら、寒くて暗い夜道を一緒に歩いた。数時間あちこちを息子たち とさまよい歩いたと思うが、それが今、思い出すと、たまらなくなつかしい。
息子たちにはどんな印象で残っているかは知らないが、二男はその数年後、北海道をひとり
旅をしているし、三男は、無類の旅行好きになった。さらに高校に入ると、二男も三男も、ワン ゲル部や山岳部に入部している。心のどこかで、子どものときにしたあの冒険旅行が、生きて いるのかもしれない。
が、この哲学(哲学と言えるほどのものかどうかはわからないが……)は、そのまま人生に
も、そして子育てにも通用する。もっと言えば、生きることそのものが、「歩く」ことに象徴され る。特急のグリーン車に乗っていくような人生もあるだろうが、人生の意味は、そこにどれだけ の濃密なドラマがあるかによって決まる。
オーストラリアの友人は、『旅は歩け』と言ったが、それは『人生は歩け』、『子育ては歩け』とい
う意味にもとれる。そんなことも考えながら、あなたもどこかで旅をするようなときがあったら、 歩いてみてほしい。まわりの景色がかなり違って見えるはずである。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(167)
●恩を着せない
依存心というのは、相互的なもの。「産んでやった」「育ててやった」と親は子どもに恩を着せ
る。子どもに依存する。一方子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と恩を着せ られる。親に依存する。
こうした依存型の人間は、万事に「甘い」。ある子ども(小5女児)はこう言った。「明日の遠足
は休むと、学校の先生に連絡したの?」と私が聞くと、「今日、足が痛いと言ったから、先生は わかってくれているはずだ」と。そこでまた私が、「休むなら休むで、しっかりと連絡したほうが いいんじゃないの?」と言うと、「先生はわかってくれているからいい」と。
このタイプの子どもは、「だから何とかしてくれ」言葉をよく使う。たとえば何か食べたいとき
も、「食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア、(だから何とかしてくれ!)」というような言 い方をする。「先生、おしっこオ、(だから何とかしてくれ!)」というのもそうだ。日本語の特徴と いうことにもなるが、言いかえると、日本人はそれくらい依存心の強い国民ということになる。長 くつづいた封建時代の中で、骨のズイまで、自由(自らに由る力)を奪われたためと考えてよ い。
子どもばかりではない。おとなでも依存心の強い人は多い。たとえばこのタイプの人は、相手
の中にスキを見るのがうまい。そしてスキがあると、「なっ、いいじゃないか……」というような言 い方をしながら、とことんそのスキにつけ入ってくる。あるいは「貸しがある」と感ずる相手に は、とことん甘える。
一方、自立心の旺盛な子どもは、攻撃的にものごとに取り組む。生きざまそのものが攻撃的
で、前向き。このことについては前にも書いたので、問題はそのつぎ、つまりどうすれば自立心 の旺盛な子どもにすることができるか、である。が、この問題は、冒頭にも書いたように相互的 なもの。子どもに自立心をもってほしかったら、親自身が自立しなければならない。
が、たいていは親自身に、その自覚がない。親自身が「甘え」の中にどっぷりつかっているた
め、自分が依存型の人間であることに気づかないことが多い。あるいは反対に、依存的である ことを、むしろ美化してしまう。よい例が、森進一が歌う『おふくろさん』である。大のおとなが、 夜空を見あげながら、「ママ〜」と涙をこぼす民族は、世界広しといえども、それほどない。そう いう歌が、国民的な支持を受けているということ自体、日本人が依存性の強い国民であること を示している。
子育ての目標は、子どもを自立させること。そのためにもまずあなた自身が自立する。その
第一歩として、子どもには恩を着せない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(168)
●反面教師
反面教師という言葉がある。できの悪い教師をもった生徒が、そのできの悪さを見ながらか
えって成長するということをいったものだが、これはそのまま「親」にも当てはまる。いろいろな 親がいたが、その中でもとくに印象に残っているのが、K君(高1)だった。
彼は現役で医学部に推薦入学で入ったほどの能力をもっていたが、あとでK君の家を見て驚
いた。家といっても、駐車場の奥の一室だけ。ベニヤ板で二つに分けただけの部屋だった。し かも母親はいない。父親はアル中で、毎晩のように酒を飲み、ときにはK君に暴力を振るって いたという。
こういう極端な例は少ないとしても、あなたの身のまわりにも、似たような話はあるはずだ。た
とえばH君。彼は中学を卒業するころ、父親とおおげんか。そのまま家出。12年ほど音信がな かったが、その12年目のこと。一級建築士の免許をとって実家へ帰ってきたという。大検で高 卒の資格をとり、鉄工場に勤めながら免許を取得した。その彼の父親も、とても「親」と言える ような親ではなかった。もう一人の娘がいたが、娘の貯金通帳を盗み、勝手にお金を引き出し てしまったこともある。
K君もH君も、こうした親をもったがゆえに、それをバネとして前に伸びたわけだが、だからと
いってそういう環境が好ましいということにはならない。第一、皆が皆、伸びるわけではない。失 敗する可能性のほうが、はるかに高い。それに「教師」と言いながら、反面教師をもったがため に、心に大きなキズをのこすこともある。
ふつう不安定な家庭環境に育つと、子どもの情緒は不安定になり、それが転じて、いろいろな
神経症を引き起こすことが知られている。ひどくなると、それが情緒障害や精神障害になること もある。
私も「温かい家庭」へのあこがれは強いものの、実際のところそれがどういうものか、よく知ら
なかった。戦後の混乱期のことで、私の親にしても食べていくだけで精一杯。家族旅行など、 小学6年生になるまで、一度しかなかった。その上私の父はアル中で、数日おきに酒を飲んで 暴れた。そのためか今でも、何か心配ごとが重なったりすると、極度の不安状態になったりす る。しかしこういうことは、本来あってはいけない。また子どもにそういうキズをつけてはいけな い。たとえそれでその子どもが、俗にいう「立派な子ども」になったとしても、だ。
もう一つこんな例もある。高校生のとき、古文の教師の声が小さく、聞き取ることができなか
った。それで古文の勉強は、自分ですることにした。結果、私はほとんどの古文を全集で読み きるほどまで古文が好きになった。そういう反面教師もいる。これはあくまでも余談だが……。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(169)
●母親が一番保守的?
本来、地位や名誉、肩書きとは無縁のはずの、いわゆるステイ・アト・ホーム・ワイフ(専業主
婦)、略してSAHWが、一番保守的というのは、実に皮肉なことだ。この母親たちが、もっとも 肩書きや地位にこだわる。子供向けの同じワークブックでも、四色刷りの豪華なカバーで、「○ ○大学××教授監修」と書かれたものほど、よく売れる。中身はほとんど関係ない。中身はほ とんど見ない。見ても、ぱっと見た目の編集部分だけ。子どものレベルで、子どもの立場で見る 母親は、まずいない。たいていの親は、つぎのような基準でワークブックを選ぶ。
(1)信用のおける出版社かどうか……大手の出版社なら安心する。
(2)権威はどうか……大学の教授名などがあれば安心する。
(3)見た目の印象はどうか……デザイン、体裁がよいワークブックは子どもにやりやすいと思
う。
(4)レベルはどうか……パラパラとめくってみて、レベルが高ければ高いほど、密度がこけれ
ばこいほど、よいと考える。中にはぎっしりと文字がつまったワークブックほど、割安と考える親 もいる。
しかしこういうことは大手の出版社では、すでにすべて計算ずみ。親たちの心理を知り尽くし
た上で、ワークブックを制作する。が、ここに書いた(1)〜(4)がすべて、ウソであるから恐ろし い。大手の出版社ほど、制作は下請け会社のプロダクションに任す。そしてほとんど内容がで きあがったところで、適当な教授さがしをし、その教授の名前を載せる。
この世界、肩書きや地位を切り売りしても、みじんも恥じないようなインチキ教授はいくらでもい
る。出版社にしても、ほしいのは、その教授の「力」ではなく、「肩書き」なのだ。
今でもときどき、テカテカの紙で、鉛筆では文字も書けないようなワークブックをときどき見か
ける。また問題がぎっしりとつまっていて、計算はおろか、式すら書けないワークブックも多い。 さらにおとなが考えてもわからないような難解な問題ばかりのワークブックもある。見た目には よいかもしれないが、こういうワークブックを子どもに押しつけて、「うちの子はどうして勉強しな いのかしら」は、ない。
私も長い間、ワークブックの制作にかかわってきたが、結論はひとつ。かなり進歩的と思わ
れる親でも、こと子どもの教育となると、保守的。むしろ進歩的であることを、「そうは言っても ですねエ……」とはねのけてしまう。しかしこの母親たちが変わらないかぎり、日本の教育は変 わらない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(170)
●父親は母親がつくる
こう書くと、すぐ「男尊女卑思想だ」と言う人がいる。しかしもしあなたという読者が、男性な
ら、私は反対のことを書く。
あなたが母親なら、父親をたてる。そして子どもに向かっては、「あなたのお父さんはすばらし
い人よ」「お父さんは私たちのために、仕事を一生懸命にしてくれているのよ」と言う。そういう 語りかけがあってはじめて、子どもは自分の中に父親像をつくることができる。もちろんあなた が父親なら、反対に母親をたてる。「平等」というのは、互いに高次元な立場で認めあうことを いう。まちがっても、互いをけなしてはいけない。中に、こんなことを言う母親がいる。
「あなたのお父さんの稼ぎが悪いから、お母さん(私)は苦労するのよ」とか、「お父さんは会
社で、ただの倉庫番よ」とか。母親としては子どもを自分の味方にしたいがためにそう言うのか もしれないが、言えば言ったで、子どもはやがて親の指示に従わなくなる。そうでなくてもむず かしいのが、子育て。父親と母親の心がバラバラで、どうして子育てができるというのか。こん な子どもがいた。
男を男とも思わないというか、頭から男をバカにしている女の子(小四)だった。M子という名前
だった。相手が男とみると、とたんに、「あんたはダメね」式の言葉をはくのだ。男まさりというよ り、男そのものを軽蔑していた。もちろんおとなの男もである。
そこでそれとなく聞いてみると、母親はある宗教団体の幹部、学校でもPTAの副会長をしてい
た。一方父親は、地元のタクシー会社に勤めていたが、同じ宗教団体の中では、「末端」と呼 ばれるただの信徒だった。どこかぼーっとした、風采のあがらない人だった。そういった関係が そのまま家族の中でも反映されていたらしい。
で、それから20年あまり。その女の子のうわさを聞いたが、何度見合いをしても、結婚には
至らないという。まわりの人の意見では、「Mさんは、きつい人だから」とのこと。私はそれを聞 いて、「なるほど」と思った。「あのMさんに合う夫をさがすのは、むずかしいだろうな」とも。
子どもはあなたという親を見ながら、自分の親像をつくる。だから今、夫婦というのがどういう
ものなのか。父親や母親というのがどういうものなのか、それをはっきりと子どもに示しておか ねばならない。示すだけでは足りない。子どもの心に染み込ませておかねばならない。そういう 意味で、父親は母親をたて、母親は父親をたてる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(171)
●知識はメッキ
私も法律の勉強を、五年間もした。私にとっては、おもしろくない勉強だった。いくつかの資格
はとったが、卒業後、その資格を生かしたことはただの一度もない。で、それから30年。同窓 会に出て、法曹の道に進んだ仲間と話しても、会話がうまくかみあわない。つまりそれだけ「法 律」とは遠ざかってしまったということ。専門用語を忘れてしまったということもある。
では、私の法律の勉強がムダだったのかというと、そうでもない。ものの考え方というか、論理
的に思考を積み重ねていくクセだけは残った。反対によく雑誌などで他人の教育論を読んだり するが、ときどきあまりの論理性のなさに、驚くことがある。中には感情論だけで教育論を組み 立てている人がいる。つまりそういうことがわかるということは、やはり私が法律の勉強をした ためとみてよい。
あのアインシュタイン(1879〜1955、ドイツの物理学者)は、こう言っている。
「教育とは、学校で習ったことをすべて忘れ去ったあとに残っているものをいう」(「教育につい
て」)と。
学校で習ったことを忘れたからといって、教育がムダだったということにはならない。むしろ「忘
れる」ことを理由に、教育を否定する人のほうが、問題だ。……と言っても、知識教育をそのま ま肯定することもできない。知識そのものは、生きるための武器であり、ないよりはあったほう がよい。しかし知識が多いからといって、アインシュタインが言うところの、「あとに残っているも の」になるとは限らない。大切なのは、その中身であり、思考プロセスということになる。
こうした前提で、子どもの教育を考えると、教育がどうあるべきかがわかってくる。たとえばこ
んなことがある。中学生に教えているとき、その子どもがもっている能力のほんの少し先の問 題を出してみると、ただ「できない」「わからない」「まだ習ってない」とこぼし、自分では考えよう ともしない子どもがいる。
が、反対にあちこちテキストを見ながら、調べ始める子どもいる。この時点で重要なことは、「そ
の問題が解ける、解けない」ということではない。「解くためにどのような思考プロセスを働かす か」ということである。もちろん「できない」とこぼす子どもより、調べだす子どものほうがすばら しい。またそういう方向に子どもを導くのが、教育ということになる。
教えられてできるようになるのが、知識教育。しかしそれで得た知識は、メッキのようなもの。
時間がたてば、必ずはげる。しかし思考プロセスは残る。残ってあらゆる場面で、それが働くよ うになる。たとえば私のことだが、先に書いたように、いつもものごとを論理的に考えるクセだ けは残った。こういった文章を書くについても、あいまいな言い方だけはしていないつもりであ る。あいまいなことは書かないというよりも、書く前に筆を止めてしまう。自分なりに結論が出た 部分のみを書くようにしている。それが私が学生時代に受けた「教育」ということになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(172)
●知能は胸に問え
教育の世界には、はっきりとわからなくてもよいことは山のようにある。その一つが、「子ども
の知能」。この問題は親の、つまりあなた自身の遺伝子にも深くかかわっている。そのため問 題にしてもほとんど意味がない。あなたが「うちの子は頭がいい」と思うなら、それはそれでよい し、「悪い」と思うなら、それもそれでよい。要するに、遺伝子の問題は、あなたの胸に聞けばよ い。が、反対の問題もある。胸に聞こうとしない親もいるということ。
四月の新学期になって、一組の夫婦が私のところにやってきた。そしてこう言った。「どうして
もうちの子を、S高校へ入れたいが、ついてはその指導をしてくれるか」と。そこで私はとりあえ ず一時間だけその子どもを教えてみることにした。が、能力的にかなり問題があった。まじめ はまじめだが、ひらめきや鋭さがまるでなかった。言われたことを従順にやりこなすだけで、そ れをはずれた問題になると、思考そのものが停止してしまう。小学校の勉強では、このタイプ の子どもはそこそこの成績を取るかもしれないが、中学校ではそういうわけにはいかない。い わんやS高校とは!
数日後私は、FAXで、「引き受けられない」という内容の断りの手紙を出した。ていねいに書
いたつもりだったが、その直後、父親から猛烈な怒りの電話がかかってきた。いわく、「君は、 うちの子ではS高校は無理だと言うのか! 失敬ではないか!」と。
私は「ご期待にそえる指導はできません」と書いたのだが、それは「親の期待に」という意味で
書いた。もっとも父親にそう怒鳴られたとき、「そのとおりです」と言いそうになったが、それは 言わなかった。
こうしたケースは、本当に多い。もう少し自分の子どものことがわかっていれば……というケ
ースである。いやほとんどの親は、「私の子どものことは、私が一番よく知っている」と思いつ つ、実のところ、ほとんど知らない。そんなわけで、あなたも一度、自分の胸に静かに問うてみ てほしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(173)
●長男は外に出す
子育てでむずかしいのが、長男、長女。親側に、とまどいや不安があり、それが原因でどうし
ても子育てが神経質になりやすい。昔は経験豊かな祖父母がそばにいて、子育てを指導してく れたが、今では核家族が当たり前。仮にそばにいたとしても、こうまで急速に価値観が変化す ると、互いに理解しあうことすらままならない。そこで親の孤立化が一挙に進む。この孤立化 が、ますます子育てを神経質なものにする。
……というだけではないが、長男、長女を育てるには、特別のコツが必要ということになる。
そのひとつが、長男、長女は、できるだけ外へ出すこと。(もっともこの文章を読むころには、た いていは手遅れかもしれないが……。)はやく保育園や幼稚園へやれということではない。機 会があれば、近所や親類づきあいを多くし、そのつきあいの中に子どもを巻き込んでいく。
まずいのは、隔離された世界だけで、マンツーマンの育て方をすること。その親子を包むカベ
だけがどんどんと厚くなり、やがて風通しが悪くなる。一度こういう状態になると、子育てが極端 化する。同じ過保護でも、極端な過保護になったり、過干渉でも、極端な過干渉になったりす る。
要するに風通しをよくするということ。そのために長男、長女はできるだけ外に出す。ほかに
もいろいろあるが、こんなことにも注意するとよい。
よく知られた現象に、「赤ちゃんがえり」というのがある。下の子どもが生まれたことにより、上
の子どもが本能的な嫉妬心から、赤ちゃんぽくなったり、反対に下の子どもを親に隠れて虐待 するようになったりする。この赤ちゃんがえりは一度、こじれると、そのあと、子どもの情緒をた いへん不安定にする。
この赤ちゃんがえりを防ぐためには、下の子を妊娠したときから、上の子どもに下の子ども
の出産を楽しみにさせるようにし向ける。まずいのは、ある日突然下の子が生まれたというよう な状態にすること。嫉妬心というのは、原始的であるがゆえに、扱い方をまちがえると、子ども でも心まで狂う。ほかにもいろいろあるが、それについては別のところで書く。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(174)
●直接話法より、間接話法
英語の文法の話ではない。これは子どもとの会話のコツ。たとえば子どもが指をしゃぶって
いたとする。そのとき、「指しゃぶりをやめなさい!」と言うのが、直接話法。しかし「あなたの 指、おいしそうね。先生にもなめさせて」と言うのが、間接話法。
間接話法にすると、言葉のトゲトゲしさが消え、その分会話がまるくなる。ほかにたとえば、
「座っていないさ!」というのは、直接話法、「パンツにウンチがついているなら、立っていてい い」というのが、間接話法。「字をきれいに書きなさい!」というのは、直接話法、「前よりきれい に書けるようになったね。これからもっときれいに書けるよ」というのは間接話法。これはほめ るときにも応用できる。
たとえば子どもをほめるとき、子どもに「あなたはいい子だね」とほめるのが直接話法、子ど
もの聞こえるところで、だれかほかの人に、「うちの子はすばらしい子よ」というのが、間接話 法。ただしこの方法は、いやみのためには使ってはいけない。子どもの聞こえるところで、「○ ○さんは、もうカタカナが書けるそうよ」とか、「あの△△さんは、いい子だから、そんなことはし ないわね」とか、など。こうした言い方は、子どもには卑怯に聞こえる。(子どもでなくても、そう だが……。)
叱るときも、「どうしてそんなことをするの!」というのが直接話法、「あなたともあろう子がどう
してこんなことするの?」というのが間接話法。「もっといい点を取りなさい」というのが直接話 法、「今回は調子が悪かったのね。つぎはだいじょうぶよ」というのが間接話法。そういえばつ ぎの会話も、直接話法と間接話法ということになる。
英語では、日本人なら「がんばれ!」と言いそうなとき、「テイク・イット・イージィ」という。「気楽
にしなよ」「気楽にやりなよ」という意味。たとえばテストの点が悪くて落ち込んでいるようなと き、そう言う。で、不思議なもので、そう言われると、かえってやる気が出てくる。あなたも一度、 この間接話法を子どもにためしてみたらどうだろうか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(175)
●使えば使うほどよい子
「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私
は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読 む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い まくることです」と。
そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や 根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。
ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、100%、スポイ
ルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君は、 日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。「ときどき ホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャワーを浴び ても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、「日本の子ど もは何もしない」と。
反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう言って驚いていた。「向こ
うでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけはしっかりと手伝って いる」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。
(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜
ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思い どおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が 皆の中心にいないと、気がすまない。
(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を
定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。 ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を 楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。
(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分
勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。(4)バランス感覚が 消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動することができない、な ど。
(4)
あなたの子どもをドラ息子、ドラ娘にしたくなかったら、とにかく使うこと。それ以外にあなたの
子どもをよい子にする方法はない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(176)
●ドラ息子症候群
ドラ息子かどうかは、早い子どもで、年中児の中ごろ(4歳半)前後でわかるようになる。しか
し一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。ドラ 息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに原因 があるからである。
また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもを
なおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねの けてしまう。あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。
日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛
だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこからくるか」 と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさん が捨ててくれる」と。
あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、
いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だちの家からタクシー で、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用 をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家 事を分担させる。子どもが二〜四歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなく なる。
で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉強に向け
てくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好き なことをしているだけ。幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。 たとえば台所の生ゴミを始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂 場の排水口にたまった毛玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。
こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのお
ばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、 こう話してくれた。「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれ るのです」と。こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。
もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにして
も、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛を乗り越える 力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(でき ない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(177)
●家庭の緊張感に巻き込む
子どもをドラ息子にしないためには、子どもを使う。もう少し具体的には、子どもを家庭の緊
張感に巻き込む。が、親が寝そべってテレビを見ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。 子どもを使うということは、親がキビキビと動き回り、子どももそれに合わせて、すべきことをす ることをいう。たとえば……。
あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかし 見て見ぬフリをしたり、そのままゲームに夢中になっていたりすれば、あなたの子どもはかなり のドラ息子、ドラ娘とみてよい。今は体も小さく、あなたの保護のもとでおとなしくしているかもし れないが、やはてあなたの手に負えなくなる。
子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。たとえ
ば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出る。庭の 草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そういう雰囲気で包むこと をいう。やらせることがないのではない。その気になればいくらでもある。食事が終わったら、 食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗わせる。フキンで拭かせる。さらに 食器を食器棚へしまわせる、など。また何をどれだけさせればよいという問題でもない。
ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。
(1)生活感のある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦
労がともなうことをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみ んなが困るのだ」という意識をもたせる。
(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。
(3)忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。
(4)生活のルールを守らせる。
(5)不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、
(6)バランスのある生活に心がける。
ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。ある いは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになって いる生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほ ど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。
子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。それを
忘れてはならない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(178)
●子どもの疲れは、神経疲れ
子どもが「疲れた」と言うときは、神経疲れ(精神疲労)を疑う。この段階で、吐く息が臭くなっ
たり、顔色が悪くなったりする、腹痛や頭痛を訴えることもある。一方、子どもというのは、体力 や知力を使って疲れるということは、まずない。そういうときは、「眠い」という。あるいは本当に 眠ってしまう。
その神経疲れだが、子どもは、この神経疲れにたいへんもろい。それこそ5〜10分だけでも
神経をつかっただけで、子どもによっては、ヘトヘトに疲れてしまう。とくに敏感児タイプの子ど も、つまり俗にいう神経質な子どもは、神経疲れを起こしやすい。
このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にあることが知られている。その緊張した状態の
ところに不安が入ると、その不安を解消しようと一挙に緊張感が高まる。このとき、その緊張感 を外へ吐き出すタイプ(暴れる、大声を出す、泣く)と、内へこめるタイプ(ぐずる、引きこもる、 がまんする、よい子ぶる)に分かれる。前者をプラス型というのなら、後者はマイナス型というこ とになる。教える側からすれば、一見プラス型のほうがあつかいにくくみえるが、実際にはマイ ナス型のほうが、はるかにむずかしい。
どちらのタイプであるにせよ、子どもが神経疲れを起こしたら、子どもの側からみて、だれの視
線も感じないような環境を用意する。親があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。子ども がひとりで、ぼんやりできるようにする。生活習慣が乱れても、目をつぶり、子どもがしたいよう にさせる。子どもが求めるようであれば、温かいスキンシップをじゅうぶん与え、あとはカルシウ ム分やマグネシウム分の多い食生活にこころがける。
こうした神経疲れが慢性化すると、子どもは神経症(チック、どもり、夜尿、夜驚、夢中遊行な
ど)、さらには恐怖症(対人恐怖症、集団恐怖症など)や、情緒不安定症状を示すようになり、 それが高じて精神障害(摂食障害、回避性障害、行動障害など)になることがある。もちろん不 登校の原因になることもあるので注意する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(179)
●机は休む場所
学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくすると
疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことがで きれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、 なかなかもとに戻らない。
そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の
上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もし その食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に自分 の好きなことを、何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合っているというこ とになる。相性の悪い机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。
学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使ってい
ると圧迫感が生まれる。日本人は机を暗い壁に向けて置く習性があるが、このばあいも、長く 使っていると圧迫感が生まれる。数か月程度なら問題ないかもしれないが、一年二年となる と、弊害が現れてくる。
で、その棚式の机だが、もう25年ほども前になるが、小学1年生について調査したことがあ
る。結果、棚式の机のばあい、購入後三か月で約80%の子どもが物置にしていることがわか った。最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果はある かもしれないが、あくまでも一時的。
そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。あるいは低学年児のばあい、机は
まだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルなどを利用して勉強している。この時期は 勉強を意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを育てる。親子のふれあいを大切にす る。子どもに向かっては、「勉強しなさい」と命令するのではなく、「一緒にやろうか?」と話しか けるなど。これを動機づけというが、こうした動機づけをこの時期は大切にする。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(180)
●机を置くポイント
学習机にはいくつかのポイントがある。
(1)机の前には、できるだけ広い空間を用意する。
(2)棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。
(3)座った位置からドアが見えるようにする。(4)光は左側からくるようにする(右利き児のば
あい)。
(5)イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。
(6)窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散って勉強
できないということもあるので注意する。
机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。またドアが背中側にあると、心理的に落ち
つかないことがわかっている。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひ じかけがあると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、 どうしても体が前かがみになり、姿勢が悪くなる。
中に全体が前に倒れるようになっているイスがある。確かに勉強するときは能率があがるかも
しれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。
さらに学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を
休めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。た いていは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もしそうであれば、思い切って、そういうとこ ろを勉強場所にしてみるという手もある。子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。
ものごとには相性というものがある。子どもの勉強をみるときは、何かにつけ、その相性を大
切にする。相性が合えば、子どもは進んで勉強するようになる。相性が合わなければ、子ども は何かにつけ、逃げ腰になる。無理をすれば、子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこ ともあるので注意する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(181)
●依存性
だれしも、多かれ少なかれ何かに依存しながら生きている。生きていることは、その依存する
ものがなくなったときにわかる。たとえば夫や妻をなくしてガタガタになる人。仕事や地位をなく してガタガタになる人。お金や財産をなくしてガタガタになる人。宗教から離れたためにガタガタ になる人もいる。
人は何かに依存することによって、自らを裏から支える。支えながら、強がって生きる。それ
自体は悪いことではないが、問題はその依存する相手と、そしてその程度だ。たとえば子ども に依存する親というのは珍しくない。私はこのことを、依存心の強い子どもを調べていくうちに 気がついた。子どもが依存心が強いのではない。その親が依存心が強いから、子どももまた 依存心が強くなる……。言いかえると、子どもの依存心ばかりを問題にしても意味がない。
子育ての目標は子どもを自立させること。この原則にたちかえるなら、親の依存心は、それ
が強ければ強いほど、この自立を妨げることになる。どうせ依存するなら、……というような乱 暴なことは言いたくないが、しかしどうせ依存するなら、子どもではなく、もっと別のものにしたら よい。仕事とか、名誉とか、ボランティア活動とか、はたまた政治活動とか、など。しかしこれら でも、本当にその人を裏から支えることができるかどうかということになると疑わしい。依存する なら自分自身。子どもも含めて、自分以外のものには依存しない。
名誉や肩書き、地位など、バーチャルなものや、物や財産など、「形」あるものにも依存しな
い。……と言っても、ここから先は、あくまでも理想論だが、できれば自分自身の深い人間性 や、知性、理性に依存するという方法もある。(私自身も本来ガタガタな人間であり、自分でも できないようなことを、こうしてここに書くのは本当におこがましいことだが……。)そういうもの に依存すれば、「なくす」ということがないから、それこそ死ぬまで強がって生きることができる。 いや、いろいろな人を見てきたが、本当に強い人というのは、そういう人をいう。
……と書いて、ときどき私はどうなるのだろうと考える。もし私から健康がなくなり、女房が先
に死に、おまけに私が書いた本がつぎつぎと古紙回収業の人に回されたら……。そのときでも 私は自分の人間性に自信をもち、それに依存して生きていくことができるだろうか。いや、残念 ながら、その自信はまったくない。実のところ、こうして「依存心」について書きながら、もう一人 の自分が別のところで、「何を偉そうに!」と、先ほどからずっと叫んでいる。だからこの話はこ こで止める。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(182)
●つらいときが子育て
時の流れというのは、不思議なものだ。風のようなもので、どこからともなくやってきて、また
どこかへと去っていく。手でつかんだと思っても、指の間からそのまま漏れていく……。
日々、平穏かつ無事に生きていくことは、それ自体すばらしいことだ。が、皮肉なことに、そう
いう人生からは何も生まれない。何も残らない。たとえば私の近所に小さな空き地があり、そこ は老人たちのかっこうの集まり場所になっている。天気のよい日になると、何かをするでもな し、しないでもなし、老人たちは一日中何やらイスに座って話し込んでいる。のどかな光景だ が、そういう人生にどれほどの意味があるというのだろうか。多分話している話の内容も、エン ドレスにつづくムダな話ばかり。それをただひたすら繰り返しているだけ……?
子育てもまたそうで、子どもに問題もなく、何ごともなく過ぎていくことはすばらしいことだ。だ
れしも自分の子育てがそうであることを願う。しかしこんなこともある。
はじめて園児を保育園や幼稚園へ連れてくるような母親というのは、確かに若くてきれいだ。
しかしどこか薄っぺらく(失礼!)、中身がない(失礼!)。しかしそんな親でもやがて子育てで 苦労をするうちに、やがて腰が低くなり、人間的なまるみができてくる。親が子どもを育てるの ではない。子どもが親を育てる。もっとも親自身がそれに気づくのは、子どもがほとんど巣立つ ころになってからだが、しかしそれがそのまま子育ての結論であり、人生の結論ではないの か。
今も私の脳裏には、多くの親たちの姿が浮かんでは消える。交通事故で長男をなくしたEさ
ん、脳腫瘍でやはり長男をなくしたPさん、ドクターに息子の生涯の精神障害を宣告されたGさ ん、など。こういうことは人生の中ではあってはいけないことだが、しかしどの人も今、神々しい ほど美しく輝いていて。街ですれ違っても声をかけることができないほどの崇高さを感ずる。そ んなことも心のどこかに置いておくと、あなたはひょっとしたら、ほんの少しだけだが、時の流れ を手の中でつかむことができるかもしれない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(183)
●できの悪い子どもほど、かわいい
昔から、『できの悪い子どもほど、かわいい』という。それはその通りで、できのよい子どもほ
ど、自分で勝手に成長していく。……成長してしまう。そのためどうしても親子の情が薄くなる。 しかしできの悪い子は、そうではない。
I君(小2)は、そのできの悪い子どもだった。言葉の発達もおくれ、その年齢になっても、文字
や数にほとんど興味を示さなかった。I君の父親は心やさしい人だったが、学習面でI君に無理 を強いた。しかしそれがかえって逆効果。(無理をする)→(逃げる)→(もっと無理をする)の悪 循環の中で、I君はますます勉強から遠ざかっていった。
時に父親はI君をはげしく叱った。あるいは脅した。「こんなことでは、勉強におくれてしまうぞ」
と。そのたびにI君は、涙をポロポロとこぼしながら、父親にあやまった。一方、父親は父親で、 そういうI君を見ながら、はがゆさと切なさで身を焦がした。「泣きながら私の胸に飛び込んでき てくれれば、どれほど私も気が楽になることか。叱れば叱るほど、Iの気持ちが遠ざかっていく のがわかった。それがまた、私にはつらかった」と。
このI君のケースでは、母親がおだやかでやさしい人だったのが幸いした。父親が暴走しそう
になると、間に入って父親とI君の間を調整した。母親はこう言った。「主人は主人なりに息子の ことを心配して、そういう行動に出るのですね。息子もそれがわかっているから、つらがるので しょう」と。
形こそ多少いびつだが、それも親の愛。子どものできが悪いがゆえに燃えあがる、親の愛。そ
の父親が私を食事に誘ってくれた。私はその席で意を決して、父親にこう告げた。「お父さん、 もうあきらめましょう。お父さんががんばればがんばるほど、I君は、ますます勉強から遠ざかっ ていきます。心がゆがむかもしれません。しかし今ならまだ間にあいます。あきらめて、I君の好 きなようにさせましょう」と。
そのとき父親の箸をもつ手が、小刻みに震えるのを、私は見た。「先生、そうはおっしゃる
が、このままでは息子は、ダメになってしまいます」「しかしI君の顔から、笑顔が消えたら、どう しますか」「私は嫌われてもいい。嫌われるぐらいですむなら、がまんできます。しかしこのまま 息子が、落ちこぼれていくのには耐えられません」「落ちこぼれる? 何から落ちこぼれるので すか」「先生は、他人の子どもだから、そういうふうに言うことができる」「他人の子ども? 実は 私はその問題で、10年以上も悩んだのです。自分の子ども、他人の子ども、ということでね。 しかし今は、もうありません。今は、そういう区別をしていません」
いかに子どものできが悪くても、子ども自身がもつ生命力さえ残っていれば、必ずその子ども
は自立する。そして何10年後かには、心豊かな家庭を築くことができる。しかし親があせっ て、その生命力までつぶしてしまうと、ことは簡単ではない。一生ナヨナヨとした人間になってし まう。立ちなおるということは、たいへん難しい。I君はそのとき、その瀬戸ぎわにいた。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(184)
●今を生きる
英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結 局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま せん」と教えている。
たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入 るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。こうした子育て観、
つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方その
ものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることが できない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分 の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。
ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校 生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて 疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。
これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなたの
周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来な どというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中 で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同じ。子どもたちには すばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一杯 その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。
もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちに は、いつもこう言っている。
「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名
誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車 をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常 会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その 違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか…… と、私は心配する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(185)
●てこずったら、抱く
子どもの心の問題で、何か行きづまりを感じたら、子どもは抱いてみる。ぐずったり、泣いた
り、だだをこねたりするようなときである。「何かおかしい」とか、「わけがわからない」と感じたと きも、やさしく抱いてみる。しばらくは抵抗する様子を見せるかもしれないが、やがて収まる。 と、同時に、子どもの情緒(心)も安定する。
ところが、だ。こんなショッキングな報告もある(2000年)。抱こうとしても抱かれない子ども
が、4分の1もいるというのだ。
「全国各地の保育士が、預かった0歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった『拒否、
抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、4分の1に及ぶことが、『臨床育児・保育研究会』 (代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。
報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が3
3%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後 見られ、調査した六項目の平均で25%に達したという。
また保育士らの実感として、「体が固い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で2
0%の赤ちゃんから報告されたという。さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き 取り調査をしたところ、「育児から解放されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」など の意識が強いことがわかったという。また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この 数年、流行している「抱っこバンド」を使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったとい う。
報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二
〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不 足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。
赤ちゃんは抱かれるものという常識は、どうも常識ではないようだ。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(186)
●手乗り文鳥は子育てをしない
つい先日、13年をともにした手乗り文鳥が死んだ。私は高校一年生のときからずっと、文長
を飼っているが、もうその文鳥を最後にすることにした。私も五四歳になったから、これからは 生き物を飼うのは慎重にしたい。
で、その手乗り文鳥だが、私の飼い方が悪いためなのかもしれないが、卵を抱いてヒナをか
えすところまでは、何とかする。……できる。しかしそのあと、手乗り文鳥は子育てをしない。自 分のヒナを見て逃げまわるのもいた。
子育ては本能でできるようになるのではなく、学習によってできるようになる。つまり親に育て
られたという経験があって、自分が親になったとき、自分でも子育てができるようになる。この ことを裏づける事実として、一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができな い。知能の高い動物ほどそうで、いわんや人間をや。言いかえると、もしあなたがあなたの子 どもにいつか、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、幸せな家庭とはどういう ものか。心豊かな家庭というのはどういうものか。それを今、しっかりと子どもに見せておかね ばならない。いや、見せるだけでは足りない。子どもの体にしっかりと染みこませておかねばな らない。
そういう体験があってはじめて、あなたの子どもは自分が親になったとき、自然な形で子育て
ができるようになる。
……ただ、だからといって、不幸にして不幸な家庭に育った人は、よい家庭を築けないと言っ
ているのではない。人間のばあい、近隣の人や親戚の人の子育てを見たり聞いたりすることに よって、いろいろな子育てを模擬体験できる。本や映画を通して学習することもできる。しかし ふつうの人よりは苦労することは否定できない。このタイプの人は、「いい家庭をつくろう」「いい 親子関係をつくろう」という気負いがどうしても強くなり、その気負いが強いため、どこかギクシ ャクした家庭や親子関係をつくりやすい。
そういう心配はあるが、しかし問題は、そういう過去があることではなく、そういう過去に気がつ
かないまま、振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。これがこわ い。
子育てをするときは、いつも自分の過去をみる。「自分はどうだったか」「自分の生まれ育っ
た環境はどうだったか」と。それが結局は自分を知ることになるし、子育ての失敗を防ぐことに なる。一度あなたも自分の過去を冷静に見つめてみたらどうだろうか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(187)
●行き着くところまで行く
子どもの心に何か問題が起きたとする。するとたいていの親は、それをなおそうとする。「ま
だ何とかなる」「そんなはずはない」と考える。が、原因が自分にあると考える親は、まずいな い。しかも心の問題は外からは見えないため、これまたほんとどの親は、「気のせいだ」「心は 気のもちようだ」と軽く考える。しかしこうした誤解が、やがて悪循環を招き、少しずつだが時間 をかけて、にっちもさっちもいかなくなる。
S君(年長児)の症状は、軽いチックではじまった。そこで母親はそれを何度となくうるさく注意
した。が、チックはやがて階段をのぼるようにトントンと悪化した。症状も大きくなり、複数のチ ックを同時に併発するようになった。母親はますます子どもを叱った。しかしこれがまずかっ た。S君は真夜中に、はげしいけいれん状のチックを繰り返すようになった。一度は救急車ま で呼んだ。しかし親は、自分に原因があるとは決して思わなかった。R君の母親は、見るから に神経質そうな母親だった。話し方もせっかちで、人の話をまったく聞こうとしなかった。
やがてS君と母親はお決まりの病院めぐり。あちこちで検査を受けては落胆したり、一抹の
希望をもったりした。S君が幼稚園へ行きたくないと言い出すと、それはますますエスカレートし た。が、病院めぐりをすればするほど、S君の症状は悪化した。
母親はあとになってこう言った。「あのまま不登校児になったらどうしようと、そればかりが心配
でした」と。が、結局S君はそのまま不登校児になった。1年生のときも、2年生のときも、ほと んど学校へは行かなかった。私にも相談があったので、「3か月は何も言ってはいけません。S 君の好きなようにさせなさい」と言ったが、母親にしてみれば、一か月だって長い。そのつど学 校へS君をひっぱっていった。さらに病院めぐりをするようになると、もう私のアドバイスなど聞 かなかった。
こうなると、私としては指導の方法はない。さらに病院で処方される「わけのわからない薬」を飲
むようになると、S君の症状は一時的には快方に向かったが、しかしそれはあくまでも一時的。 そのあと薬の反作用で、症状はますますわけのわからないものになっていった。
……というような話はいくらでもある。親というのは、結局は行き着くところまで自分で行くしか
ない。冷たい言い方だが、これは子育てにまつわる宿命のようなもの。その途中で私のような ものがいくらアドバイスしても、意味がない。指導する側にしてみれば、そういうむなしさがいつ もついて回る。これもやはり宿命のようなもの。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(188)
●3つの依存心
日本ではよく、「人はひとりでは生きていかれない」と言う。それはそのとおりで、人はいつも
何かに依存しながら生きている。「私は自由人だ」「私は天涯孤独だ」「私はだれにも頼らず生 きている」と言う人ですら、何かに依存して生きている。
で、その依存するものだが、人によって、大きくつぎの三つに分けられる。(1)ものやお金な
ど、「形」に依存する人、(2)地位や肩書き、学歴や家柄など、バーチャルなものに依存する 人、そして(3)自分自身に依存する人、である。
よく財産や仕事をなくしてガタガタになる人や、宗教から離れてガタガタになる人がいる。これ
らの人は、つまるところ「自分を離れたもの」に依存するから、そうなる。……、いや、だからと いって、ガタガタになるのが悪いというのではない。だれしも、それぞれの分野で、ある程度は 依存している。宝くじですらそうだ。買ったときには、「当たれば……」とだれしも思い、ハズれた ときには、だれしもがっかりする。しかし自分を本当に強くするには、自分自身に依存するしか ない。「私」という「自分」なら、私を裏切らない。私を去ることもない。
そこで「自分」とは何かということになる。もっと言えば、「自分が依存し、その一方で自分を支
える自分」は、何かということになる。その一つのヒントとして、私にはこんな経験がある。もう2 5年近くも前のことだが、私はある雑誌で、あるカルト教団を批判したことがある。が、その直 後からものすごい抗議の嵐。私たち夫婦は、「地獄へ落ちる」とか、「夜道を歩くときは気をつ けろ」と毎日のようにおどされた。そして事実、私たちは何か得体のしれないものにおびえた。
が、それがきっかけで、そのカルト教団についての本を5冊も書くことになってしまった。(もちろ
んペンネームで、だが。)しかしその結果、そのカルト教団が、ご多分にもれず、まったくのイン チキ教団だとわかった。とたん、恐怖感がウソのように消えた。自分に依存するというのはそう いうことをいうのではないか。
自分自身の深い人間性や、知性、理性に依存する。どうせ依存するなら、そうする。そのため
に自分自身をみがく。それはまさに自分との戦いといってもよい。かく言う私だって、そんな偉 そうなことは言えない。今ですらガタガタだ。この先、たとえば女房に先だたれるとか、家計が 崩壊するとか、あるいは事故や病気になったりして、いつガタガタになるか知れない。そういう 不安はいつもついて回る。だから「戦い」ということになる。
そういう意味では、「自分に依存して生きる」ということは、それ自体たいへんなことだ。ああ、
私だって、頼れる神や仏がいれば、今すぐ頼りたい。しかしそれをしればしたで、私にとって は、まさに人生の敗北でしかない。だからやはり戦うしかない。
以上、子育てをする上で、一つのヒントになれば幸いである。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(189)
●子どものゲーム
小学生の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジック・ザ・ギャザリング(通称、マジ
ギャザ)」。遊戯王について言えば、小学3年生で、約25%以上の男児がハマっている(2000 年11月、小3児53名中13名、浜松市内)。
ある日、一人の子ども(小3男児)が、こう教えてくれた。「ブルーアイズを3枚集めて、融合させ
る。融合させるためには、融合カードを使う。そうすればアルティメットドラゴンをフィールドに出 せる。それに巨大化をつけると、攻撃力が9000になる」と。
子どもの言ったことをそのままここに書いたが、さっぱり意味がわからない。基本的にはカード
どうしを戦わせるゲームだと思えばよい。戦いは、勝ったほうが相手のカードを取る「カケ勝負」 と、取らない「カケなし勝負」とがある。カードは、一パック5枚入りで、150円から330円程度 で販売されている。「アルティメット入りのパックは、値段が高い」そうだ。
あのポケモン世代が、小学校の高学年から中学1、2年になった。そこで当時ハマった子ども
たち何人かに、「その後」を聞くと、いろいろ話してくれた。M君(中2)いわく、「今はマジギャザ だ。少し前までは、遊戯王だったけどね」と。カード(15枚で500円。デパートやおもちゃ屋で 販売。遊戯王は、5枚で200円)は、1000枚近く集めたそうだ。
マジギャザというのは、基本的にはポケモンカードと同じような遊び方をするゲームのことだと
思えばよい。ただ内容は高度になっている。私も一時間ほど教えてもらったが、正直言ってよく わからない。要するに、ポケモンカードから遊戯王、さらにその遊戯王からマジギャザへと、子 どもたちの遊びが移っているということ。カードを戦わせながら遊ぶという点では、共通してい る。
わかりやすく言えばポケモン世代が、思考回路だけはそのままで、体だけが大きくなったとい
うこと。いや、「思考回路」と言えばまだ聞こえはよいが、その中身は中毒。カード中毒。この中 毒性がこわい。だから一万枚もカードを集めたりする。一枚のカードに4万円も払ったりする! 親たちは子どもの世界に、もう少し慎重であってもよいのではないのか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(190)
●子どもをダシに金儲け
以前、「たまごっち」というゲームが全盛期のころのこと。あのわけのわからない生き物が死ん
だだけで大泣きする子どもはいくらでもいた。東京には、死んだたまごっちを供養する寺まで現 れた。ウソや冗談でしているのではない。本気だ。中には北海道からやってきて、涙をこぼしな がら供養している20歳代の女性までいた(NHK「電脳の果て」97年12月28日放送)。
そういうゲームにハマっている子どもに向かって、「これは生き物ではない。ただの電気の信号
だ」と話しても、彼らには理解できない。が、たかがゲームと笑ってはいけない。その少しあと、 ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教団が現れた。この教団の教祖はその 後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電子の生物」を死んだと思い込む 子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込むその教団の信者は、方向性こそ逆だ が、その思考回路は同じとみる。あるいはどこがどう違うというのか。ゲームには、そういう危 険な面も隠されている。
で、浜松市内の中学一年生について調べたところ、男子の約半数がマジギャザと遊戯王に、
多かれ少なかれハマっているのがわかった。1人が平均約1000枚のカードを持っている。中 には一万枚も持っている子どももいる。
マジギャザはもともとアメリカで生まれたゲームで、そのためアメリカバージョン、フランスバー
ジョン、さらに中国バージョンもある。カード数が多いのは、そのため。「フランス語版は質がよ くて、プレミヤのついたカードは、4万円。印刷ミスのも、4万円の価値がある」と。さらにこのカ ードをつかって、別のカケをしたり、大会で賞品集めをすることもあるという。「大会で勝つと、 新しいカードをたくさんもらえる」とのこと。「優勝するのは、たいてい20歳以上のおとなばかり だよ」とも。
子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも、大盛況。カードの販売だけで、年間100億
円から200億円の市場になっているという(経済誌)。
しかしこれはあくまでも表の数字。闇から闇へと動いているお金はその数倍はあるとみてよ
い。たとえば今、「融合カード」は、発売中止になっている(注)。子どもたちがそのカードを手に 入れるためには、交換するか、友だちから買うしかない。希少価値がある分だけ、値段も高 い。しかも、だ。子どもたちは自分の意思というよりは、おとなたちの醜い商魂に操られるま ま、そうしている。しかしこんなことが子どもの世界で、許されてよいのか。野放しになってよい のか。
(注)この原稿を書いた2001年はじめには発売中止になっていたが、
2001年の終わりには再び発売されているとのこと。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(191)
●ボンヤリは心の掃除
日中、ときどきもの思いにふけってぼんやりすることがある。これを英語では「デイ・ドリーム」
という。日本語に訳すと、「白昼夢」となるが、その言葉から受ける印象ほどおおげさに考える 必要はない。
むしろ最近の研究では、このデイ・ドリームは、心のバランスをとるためには必要なものとわか
ってきた。それだけではない。すばらしい創造性や独創的なアイディアは、そのデイ・ドリームを している間に生まれるとされる。たとえばエジソンやニュートンは、「デイ・ドリーマー(夢見る 人)」というニックネームがつけられていた。
幼児のばあい、ふとしたきっかけで、このデイ・ドリームの状態になる。時間的には数分程度
から、長くても5分程度だが、ぽかっと魂が抜けてしまったかのようになる。時と場所に関係な く、運動場で体操をしているようなときにでも、そうなることがある。車の中やソファの上だった りすると、そのまま眠ってしまうこともある。そういうとき親は、「気がゆるんでいるからだ」とか、 「学習に集中できないからだ」と考えるが、そのデイ・ドリームを無理に妨げると、子どもの情緒 はかえって不安定になる。
私の印象では、子どもは(おとなもそうだが)、デイ・ドリームを見ることにより、心の緊張感をほ
ぐすのではないかと思う。その証拠に、デイ・ドリームから戻った子どもは、実におだやかな表 情を見せる。
もちろんデイ・ドリームと集中力、あるいはデイ・ドリームと昼寝グセや睡眠不足は区別しなけ
ればならない。同じぼんやりといっても、それが日常的につづくようであれば、今度は別の問題 を疑ってみなければならない。それはともかくも、そういった問題もなく、子どもがふとしたきっ かけで、どこかぼんやりとするような様子を見せたら、できるだけそっとしておくのがよい。
(付記)私もときどき仕事の合間にぼんやりとすることがある。半覚半眠の状態になるのだが、
そういうとき電話がかかってきたりすると、それだけで心臓の鼓動が変化するのがわかる。あ るいは授業と授業の間の休み時間に、別の仕事が入ったりすると、そのあとの授業で強い疲 れを感ずることがある。私のばあいも、ぼんやりとすることで、心を調整しているのだと思う。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(192)
●友を責めるな行為を責めよ
『友を責めるな、行為を責めよ』……これはイギリスの格言。もしあなたの子どもが、あなた
からみて好ましくない友だちとつきあい始めたら、決してその友を責めてはいけない。行為を責 める。たとえばあなたの子どもが公園で隠れてタバコを吸ったとする。そういうときは、「タバコ を吸うことは悪いことだ」「タバコは体に害がある」「タバコをやめなさい」とは言っても、相手の 子どもの名前を出して、その子どもを責めてはいけない。
この段階で、「あの○○君は悪い子だからつきあってはダメ」と子どもに言うのは、親を取るか
友だちを取るか、その二者択一を子どもに迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取れば それでよし。が、もしあなたの子どもが相手の子どもを取ったら、あなたとあなたの子どもの間 に、大きなキレツを入れることになる。
もう一つイギリスにはこんな格言がある。『相手はあなたが相手を思うように、あなたのことを
思う』と。これはどういう意味かというと、もしあなたがAさんならAさんをよい人だと思っている と、Aさんもあなたのことをよい人だと思っているもの。もしあなたがAさんを悪い人だと思って いると、Aさんもあなたのことを悪い人だと思っているもの。つまり人の心というのは、カガミの ようなものだということ。
そこでもし、あなたの子どもがあなたからみてよくない友だちとつきあい始めたら、こうする。つ
まり相手の子どもをほめる。「あの子はユーモアがあって、おもしろい子ね」「あの子はいい子 だから、今度、○○をもっていってあげてね」と。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず 相手の子どもに伝わる。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待に答えようと、あ なたの子どもをよい方向に導いてくれる。これは子育ての技術の中でも、高等技術に属する。 一度試してみてほしい。
とにかくこういうケースでは、親はどうしても頭ごなしの禁止命令を出しやすい。しかし一度歯
車が狂い始めたら鉄則はただ一つ。今の状態をより悪くしないことだけを考えて、慎重に推移 を見守る。あせってもとに戻そうとすればするほど、逆効果になるので注意する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(193)
●心はぬいぐるみで知る
子どもの心の中に母性(父性でもよいが)が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱
かせてみればわかる。母性が育っている子どもは、ぬいぐるみの人形を見せると、さもいとお しいといった表情を示す。頬を寄せたり、やさしく抱きあげようとしたりする。そうでない子ども は、ぬいぐるみを見ても反応しなかったり、中にはぬいぐるみを足でキックする子どももいる。
ぬいぐるみにやさしい反応を示す年長児は約80%、反応を示さない子どもは約20%(筆者調
査)。同じような調査だが、小学3年生で、男女を問わず、「ぬいぐるみが好き!」と答えた子ど ももやはり80%。そのうち約半数は「大好き!」と答え、日常的にぬいぐるみをそばに置いて 生活しているということだった(同、筆者調査)。このタイプの子どもは、親になっても、虐待パ パや虐待ママにはならない。言いかえると、この時期すでに、親としての「心」が決まる。
同じようなことだが、ふつう愛情豊かな家庭で育った子どもは、静かな落ちつきがある。おだ
やかで、ものの考え方が常識的。どこかほっとするような温もりを感ずる。それもぬいぐるみを 抱かせてみればわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せた だけで、うれしそうな顔をする。
「子育て」は本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじめて、自分が親
になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思っているなら、 ペットの世話をさせるのが一番よい。しかしそれもままならないようなら、ぬいぐるみが効果的 である。男の子だからといって、ぬいぐるみで遊んではいけないという理由はない。
私も小学2、3年生のころだが、人形がほしくてたまらなかったときがある。ただ当時は男女の
性差に対する偏見がまだ根強く残っていて、おおっぴらにはそれを口に出して言うことはできな かった。しかし伯母の一人に頼むと、伯母はこっそりと私に人形を作ってくれた。私はいつもそ の人形を抱いて寝ていた。
ただ子どもにぬいぐるみを与えるには、一つのコツがある。おもちゃ屋から買ってきて、袋に
入れたまま、ポイと子どもに渡すようなことはしてはいけない。まず親がぬいぐるみをかわいが っている様子を見せる。そういう雰囲気の中に子どもを巻き込んでいくようにする。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(194)
●子どもとペット
オーストラリアでは、子どもの本といえば、動物の本をいう。写真集が多い。またオーストラリ
アに限らず、欧米では、子どもの誕生日に、ペットを与えることが多い。つまり子どものときか ら、動物との関わりを深くもたせる。一義的には、子どもは動物を通して、心のやりとりを学 ぶ。しかしそれだけではない。
子どもはペットを育てることによって、父性や母性を学ぶ。そんなわけで、機会と余裕があれ
ば、子どもにはペットを飼わせることを勧める。犬やネコが代表的なものだが、心が通いあうペ ットがよい。が、それが無理なら、ぬいぐるみを与える。やわらかい素材でできた、温もりのあ るものがよい。
日本では、「男の子はぬいぐるみでは遊ばないもの」と考えている人が多い。しかしこれは偏
見。こと幼児についていうなら、男女の差別はない。あってはならない。つまり男の子がぬいぐ るみで遊ぶからといって、それを「おかしい」と思うほうが、おかしい。男児も幼児のときから、 たとえばペットや人形を通して、父性を育てたらよい。ただしここでいう人形というのは、その目 的にかなった人形をいう。ウルトラマンとかガンダムとかいうのは、ここでいう人形ではない。
また日本では、古来より戦闘的な遊びをするのが、「男」ということになっている。が、これも
偏見。悪しき出世主義から生まれた偏見と言ってもよい。その一つの例が、五月人形。弓矢を もった武士が、力強い男の象徴になっている。300年後の子どもたちが、銃をもった軍人や兵 隊の人形を飾って遊ぶようなものだ。どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日本 人はこの出世主義に、こりかたまっている。「男は仕事(出世)、女は家事」という、あの日本独 特の男女差別思想も、この出世主義から生まれた。
話を戻す。愛情豊かな家庭で育った子どもは、静かな落ちつきがある。おだやかで、ものの
考え方が常識的。どこかほっとするような温もりを感ずる。それもぬいぐるみを抱かせてみれ ばわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、スー ッと頬を寄せてくる。こういう子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならない。言い かえると、この時期すでに、親としての「心」が決まる。
ついでに一言。「子育て」は本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじ
めて、自分が親になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思 っているなら、ぬいぐるみを身近に置いてあげるとよい。ぬいぐるみと遊びながら、子どもは親 になるための練習をする。父性や母性も、そこから引き出される。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(195)
●トラブルは親に聞く
子どものことでトラブルが起きたら、一に静観、ニに静観、三、四がなくて、五に親に相談。少
子化の流れの中で、親たちは子育てにますます神経質になる傾向をみせている。そうである からこそなおさら、「静観」。子どもにキズがつくことを恐れてはいけない。子どもというのはキズ だらけになって成長する。で、ここでいう「親」というのは、一、二歳年上の子どもをもつ親をい う。そういう親に相談すると、「うちもこんなことがありましたよ」「あら、そうですか」というような 会話で、ほとんどの問題は解決する。
話が少しそれるが、私は少し前、ノートパソコンを通信販売で買った。が、そのパソコンには
一本のスリキズがついていた。最初私はそのキズが気になってしかたなかった。子どももそう だ。子どもが小さいうちというのは、ささいなキズでも気になってしかたないもの。こんなことを 相談してきた母親がいた。
何でもその幼稚園に外人の講師がやってきて、英会話を教えることになったという。それにつ
いて、「先生はアイルランド人です。ヘンなアクセントが身につくのではないかと心配です」と。子 育てに関心をもつことは大切なことだが、それが度を超すと、親はそんなことまで心配するよう になる。
さらに話がそれるが、子どものことでこまかいことが気になり始めたら、育児ノイローゼを疑
う。症状としては、つぎのようなものがある。
(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。
こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。
要するに風とおしをよくするということ。そのためにも、同年齢もしくはやや年齢が上の子ども
をもつ親と情報交換をするとよい。とくに長男、長女は親も神経質になりやすいので、そうす る。……そうそう、そう言えば、今では私のパソコンもキズだらけ。しかし使い勝手はずっとよく なった。そういうパソコンを使いながら、「子どもも同じ」と、今、つくづくとそう思っている。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(196)
●ドラ息子の五大症状
ドラ息子、ドラ娘には、つぎのような特徴がある。もしこれらの項目のいくつかに当てはまるよう
なら、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘とみてよい。今はまだ体も小さく、あなたの保 護のもとでおとなしくしているかもしれないが、やがてあなたの手に負えなくなる。
(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜
ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思い どおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が 皆の中心にいないと、気がすまない。
(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を
定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。 ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を 楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。
(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分
勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。
(5)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動す
ることができない、など。
こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(四・五歳)前後で表れてくる。しかし一度こ
の時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。ドラ息子、ド ラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに原因がある からである。
また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもを
なおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねの けてしまう。そういう姿勢が、子どもをますますドラ息子、ドラ娘にする。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(197)
●泥棒の家は戸締りが厳重
昔から『泥棒の家は戸締りが厳重』という。人は何か負い目をもっていると、それをことさら気
にすることを言ったもの。たとえば女遊びを繰り返している父親ほど、自分の娘にきびしいな ど。あるいは娘の交際相手をいつも疑ってかかる……?
同じようなことだが、いつも学歴を笠に着て生きている人ほど、自分の子どもの学歴にうるさ
いなど。ある父親はいつもS高校の出身であることを、いばっていた。会話の中にそれとなく出 身校をにおわすというのが彼のやり方だった。「今度S高校の同窓会の幹事をやることになり ましてね」と。で、その彼の息子がいよいよ受験ということになった。が、その息子にはそれだ けの力がなかった。だからその父親と息子は、毎晩のように、「勉強しろ!」「うるさ!」の大乱 闘を繰り返していた。
一般論として、子どもの進学に神経質な親ほど、どこかで学歴を強く意識した人とみてよい。
自分自身も高学歴であったり、あるいは反対に学歴にコンプレックスをもっていたりするなど。 人というのは、だれしも何かの負い目をもっているものであり、その負い目を気にしたり、ある いは無意識のうちにも、その負い目に裏から操られたりする。問題はそうした負い目があるこ とではなく、その負い目に振り回され、本来大切にすべきものを粗末にしたり、本来大切でない ものを大切と思い込み、それに振り回されることである。
たとえば子どもの教育にしても、この日本では受験勉強は避けてはとおれないものかもしれな
いが、しかしその受験勉強には、親子関係を犠牲にするほどまでの価値はない。日本人は「い い学校」は口にするが、「いい家庭」を口にしない。中には、「親子関係が犠牲になってもいい。 息子さえ、いい大学へ入ってくれれば。息子もいつかそれで私に感謝するはず」と言う親さえい る。こうした教育観が、子育てそのものまでゆがめる。
そこでどうだろう。もしあなたが今、子どもの勉強のことでカリカリしているようなら、あなた自
身の負い目を疑ってみたら。何かあるはずである。この問題も、その負い目に気づくだけでよ い、あとは少し時間がかかるが、それでその負い目から解放される。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(198)
●どんな雲にも銀のふちどり
イギリスの格言に、『どんな雲にも銀のふちどり』という格言がある。つまりどんな雲にも、そ
のまわりには銀色に輝くふちどりがあることを言ったもの。「どんなに苦しいときでも、必ず希望 があるから、その希望を捨ててはいけない」と。
ひとつの固定した視点からみると、どうしても絶望的にならざるをえない子どもというのは、た
しかにいる。K君(中1男子)がそうだった。何を教えても、ザルで水をすくうように、その教えた ことがどこかへ消えていく。教室といっても、私の教室は1クラス5、6人の小さな教室だが、し かしK君のような生徒がいると、ほかの生徒がどんどんとやめていく。それくらいK君というのは 学校でも有名な(?)子どもだった。
で、彼が中学3年生になるころには、生徒は2人だけになってしまった。いや、少しでもK君が
ふざけた態度をしたら、それを理由に私はK君を教室から追い出していたかもしれない。が、K 君はただひたすらに私のところで勉強をした。そんなある日のこと、私はK君にこう言った。「ど んな大工でも建てたところからどんどん壊されたら、怒るぞ」と。教えても教えてもそれがムダ になっていく自分のはがゆさをK君にぶつけた。が、それでも、K君は涙をこぼしながら私に従 った。
希望というのは、視点を変えると、それが希望でなくなるときがある。しかし視点を変えると、
今まで以上に明るく輝き始めるときがある。あるいは希望など何もないと思っていたところに、 実はすばらしい希望が隠されていたりすることがある。大切なことは、そのつど視点を変えた り、あるいはもう一度、自分を振り返ってみることだ。もっと言えば希望は向こうからやってくる ものではない。見つけるもの。
その後K君は高校進学をあきらめ、調理師の専修学校に入学。今は家業であるラーメン屋
を手伝っている。で、ある日、そのラーメン屋へ行ってみると、K君がちょうど配達のラーメンを どこかへ届けるところだった。私が母親に「元気そうですね」と声をかけると母親はこう言って 笑った。「まじめだけがとりえでねえ」と。K君にとっては、その「まじめ」こそが、銀のふちどりだ ったということになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(199)
●内容のない本は身を飾る
雑誌社などをのぞいてみると、実際教えたことがない人が、教材を作っていたりする。(だか
らといって教えている人が、すばらしい教材を作れるということにはならないが……。)そういう ところでは、教材にせよ本にせよ、はたまた雑誌にせよ、それは「商品」でしかない。高邁な教 育観をもって教材開発に取り組んでいる編集者など、さがしてもいない。またそういうものを期 待するほうがおかしい。
実際のところ、どこの編集部でも「いい教材」よりも、「売れる教材」を念頭において、教材開発
をする。あるいは制作と同時に、販売先の確保を優先する。編集部よりも販売部のほうが力が ある。
長い前置きになったが、その商品を売るにはコツがある。そのひとつが、「飾る」。実際あっ
たことを書く。数年前だが、私は教育書の大手であるR社に原稿をもちこんだことがある。その ときは「検討しておきます」ということだったが、数日後、編集部の部長から電話があり、長い世 間話のあと、おもむろにこう言った。「K教授をご存知ですよね。あのK教授です。あのK教授 の名前でなら、あなたの本を出してもいいのですが……」と。
もちろん私は断ったが、こうした出版方法は、この世界では珍しいことではない。ベストセラー
を何冊も出したような出版社ともなると、その教授専門のライターを置いているところもある。 私が99%書いた本だが、ほかの人の名前になっている本だって、10冊はある。よく盗作が話 題になるが、盗作どころではない。盗作以上の盗作が、この世界では平気でなされている。し かもその道の権威者と言われる「すばらしい教育者」(?)たちがそうしている。
要するに「飾り」。飾りがあれば本は売れる。(これは本が売れない私のひがみのようなもの
かもしれないが……。)そのために出版社はあれこれ飾りを入れる。今でこそ少なくなったが、 ほんの少し前まで、ささいな教材や参考書にまで、○○大学××教授監修、あるいは指導と、 ぎょうぎょうしい肩書きを載せるのが慣習になっていた。そういうのを載せれば、よく売れるから である。
で、数年後のこと。近くの書店でR出版社のブックコーナーがあった。見るとあのK教授の新
刊書がずらりと並んでいた。いくつかをパラパラとめくって読んでみたが、どれもとても八〇歳 をこえた老人が書いたと思われないような若々しい文体の本ばかりだった。私は「ああ、あのと きの本だな……」と思って、その場を離れた。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(200)
●自分を知る
哲学の究極の目標は、「自分を知る」ことだそうだ。古代ギリシアの七賢人の一人であるター
レスも、「汝自身を知れ」という有名な言葉を残している。つまり一見なんでもないようなことだ が、自分を知るのはそれくらいむずかしいということ。
話は直接関係ないが、こんなことがあった。オーストラリアの友人夫婦が、一か月ほど我が
家にホームステイをして帰るときのこと、私がその友人に、「ぼくの家で気がついたことがあっ たら言ってくれ」と頼んだときのこと。彼はこう言った。「君の家では、奥さんは召使いのようだ な」と。
この言葉には驚いた。私は平均的な日本人よりははるかに民主的な(?)夫だと思ってい
た。そこで私は彼に「君は私の家庭のどんなところを見てそう言うのか」と聞くと、こう話してくれ た。「君の奥さんは、ぼくたちが食事をしているとき、ずっとあれこれ給仕している。キッチンに 立ったままではないか」と。日本では見慣れた、というより、当たり前の光景ではないか。私は 彼のこの意見には少なからずショックを受けた。
子育ての話にもどるが、親と話していて、これとちょうど反対の思いをすることは多い。たとえ
ば子どもに問題が起きたりすると、ほとんどの親は、「子どもをなおす」という言葉を使う。しか し「自分をなおす」という言葉を使う親は、まずいない。過保護児にしても過干渉児にしても、そ の症状だけをみて、親は子どもをなおそう(?)とする。しかし問題の原因は、親自身にある。 親が日常的に子どもを過保護にし、過干渉しておきながら、「どうしてうちの子は……?」は、な い。
そこで教訓。もしあなたの子どもに何か、問題が起きたら、まずあなた自身を疑う。幼稚園や
学校や先生ではない。子どもでもない、あなた自身を、だ。この視点を忘れると、問題が解決し ないばかりか、さらに問題はこじれる。悪循環のドロ沼に入り、やがてにっちもさっちもいかなく なる。言いかえると、子育てにおいても、「汝自身を知れ」というのが、究極の目標ということに なる。
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