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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(201)

●教育と指導

 私の最大のジレンマ。それは私の説く教育論など、だれも求めてはいないということ。また社
会的にも一片の価値もないということ。傍観者が見れば、私という物好きな男が、社会のかた
すみで勝手にほえているに過ぎない。しかも私がいくら訴えても、社会は微動だにしない……。

 だいたいにおいて私のようなものが、教育を説くこと自体おこがましい。常日ごろの生活にお
いて、人に教えるようなこと、あるいは教えられるようなことは何一つ、していない。たまたま子
どもを教えてきたというだけだが、それは教えるというよりは、指導。しかし指導は教育ではな
い。

よく受験塾を経営しながら教育論を説く人がいるが、それはまるで暴力団の組員が平和論を
説くようなもの。いくら偉そうなことを言っても、どこかチグハグで説得力がない。彼らは教育な
ど、していない。受験指導をしているにすぎない。

そこで私こう考えるようにしている。教育と指導は別のものである、と。しかしこの二つを分ける
のはむずかしい。そこでさらにこう考えるようにしている。指導は指導して考え、その指導から
生まれるより人間的な指導を「教育」と。が、これでもわかりにくい。一つの例をあげて考えてみ
よう。

 たとえば一人の青年が自動車教習所へ通ったとする。その自動車教習所では、生徒に車の
運転のし方を教える。運転ができるようにするのが、その目的だ。で、その青年が運転できる
ようになったとする。そこで問題は、その青年はその教習を受ける段階で、何かを学んだかと
いうこと。結論から言えば、何も学んでいない。学んでいないから、それは教育ではない。……
となると、またわからなくなる。そこでまた視点を変えて考えてみる。

 一人の幼稚園児が一生懸命、穴を掘っていたとする。そこで私が「何をしているの?」と声を
かけたとする。するとその子どもが、「石の赤ちゃんをさがしている」と答えたとする。その子ど
もは石は土の中から生まれるものと思っていた。そこで私が「そうだね、きっと赤ちゃんがいる
かもしれないね」と言う。するとその子どもはますます懸命に穴を掘り始める。

これは私が実際経験したエピソードだが、これは教育だ。私は子どもの考えを認め、子どもに
考えるヒントを与えた。子どもは子どもなりの考えで、自分の説を証明しようと穴を掘りつづけ
た。この段階で、子どもはまちがっているとか、まちがっていないとかいう判断は、それをくだす
こと自体、まちがっている。

 今、単なる指導を教育と誤解しているケースがあまりにも多い。たとえば受験指導をしなが
ら、それが教育と思い込んでいる教師すらいる。しかし教育と指導は、本質的に異質なもので
ある。どこでどう分けるかは、ここに書いたように、たいへん微妙な問題を含んでいるため、一
概には言えない。が、しかし心のどこかで分けて考える必要はある。でないと、何がなんだか、
わけがわからなくなってしまう。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(202)

●いい学校から、いい家庭へ

 「いい学校」を口にする親はいても、「いい家庭」を口にする親は少ない。「いい学校」を誇る
親はいても、「いい家庭」を誇る親は少ない。日本人は伝統的に、仕事第一主義。学歴第一主
義。もっと言えば出世第一主義。しかしその陰で犠牲にしているものも多い。その一つが、「家
庭」であり「家族」。こんな家族がいる。

 その娘の一人が、やや重い精神病をわずらった。しかし親は、それをすなおに受け入れた。
そして家族が力を合わせてその娘を支えることにした。娘は学校へは行かなかったが、母親
は娘にあれこれ経験させることだけは忘れなかった。その中の一つが、絵画。娘はその絵画
をとおして、やがてろうけつ染に興味をもつようになった。で、年齢的には中学二年生のとき
に、市内で個展を開くまでになった。こういう家族をすばらしい家族という。

 一方、こんな親は多い。子どもの受験勉強で無理に無理を重ねて、親子関係そのものを破
壊してしまうような親だ。その日のノルマがやっていないと、その父親は、子どもを真夜中でも
ふとんの中から引きずり出してそれをさせていた。私が「何もそこまで……」と言うと、その親は
こう言った。「いえ、私が多少嫌われてもし方ないことです。息子さえいい中学へ入ってくれれ
ば。息子もいい学校へ入ってくれれば、私を許してくれるでしょう」と。

このタイプの親の頭の中には、「いい家族」はない。脳のCPU(中央演算装置)そのものがズレ
ているから、私のような意見そのものが理解できない。それはちょうど映画『マトリックス』に出
てくるような世界のようなもの。現実と仮想世界が入れ替わり、仮想世界に住みながら、そこが
仮想世界だとすら気がつかない。本来大切にすべきものを粗末にし、本来大切でないものを
大切だと思い込んでしまう。

 少し前、アメリカ人の友人だが、私にこう言った。「ヒロシ、一番大切なのは、友だちだよ。友
だちの数こそが財産だよ」と。彼のこの言葉を借りるなら、「一番大切なのは、家族だよ。家族
のきずなこそ財産だよ」ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(203)

●疑いをいだかない愛

 子どもというのは、絶対的な愛があってはじめて心をはぐくむことができる。「絶対的」という
のは、「疑いをいだかない」という意味。

言いかえると、子どもが家族の愛に疑問や不安をもったりすると、その心は確実にゆがむ。た
とえば親の冷淡、無視、拒否的態度が日常的につづくと、子どもはいわゆる愛情飢餓の状態
になり、さまざまな不安定症状を表すことが知られている。ぐずったり、反対にイライラと怒りっ
ぽくなったりするなど。そしてそれがさらに慢性化すると、性格そのものがゆがむことが多い。
すねたり、いじけたり、ひねくれたりするなど。がんこになったり、いじっぱりになったりすること
もある。

この段階になると、神経症による症状を訴えることも多い。が、それではすまない。こんなこと
があった。

 小学1年生の女の子だが、断続的に不登校を繰り返していた。最初は「不登校かもしれな
い」と母親は心配したが、「断続的」という点で、学校恐怖症による不登校とは区別される。で、
ときどきその子を学校へつれていくのだが、母親が教室の中にいる間は、それなりにおとなしく
授業を受けることができる。が、見えなくなったとたん、ギャーッと泣いてあとを追いかけたりす
る。

それだけを見れば今度は、分離不安ということになる。が、どうも分離不安の様子とも違った。
で、さらに観察してみると、ほかにネチネチと母親に甘えるという症状もあることがわかってき
た。そこで調べてみると、案の定、原因はどうやら下の弟(四歳)らしいということがわかってき
た。赤ちゃんがえりである。こうしたケースでも、表面的な症状だけをみると、判断をまちがえ
る。

 ふつう子どもがわけの分からない症状を示したら、愛情問題を疑ってみる。この赤ちゃんが
えりにしても、本能的な嫉妬心がその背景にあるとみる。下の子どもに向けられた愛情をもう
一度取り戻そうと、子どもは本能的に赤ちゃんを演じてみせる。本能的であるがため、説得し
たり叱ってもムダで、対処のし方がまずいとこじれにこじれてしまう。それこそありとあらゆる情
緒不安症状を示すようになる。

その女の子にしても、親たちが下の子ばかりをかわいがるのを見て、自分への愛情に大きな
不安を感じたのだろう。親は「平等だ」というが、平等ということそのものが、上の子どもには納
得できないのだ。

 ……などなど。これはほんの一例にすぎないが、子どもというのは愛情がからむ問題には、
きわめて敏感に反応する。そういう意味でも、子どもの側からみて、「疑いをいだかない家庭環
境」をいつも大切にする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(204)

●愛情は落差の問題

 親が子どもに与える愛情に、絶対的な尺度はない。どの程度、どれだけ深く与えればよいと
いう基準はない。しかし子どもは、その「落差」にはきわめて敏感に反応する。

たとえばよく知られた現象に赤ちゃんがえりがある。下の子どもが生まれたことがきっかけとな
って、子どもが急に赤ちゃんぽくなる症状をいう。言葉や言い方そのものが赤ちゃんぽくなった
り、おねしょをしたり、指しゃぶりをしたりするようになったりする。(反対に、下の子に攻撃的に
出る子どももいる。)

こういうケースでは、ほとんどの親は、「上の子も下の子も、平等にかわいがっている」と言う。
「だから文句はないはずだ」と。しかし上の子どもにしてみれば、それまで100あった愛情が、
半分の50に減ったことが問題なのだ。つまり子どもへの愛情の問題は、量ではなく、落差の
問題である。

 子どもが赤ちゃんがえりを起こしたら、その症状に応じて、つぎのように対処する。症状がた
いへん重く、複雑な症状を示し始めたら、もう一度全幅の愛情を上の子どもに注ぐ。そして様
子をみながら、少しずつ手を抜きながら、その分、下の子どもに愛情を分け与えていく。症状
が軽く、子どもの自意識でコントロールできるようなら、子どもを説得しながら、平等をつづけ
る。

 また下の子どもに暴力を振るうなど、攻撃的な様子がみられたら、スキンシップを濃厚にして
みる。このケースでも、叱れば叱るほど、逆効果。本能的な嫉妬心が原因であるだけに、叱っ
ても意味がない。ないばかりか、症状をますますこじらせる。

 ふつうはこうした赤ちゃんがえりを起こさないように、下の子を妊娠したときから、上の子教育
を始める。たとえば上の子が下の子の誕生を楽しみにさせるような雰囲気づくりをするなど。ま
ずいのはある日突然、下の子が生まれたというような状態にすること。子どもの側からみて、
嫉妬するのは当然。また嫉妬がいかに恐ろしいものであるかは、いまさらここで説明する必要
はないと思う。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(205)

●愛想は悪くて当たり前
 
 子どもは生後六か月くらいから一歳半にかけて、人見知りする時期がある。見知らぬ人に近
寄られたり抱かれたりすると、ワーワー泣いて抵抗したり、いやがったりする。じっと相手を見
すえることもある。しかしこれはきわめて自然な反応であり、それをおかしいとか、悪いとか決
めてかかってはいけない。この時期をとおして子どもは親との絆(きずな)を深める。(あるいは
もっと本能的な意味があるのかもしれないが、私にはよくわからない。)

 ふつう穏やかな家庭で、豊かな愛情を受けて育った子どもほど、静かな落ち着きを示す。ど
っしりしているというか、態度が大きい。反対に不安定な家庭で、愛情飢餓の状態で育てられ
た子どもほど、反対にヘラヘラとし、見た目には愛想がよくなることがある。一見人なつっこくみ
えるが、その実だれにも心を許さない。許さない分だけ、心は冷たい。

あるいは自分がキズつくのを恐れるあまり、先に自分から相手をキズつけて遠ざかろうとす
る。たとえば自分が好意を寄せている相手に、わざと意地悪をして嫌われる、など。どこかもの
の考え方がゆがんでくる。私はこのことを、二匹の犬を自分で飼ってみて発見した。

 1匹は保健所で処分される寸前にもらってきた犬。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のも
とで手厚く育てられた犬。これをB犬とする。この2匹の犬はまるで性格が違う。A犬は育児拒
否を経験した犬。一方B犬は愛情をたっぷりと受けた犬。A犬はだれにでもシッポを振るので
番犬にはならない。いつもどこかオドオドしている。一方B犬は忠誠心も強く、見知らぬ人が家
の中へ入ってきたりすると、ワンワンとほえる。態度も大きい。ガムをかんでいたりすると、私
が呼んでも、返事もしない。つまりそれだけ安心しているということか。

だから人間の子どもも……、というのは、少し危険な意見かもしれないが、それほどまちがって
いないような気がする。冒頭にあげた子どもが人見知りする時期に、親の愛情が希薄で、たと
えば施設に入れられて育ったような子どもは、どこかA犬のような様子を見せる。が、人見知り
がはげしく、「うちの子は人見知りが強くて困ります」と言った子どもほど、B犬のような様子を
見せる。(そういう意味で、本能的な意味があるかもしれないと先に書いた。)

昔から「愛想がいい子はいい子」と言うが、そんな単純な問題でもない。子どもの「愛想」にもい
ろいろな問題が隠されている。それがわかってほしかった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(206)

●子どもへの虐待

 親だから……というふうに、ものごとは決めてかかってはいけない。「親だから子どもを愛す
る心があるはず」とか。先日も朝のワイドショーを見ていたら、キャスターの1人がそう言ってい
た。しかし実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は
愛することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、
わずらわしくてしかたない」とかなど。

私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母親は、約10%(私の母親教室で約
200人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査でも、自分の子どもを気が合わないと感
じている母親は、7%もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを虐待しているこ
とがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答500人・2000年)そうだ。

妹尾栄一氏らの調査によると、約40%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしている
という。(妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。妹尾氏は、
「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの17項目を作成し、それぞ
れについて、「まったくない……0点」「ときどきある……1点」「しばしばある……2点」の3段階
で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(494人)のうちの
9%、「虐待傾向」が、30%、「虐待なし」が、61%であったという。)

 だからといって、子どもの虐待が肯定されるわけではない。しかしこの虐待の問題は、もう少
し根が深いのではないか。その一つのヒントとして、今の母親たちの世代というのは、日本が
高度成長をやり遂げた時期に乳幼児期を過ごしている。そしてそのうちの大半が、かなり早い
時期から親の手を離れ、保育園や保育所へ預けられた経験をもっている。

つまり生まれながらにして、本来あるべき親の愛情が希薄な状態で育てられている。もちろん
それだけが理由とは言えないが、子育てというのは本能でできるようになるわけではない。親
の温かい愛情に包まれて育ってはじめて、親になったとき、自分も子どもを温かい愛情で包む
ことができる。このことを考え合わせると、子どもを虐待する親というのは、そもそもそういう温
かい愛情を知らない親と考えてよい。

そしてその理由として、日本が戦後経験した、いびつな社会構造にあるのではないかと考えら
れる。私たち日本人は、仕事第一主義のもと、「家庭」や「家族」をあまりにもないがしろにし過
ぎた。つまり今にみる子どもへの虐待は、あくまでもその結果でしかないということになる。

 子どもを虐待する親もまた、自分ではどうしてよいかわからず苦しんでいる。世間一般は、子
どもを虐待する親を、ただ一方的に責める傾向があるが、その親たちもまた現在の社会が生
み出した犠牲者と考えてよい。虐待に対する一つの見方としてこの原稿をとらえてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(207)

●あきらめは悟りの境地

 子育てをしていて、あきらめることを恐れてはいけない。子育てはまさに、あきらめの連続。
またあきらめることにより、その先に道が開ける。もともと子育てというのはそういうもの。

 一方、「そんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばればがんばるほど、子育ては袋小路
に入る。そしてやがてにっちもさっちもいかなくなる。要はどの段階で、親があきらめるかだが、
その時期は早ければ早いほどよい。……と言っても、これは簡単なことではない。どの親も、
自分で失敗(失敗という言葉を使うのは適切でないかもしれないが)してみるまで、自分が失敗
するとは思っていない。「うちの子にかぎって」「私はだいじょうぶ」という思いの中で、行きつくと
ころまで行く。また行きつくところまで行かないと気がつかない。

 要は子どもの限界をどこで知るかということ。それがわかれば親も納得し、その段階であきら
める。そこで一つの方法だが、子どもに何か問題が生じたら、「自分ならどうか」「自分ならでき
るか」「自分ならどうするか」という視点で考える。あるいは「自分が子どものときはどうだった
か」と考えるのもよい。子どもの中に自分を置いて、その問題を考える。

たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ったら、すかさず、「自分ならできるか」「自分な
らできたか」と考える。それでもわからなければ、こういうふうに考えてみる。

 もしあなたが妻として、つぎのように評価されたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。「あ
なたの料理のし方、76点。接客態度、54点。家計簿のつけ方、80点。主婦としての偏差値4
8点。あなたにふさわしい夫は、○○大学卒業程度の、収入○○万円程度の男」と。またそう
いうあなたを見て、あなたの夫が、「もっと勉強しろ」「何だ、この点数は!」とあなたを叱った
ら、あなたはそれに一体どう答えるだろうか。子どもが置かれた立場というのは、それに近い。

 親というのは身勝手なものだ。子どもに向かって「本を読め」という親は多くても、自分で本を
読んでいる親は少ない。子どもに向かって「勉強しろ」という親は多くても、自分で勉強する親
は少ない。そういう身勝手さを感じたら、あきらめる。

そしてここが子育ての不思議なところだが、親があきらめたとたん、子どもに笑顔がもどる。親
子のきずながその時点からまた太くなり始める。もし今、あなたの子育てが袋小路に入ってい
るなら、一度、勇気を出して、あきらめてみてほしい。それで道は開ける。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(208) 

●悪筆、言ってなおらず

 年長児くらいになると、子どもの悪筆が目立ってくる。小学校へ入ると、さらにそれがはっきり
とわかるようになる。手の運筆能力が固定化してくるためと考えられる。その運筆能力は、子
どもに丸(○)を描かせてみるとわかる。

運筆能力のある子どもは、きれいな、つまりスムーズな丸を描くことができる。そうでない子ど
もは、多角形に近いぎこちない丸を描く。(縦線を描くときと横線を描くときは、指、手、手首の
動きは基本的に違う。違うことは一度、自分で縦線と横線を描き、それらがどう変化するかを
観察してみるとわかる。さらに丸を描くときは、これからがきわめて複雑な動きをするのがわか
る。つまりきれいな丸を描くというのは、それだけたいへんということ。)

 悪筆が目立ってくると、親はすぐ、「書道教室へ」と考えるが、これは誤解。そもそも運筆能力
のない子どもに書道をならわせると、見た目にはきれいな文字を書くようになるが、今度は時
間ばかりかかって、先へ進めなくなってしまう。

学校の授業でも、先生が黒板に文字を書く速さについていけない子どもはいくらでもいる。以
前、M君(小二男児)がいた。文字はきれいだが、とにかく遅い。皆が書き終わっても、まだノロ
ノロと書いている。そこである日、私はきつく注意した。「はやく書きなさい!」と。とたんM君は
はやく書くようになったが、私はその文字を見て心底驚いた。文字がめちゃめちゃだったのだ。
しかしそれがM君の本来の文字だった。

 運筆能力を養うためには、塗り絵がよい。塗り絵をしながら、子どもは運筆能力を養う。その
塗り絵で訓練すると、こまかい四角や丸い部分を、いろいろな線を使って塗りつぶそうとする。
そうなればしめたもの。(塗り絵になれていない子どもは、横線なら横線ばかりで色を塗ろうと
するから、線があちこち飛び出したりする。)文字の学習に先立って、子どもには塗り絵をさせ
る。あとあと文字がきれいに書けるようになる。

 なおクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは3本の指でつかむようにしてもつ。鉛
筆は、親指とひとさし指でつかみ、中指でうしろから支えるようにしてもつ。(だからといってそれ
が正しいもち方ということにはならないが……。)鉛筆を使い始めたら、一度正しいもち方を教
えるとよい。ちなみに年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは約150%。クレヨンをもつようにし
てもつ子どもが、30%。残りの20%は、きわめて変則的なもち方をするのがわかっている(筆
者調査)。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(209)

●ふつうこそ最善

 ふつうであることにはすばらしい価値が隠されている。賢明な人はその価値をなくす前に気づ
き、そうでない人はそれをなくしてはじめて気づく。健康しかり、家族しかり、そして子どものよさ
もまたしかり。

 私は3人の息子のうち、2人をあやうく海でなくしかけたことがある。とくに二男が助かったの
は奇跡中の奇跡。そういうことがあったためか、それ以後、二男の育て方がほかの2人とは変
わってしまった。二男に何か問題が起きるたびに、私は「ああ、こいつは生きているだけでい
い」と思いなおすようになった。たとえば二男はひどい花粉症で、毎年その時期になると、不登
校を繰り返した。中学2年生のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。しかしそのつ
ど、「生きているだけでいい」と思いなおすことで、私は乗り越えることができた。

 子どもに何か問題が起きたら、子どもは下から見る。「下(欠点など)を見ろ」というのではな
い。「生きている」という原点から見る。が、そういう視点で見ると、あらゆる問題が解決するか
ら不思議である。またそれで解決しない問題はない。

 ……と書いて余談だが、最近読んだ雑誌の中に、こんな印象に残った話があった。その男性
(50歳)は長い間、腎不全と闘っていたが、腎臓移植手術を受け、ふつうの人と同じように小
便をすることができるようになった。そのときのこと。その人は自分の小便が太陽の光を受け、
黄金色に輝いているのを見て、思わずその小便を手で受けとめたいうのだ。

私は幸運にも、生まれてこのかたただの一度も病院のベッドで寝たことがない。ないが、その
人のそのときの気持ちがよく理解できる。いや、最近になってこんなふうに考えることがある。

 私はこの30年間、往復約一時間の道のりを、自転車通勤をしている。ひどい雨の日以外
は、どんなに風が強くても、またどんなに寒くても、それを欠かしたことがない。しかし30年もし
ていると、運動をしていない人とは大きな差となって表れる。たとえば今、同年齢の多くの友人
たちは何らかの成人病をかかえ、四苦八苦している。しかし私はそうした成人病とは無縁だ。
そういう無縁さが、ある種の喜びとなってかえってくる。「ああ、運動をつづけてよかった」と。そ
の喜びは、小便を手で受けとめた人と、どこか共通したものではないか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(210)

●それ以上、何を望むか

 法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言
う。「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。それに
答えて釈迦はこう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」
と。

 これまで多くの親たちが、こう言った。「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。そう
いう親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではない
か。それ以上、何を望むのか」と。

 子育てはたいへんだ。こんな報告もある。東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査
によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、7%。そしてその大半が何ら
かの形で虐待しているという。「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に
走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。7%という数字が大きいか小さいか、評
価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、それ自体大きな苦労をともなうものである
ことには違いない。

言いかえると楽な子育てというのは、そもそもない。またそういう前提で考えるほうが正しい。い
や、中には子どものできがよく、「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っている人もいる。し
かしそういう人は、きわめて稀だ。

 ……と書きながら、一方で、私はこう思う。もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつ
まらないものであったか、と。人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子ども
は私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。たとえば子どものほしそうなものを手に入
れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、家路を急いだことが何度かある。もちろん
悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとして、子どもたちは私に生きる目標を与えてく
れた。

もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。その証拠に、息
子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのような感じがす
る。あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。今でもいろいろ問題
はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。「お前たちのおかげ
で、私の人生は楽しかったよ」と。

 ……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。今まで楽しかったことだけを考えて、前に
進めばよい。
 
 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(211)

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。私、
子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。お
ばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」私、再び、子どもに向かって、「楽しか
ったかな」母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたとき
のこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩
いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(212)

●汗はかかせる

 最近の子どもたちは驚くほど、暑さに弱い。夏場でも、冷房がある生活のほうが当たり前にな
っている。……というようなグチは、今さら言ってもしかたない。そこでここでは話を一歩進め
て、「文明」とは何かを考える。

 私の女房も、週2回テニスクラブへ行くのに、車を使っている。距離は500メートルもない。運
動ということを考えるなら、歩いていったほうが、よっぽど運動になる。

しかしこういう「矛盾」は、今、日常生活の中にありあふれている。たとえばダイエット食品があ
る。こんにゃくで作った焼きそばとかスパゲッティなどがある。ラーメンもあるが、どれも値段は
本物の焼きそばやスパゲティより高い。腸をゆるくするダイエット食品もいろいろあるが、しかし
どれも高価なものばかり。中には一回分、数百円。一か月もつづけると、数万円という食品も
ある。一方で食べるだけ食べておいて、そのまた一方で、ダイエット食品をとる。これも矛盾
だ。

しかし最大の矛盾は、洗濯は全自動の洗濯機にさせ、料理も電子レンジですましながら、一方
で運動不足を理由にスポーツセンターへ通うことだ。冒頭にあげた子どももそうだ。夏の間中、
冷房のきいた部屋の中ばかりにいれば、当然体は弱くなる。冷房のない部屋だと暑苦しいの
か手で胸をかきむしる子どもなど、今どき珍しくもなんともない。

中には青白い顔をして、ハーハーとあえぐ子どももいる。……というようなグチも、今さら言って
もしかたない。こうした文明には、いつも大きな矛盾がともなう。要はこうした矛盾と、どうつきあ
っていくかだが、これについても今さらここに書いてもしかたない。さらに一歩、話を進める。

 文明生活の中で一番こわいのは、こうしたもろもろの矛盾を、矛盾と感じなくなってしまったと
きだ。矛盾が当たり前になり、その矛盾がさらに巨大な矛盾を生み出す。それを「矛盾」と知っ
ていればまだ救われるが、その矛盾が矛盾とわからなくなれば、ひょっとしたら人間の存在そ
のものが矛盾ということになるかもしれない。それはまさしく人間そのものが矛盾の中で自己崩
壊することを意味する。それはちょうど暴走族のようなものだ。

車という最先端の知恵と技術が結集された「文明の利器」を使いながら、多くの人たちに迷惑
をかける。やっていることは、野性のサル以下。が、彼らはそうした矛盾に気づいていない。人
間全体が、その暴走族と同じことをしないとも限らない。これがこわい。

 ……とまあ、話がどんどんと飛躍してしまったが、子どもはできるだけ自然の中で、不便を感
じさせながら育てるのがよい。夏は夏で、どんどんと汗をかかせる。そのほうが健康によいこと
は、当然ではないか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(213)

●あせる親は結論も早い

 あるおけいこ塾の先生が、こんなことを言った。「親の中でもワーワーと騒いで入会してくる親
ほど、要注意です。そういう親ほど、これまたワーワーと言って去っていきます」と。ある学校の
先生も、同じことを言っていた。

「口がうまい親ほど、気をつけています」と。私にも、つきあいたい親と、そうでない親がいる。
そのキーポイントとなるのが、やはり信頼関係。この信頼関係があれば、つきあっていても心
地よいが、そうでなければそうでない。もっとも私のばあいは、その信頼関係が切れたとき、そ
れは同時に互いの別れということになる。が、学校の先生はそうはいかない。中にはその母親
からの電話がかかってきただけで、心臓が踊るということもあるという。

 ……と書きながら、これ以上書くと、親の悪口になるので、書きたくない。私の世界では、親
はいつもスポンサーであり、また私のよき理解者かつ支援者である。いわばお客さんのような
もの。そういうお客さんに向かって、「こういう客はよい客だ。こういう客は悪い客だ」と書いてい
たら、仕事(商売)にならない。しかしこれだけは言える。

 教育がふつうの商売と違うところは、そこに太い人間関係ができるとこと。ものの売り買いと
は違う。自動車学校や予備校の指導とも違う。子どもに与える影響は、きわめて大きい。だか
ら教育を商売と同じように考えることはできない。またしてはならない。そこでいくつかのポイン
トがある。

(1)先生とつきあうときは如水淡水……子どもの教育だけにかかわり、プライベートなことは、
一切、避ける。よく誤解されるが、プライベートなつきあいをしたからといって、信頼関係が深ま
るということは、ない。

(2)過剰期待はしない……教師を聖職者だと思っている人は多い。思って、やりたい放題のこ
とをする人も多い。しかしこれはまったくの誤解。子どもを相手に仕事をしているという点をの
ぞけば、あなたやあなたの夫と、どこも違いはしない。とくに人間性がすぐれているということも
ない。怒るときには怒る。不愉快に思うときは思う。そういう前提で、つまり同じ人間という前提
でつきあう。

(3)別れ際を大切に……人間関係は、すべてその別れ際の美学で決まる。出会い以上に、別
れるときを美しくする。美しい別れを方をするということは、つぎの新しい出会いをまた美しくす
るということにもなる。教師というのは因果な商売で、その人との出会い方をみると、その別れ
方までおおよその見当がつくようになる。「ああ、この人は別れ方がきたないぞ」と。しかしそう
思ったとたん、信頼関係は崩壊する。

 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(214)

●遊びが子どもの仕事

 「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらず
とも、はずれてもいない。「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中
の公園ほどの大きさがある。オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めている
ところもある。日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほ
うがよい。

また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室
の外で身につける。実はこの私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅拒否
の症状もあったのかもしれない。それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。けんか
のし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。性教育もそこで学んだ。……もっとも、それがわ
かるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。それまでは私の過去はただの過
去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。いわんや、自分という人間
が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。しかしやはり私という人間は、あの寺
の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみあいもあ
った。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離さ
れていたということ。たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。
山ででくわしたら最後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリ
ンチもしたし、つかまればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつをして笑いあうような相手ではないが、し
かし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐらいはした。つまり寺の境内とそれを包
む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がな
い。つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んで
いた。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い子ど
もや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、子分の関
係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。仲
間意識もあった。仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。

しかしそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だから今、世界で
起きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけ
て、簡単に理解することができる。もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまです
んなりとは理解できなかっただろう。だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生
で必要な知識と経験はすべて寺の境内で学んだ」と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(215)

●思考回路

 人間にはだれしも思考回路というのがある。たとえば暴力団の男たちは、ものごとを何でも
暴力で解決しようとする。一方私は文を書くのが好きだから、何か問題が起きたりすると、すぐ
文を書いて解決しようとする。こういのを思考回路という。

 こういう思考回路は子どもにもあって、また子どもによって思考回路はそれぞれ違う。たとえ
ば年長児あたりに、「あなたはブランコを横取りされました。あなたはどうしますか」と聞く。する
と子どもたちはそれぞれ自分の思考回路を使って、その問いに答えようとする。「順番に使え
ばよい」「横取りはさせない」など。しかし中には、「ぶん殴ってやればいい」と言う子どもいる。
これは余談だが、あとでその子どもの父親は元ヤクザだたっということがわかった。その父親
の左手の小指は欠損していた

 で、問題はいかにしてよい思考回路を子どもの中につくっていくかということ。いや、それを話
す前にこんなことがある。以前、「たまごっち」という電子ゲームがはやったことがある。ほとん
どの子どもがそれにハマったが、そのたまごっちのブームが去ると、今度はそれがポケモンに
なり、今ではさら遊戯王になったり、マジックザギャザリングになったりしている。それぞれは
別々のゲームだが、思考性という点では、連続性がある。この連続性をつくりあげているの
が、ここでいう思考回路ということになる。

 そこで幼児教育で注意しなければならないことは、粗悪な思考回路をつくらないということ。一
度それができると、以後、ずっとその子どものものの考え方を支配するようになる。たとえばこ
んな子ども(中学男子)がいた。ある日窓の外をぼんやりと見ているので、「何を考えているの
だ」と声をかけると、こう言った。「先生、ぼくはあのビルを超能力を使って、破壊してみたい」
と。

彼は幼児のときからものの考え方が現実離れしていた。うらないやまじないばかりを信じ、魔
法とか魔術に強い関心をもっていた。つまりそれが彼の思考回路ということになり、だからそれ
が転じて、「超能力使って破壊してみたい」となる。

 言いかえると、幼児期には子どもの論理性を育てることを大切にする。もっとわかりやすく言
えば、子どもに何かもの教えるときは、「何をどう教えたか」とか「どれくらい覚えたか」ではな
く、子どもの心の中にどのような思考回路ができつつあるかをみる。そしてそれが論理的なも
のであればよし、しかし先に書いたように粗悪なものであれば、それは避ける。

 幼児教育の一つの方向性として、思考回路について考えてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(216)

●構造的な問題

国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・1999年)の調査によると、日本の中学生の
学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港に次いで、第5位。以下、オースト
ラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続く。理科については、台湾、シンガポールに次いで第
3位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシアと続く。

また偏差値(日本……世界の平均点を500点としたとき、数学579点、理科550点)だけを
みて、学力を判断することはできない。この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長
は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると
言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。

 こうした現状の中で、学校5日制が実施され、ゆとり教育の中で学習要領そのものが3割削
減されようとしている。今以上に、日本の子どもの学力が低下することは、もう避けられそうに
もない。が、本当の問題は、学力ではない。思考力である。

学力と思考力は本来異質のものであり、学力(知識)があるからといって、思考力があるとは
かぎらない。しかし日本の子どもたちは、その思考力においても、低下する傾向にある……?
 

たとえば東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏は、同じ調査結果をふまえて、文部科学省の徳
久氏とは対照的に、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述
べている。ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学が最低(48%)。「理科が好
き」と答えた割合は、韓国についでビリ2であった(韓国52%、日本55%)。学校の外で勉強
する学外学習も、韓国に次いでビリ2。一方、その分、前回(95年)と比べて、テレビやビデオ
を見る時間が、2・6時間から3・1時間にふえている。

同じような調査だが、ベネッセコーポレーションの「第3回学習基本調査」によれば、次のように
なっている(2001年5月と6月に小、中、高校生約8700人について調査)。

学習時間が30分以下……小学生 40・3%
                中学生 30・7%
                高校生 37・1% 

家ではほとんど勉強しないと答えた中、高校生……23・1%

 日本の中学生たちがますます勉強嫌いになり、かつ家での学習時間が短くなっていること
が、これらの調査でわかる。が、それにしても小学生よりも高校生のほうが、勉強時間が短い
とは! それはともかくも、日本がもつ教育の問題は、もっと構造的なものではないか。これに
ついては別のところで考えるが、ここでは事実だけをあげるにとどめる。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(217)

●知識と学力

 もの知りの人間が、賢い人間ということにはならない。知識と学力は本来別のものであり、こ
れを混同すると、教育そのものが混乱する。

たとえば幼稚園児が掛け算の九九をペラペラと口にしたとしても、その子どもが賢い子どもと
いうことにはならない。いわんや算数ができるとか、頭のよい子ということにもならない。が、も
しその子どもが、「車が3台でタイヤの数は12」と、即座に計算できれば、算数のできる子ども
ということになる。さらにその計算方法を自分で考えだしたとしたら、頭のよい子ということにな
る。

 ところがこの日本では、子どもに知識をつけさせることが教育だと思い込んでいる人が多い。
教育の体系そのものがそうなっている。あるいは入試内容にしても、学力をためすというより
は、知識をためすものになっている。いろいろな改善策がこころみられてはいるが、基本的に
はこの構図は明治以来、変わっていない。

たとえば今でこそやや少なくなったが、30年前にはどこに進学高校にはいわゆる頭のおかし
い「勉強バカ」というのがいた。勉強しかしない、勉強しかできない、頭の中は勉強だらけという
子どもである。しかしそういう子どもほど、スイスイと一流大学の一流学部(「一流」という言い方
は本当にいやだが……)へ進学していった。私は進学塾の講師をしながら、そのときはそのと
きで、少なからず疑問に思ったことがある。「こんなことでいいのか」と。

 では、学力とは何か。また学力はどうやって養えばよいのか。実はその答はあなた自身が一
番よく知っている。あなたが今、35歳なら35歳でよい。あなたは20歳のときから今までの15
年間で、何かを自ら学ぼうとしたか。あるいは学んだか。何かを発見したとか、何かを新たにで
きるようになったとか、そういうことでもよい。そのとき「知識」は除外する。知識は学力ではな
い。

するとたいていの人は、何もないことに気づくはずだ。もともと学ぶということにはある種の苦痛
がともなう。美濃部達吉も「語録」の中で、「学ぶ者は山に登るごとし」と書いている。だからた
いていの人は学ぶことを、自ら避けようとする。私やあなたとて例外ではない。学力とはそうい
うものであり、また学力を養うということはそういうことである。つまりそれだけむずかしいという
こと。教育のテーマそのものと言ってもよい。

ここでもう一度、あなたにとって子どもの教育とは何か、それをじっくりと考えてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(218)

●頭をよくする方法

 ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリ
ッパをひもでつないで、電車ごっこなど。時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども
(小3)がいた。

母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、その実験をして
いるのだ」と。ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。絵の具を溶かして、車にか
けるなどのいたずらは、好ましいものではない。善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないい
たずらをする。

 その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説が
ある。アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。で、この話をすると、
ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかませた。しかもそれを
年長児のときから、数年間続けた。で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってし
まった。この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果
がある。……と思う。

 また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。作文力だけをみたら、小学校の3、
4年生以上の力があったと思う。で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ちゃん
のときから、毎日本を読んで、それをテープに録音して、聴かせていました」と。母親の趣味
は、ドライブ。外出するたびに、そのテープを聴かせていた。

 今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もあ
る。子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。その敏しょう性。

一人、ドッジボールの得意な子ども(年長男児)がいた。その子どもは、とにかくすばしっこかっ
た。で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。雨の日もはだし
だったため、近所の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。子どもを将来、運動の得
意な子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てるとよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(219)

●読書のしつけ

 子どもの読書のしつけについて、いくつかのコツがある。

(1)まず方向性を知る……子どもには子どもの方向性がある。その方向性をうまく利用する。
たとえばサッカーが好きな子どもには、サッカーの本を与える。ゲームが好きな子どもなら、ゲ
ームの攻略本でもよい。児童文学書などを無理に与えても、たいてい失敗する。私もあの文学
者の書いた本が、どうも性に合わない。最近はほとんど読んだことがない。(これはたまたま私
が出会った文学者というのが、どの人もまともでないという印象を受けたためだと思う。)

(2)レベルをさげる……つぎに子どもに与える本は、思い切って一、二年、レベルをさげる。親
は書店へ行くと、どうしても一、二年レベルの高い本に手を子どもに買い与えようとする。しかし
ちょっとしたこの無理が、子どもを本から遠ざける。しかし子どもを本好きにさせようと考えるな
ら、レベルをさげる。(もともとレベルというのは、いいかげんなものだということもあるが、いわ
ゆる児童文学者というのは、本当に子どものレベルを知っていて本を書いているのではない。
せいぜい漢字の使い方で、年齢別にしているに過ぎない。)

(3)教科書がよい……本を買うなら、少し大きな書店へ行くと、いろいろな学校の教科書を売
っている。どうせ買い与えるなら、教科書がよい。内容も吟味されているが、値段も安い。何も
国語の教科書に限らない。算数でも社会でもよい。理科でもよい。最近の教科書は子どもが楽
しみやすいように工夫してあるので、読み物としてもそれなりにおもしろい。

(4)まず親が読んでみせる……子どもに本を与えるときは、まず親がおもしろそうに読んでみ
せる。これを動機づけという。動機づけがうまくいくと、あとは子どもが自らの力で本を読むよう
になる。こうなればしめたもので、あとは子ども自身に任せればよい。

 なおちなみに経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・2000年調
査)によれば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(15歳)のうち、
53%が、「しない」と答えている。この割合は、参加国32か国中、最多であった。

また同じ調査だが、読解力の点数こそ、日本は中位よりやや上の8位であったが、記述式の
問題について無回答が目立った。無回答率はカナダは5%、アメリカは4%。しかし日本は2
9%! 文部科学省は、「わからないものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれ
る」(毎日新聞)とコメントを寄せている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(220)

●あと一歩でやめる

 子どもを勉強好きにするコツがこれ。「あと一歩でやめる」。これにはいろいろな意味が含ま
れる。

 与えすぎない……学習量を、子どもの能力が10とみたら、8か9、できれば7のところでやめ
る。親は「11、もしくはせめて12」と無理をするが、この無理が続くと、子どもは確実に勉強嫌
いになる。こんな相談があった。

その子どもは毎日プリント学習を三枚することになっているのだが、何とか2枚はするのだが、
3枚目になると時間ばかりかかって先へ進まないという。それで「どうしたらいいか」と。答は簡
単。そういうときは2枚でやめる。仮にその子どもがスラスラと3枚もしたら、親は今度は「4
枚!」と枚数をふやすに違いない。子どもはそれを知っている。

 30分やって、勉強らしきことは5分……受験生でもないなら、30分間机に向かって、丸々3
0分勉強する子どもなど、いない。勉強というと、戦前の軍国主義教育のなごりなのか、子ども
は黙々と勉強するものだと思っている人は多い。しかしそれはまったくの誤解。

よほどのプロでも、幼児(年長児)を、30分間学習にひきつけておくのは、至難のわざといって
もよい。だからあなたの子どもが30分間くらいなら座っていることができるなら、勉強はその3
0分以内できりあげる。10分でも20分でもよい。その中で、5分くらいで勉強らしきことをしたと
思ったら、それでよしとする。

 レベルをさげる……家でする学習は、思い切ってレベルをさげる。ワークブックにしても、文
字が大きく、やりやすいものを選ぶ。簡単なものでよい。子どもにとって大切なことは、達成
感。「やり終えた」という満足感を大切にする。

 やってここまで……ほとんどの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。しかしや
る、やらないも「力」のうち。「やればできるはず」と思ったら、すかさず「やってここまで」と思う。
また親というのは、たまに子どもが100点を取ってくると、「やはりうちの子は……」と思い、悪
い点を取ってくると、「そんなはずはない」と思うもの。しかし子どもの能力も、その一歩手前で
判断するとよい。80点を取ってきたら、70点くらいと思う。70点を取ってきたら、60点と思う
など。一歩退いた見方が、子どもの心に余裕を生む。それが子どもを伸ばす原動力になる。





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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(221)

●個性は生きザマ

 個性は生きザマの問題。服装ではない。外観でもない。中に子どもを茶パツにし、(茶パツが
悪いといっているのではない)、「個性です」という親がいるが、そういうのは個性とは言わな
い。個性というのは生きザマだ。その人がどんな人生観をもち、どんな生き方をしているかが
個性だ。その生きザマが光る人を、個性のある人という。服装や外観は、あくまでもその結果
でしかない。

 私ははからずもある国家プロジェクトの会議のメンバーに選ばれたことがある。行政担当者
の人選ミスによるものだが、その会議のメンバーは、私をのぞいて、そうそうたるメンバーであ
った。日本を代表するような哲学者や科学者、それに毎晩テレビに顔を出すキャスターもい
た。その中でもとくに私の印象に残ったのが、養老猛司氏であった。解剖学が専門だと聞いて
いる。

で、会議で見ると、頭はボサボサ、ブレザーのスーツも、どこかごくふつうのブレザーであった。
もし電車の中で横に並んでも、だれもあの養老氏とは思わないだろう。私なんかふだんはそん
なことを気にしたこともないのに、会議のたびに、何を着ていこうかとか、そんなことばかり気に
していた。(会議のたびに10〜20人の取材人が押し寄せたこともある。)

が、養老氏は、まったくのふだん着。それだけを見てそう判断するのは、軽率かもしれないが、
「ああ、大物は違うな」と、そのときはそう思った。そういうのを個性という。

 子どもでも個性の光る子どもと、そうでない子どもがいる。どこがどう違うかといえば、要する
に自分をもっているかどうかということ。もう少しわかりやすく言えば、「つかみどころ」ということ
になる。個性をもっている子どもは、子どもながらにそのつかみどころがはっきりとしている。

方向性や志向性がはっきりしていて、その方向性や志向性に向かって、前向きに取り組んで
いる。もっと言えば、内に秘めたバイタリティというか、そういうエネルギーを感ずる。もちろん
子どもの段階では、その子どもがどんな個性をもつようになるかまではわからない。わからな
いが、個性をもつだろうということはわかる。

 このことはつまり、子どもの個性を伸ばすということは、子ども自身がもつ方向性や志向性を
認め、そのバイタリティを前向きに引き出すということにもなる。結果、その子どもがどういう個
性を光らせるようになるかは、あくまでもその子ども自身の問題であって、教師はもちろんのこ
と、ひょっとしたら親ですら関知しえない問題かもしれない。あくまでも子ども自身が決める問題
なのだ。

 ……しかし実際のところ、「私は私」という生きザマを貫くことは、この日本ではたいへん難し
い。日本の社会そのものが、個性を認めるほど社会的に成熟していないこともある。このこと
については、また別のところで考える。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(222)

●アルバムをそばに置く

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成
長していく喜びを知る。それだけではない。子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を
学ぶ。ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お
兄ちゃんだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親
なのだ。

一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年長男
児)もいた。ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子どもは、まず
いない。哺乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、たい
てい「知らない」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。記憶が記憶として想起できるようになる
のは、満4・5歳前後からとみてよい(※)。

このころを境にして、子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それまでは、す
べて「昨日」であり、「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の日が、あさって」
という概念は、年長児にならないとわからない。が、一度それがわかるようになると、あとは飛
躍的に「時間の世界」を広める。その概念を理解するのに役立つのが、アルバムということに
なる。話はそれたが、このアルバムには、不思議な力がある。

 ある子ども(小5男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見てい
た。また別の子ども(小3男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。つま
りアルバムには、心をいやす作用がある。

それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、まずいない。アルバム
は、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。が、それだけではない。

冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見る。さらに父親や
母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようになる。それは子ども
にとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、私はあのとき感じ
たショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たときのことだ。「これ
がぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学3年生ぐらいのときのことだったと思う。

 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあっ
た。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには100冊近いアルバムが並んでいた。そ
れを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、恩師の
まねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入って
いるのを知った。ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあった。

そしてそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情をして
いるのに、私は気がついた。そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバムを置
いてみるとよい。あなたもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(223)

●前向きの暗示を

 子どもを伸ばす秘訣の一つ、それはいつも子どもには前向き(プラス)の暗示をかける。「あ
なたはどんどんいい子になる」「あなたはどんどん伸びている」「あなたは以前のあなたよりす
ばらしい」と。まちがってもうしろ向き(マイナス)の暗示をかけてはいけない。いわんや、「あな
たはやっぱりダメな子」式の、人格攻撃はタブー中のタブー。これはもう、言葉による虐待と考
えてよい。そこで子どもを伸ばす話術。いろいろある。

(1)頭ごなしの禁止命令はしない……「○○をしてはダメ」式の禁止命令は、できるだけ少なく
する。「指しゃぶりはダメ」「騒いではダメ」など。そういうときは私のばあい、「おいしそうな指
ね、先生にもなめさせてね」「お尻がかゆい人は騒いでいていい」などと言うようにしている。頭
ごなしの禁止命令が日常化すると、子どもの心は内閉する。(あるいは粗放化する子どももい
る。)

(2)いつも具体性をもたせる……「静かにしないさい」ではなく、「口を閉じていなさい」と言う。
「しっかりとあいさつをしないさ」ではなく、「体をまげて、自分の足を見なさい」と言うなど。具体
性のない指示は、子どもには意味がないと思うこと。

(3)そして子どもには、いつも「あなたはすばらしい子」という前提で話しかける。何か失敗して
も、「あなたらしくはないわね」「いろいろなときがあるわね」とか言うなど。そのためには、まず
あなた自身の心をつくりかえなければならない。もし心のどこかで不安だ、心配だと思っている
なら、そういう不安や心配を取り除く。それがあると結果として、そういうあなたの心は子どもに
伝わってしまう。そしてそれがマイナスの暗示になってしまう。

 つまるところ子どもを伸ばすということは、子どもを信ずるということ。しかし子どもを信ずるこ
とは、たいへんむずかしい。子育てでも、最大のテーマではないか。そんなことも考えながら、
前向きの暗示とは何か、それを考えてみるとよい。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(224)

●新居の関所

 浜名湖の南西にある新居町には、新居関所がある。関所の中でも唯一現存する関所という
ことだが、それほど大きさを感じさせない関所である。江戸時代という時代のスケールがその
まま反映されていると考えてよいが、驚くのは、その「きびしさ」。関所破りがいかに重罪であっ
たかは、かかげられた史料を読めばわかる。

つかまれば死罪だが、その関所破りを助けたものも同程度の罪が科せられた。新居の関所破
りをして、伊豆でつかまった男は、死体を塩漬けにして新居までもどされ、そこでさらにはりつ
けに処せられたという記録も残っている。移動の自由がいかにきびしく制限されていたかが、こ
の事実ひとつをとっても、よくわかる。が、さらに驚いたことがある。

 あちこちに史料と並んで、その史料館のだれかによるコメントが書き添えてある。その中の
随所で、「江戸時代は自由であった」「意外と自由であった」「庶民は自由を楽しんでいた」とい
うような記述があったことである。当然といえば当然だが、こうした関所に対する批判的な記事
はいっさいなかった。私と女房は、読んでいて、あまりのチグハグさに思わず笑いだしてしまっ
た。「江戸時代が自由な時代だったア?」と。

 もともと自由など知らない人たちだから、こうしたきゅうくつな時代にいても、それをきゅうくつ
とは思わなかっただろうということは、私にもわかる。あの北朝鮮の人たちだって、「私たちは
自由だ」(報道)と言っている。

あの人たちはあの人たちで、「自分たちの国は民主主義国家だ」と主張している。(北朝鮮の
正式国名は、朝鮮人民民主主義国家。)現在の私たちが、「江戸時代は庶民文化が花を開い
た自由な時代であった」(パネルのコメント)と言うことは、「北朝鮮が自由な国だ」というのと同
じくらい、おかしなことである。私たちが知りたいのは、江戸時代がいかに暗黒かつ恐怖政治
の時代であったかということ。新居の関所はその象徴ということになる。

たまたま館員の人に説明を受けたが、「番頭は、岡崎藩の家老級の人だった」とか、「新居町
だけが舟渡しを許された」とか、どこか誇らしげであったのが気になる。関所がそれくらい身分
の高い人によって守られ、新居町が特権にあずかっていたということだが、批判の対象にこそ
なれ、何ら自慢すべきことではない。

 たいへん否定的なことを書いたが、皆さんも一度はあの関所を訪れてみるとよい。(そういう
意味では、たいへん存在価値のある遺跡である。それはまちがいない。)そしてその関所をと
おして、江戸時代がどういう時代であったかを、ほんの少しでもよいから肌で感じてみるとよ
い。

何度もいうが、歴史は歴史だからそれなりの評価はしなければならない。しかし決して美化して
はいけない。美化すればするほど、時代は過去へと逆行する。そういえば関所の中には、これ
また美しい人形が八体ほど並べられていたが、まるで歌舞伎役者のように美しかった。私がこ
こでいう、それこそまさに美化の象徴と考えてよい。
(※こまかい点は、聞き覚えなので、事実と違うかもしれない。)





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(125)

●便利な世界

 便利さはそれになれると、感覚がマヒする。私のきわめて身の回りのことを書く。
 
10年近く前から私はワープロを使うようになった。いや、もう15年になるかもしれない。当初私
は、その便利さに圧倒された。そのワープロが今度は、パソコンにかわった。私はこれまたそ
の便利さに圧倒された。文を書くだけではなく、原稿の送受信まで、それこそ瞬時にやっての
ける。そこで私はさらに便利にするため、周辺機器を買いそろえた。プリンターやスキャナーは
もちろんのこと、ほとんどの周辺機器はとりそろえた。で、今では私の部屋は、足の踏み場もな
いほどコード類が走り回っている。パソコンだけで6台だから、どの程度のコードかは、わかる
人ならわかると思う。

 が、便利というのは恐ろしいものだ。そのつど格段に私の仕事は便利になったが、気がつい
てみると、最近ではマウスをクリックするだけでも、不便に感ずるのだ。ワープロの時代は文書
をそのつどフロッピーに保存し、プリントのたびに紙をワープロに設置した。印刷時間も今の5
〜6倍はかかったのではないか。もちろん原稿は封筒に入れ、真夜中でも速達で出すため、
郵便局まで車を走らせた。(それでも当時は当時で便利になったものだと喜んでいた!)それ
がマウスをクリックするだけでも、不便に感ずる? 

たとえばOCRというソフトがある。スキャナーに原稿をはさんで、それをスキャンすると、その
原稿の文字をパソコンの中に取り込んでくれる。昔のように原稿を見ながら、それをカチャカチ
ャとキーボードをたたいて入力する必要など、もうない。ないにもかかわらず、それがめんどう
なのだ。女房からひとつの仕事を頼まれているが、「まだア?」とこのところ毎日のように催促さ
れている。やる気になれば、5分程度で、数枚の原稿を読み取ることができるというのに!

 だいたいにおいて書斎に座ったら最後、動くのは指先だけ。体を動かさねばならないようなこ
とは、めったにない。それこそ紙の補給ぐらいなものか。だからこういう世界にどっぷりとつかっ
てしまうと、体を動かすこと、たとえば立ちあがってすわることが重労働に思われるから不思議
である。

 ……と考えて、これはもう現代文明に共通する「矛盾」ではないかと思っている。考えてみれ
ば、ありとあらゆるものがそうなのである。しかし人間はあくことなく、さらなる便利さを求めて動
き回っている。これを進歩というか、はたまた後退というのかは、私にはわからないが、大きな
矛盾であることには違いない。あるいはそれは本当に人間が求めているものかどうかは、大き
な疑問の残るところでもある。

 私は今、この文をその書斎で書きながら、やがて私はその便利さにどこまで体がなれてしま
うか、それをそら恐ろしくすら思い始めている。やがて指を動かすことすらめんどうに感ずるよ
うになってしまったら……? それももう時間の問題のような気がするが……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(226) 
 
●案ずるより産むがやすし

 心配性の親というのは、たしかにいる。しかし「心配性」というのは、不安神経症のことか。さ
らにはうつ病の「不安発作」ということも考えられる。感情のコントロールができなければ、感情
障害ということにもなる。このタイプの親は頭の中でつぎつぎと不安のタネをつくり、そしてそれ
を限りなく増大させる。「被害妄想」という言葉があるが、まさにその妄想のウズに巻き込まれ
てしまう。

 あるとき一人の母親が私のところへ来て、こう相談した。何でも幼稚園の下の階が、炊事室
になっているという。その母親の子どもの教室がその真上にあって、「火事にでもなったら、た
いへん」と。その幼稚園には避難用として一応、大きなスベリ台が二階から地上へとつながっ
ているが、「それでは不安だ」とも。

私が「幼稚園は一応どこも、消防署の検査を受けているはずです」と言ったが、それでも納得
しなかった。「地震のときはどうなのか」とか「子どもがスベリ台をこわがったらどうするのか」
と。こんな母親もいた。

 息子がアメリカへ1年間留学することになったという。それについて、「心配で夜も眠られな
い」と。その母親はアメリカで何か事件が起きると、すべてアメリカ中で同じような事件が起きて
いると思ってしまうらしい。

そこで私が「テキサス州といっても、日本の二倍の広さがあります」「インドネシアで地震がある
と、日本も壊滅状態になったと考えるアメリカ人も少なくありません。それと同じことです」と説明
したが、やはり納得しなかった。アジア全域を含めても、アメリカ大陸より小さい。

愉快だった(失礼!)だったのは、たまたまその母親はブルースウィルスの「ダイハード」という
映画を見たらしい。その映画を例にとって、「アメリカは恐ろしい国ですから」と。(もしそんな心
配をするなら、ビートたけしの「バトルロワイヤル」を見て、「これが日本の中学校だ」と思うよう
なものだが……。)ともかくも、心配する人は、そこまで心配する。

 そこで格言。「案ずるより産むがやすし」。ここでいう意味とは少しはずれるかもしれないの
で、この格言を少し言いかえるとこうなる。「案ずるより任すがやすし」と。子どもというのは、親
の心配の外で成長するもの。心配したからといってどうにもならない。心配しないからといって、
どうにかなるものでもない。子育てにはこうした心配はつきもの。そういう意味で、子育てという
のはいつも自分との戦い。自分が心配だからといって、その心配を子どもにぶつけてはいけな
い。ぶつけるというのは、それはもう親のエゴでしかない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(227)

●威圧で閉じる子どもの耳

叱られじょうずな子どもがいる。親や先生が叱るときだけ、いかにも反省していますというような
態度を示す。元気なさそうに頭をうなだれたりする。しかしそういう様子にだまされてはいけな
い。「だます」という言い方には少し語弊があるかもしれないが、子どもの心というのは、もっと
別の角度からみる。あるいは子どもを叱るというのは、もっと別のことと考える。

 子どもの叱り方は、子育ての要(かなめ)。叱り方ひとつで、伸びる子どもも伸びなくなってし
まう。あるいは反対に子どもの伸びる芽をつんでしまうこともある。そこでその叱り方。たとえば
「威圧で閉じる子どもの耳」と覚えておく。親が威圧的になればなるほど、子どもの耳は閉じる
ということ。そして一度閉じると、あとはいくら叱っても意味がないということ。

 実際こんな子ども(小5男児)がいた。親に叱られるときは、いつも心の中で「ポケモン言える
かな」を歌っていると。この歌は、ポケモンの名前を連ねただけの意味のない歌だが、意味が
ないだけにそういうときに役にたつらしい? 子どもを叱るときには、つぎのようなことに注意す
るとよい。

(1)視線を子どもの目線の高さまで落とす。
(2)子どもの体を両手で固定し、視線をしっかりと子どもの視線にあわせる。
(3)何度も大切なことだけを繰り返し、怒鳴ったり暴力を加えてはいけない。
(4)すぐには効果をもとめず、言うだけ言ったらあとは時間がすぎるのを待つ。そしてここが重
要だが、
(5)子どもは決して叱りっぱなしにしてはいけない。子どもが言ったことを守れるようになった
ら、「ほらできるわね」とほめて仕上げる。

 親の威圧が日常的につづくと、子どもは俗にいう「常識ハズレ」になりやすい。自分で静かに
考えて行動するということができなくなるためと考える。友だちの誕生日に、酒粕を包んで送っ
た子ども(小三男児)や、虫の死骸を箱につめて送った子ども(小三男児)などがいた。そういう
ことを平気でするようになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(228)

●よい子論

 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただ
け。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。同じように、よい子もそうでない子も、大きな違い
があるようで、それほどない。ほんの少しだけ育て方が違っただけ。そこでよい子論。

 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観など、
すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見た「よい
子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。またどのレベルで判断するかによっても、変わって
くる。

たとえば息子が同性愛者になったことを悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びをする女
の子はうらやましく思えるもの。(だからといって、同性愛が悪いというのではない。誤解がない
ように。)それだけではない。どんな子どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば悪い面
もある。こんなことがあった。

K君(小5)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ呼び出され
ていた。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。で、相談があったので、私
は月に1、2回程度、彼の勉強をみることにした。で、そうして1年ぐらいがたったある夜のこ
と、私はK君と母親の3人でたまたま話しあうことになった。が、私はK君が悪い子だとはどうし
ても思えなかった。正義感は強いし、あふれんばかりの生命力をもっていた。おとなの冗談が
じゅうぶん理解できるほど、頭もよかった。

それで私は母親に、「今はたいへんだろうが、K君はやがてすばらしい子どもになるだろうか
ら、がまんしなさい」と話した。で、それから一週間後のこと。私が一人で教室にいると、いつも
より30分も早くK君がやってきた。「どうしたんだ?」と聞くと、K君はこう言った。「先生、肩をも
んでやるよ」と。

 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言えば、子
ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師の問題では
ない。まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようとすることだ。そして
その像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教師にもない。

要は子ども自身がどう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな方向性をもってい
ればよい子であり、そうでなければそうでないということになる。たいへんわかりにくい言い方に
なってしまったが、よい子、悪い子というのも、それと同じくらいわかりにくいということ。もっと言
えば、この世の中によい人も悪い人も存在しないように、よい子も悪い子も存在しないというこ
とになる。

 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを考えて
も、意味はない。まったくない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(229)

●子どもの家出

 子どもの家出といっても、一様ではない。まず目的のない家出と、目的のある家出に分ける。
目的がないかあるかは、もちものを見ればわかる。目的のない家出は、身の回りのありとあら
ゆるものをもって、家から一方向に遠ざかるという特徴がある。

S君(年長児)は、買い物バッグの中に、サイフから大根、おもちゃから人形、ビデオテープな
ど、手当たり次第につめて家出した。親が気がついて追いかけたときには、数キロ先を黙々と
下を向きながら歩いていたという。一方、目的のある家出は、その先で何をするかがはっきり
わかるものをもって、家を出る。サッカーの試合を見るための家出は、試合の応援のグッズを
もっていくなど。

 目的のある家出は、それほど心配しなくてもよい。だれしも一度や二度は経験する。しかし目
的のない家出は、家庭にかなり深刻な問題があるとみる。子ども自身が家庭の中に居場所が
ないばかりか、家庭が家庭として機能していないなど。たいていこのタイプの子どもは、同時に
帰宅拒否(なかなか家に帰りたがらない)や、いろいろな神経症などの症状をあわせもつ。で、
こうした症状はできるだけ初期症状の段階で、それを知り、家庭のあり方そのものを反省す
る。そこでテスト。

 あなたの子どもが園や学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めているか、それ
を静かに観察してみてほしい。そのときあなたの子どもがあなたのいる前で、あなたの存在を
気にせず体を休めているならよい。しかしあなたの姿を見ると、どこかへ逃げていくとか、ある
いは好んであなたのいないところで体を休めるようであれば、あなたと子どもの関係はかなり
危険な状態にあるとみてよい。今は小さなキレツかもしれないが、やがて大きな断絶となる可
能性が高い。

 子どもが小学校へ通うようになったら、家庭は「しつけの場」から、「いこいの場」、「心をいや
す場」へと、変化しなければならない。またそれが家庭のあるべき姿ということになる。家出を
決して軽くみてはいけない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(230)

●現場主義

 絵でもアトリエで描く絵と、現場で写生しながら描く絵がある。(それ以外にもあるが……。)教
育論も、部屋に閉じこもって書く教育論と、現場で子どもたちを見ながら書く教育論がある。

私のばあい、子どもたちを直接見ながらでないと、その教育論が書けない。たとえば一週間も
休みがつづいたりすると、原稿そのものが書けなくなることがある。(教育論というよりは、子育
て論に近いが……。)そういう私の教育論の書き方を、私は勝手に、現場主義と呼んでいる。

 この現場主義にはいろいろな意味がある。生々しい話は現場でないと書けないという意味の
ほか、現場でないと、「発見」「修正」「発展」を繰り返すことができないという意味。たとえばどう
も様子がほかの子どもと違う子どもを見つけたとする。それは「発見」ということになる。

で、原因をあれこれ考えながら、一つの仮説を頭の中で考える。もっとも30年以上も子どもた
ちを見つづけていると、どの子どもも、ある一定のパターンに分類することができる。そのパタ
ーンに分類しながら、自分の意見をまとめる。しかし簡単にはまとめられない。子どもとて、人
間。いろいろな環境や要因が複雑にからみあっている。同じ過保護児といっても、症状はまさ
に千差万別。そこで自分の意見に、修正や訂正を加える。そのときも目の前に子どもを見てい
ないとできない。その修正や訂正を加えながら、さらにその奥へと切り込んでいく。これが「発
展」ということになる。

 これは私が教育論を書くときの「方法」であるが、それは同時に私の「強み」でもある。ほとん
どの教育評論家は、実際には子どもと接していないか、あるいは接していても、その量そのも
のがきわめて少ない。大学の教授と言われる人になると、ほとんど接していない。

先日もある幼稚園で講演をしたら、「○○大学附属幼稚園」となっていた。園長はその大学の
教授ということだった。そこで私が「園長はよく来るのですか」と聞くと、女性の副園長(実際に
はその副園長がその幼稚園を取りしきっている)は、こう言った。「たまにね。それに来ても、お
客様ですから……」と。で、その道の専門家と議論しても、「私ほど現場を踏んだものはいな
い」という事実が、私をうしろから支えてくれる。

 私は毎日、子どもたちと接している。もしそういう経験がなかったら、私はこうまで自分の意見
をまとめることはできなかっただろうと思う。それにまだある。子どものことで何かわからないこ
とがあると、私はすぐ、子どもたちに問いかけることにしている。本でもなければ、参考書でもな
い。子どもたち自身にである。つまり子どもたち自身が私の先生ということになる。考えてみれ
ば、これも現場主義ということか。

 少しコマーシャル的になったが、ここに書いているようなアドバイスは、私の現場主義から生
まれたものである。






ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(231)

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ
行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行っ
た。顔だけ出して帰るつもりだった。

しかし幼稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、
それはずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいる
ことになった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄
ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう
一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。「おと
なでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。

 今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の
世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人
は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではない
が……。)教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリと
している。ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくな
ることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また
「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。がんこについては、
別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対処する。「わがままを
言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(232)

●子どもの自我

フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。

 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、も
のの考え方が現実的(頼れるのは自分だけという考え方をする)、創造的(将来に向かって展
望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行
動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、ものごとに対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよ
く口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、まじないや
占いにこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くな
る。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけることができない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛で、何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自
我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているかわからない
子どもといった感じになる。

その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視点から考
える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもというのは、あるべき
環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。

反対に、威圧的な過干渉(親の価値観を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に子ども
を当てはめようとする)、過関心(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さらには恐怖(暴力
や虐待)が日常化すると、子どもの自我はつぶれる。そしてここが重要だが自我は一度つぶれ
ると、以後、修復するのがたいへん難しい。たとえば幼児期に一度ナヨナヨしてしまうと、その
影響は一生続く。とくに乳幼児から満四〜五歳にかけての時期が重要である。

 人間は、ほかの動物と同様、数10万年という長い年月を、こうして生きのびてきた。その過
程の中でも、難しい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。こうした本質
は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わったと思うほうがおかし
い。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引き出していくかということ。子育
ての原点はここにある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(233)

●いじめられっ子は徳をつむ?

 世の中にはいじめる人、いじめられる人がいる。またいじめられる人が、どこかでだれかをい
じめ、いじめる人が、どこかでだれかにいじめられるということもある。意識していじめたりする
こともあるが、意識しないでいじめることもある。人間関係はそれだけ複雑だが、子どもの世界
もまたしかり。いじめる側が絶対的な悪であり、加害者ということにはならない。いじめられる側
が絶対的な善であり、被害者ということにもならない。

いじめのない世界は理想だが、しかしいじめのない世界はない。それは人間も含めて、すべて
の動物が共通してもつ宿命のようなものではないか。このことは飼っている犬をみてもわかる。
つまり「いじめ」という表面に表れた症状だけをみて、いわば対症療法するだけではこの問題
は解決しないということ。いじめの「根」はもっと深く、大きい。

最近の傾向としては、ささいないじめまで、「そら、いじめだ!」と大騒ぎする親が多いというこ
と。もちろん問題とすべきような大きないじめもあるが、大半は、子どもどうしのトラブルと考え
てよい。子どもは(そしておとなも)、それぞれの摩擦や衝突、解決や和解をとおして成長する。

 ただこういうことは言える。いじめる側はいつも何か大切なものをなくし、いじめられる側はい
つも何か大切なものを手に入れるということ。以前、O君という中学生がいた。彼はやさしくて、
だれにも親切な子どもだった。ある日学生服をみると、背中にいっぱい落書きがしてあった。
「どうしたの?」と聞くと、O君は、「いいんです。ふざけていただけです」と笑ってごまかしてい
た。

明らかに皆のいじめにあっていたが、そのためか、O君にはおとなの私をもほっとさせるような
人間味があった。で、その結果ということになるが、大学は、学校の推薦を受け、日本でも一、
二を争う私立大学へ入学した。高校の先生たちも、私が感じたのと同じ印象をO君にもったた
めではないか。私もいつか、「こういうO君のような子どもが成功しない世界があったとしたら、
その世界のほうがまちがっている」と思ったことがある。

 もちろんいじめられて心がゆがむ子どもも少なくない。いじけたり、ひがんだり、あるいはそれ
が原因で不登校を起こしたりすることもある。皆が皆、O君のようになるというわけではない。
そういう意味でも、いじめは大きな問題だし、無視してよいというわけではない。

が、もし、少なくともアメリカのように、日本人も、「学校とは行かねばならないところ」という呪縛
から少しは解放されたら、少しはこの問題の見方も変わってくるのではないか。アメリカではホ
ームスクーラーが、2001年の終わりには200万人を超えたと言われている。つまり教育の硬
直化が、いじめの問題をより深刻化させているとも考えられなくはない。そういう視点でも、この
問題は考えてみるべきではないのか。あくまでもひとつの参考的意見にすぎないが……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(234)

●ホームスクール

アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で
子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふ
え、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を
引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、つぎのように反論している。いわく、「民主主義国家において
は、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍
事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38
人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(235)

●いたずらとジョーク

 「笑い」は高度に進化した動物たちに与えられた、まさに知的特権である。人間はもちろんの
こと、サルや犬も笑うことが知られている。ほかの動物については知らないが、中には笑って
いるのもいるかもしれない。

 その「笑い」を誘うのが知的遊戯であり、その代表的なものが、いたずらとジョークである。子
どもはこのいたずらとジョークが大好きで、一般論として融通のハバが広い子どもほど、いた
ずらやジョークのハバが広い。この時期、いたずらもしなければ、ジョークも通じないというの
は、あまり好ましいことではない。俗に頭のかたい子どもは、その融通がきかない。ジョークも
通じない。こんなことがあった。

 ある夜遅く、一人の母親から抗議の電話がかかってきた。いわく、「先生は、授業中、虫を食
べているそうですね。娘が気味悪がって泣いていますから、どうかそういうことはしないでくださ
い」と。私はときどき子どもたちの前で、泣き虫とか怒り虫を食べたフリをしてみせる。泣き虫を
食べたときは、オイオイと泣いて見せるなど。それをその子ども(長女児)は本気にしたらしい。

あるいは同じことについて、別の日。怒り虫を食べて、子どもたちの前で起こったフリをしてみ
せたことがある。そのとき(もちろん演技でだが)、プリンとを丸めて、最前列にいた子ども(年
中男児)の頭をポンポンとたたいてみせた。(痛いはずがない!)が、それについてやはり電話
で、「先生は、うちの子どもの頭を理由もなくたたいたというではありませんか! 先生は体罰
反対ではなかったのではないですか!」と。ものすごい剣幕だった。

 いたずらといっても、常識をはずれたいたずらがよいわけではない。私のお茶に、殺虫剤を
入れた中学生がいた。あるいは私が黙ってうなずいた瞬間、顔の下にシャープペンシルを立て
た中学生もいた。そのときはマユの下を切り、顔中が血だけになった。あと数センチ位置がず
れていたら、私は右目を失明していただろう。そういういたずらは、常識のブレーキが働かない
という点で、好ましいいたずらとはいえない。

 頭のやわらかい子どもや、知的レベルの高い子どもほど、ジョークが通ずる。幼稚園児でも
おとなのジョークを理解することができる。ある日、幼稚園児の前で、「アルゼンチンのサポー
ターには、女の人はいないんだってエ」と言ったときのこと。子どもたちが「どうしてエ?」と聞い
たので、私が「だって、アル・ゼン・チンだもんねえ」と言った。言ったあと、「無理かな」と思った
が、一人だけニヤッと笑った子どもがいた。日ごろから頭のよい子だった。




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(236)

●一芸論

 子どもには一芸をもたせる。しかしその一芸は、つくるものではなく、見つけるもの。いろいろ
なことがあった。S君(年中児)は父親が新車を買ってきたときのこと、車の中のスイッチに異
常なまでの興味をもった。そこで母親から相談があったので、私はパソコンを買ってあげること
をすすめた。

パソコンはスイッチのかたまりのようなもの。案の定S君はそのパソコンにのめりこみ、小学三
年生のときにはベーシックを。中学生になるころには、C言語をマスターするまでになった。Tさ
ん(二歳児)もそうだ。お風呂に入っても、お湯の中に平気でもぐって遊んでいたという。そこで
母親が水泳教室へ入れてみたのだが、まさに水を得た魚のようにTさんは泳ぎ始めた。そのT
さんは中学生のときには、全国大会に出場するまでに成長した、などなど。

 中に「勉強一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは一度勉強でつまずくと、あと
は坂をころげ落ちるかのように、勉強から遠ざかってしまう。そのためだけというわけではない
が、子どもには一芸をもたせる。その一芸が子どもを側面から支える。さらに「芸は身を助け
る」の格言どおり、その一芸がその子どもの天職となることもある。

M君(高校生)は、不登校を繰り返し、ほとんど高校へは行かなかった。そのかわり近くの公園
で、ゴルフばかりしていた。で、それから一〇年後、ひょっこり私の家にやってきて、いきなりこ
う言った。「先生、ぼくのほうが先生より、(お金を)稼いでいるよね」と。M君はゴルフのプロコ
ーチになっていた。

 一芸を子どもの中に見つけたら、お金と時間をたっぷりとかける。子どもの側からすれば、
「これだけは絶対、人に負けない」という状態にする。また周囲の子どもの側からすれば、「こ
れについては、あいつしかできない」という状態にする。

 ただしここでいう一芸というのは、将来に向かって前向きに伸びていく「芸」のことをいう。モデ
ルガンやゲームのカードを集めるというのは、ここでいう芸ではない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(237)

●一芸は聖域

 子どもの一芸は、聖域と思うこと。この聖域を踏み荒らすようなことがあると、子どもの心は
大きな影響を受ける。よくある例が、「成績がさがったから、(好きな)サッカーはやめさせる」と
いうもの。こういうケースで、サッカーをやめさせればさせたで、成績はかえってさがる。こんな
ケースがある。

 H君(中1)は毎日、学校から帰ってくると、パソコンに向かって作曲をしていた。が、成績がさ
がったこともあり、父親がそれを強引に禁止した。とたん。H君の情緒は不安定になってしまっ
た。まず朝起きられなくなり、つづいて昼と夜が逆転し始めてしまった。食事も不規則になり、
食べたり食べなくなったりするなど。何とか学校へは行くものの、感情的な反応そのものが鈍く
なってしまった……。

 子どもが一芸にのめりこむ背景には、そうせざるをえない子ども自身の心の問題が隠されて
いることが多い。いわば自分の心のすきまを生めるための代償的行為ともいえるもので、それ
を奪うと、子どもによってはここにあげるH君のようになる。H君は学校で疲れた心を、音楽を
作曲することでなぐさめていた。それを父親が奪ってしまったのだから、H君の症状は当然とい
えば当然の結果でもあった。

 また一芸が、子どもによってはいわば生きがいそのものになっていることが多い。ある女の
子(中学生)は手芸で、また別の男の子(小学生)はスケボーで自分を光らせていた。もしそう
であるなら、それを奪う権利は親にもない。さらに……。

 これからはプロが生き残る時代といってもよい。少なくとも世界は、そういう方向に向かって
進んでいる。たとえばアメリカでは、大学でも入学後の学部変更や、さらには大学から大学へ
の転籍すら自由化されている。より高度な勉強を求めて、大学から大学へと渡り歩いている学
生すらいる。「学歴」にこだわる理由そのものがない。そしてそれが今、国際間でもなされてい
る。日本もやがてそうなるのだろうが、そういう意味でも子どもの一芸を大切にする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(238)

●フリ勉、ダラ勉、時間ツブシ

 勉強が空回りするようになると、子どもはフリ勉、ダラ勉、時間ツブシをするようになる。フリ
勉というのは、いかにも勉強していますというような様子だけを見せる勉強をいう。しかしその
実、何もしない。ダラ勉というのは、簡単な計算問題を10〜30分もかけてするなど。あるいは
描かなくてもよいようなグラフを、いつまでも描きつづけたりする。さらに時間ツブシというのは、
勉強のあいまに、シャーペンの芯を出したり入れたり、ときにあちこちに落書きをしたりしなが
ら時間をつぶすことをいう。

小学校の低学年で一度、こういう症状を見せると、その修復はたいへんむずかしい。それがそ
の子どもの勉強方法として定着してしまうからである。無理、強制が日常的につづくと、子ども
はそうなるが、この段階でそれに気づく親はまずいない。「やればできるはず」「そんなはずは
ない」と子どもを追い立てる。その悪循環がますます子どもをして、勉強から遠ざける。

 では、どうするか。一度、こういう症状を示し始めたら、あきらめる。つまりそれがその子ども
の能力と思い、あきらめる。しかもその時期は早ければ早いほどよい。小学1年生でも早過ぎ
るということはない。……と書くと、たいてい「まだ一年生ですよ!」と言う親がいる。しかし1年
生だから、あきらめる。もう少し年齢が大きくなって、自意識でコントロールできるようになると、
自分で勉強に向かうようになる。しかしその前に勉強グセをつぶしてしまうと、ここに書いたよう
に修復そのものがむずかしくなる。(あるいは不可能になる。)

 が、それで終わるわけではない。さらに症状が進むと、ごまかすのがうまくなる。学校ではい
つもカンニングをして、その場をごまかすようになる。しかもそれが天才的に(?)うまくなる。先
生の目を盗み、隣の子どもの答などを、そのまま丸写しにしたりする。小学2年生で、このタイ
プの子どもは、20人もいれば必ず1人はいる。もうこうなると、学力が身につくことなど、望む
べくもない。

 要はそういう子どもにしないこと。そのためには無理、強制を避ける。動機づけ(子どもに興
味をいだかせるような努力)をしっかりとしながら、達成感(やり遂げたという喜び)を感じさせな
がら、少しずつ学習に向かわせる。それはある意味でたいへんなことだが、子どもに勉強させ
るのは、それくらいたいへんなことだということを、まず親が自覚すること。またその前提で、子
どもの勉強を考えること。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(239)

●勉強が苦手な子ども

 勉強が苦手な子どもといっても、一様ではない。まず第一に、学習能力そのものが劣ってい
る子どもがいる。専門的には、多動型(動きがはげしい)、愚鈍型(ぼんやりしている)、発育不
良型(知的な発育そのものが遅れている)などに分けて考える。

最近よく話題になる子どもに、学習障害児(LD児)というのもいる。教えても覚えない。覚えても
すぐ忘れる。覚えても応用がきかない。集中力がつづかず、教えたことがたいへん浅い段階で
止まってしまう、など。

 しかし実際に問題なのは、能力そのものに問題があるというよりは、たとえば私のようなもの
のところに相談があったときには、すでに手がつけられないほど、症状がこじれてしまっている
ということ。たいていは無理な学習や強制的な学習が日常化していて、学習するということその
ものに、嫌悪感を覚えたり、拒否的になったりしている。中には完全に自身喪失の状態になっ
ている子どももいる。

原因は親にあるが、親自身にその自覚がないことが、ますます指導を困難にする。どの親も、
「自分は子どものために正しいことをしただけ」と思っている。中には私がそれを指摘すると、
「うちの子は生まれつきそうです!」と反論する親さえいる。(生まれた直後から、それがわかる
人などいない!)

 ……と書きながら、日本の教育はどこかゆがんでいる。日本の教育にはコースというのがあ
って、親たちは自分の子どもがそのコースからはずれることを、異常なまでに恐れる。(「異常」
というのは、国際的な基準からしてという意味。)

こういうばあいでも、本来なら子どもの能力にあわせて、子どものレベルで教育を進めるのが
一番よいのだが、日本ではそれができない。スポーツが得意な子どももいれば、そうでない子
どももいる。勉強についても、得意な子どもがいる一方、不得意な子どもがいてもおかしくない
のだが、日本ではそういうものの考え方ができない。勉強ができないことは悪いことだと決めて
かかる。

このことが、本来何でもないはずの問題を、深刻な問題にしてしまう。それだけならまだしも、
子どもに「ダメ人間」のレッテルをはってしまう。考えてみれば、おかしなことだが、そのおかしさ
がわからないほどまで、日本の教育はゆがんでいる。

……という問題が、勉強が苦手な子どもの問題にはいつもついて回る。だからといって、勉強
などできなくてもよいと書くのは暴論だが、子どもを見るための一つの視点として、ここに書い
たことを考えてみるとよい。少しは見方が変わると思う。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(240)
 
●「今」の価値を忘れない

 未来はあるという。過去はあるという。……しかし、どこにあるのか? 「未来はある」と思って
いる人も、「過去はある」と思っている人も、もう一度、冷静に考えてみてほしい。どこにあるの
か、と。未来にせよ、過去にせよ、それは人間がバーチャルな世界で勝手につくりあげた概念
で、実のところ、どこにもない。あるのは「今」という現実のみ。どこまでも、どこまでも「今」とい
う現実のみ。「現在」はあくまでも、いままでの「結果」でしかない。そして未来があるとするな
ら、それは「現在」の結果でしかない。

 ……とまあ、こんなことを書くと、「はやし浩司は頭がおかしい」と思う人がいるかもしれない。
私とて、こう書きながら、そこまで厳格に考えているわけではない。ただ人間は、過去にしばら
れるのもよくないし、また未来のために今を犠牲にするのもよくないということ。あくまでも「今」
を大切にして生きる。どこまでも、どこまでも、「今」を大切にして生きる。もう少しわかりやすい
例で考えてみよう。

 一人の子どもがいる。その子どもは、今、懸命に遊んでいる。大切なことは、その子どもが
今、懸命に生きているという事実なのだ。一方、こういう子どもがいる。幼稚園児のときは、小
学校入学のため、小学校生のときは中学や高校へ入学するため。そして高校生のときは大学
へ入学するため。さらに大学生のときは就職するためと、いつも未来(?)のために「今」を犠
牲にしている。

人生が永遠に保証されるならまだしも、しかしこういう生き方をしていると、いつまでたっても
「今」をつかむことができない。気がついたときには、人生が終わっていた……、と。中には自
分の子ども(中1男子)に向かって、こんなことを言う親だっている。

「あんたを高い月謝を払って、幼稚園児のときから英語教室へ通わせたけど、ムダだったわ
ね」と。

その子どもがはじめての英語のテストで、悪い成績をとってきたときのことだった。こうしたもの
の考え方は、どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日本人は、独特の過去観、
未来観をもっている。来世、前世思想に代表される、日本独特の仏教観の影響とも考えられ
る。「空から伊勢神宮の御札が降ってきた。こりゃなんか、ええことがあるぞ。まあ、ええじゃな
いか」と。

 今には今の価値がある。大切なことは、今というこの時点において、いかに自分を燃焼させ
て生きるかということ。結果は結果。結果かはあとからついてくる。ついてこなくてもかまわな
い。今やるべきことを、懸命にすればよい。「今を生きる」というのは、そういうことをいう。




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