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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(241)

●ええじゃないか

 慶応8年(1867)というから、まさに幕末のころ。名古屋市周辺で、奇妙な踊りが流行した。
きっかけは伊勢神宮の御札が天から降ってきたためと言われているが、もちろんそれは言い
伝えに過ぎない。人々は狂ったように踊りだした。「ええじゃないか、ええじゃないか」と。

言い伝えによると、女は男装、男は女装し、太鼓や三味線をならし、踊り狂ったという。「群集
が地主である庄屋や金持ちの商人の家へ土足で入り込む。で、なぜか押し込まれたほうは、
酒や肴(さかな)を際限なく振る舞った。押し入った人々は金品をまき散らし、これくれてもええ
じゃないかともち去る。

で、取られたほうは、それやってもええじゃないかとやってしまう。役人が止めようとしても、まっ
たく聞き入れない。踊りくたびれると、だれの家でもかまわず寝てしまい、目が覚めると、またえ
えじゃないかと踊りだす。このええじゃないかはウワサはウワサを呼び、東海道筋から東に江
戸、横浜、静岡。西は京都、大阪、西宮にまで及んだ」(マスダ組「歴史概論」)という。

 この「ええじゃないか」について、「この大騒動をカモフラージュして、倒幕派は着々と江戸幕
府打倒の動きを進めていた」(同「歴史概論」という説もあるが、私はそういう政治的背景は、
当時の日本にはなかったと思う。結果として、倒幕運動に利用したという動きはあったかもしれ
ないが、そうした高度な政治意識というのは、近年になって生まれたもの。江戸幕府があった
東京で起きたとか、薩摩、長州の息がかかった京都で起きたというのなら話もわかる。しかしこ
のええじゃないかは、名古屋市周辺で起きているということを忘れてはならない。

それはともかくも、その根底に、鬱積した民衆の不平や不満があったことは事実だ。しかし当
時の日本は、いくら幕末とはいえ、それを訴える自由もなければ方法もなかった。300年も続
いた封建体制の中で、民衆は骨のズイまで「魂」を抜かれていた。「自由」が何であるかさえわ
からない状態で、この運動は起きた。が、私はこの運動こそが、まさに現世逃避の象徴ではな
かったかと思う。「この世はどうなってもええじゃないか。あの世があるではないか」と。それは
まさに前世、来世論で組み立てられた日本の仏教の教えを、そのまま象徴していたともとれ
る。 

 このええじゃないかが、幕末の話でないことは、映画化もされ、また日本各地で、イベントとし
て再現されていることでもわかる。「これこそ日本人のやさしさ」と美化する動きさえある。しかし
本当にそうか? そうあってよいのか? 「今」という現実を直視するのが苦手な日本人が、現
実逃避の新たなる手段として利用しているとも考えられるのだが、皆さんはどう考えるだろう
か。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(242)

●子どもの創造力

2002年の3月、「サイエンス」におもしろい研究結果が載った。何でもギャンブルで負けたりす
ると、「頭が熱くなる」ということが、科学的に実証されたというのだ。

アメリカ・ミシガン大学のW・ゲーリング博士らの研究によると、「勝敗の表示から、平均0・26
5秒後から、脳の前頭葉皮質部から、強い神経系処理信号が出る」という。しかもそれは「勝っ
たときよりも、負けたときのほうが信号が強く出る傾向があった」というのだ。私はこの論文を
読んで、別のことを考えた。

よく子どもの創造力が話題になる。「子どもの創造力を育てるにはどうしたらいいか」と。もちろ
ん環境や教育によるところも大きいが、それだけでは足りない。人というのは、追いつめられ、
崖っぷちに立たされてはじめて、自分の能力をふるい立たせることができる。創造力もそこか
ら生まれる。

反対に、水温が調整され、酸素もエサも自動的に与えられるような環境では、伸びる芽そのも
のが出てこない。伸びる力も育たない。たとえば私のことだが、今までに何度か幼児教育から
足を洗おうと思ったことがある。収入ということを考えるなら、もっとお金になる仕事はほかにい
くらでもある。

しかしそのたびに、「今までの経験を文にまとめたい」という強い願いが私を襲った。それは文
を書くという甘いものではなく、もっと切羽つまったものだったような気がする。だからこそ文を
書き、それを本にすることができた。(ひょっとしたら、今もそうかもしれない。体力的な衰えを
感ずる今、年齢的にその崖っぷちに立たされているような気がする。)

つまり勝負で負けると、前頭葉皮質部からの信号が強くなることからもわかるように、追いこま
れると、それまで活動していなかった脳の機能が全開状態になる(?)。そしてそれが何とかし
なければならないという生活上の必要性とあいまって、新しい創造力へとつながっていく……。

もちろんこれは私の推論でしかない。しかし経験上、それを裏づけるような話はいくらでもあ
る。たとえばベートーベンにせよ、もし彼が満ち足りた裕福な生活をしていたら、あの第九交響
楽ができたかどうかは疑わしい。言いかえると、子どもの能力を引き出すためには、子どもも
ある程度は、崖っぷちに立たせねばならない。

具体的には子どもはいつもややハングリーな状態におく。与えすぎややりすぎは、かえって子
どもの伸びる芽をつんでしまうこと。どこか不満足な状態をつくりながら、それをうまく利用しな
がら子どもを伸ばす。

まとまりのない話になってしまったが、サイエンスの論文を見ながら、そんなことを考えた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(243)

●習うより慣れる

私の三男は、人前で話をするのが苦手だった。しかしその三男が児童会の会長に選ばれ、宿
泊訓練の場であいさつをすることになったときのこと。三男はその数日前から食事もしなくな
り、当日も睡眠不足でフラフラの状態でその訓練にでかけていった。結果、それなりにうまくで
きたのだろう。

以後、人前で話すのが平気になってしまったようだ。つまりそういう積み重ねをしながら、子ど
もは成長していく。私も実のところ子どものころ、人前で話すのが得意ではなかった。大学生の
ときもそうだった。好きか嫌いかと問われれば、好きではなかった。英語でいえば、ナーバス、
つまりあがり症だった。が、その私がこわいもの知らずになったのには、理由がある。

今の私はどんな場に出ても、おじけづくということはない。相手が総理大臣でも、多分、平気で
話ができるとだろうと思う。その理由としては、学生時代、オーストラリアのメルボルン大学で幸
運にも、そういう人たちに囲まれて生活したという体験がある。各国の元首や外務大臣たちが
毎週のように晩餐会に来たし、ノーベル賞級の研究者たちも、数週間単位でよくとまっていっ
た。日本の政治家もよくきた。そういう中で私は学生という身分ではあったが、「頂点」をその時
点で見てしまった。

ただそのあと、日本へ帰ってきてから、私は社会的にも経済的にもどん底状態にほうりこま
れ、そのギャップに苦しむことになったが、それはそれとして、人生全体で総決算するなら、幸
運だったということになる。自分では絵を描かないが、絵の鑑定士としては、最高の作品がどう
いうものであるかくらいは、わかるようになった。

要するに習うより慣れろということだが、人というのは、一つずつ階段をのぼるようにして、成長
していく。そのときどきでは苦しい思いはするが、その思いをしながら、つぎのステップへと進ん
でいく。たいていの人はその苦しさに耐えかねて、その段階でつぎのステップに進むのを放棄
してしまう。(私も偉そうなことは言えないが……。)

もっともそれが自分のことであれば、それを判断するのは自分の勝手だが、今まさに伸びてい
こうとする子どもについては、親として別の考え方をしなければならない。子どもが伸びていくの
をみるのは楽しみなことであるのと同時に、結構、つらいことでもあるということ。とくに子どもが
苦しんでいるときはそうだ。つい、「そんなにがんばらなくてもいい」と言いそうになるときもあ
る。

三男が宿泊訓練に行くときもそうだった。学校の先生に、「会長をもう辞退させてやってほしい」
と、ほとんど手紙を出す寸前のところまで私と女房は追い込まれた。もっとも三男が成長したと
いうよりは、私たち夫婦が、三男によって成長させられたというのが正しいかもしれない。その
あと同じようなことがあるたびに、私たち夫婦もまた、平気でそれを乗り越えることができるよう
になった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(244)

●子どもの嫉妬

 嫉妬はたいへん原始的な、つまり本能に根ざす感情であるだけに、扱い方をまちがえると、
その子どもの人間性そのものにまで影響を与える。「原始的」というのは、犬やネコをみれば
わかる。犬やネコは、一方だけをかわいがると、他方ははげしく嫉妬する。また「人間性」という
のは、情緒面のみならず、精神面にも大きな影響を与えるということ。そしてそれは多くのばあ
い、行動となって表れる。

 嫉妬が「内」にこもると、子どもはぐずったり、いじけたりする。ひがみが強くなったり、がんこ
になったりする。幼児のばあい、原因不明の身体の不調(発熱、下痢、嘔吐)を訴えることもあ
る。「外」に出ると、いじめや動物への虐待となることが多い。嫉妬がからんでいるばあいに
は、それが相手に向けられたときには、「殺す」というところまでする。残虐かつ陰湿になるの
が特徴で、容赦しないのが特徴。

弟に向かって自転車で突進したケースや、弟を逆さづりにして頭から落としたケース、さらに妹
の人形をバラバラにしてしまったケースや、妹をトイレに閉じ込めてしまったケースなどがある。
一人、妹にお菓子と偽り、チョークを口の中に入れた女の子(小2)もいた。また動物への虐待
では、飼っていたハトの背中に花火をくくりつけ、ハトを殺してしまったケース、つかまえてきた
カエルを地面にたたきつけて殺してしまったケースなどがある。

 ふつう子どもが理由もなく(また原因がはっきりしないまま)、ぐずったり、ふさいだりするとき
は、愛情問題を疑ってみる。そういうときは抱いてみるとわかる。最初は抵抗する様子を見せ
るかもしれないが、強引に抱き込んだりすると、そのまま静かに落ち着く。

 乳幼児期は、静かで穏やかな生活を大切にし、嫉妬と闘争心の二つはいじらないようにす
る。中に、わざと子どもを嫉妬させながら、親への依存心をもたせる人がいる。一昔前の親が
よく使った方法だが、依存心をもたせるという意味で、好ましくないことは言うまでもない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(245)

●子どもの闘争心

 年長児でも、「このヤロー」「てめえエ〜」と言いながら、興奮状態になって飛びかかってくる子
どもは少なくない。興奮といっても、ふつうの興奮ではない。狂暴的になる。目つきそのものが
鋭くなり、別人のようになってしまうこともある。N君(年長児)がそうだ。

 別の子ども(年長男児)が騒いでいたので、その子どもを制するために席を離れたとたん、何
を誤解したのか、N君が私に飛びかかってきた。私も最初はふざけて飛びかかってきたのかと
思ったが、そうではなかった。私を足で蹴りあげたが、それはまさに全身の力をふりしぼって、
というような蹴り方だった。あまりのはげしさに驚いて、N君を私は抱きこもうとしたが、今度は
爪をたてて私の顔にそれを突き刺してきた。人間の子どもというより、ケダモノそのものだった
……。

 ある程度の闘争心は、この時期、よい方向に作用する。闘争心がまったくないというのも、決
して好ましいことではない。ドッジボールなどをさせても、ただウロウロと逃げ回るだけでは、試
合にもならない。しかしその闘争心が度を超すと、ここでいうN君のようになる。特徴としては、
闘争心そのものがむきだしになり、いわゆるキレた状態になる。

心理学的には、そう状態における錯乱と説明されているが、キレた子どもとは違う。キレる子ど
もは異常な興奮状態になるが、このタイプの子どもにはそれがない。冷静なまま凶暴化する。
闘争心だけがやたらと刺激されたような状態になる。そうした説明はともかくも、こうした動物的
な闘争心は、幼児期には決して好ましいものではない。闘争心が強くなると、ものの考え方が
短絡的になり、冷静な判断そのものができなくなる。

 人間も昔は動物であった(今もそうだが……)という前提で考えるなら、人間にも原始的な本
能が残っていても、おかしくない。生殖本能や食欲本能など。闘争本能もその一つということに
なる。しかしこうした本能は、あまり早い時期にはいじらないほうがよい。とくに闘争本能はそう
で、いじればいじるほど子どもはより野獣的になる。そして一度こうした野獣性が出てくると、そ
れを抑えるのはむずかしくなる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(246)

●権威主義者

 その人が権威主義的なものの考え方をする人かどうかは、電話のかけ方をみればわかる。
権威主義的なものの考え方をする人は、無意識のうちにも、人間の上下関係を心の中でつく
る。それが電話の応対のし方に表れる。目上の人や、地位、肩書きのある人には必要以上に
ペコペコし、そうでない人にはいばってみせる。私の伯父がそうで、相手によって電話のかけ方
が、まるで別人のように変わるからおもしろい。

(政治家の中にも、そういう人がいる。選挙のときは、米つきバッタのようにペコペコし、当選
し、大臣になったとたん、ふんぞり返って歩くなど。その歩き方が、まさに絵に描いたような偉ぶ
った歩き方なので、おもしろい。)

 そのほかにたとえば、あなた自身の「印象」をさぐってみればわかる。あなたが自分の印象の
中で、どこか堂々としていて、立派と感ずる人は、権威主義的なものの考え方をする人とみて
よい。このタイプの人は、日ごろから世間的な見栄を大切にする。あるいは外から見た自分に
注意を払う。そのため他人には、立派に見える。(「立派」という言い方そのものが、封建時代
からの名残である。)

 親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前では仮面をかぶるようになる。そしてそ
の分だけ、子どもの心は親から離れる。仮にうまくいっている家庭があるとしても、それは子ど
も自身がきわめて従順か、あるいは子ども自身も権威主義的なものの考え方を受け入れてし
まっているかのどちらかにすぎない。たいてい親子関係はぎくしゃくしてくる。キレツから断絶へ
と進むことも多い。

 ……と決めてかかるいのは、危険な面もあるが、もうこれからは親が親の権威で子育てをす
る時代ではない。江戸時代や明治の昔ならともかくも、葵の紋章だけで、相手にひれふしたり、
相手をひれ伏させるような時代ではない。またそういう時代であってはいけない。

私もいろいろな、その世界では第一線級の人たちに会ったが、そういう人ほど、腰が低くどこ
か頼りない。相手がだれでも、様子が変わるということはない。つまりそれだけ自分自身を知っ
ている人ということになるのか。生きザマのひとつの参考にはなる。

 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(247)

●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題を解くよ
うなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大さをな
す」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。知識や情報
の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「そ
の年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。20歳でループに入る人もい
れば、50歳や60歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そこで進歩を止
め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさらに低下する。私はこの
ことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすればよ
い。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が子どもたち
に接するときもそうだ。毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」という
のを、モットーにしている。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日の
こと。たしか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさ
かのぼること20年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を感じ
た。「私はこの二〇年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、10年前より進歩しただろうか。20年前より進
歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考えてみてほし
い。さらにあなたはこの10年間で何か新しい発見をしただろうか。それともしなかっただろう
か。こわいのは、思考のループに入ってしまい、10年一律のごとく、同じ話を繰り返すことだ。
もうこうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよい(失
礼!)。

犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもっている。しかし犬が犬
なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってしまうことだ。だから犬は
犬のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、あなた
はすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日からでも遅く
ないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決めて、そのテーマ
について考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返していく。どんどん繰り返
して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(248)

●宗教のもつ愚鈍性

 ある宗教を信仰している人は、それなりに穏やかな顔をしている。表情やしぐさまで違ってく
る人がいる。さらに見るからにどっしりと、落ち着いている人もいる。思想というのはそういうも
ので、他人のそれであっても、「絶対正しい」と思われるものを脳に注入されると、脳というのは
それで満足してしまう。が、同時に、自ら思考することをやめてしまう。一度そうなると、まさに
上意下達方式のもと、「上」から「下」へ一方的に思想が注入される。これがこわい。

 ……と言っても、私は宗教を否定しているのではない。信仰を否定しているのでもない。しか
し宗教や信仰には、高邁な哲学と引き換えに、その人をして自ら考えさせるのをやめさせてし
まうという麻薬性がある。それは否定できない。

中には、その宗教の批判を一切許さない宗教がある。(たいていの宗教はそうだが……。)疑
っただけで、「地獄へ落ちる」とか、その宗教から離れただけで、「バチが当たる」と脅す宗教団
体もある。が、それでも私は宗教を否定しているのではない。信仰を否定しているのでもない。
それぞれの人は、それぞれの思いの中で、宗教や信仰に身を寄せる。この私とて、今は何と
かがんばっているが、やがてそれができなくなったら、宗教や信仰に身を寄せるかもしれない。
私が知っている哲学者や文学者の中には、死の直前になって入信した人が何人かいる。私が
そういう人たちより強いという自信は、今のところ私にはまったくない。

 しかしこれだけは言える。仮に宗教や信仰をしても、自ら考えることはやめてはいけない。あ
る男性はこう言った。私が「少しは指導者の言うことを疑ってみてはどうですか」と聞いたときの
こと。「あの先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいない」と。こうした愚鈍性が見ら
れたら、それはまさにその人の敗北でしかない。他人の意見は他人の意見。参考にはしても、
自分のものにしてはいけない。

それはちょうど、借金ばかりで建てた家に住むようなものだ。借金ばかりで買った車に乗るよう
なものだ。家や車ならまだよいが、人生はそうであってはいけない。いわんや自分の「魂」まで
売り渡してはいけない。たとえ不完全でも、人間は自らの足で立ちあがるからこそ、そこに生き
る価値がある。医学も政治も社会も科学も、どれも不完全なものばかりだが、その不完全さを
一つずつ克服していくから、人間なのである。生きるドラマもそこから生まれる。

 もっとも、愚鈍でもよい。その日その日を、平和で無事に過ごせれば、それでよいという人も
少なくない。もしあなたがそうなら、私はこれ以上何も言うことはない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(249)

●親孝行論

 ある地方の、ある老人ホームの責任者から聞いた話。そのホームでは、(どこでもそうだそう
だが)、老人たちはいつも、息子や娘の孝行話ばかりを自慢しあっているという。

孝行息子や孝行娘をもった老人は、それを自慢げに誇示し、そうでない老人は毎晩のように
悔しがっているというのだ。そこで私が「どういう子どもを、孝行息子や孝行娘というのですか」
と聞くと、こう話してくれた。「要するに親にいかに尽くすかで決まるんですなア」と。

つまり親への犠牲度、忠誠度、貢献度、献身度、服従度で決まるという。老人たちのさみしい
気持ちはわからないわけではないが、それにしても、それ以上にさみしい話ではないか。私は
その話を聞いたとき、まず最初に、「私はそうはなりたくない」と思った。

 この日本では親孝行が、美徳のひとつになっている。子育てや教育の中心に考えている人も
少なくない。しかし親孝行するかしないかは、子どもの問題。子どもの勝手。少なくともそれは、
親が求めるものではない。いわんや子どもにそれを強制したり、押しつけてはいけない。親子
といえども、そこは人間関係。親孝行があるとするなら、それはそういう人間関係から、自然に
発生するものでなければならない。親孝行をしないからといって、その子どもが否定されたり、
またしたからといって、その子どもの価値をあげるようなことはしてはいけない。

人にはそれぞれの思いがある。複雑な家庭環境や、さらに複雑な過去を背負っている人はい
くらでもいる。(親をだます子どもはいるが、世の中には子どもをだます親だっている。例外とは
いえ、子どもを殺す親だっているのだ!)むしろ日本人で問題なのは、安易な孝行論をふりか
ざし、子どもに向かっては「産んでやった」「育ててやった」と、親の恩を子どもに押し売りしてし
まうこと。

子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまうこと。結局は、
親も子どもも、自立できない親、自立できない子どもになってしまう。それが日本人独特の親子
関係といえばそれまでだが、しかしそれは決して世界の標準ではない。極東の、アジアの小さ
な島国でしか通用しない、親子関係といってもよい。

 ……と書くと、決まって「はやしの意見は、欧米かぶれしている」と言う人がいる。しかし事実
は逆で、日本の若者で、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えているのは、20%もい
ない。アメリカも含めて、欧米の若者たちはどこも60%以上である(総理府調査)。

 日本は今、大きな過渡期にきている。形だけの親子、形だけの家族から、人間関係を基本
に置いた親子、人間関係を基本に置いた家族への移行期ととらえてよい。それはもう欧米化と
いうより、グローバル化といってもよい。日本人が好む孝行論も、そのグローバル化の中で、も
う一度考えてみる必要があるのではないだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(250)

●代償的過保護

 本来、過保護というのは親の愛がその背景にある。その愛があり、何かの心配ごとが重なっ
て、親は子どもを過保護にするようになる。しかしその愛がなく、子どもを自分の支配下におい
て、自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。いわば過保護もどきの
過保護。親のエゴにもとづいた、自分勝手な過保護と思えばよい。

 代償的過保護の特徴は、(1)親の支配意識が強く、(2)子どもを自分の思いどおりにしたい
という意欲が強い。そのため(3)心配過剰、過干渉、過関心になりやすい。(4)子どもを人間
というよりは、モノとして見る目が強く、子どもが自立して自分から離れていくのを望まないなど
がある。

このタイプの親は、一見子どもを愛しているように見えるが、(また親自身もそう思い込んでい
るケースが多いが)、その実、子どもを愛するということがどういうことか、わかっていない。わ
からないまま、さまざまな手を使って、子どもを自分の支配下に置こうとする。

ある父親は、息子が家を飛び出し、会社へ就職したとき、その会社の社長に電話を入れ、強
引にその会社をやめさせてしまった。またある母親は、息子の結婚にことごとく反対し、そのつ
ど結婚話をすべて破談にしてしまった。息子を生涯、ほとんど家の外へ出さなかった母親もい
るし、お金で息子をしばった父親もいる。「お前には学費が3000万円かかったから、それを返
すまで家を出るな」と。

結果的にそうなったとも言えるが、宗教を利用して子どもをしばった親もいた。そうでない親に
は信じられないような話だが、実際にはそういう親も少なくない。ひょっとしたら、あなたの周囲
にもこのタイプの親がいるかもしれない。いや、あなたという親にも、いろいろな面があり、その
中の一部に、この代償的過保護的な部分があるかもしれない。

もしそうなら、あなたの中のどの部分が代償的過保護であり、あるいはどこから先が代償的過
保護でないかを、冷静に判断してみる。この問題は、どこが代償的過保護的であるかに気が
つくだけで、問題のほとんどは解決したとみる。ほとんどの親は、それに気づかないまま、代償
的過保護を繰り返す。そしてその結果として、親子の間を大きく断絶させたり、反対に子ども自
立できないひ弱な子どもにしたりする。


++++++++++++++++++++++++++++


ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(251)

●上見てきりなし

 戦前の教科書に載っていた説話らしい。『上見てきりなし、下見てきりなし』といった。つまり人
というのは、上ばかり見ていると、その欲望や不満は際限なくつづき、安穏たる日々はやって
こない。一方、下には下に、自分より不幸な人はいくらでもいるから、最後の最後まで夢や希
望は捨ててはいけない、と。

「なるほど……」と思いたいが、この格言はどこかおかしい。人にあきらめと慰めを同時に教え
ながら、その実、幸福感や価値観に「上下」の差別をつけている。「上とは何か」「下とは何か」
ということをはっきりさせないまま、この格言をそのまま鵜呑みにするのは危険なことでもある。

あるいは「上を見て何が悪い」「下とは何だ。失敬ではないか」と言われたら、あなたはどう反論
するのか。

 それはさておき、子どもに何か大きな問題が生じたときは、子どもは、「下から見る」。「下(欠
点や弱点)を見ろ」というのではない。「下から見る」。子どもが生きているという原点から子ども
を見る。するとほぼありとあらゆる問題が、その場で解決するから不思議である。いや、私と
て、何度かこの言葉に救われたことか。

だいたいにおいて、親の悩みや苦しみなどというものは、「上」から見るから始まる。「何とかな
らないか」「もっと何とかしたい」「まだ何とかなる」「何とかしなければならない」と。しかしその視
点を一転させ、「私は生きている」「子どもも生きている」「生きていること自体が奇跡だ」「生き
ることはすばらしいことだ」という視点で見ると、ものの考え方が180度変わる。そしてそれまで
の自分が、小さな世界で右も左もわからず右往左往していたのに気づく。

とくに私の二男は、一度海でおぼれて死にかけたことがある。今、二男が生きていることだけ
でも奇跡のようなものだ。そういう視点でみると、「不登校が何だ」「進学が何だ」となる。それは
決してあきらめろと言っているのではない。人というのは、自分たちがつくりあげたバーチャル
な世界で、本来大切でないものを大切と思い込み、本来大切なものを、大切でないと粗末にす
ることが多い。「下」からその人間社会をみると、本来、何が大切で、何が大切でないかがよく
わかる。それに気づく。そういう意味で、「子どもは下から見る」。

 あなたもあなたの子育てで、どこか行きづまったら、この格言を思い出してみてほしい。心が
必ず楽になるはずである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(252)※

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期
記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。認知記憶というのは、過
去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というのは、ピアノをうまく弾くなど
の、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は
大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運
動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参
考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけで
は、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によっ
て、その価値が決まる。たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさん
がAさんであると認識するのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボ
ールが近づいてくるのを判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当たる。あ
ぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。しかしこの段階
で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。この危険を察知するのは、
前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳ということになる。人は行動をしな
がら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起こしながら、それを脳の中で
有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思
考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、最近の研究で
は、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわかってきた(伊藤正
男氏)。伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思考
がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的
に作用するという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別の
ものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が
高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる
子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはなら
ない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(253)

●思考について

 当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。「われ思う、ゆえに
われあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、「思考が人間の偉大さをなす」と言ったパスカル
(「パンセ」)、さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、ただひたすら文を
書きつづけたモンテーニュ(「随想録」)などがいる。

 ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。それほど楽なことでは
ない。それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。いろいろな条件を組み合わせなが
ら解くのだが、それで解ければよし。しかし解けないときの不快感は、想像以上のものだ。子ど
もたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。

もっともこの段階でも、知的遊戯を楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、まだ救
われる。大半の子どもは、「解け」と言われて解き始め、解けなければ解けないで、ダメ人間の
レッテルを張られてしまう。だからますます思考するということに、苦痛を感じてしまう。が、これ
は数学の問題だが、しかし多かれ少なかれ、思考するということには、いつも同じような苦痛が
ついて回る。それで結論が得られれば、まだ考えることもできるが、そうでなければそうでな
い。そこで大半の人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。一度そうなると、思考
にもいくつかの特徴が表れる。

●ループ性……10年1律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。とくに人生論や価値観な
ど、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。
●退化性……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。それはスポーツ選手
が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。思考も同じ。
●先鋭化……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。ものの考え方
が極端になったり、かたよったりするようになる。

 こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。もちろんこのほか、年齢
的な問題もある。私も50歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。集中力が衰
えたから、その分時間もかかるし、それに鋭さがなくなったように感ずる。そういうことはある。

 で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、20歳代で思考が停止す
る人もいれば、60歳、70歳代になっても停止しない人がいる。個人差というより、それまでに
どのような教育を受けたかで決まる。概して言えば、日本の教育は、子どもの思考を育てる構
造になっていない。それが結果として、世界的にみても、特異な日本人像をつくりだしていると
考えられる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(254)

●詰め込み教育

 どこかの本山の小僧たち。机を「コ」の字型に並べて、読経の練習をしている。その本山で
は、どこでもそうだが、徹底した上意下達方式のもと、小僧たちはこれまた徹底的に教義を叩
き込まれる。疑問をもつことはもちろんのこと、質問することすら許されない。反感をもったら最
後、即、本山から叩き出される。

 日本の教育のルーツは、寺子屋。その寺子屋のルーツは、その本山教育にある。明治※
年、学校教育法が施行されたが、この教育方法は、軍国主義の台頭とともに、さらに強化され
た。それがどういう教育であったかは、いまさらここに書くまでもない。

 で、戦後日本の教育は変わったかというと、それは疑わしい。いや、教育を変えようとする動
きはあるにはあったが、日本人、つまり親たちの意識は変わらなかった。その親たちが、学歴
社会を復活させ、受験競争を復活させた。「何だかんだといっても、やはり学歴ですから」とい
う、いわばなし崩し的な教育観が、戦後の教育改革をことごとく失敗させた。いろいろ言われて
いるが、学校教育はまさにそのウズの中で翻弄(ほんろう)されたに過ぎない。

 教育法とてその流れから出ることができなかった。独創的なアイデアをもった教師がいたとし
ても、「受験勉強にさしさわりがある」という理由で、かえって排斥されてしまった。そういう例
は、数多くある。

たとえばM小学校(浜松市)の教師は、毎日のように隣の公園へ生徒たちをつれていき、そこ
で野外教室を開いた。しかしそれにストップをかけたのは、ほかならぬ親たちであった。だから
今、戦後60年近くにもなろうというのに、いまだに詰め込み教育が、教育の「柱」としてなされ
ている。

私の知人の東大の元教授は、高校の理科の授業を参観したあと、つぎのような印象をもらして
いる。「先生のしていることは『どうだ、解ったか? 覚えておけ』と、まさに一方通行です。それ
で入試に成功するのです。生徒たちは授業を受けるし方はそうやって先生の言うことを理解し
覚えることと思っています。そのやり方が困ったことに大学に持ち込まれます。ですから講義中
に学生からの質問はないのです。考えながら講義を聴く習慣がないのです。アメリカの大学生
たちとはおお違いです」と。この授業の形態そのものが、本山教育そのものと言ってもよい。

 ほとんどの親たちも、そして子どもたちも、そういうのが教育だと思い込んでいるし、さらに悲
劇的なことに、教師自身も、そういうのが教育だと受け入れてしまっている。もちろんこうした教
育を変えようとする動きもあるが、社会全体の力はそれ以上に大きい。体制の流れというのは
そういうもので、一朝一夕には変えられない。私立高校でも大学受験に背を向ければ、あっと
いう間に閉鎖に追い込まれる。悲しいかな、それが日本の現実なのだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(256)
 
●図書指導の充実を

 「考える子ども」を育てる人の方法として、図書指導がある。アメリカのほとんどの小学校で
は、週1回、1時間程度の図書指導をしている。彼らはそれを「ライブラリィ(の時間)」と呼んで
いる。

それを指導ずるのが、専門のライブラリアン(司書)。そのライブラリアンが、生徒一人ひとりの
方向性とレベルに合わせて、本を貸し与え、その読書指導をしている。私の息子の嫁の母親
が、その仕事をしている。その母親に話を聞くと、こう教えてくれた。「毎週その子に合わせた
本を貸し与え、つぎの週に、その本についてのレポートを書かせている」と。私が「ライブラリィ
の授業は、必須科目か」と聞くと、「そうだ」と。

 アメリカでは、移民国家というだけあって、多様性を認めない教育というのは、それ自体が反
アメリカ的であると判断される。日本でいう画一教育など、考えられない。今では、人種、性別、
皮膚の色などで相手を差別しようものなら、それだけで処罰される。あらゆる公文書にも、その
ように明記してある。(明記しなければならないというのは、それだけまだ差別意識が残ってい
るということにもなるが……。)

学校教育とて例外ではない。今、アメリカでは、学校の設立そのものが自由化されている。ま
た学校にしても、親と教師が話しあって、自分たちでカリキュラムを組むこともできる。日本の
教育も自由化されつつあるとはいえ、「今」というこの段階においても、比較にならない。

つまりアメリカでは、制度的にも、子どもたちのもつ「自由意識」が最大限、尊重されている。東
大の元教授が「日本の大学生とアメリカの大学生はおお違いです」というときの「違い」は、こう
した背景から生まれるものとみてよい。

 ただもう一点補足するなら、アメリカも含めてほとんどの欧米の国々では、大学生は、受講す
る講座について、1講座ずつ「買う」という意識がある。(まとめて買うということがふつうだが…
…。)しかもその「買う」ための費用には奨学金であてる。そのため彼らにしてみれば、「どこの
大学へ入ったか」ということよりも、「どこでどの程度の奨学金を得るか」ということのほうが、重
要な関心ごとになる。

こうしたシステムの上に大学教育が成り立っているから、学ぶ学生も必死なら、教える教官も
必死である。講座を買ってくれる学生がいなければ、その講座は閉鎖される。つまり教官自身
が職を失うということになる。日本の大学生のように、親のスネをかじって……、というのとはま
さに「おお違い」というわけである。

 子どもの多様性を認めるとか認めないとかいう議論は、もう古い。子どもというのは生まれな
がらにして、多様であるという前提で、教育を組み立てる。一律の算数教育、一律の国語教
育、そして一律の学年制。そのどれをとっても、もう時代錯誤としか言いようがない。そのひと
つの例として、「ライブラリー」の授業をあげてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(257)

●ウソ(虚言)と虚言(空想的虚言)

ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにしてつ
くウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇
示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚
がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさ
い」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思
い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言とい
う。こんなことがあった。

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)
が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではあり
ませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」
と。ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、そ
の母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなこと
を言ってもらっては困ります!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中
で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあ
とA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそ
らすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。

 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世
界にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間
に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りない
リアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実
であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自
覚しないのが、その特徴である。

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「も
うウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子
どもはますますウソがうまくなる。






ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(258)

●子どもの緩慢行動

 子どもには子どもらしい、自然な動きというものがある。どこかどうというわけではないが、そ
の自然さが消えたら、何か心の変調を疑ってみる。その一つが、緩慢行動。

 抑圧された精神状態が、日常的につづくと、子どもは独特の症状を示すようになる。たとえば
緩慢行動。緩慢動作ともいう。動作そのものが鈍くなり、機敏な行動ができなくなる。全体にノ
ソノソ、あるいはノロノロとした動きになる。たとえばB君が忘れものをしたとする。そのとき先
生が、A君に向かって、「これ、B君にもっていってあげて!」と言ったとする。ふつうなら(「ふつ
う」という言い方は適切ではないが……)、子どもはパッと腰をあげ、B君のあとを追いかけたり
する。

しかしこのタイプの子どもは、それができない。明らかにワンテンポ遅れた様子で、ノソノソと立
ちあがったりする。そこで先生のほうが、またA君に向かって、「急いで!」と号令をかけるのだ
が、その号令にも反応しない。よく観察すると、体の動きそのものが、子どもの意思とは無関
係に動いているのがわかる。

 こうした症状が見られたら、家庭教育のあり方をかなり反省する。威圧的な過関心や過干渉
など。ほかに(1)顔から生彩が消え、(2)子どもらしいハツラツさが消え、(3)ため息、無気力
症状など、気うつ症的な症状をともなうことが多い。緩慢行動を、神経症の一つにあげる学者
も多い。

 こうしたケースで、指導がむずかしいのは、子どもというより、親にその自覚がないこと。たい
ていの親は、「生まれつき」という言葉を使う。そして動作が緩慢なのは、子ども自身の問題で
あるとして、子どもを叱ったりする。しかし叱れば叱るほど逆効果。子どもの動作はますます緩
慢になる。また原因は、家庭環境全体にあるので、その家庭環境全体を改めなければならな
い。しかし実際問題として、それは不可能に近い。子どもをなおすより、親をなおすほうが、ず
っとむずかしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(259)

●子どものウソ

 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害による
虚言、それに(3)虚言。

空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのよ
うに錯覚してつくウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして
表れる。習慣的な万引き、不要なものをかいつづけるなどの行為障害と並べて考える。これら
のウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。空想的虚言に
ついては、ほかで書いたのでここでは省略する。

 で、行為障害によるウソは、ほかにも随伴症状があるはずなので、それをさぐる。心理的な
要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症というが、ふつう神経症に
よる症状は、つぎの三つに分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、虚言癖(日常的にウソをつ
く)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを
言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ1枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 こうした症状があり、そのひとつとして虚言癖があれば、神経症による行為障害として対処す
る。叱ったり、ウソを追いつめても意味がないばかりか、症状をさらに悪化させる。愛情豊かな
家庭環境を整え、濃厚なスキンシップを与える。あなたの親としての愛情が試されていると思
い、1年単位で、症状の推移を見守る。「なおそう」と思うのではなく、「これ以上症状を悪化さ
せないことだけ」を考えて対処する。神経症による症状がおさまれば、ウソも消える。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(260)

●子育てじょうずな親

 子どもには子どものリズムがある。そのリズムをいかにつかむかで、「子育てじょうずな親」
「子育てべたな親」が決まる。子育てじょうずな親というのは、いわゆる子育てがうまい親をい
う。子どもの能力をじょうずに引き出し、子どもを前向きに伸ばしていく親をいう。

 結果は、子どもをみればわかる。子育てじょうずな親に育てられた子どもは、明るく屈託がな
い。心のゆがみ(ひねくれ症状、ひがみ症状、つっぱり症状など)がない。また心と表情が一致
していて、すなおな感情表現ができる。うれしいときは、うれしそうな顔を満面に浮かべるなど。

 子育てじょうずな親は、いつも子どものリズムで子育てをする。無理をしない。強制もしない。
子どものもつリズムに合わせながら、そのリズムで生活する。そのひとつの診断法として、子ど
もと一緒に歌を歌ってみるという方法がある。子どものリズムで生活している人は、子どもと歌
を歌いながらも、それを楽しむことができる。子どもと歌いながら、つぎつぎといろいろな歌を歌
う。しかしそうでない親は、子どもと歌いながら、それをまだるっこく感じたり、めんどうに感じた
りする。あるいは親の好きな歌を押しつけたりして、一緒に歌うことができない。

 そもそもこのリズムというのは、親が子どもを妊娠したときから始まる。そのリズムが姿や形
を変えて、そのつど現れる。ここでは歌を例にあげたが、歌だけではない。生活全般がそういう
リズムで動く。そこでもしあなたが子どもとの間でリズムの乱れを感じたら、今日からでも遅くな
いから、子どもと歩くときは、子どもの横か、できればうしろを歩く。リズムのあっていない親ほ
ど、心のどこかでイライラするかもしれないが、しかし子どもを伸ばすためと思い、がまんする。
数か月、あるいは一年のうちには、あなたと子どものリズムが合うようになってくる。

子どもがあなたのリズムに合わせることはできない。だからあなたが子どものリズムに合わせ
るしかない。そういうことができる親を、子育てじょうずな親という。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(261)

●内弁慶、外幽霊

 家の中ではおお声を出していばっているものの、一歩家の外に出ると、借りてきたネコの子
のようにおとなしくなることを、「内弁慶、外幽霊」という。といっても、それは二つに分けて考え
る。自意識によるものと、自意識によらないもの。緊張したり、恐怖感を感じて外幽霊になるの
が、前者。情緒そのものに何かの問題があって、外幽霊になるのが、後者ということになる。た
とえばかん黙症などがあるが、それについてはまた別のところで考える。

 子どもというのは、緊張したり、恐怖感を覚えたりすると、外幽霊になるが、それはごく自然な
症状であって、問題はない。しかしその程度を超えて、子ども自身の意識では制御できなくなる
ことがある。対人恐怖症、集団恐怖症など。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりや
すい。その図式はつぎのように考えるとわかりやすい。

 もともと手厚い親の保護のもとで、ていねいにかつわがままに育てられる。→そのため社会
経験がじゅうぶん、身についていない。この時期、子どもは同年齢の子どもととっくみあいのけ
んかをしながら成長する。→同年齢の子どもたちの中に、いきなりほうりこまれる。→そういう
変化に対処できず、恐怖症になる。→おとなしくすることによって、自分を防御する。

 このタイプの子どもが問題なのは、外幽霊そのものではなく、外で幽霊のようにふるまうこと
によって、その分、ストレスを自分の内側にためやすいということ。そしてそのストレスが、子ど
もの心に大きな影響を与える。家の中で暴れたり、暴言をはくのをプラス型とするなら、ぐずっ
たり、引きこもったりするのはマイナス型ということになる。

こういう様子がみられたら、それをなおそうと考えるのではなく、家の中ではむしろ心をゆるめ
させるようにする。リラックスさせ、心を開放させる。多少の暴言などは、大目に見て許す。とく
に保育園や幼稚園、さらには小学校に入学したりすると、この緊張感は極度に高くなるので注
意する。仮に家でおさえつけるようなことがあると、子どもは行き場をなくし、さらに対処がむず
かしくなる。

 本来そうしないために、子どもは乳幼児期から、適度な刺激を与え、社会性を身につけさせ
る。親子だけのマンツーマンの子育ては、子どもにとっては、決して好ましい環境とはいえな
い。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(262)

●灯をともして、引き出す

 恩師が教えてくれた言葉である。子どもは、「灯をともして、引き出す」。そしてこれが欧米流
れの教育の基本でもある。エデュケーションの語源は、「EDUCE(引き出す)」である。

 一方、日本語(中国語)では、「教え育てる」が基本になっている。どちらがよいとか悪いとか
言っているのではない。「教育」に対する考え方が、基本的な部分で正反対だということ。日本
では、子どもをある特定の形につくりあげるのが教育ということになっている。一方、欧米で
は、子ども自身の方向を認め、その選択を子ども自身に任せているということ。この違いは、
いろいろな場面で表れる。

 たとえば日本では、先生は、「わかったか?」「よし、ではつぎ!」と言って授業を進める。しか
しアメリカでは、「どう思う?」「それはいい考えだ」と言って授業を進める。そのため日本では、
子どもに子ども自身の考えをあまりもたせない。

一方、アメリカでは、子どものときから、子どもの言葉で子どもに話させる。わかりやすく言え
ば、日本の教育は、まず学校があって教師がいる。そこへ生徒がやってくるという図式で成り
立っている。一方、欧米では、まず子どもがいて、その周囲に教師がいて、学校があるという
図式で成り立っている。わかりにくい話かもしれないが、要するに「学校中心」か、「子ども中
心」かという話になる。だから……。

 たとえばアメリカでは、学校の先生が落第を親にすすめると、親は喜んでそれに従う。「喜ん
で」だ。これはウソでも誇張でもない。事実だ。むしろ子どもの成績が落ちたりすると、親のほう
から落第を頼みにいくケースも多い。「うちの子はまだ、進級する準備ができていない(レディで
きていない)」と。アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日
本ではそうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。

 同じ「教育」といっても、外から見た「形」はよく似ていても、その中身、つまり意識は日本と欧
米とでは、まるで違う。そういうことも考えながら、「灯をともして、引き出す」の意味を、もう一度
考えてみてほしい。あなたもきっと、「なるほど」と納得するはずだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(263)

●大学の独立法人化

 やっとというか、日本でも大学の独立法人化が動き出した。教官の身分が保証されないとい
う理由で、反対意見も多いが、しかしこんなことは日本以外の国では常識。

アメリカではもう30年も前から、大学入学後の学部変更は自由。転籍も自由。それも即日に
転籍できる。で、学生たちはより高度な授業を求めて、大学の間をさまよい歩いている。その
ため学科のスクラップアンドビルドは、日常茶飯事。やる気のない教官はどんどんクビになって
いる。学生に人気がなければ、学部すら閉鎖される。その結果だが……。

 たまたまある日、2人の学生が遊びにきた。2001年にアメリカの州立大学を卒業したA君。
もう1人は1999年に横浜の国立大学に入学したB君。そのB君を見て、A君が驚いた。「よく
アルバイトをする時間があるな」と。

アメリカの大学生にしてみれば、アルバイトなどは考えられない。実によく勉強する。毎週金曜
日に試験があるということもあるが、毎晩夜遅くまで勉強しても、それでも時間が足りないそう
だ。アメリカでは、オーストラリアでもそうだが、一単位ずつお金を出して講座を買うシステムに
なっている。(実際にはまとめて買うが……。)そのお金は、たいてい奨学金でまかなう。だから
私たちがモノを選んで買うように、彼らもまたよい講座を選んで買う。そういう意識があるから、
いいかげんな講義を許さない。

私も一度、オーストラリアの大学で日本語を教えていたことがある。そのとき一人の学生が私
にこう聞いた。「『は』と『が』の違いを説明してほしい」と。「私は行く」と、「私が行く」はどう違う
かというのだ。そこで私が「わからない」と答えると、その学生はこう言った。「君は、この講義で
お金を受け取っているのか」と。それで私が「受け取っていない。私はボランティアだ」と言うと、
「じゃあ、いい」と。だから教えるほうも必死だ。

 きびしさがあってはじめて、質は高くなる。ぬるま湯につかりながら、「いい教育」はできない。
できるはずもない。しかし今まで、日本の大学教育は、そのぬるま湯につかりすぎた。教授人
事も、「そこに人がいるから人事が慣例化している」(東大元教授)で、改革ということになった
が、それにしても遅過ぎた。今の改革が成果を生み出すのは、さらに20年後、30年後という
ことになる。そのころ世界はどこまで進んでいることやら。日本はどこまで遅れていることやら。
考えれば考えるほど、暗澹(たん)たる気持ちになるのは私だけではあるまい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(264)

●不思議な世界

 不思議な世界だった。何とも現実離れした世界だった。ふと油断すると、そのまま夢の世界
に引きずり込まれていくような世界だった。

 私はある会議のメンバーに選ばれた。私が選ばれたのは、明かに主催者の人選ミスによる
ものだった。で、私以外は、この日本でもそれぞれの分野で1、2を争うような著名人ばかりだ
った。東大の宇宙工学の松井教授、哲学者の山折氏、解剖学の養老氏などなど。アーティスト
の藤井フミヤ氏もいたし、キャスターの草野さんもいた。会議の途中でだれかが、「ここにいる
方は、講演をしても、1時間数百万円。ワンステージ、数千万円の方たちです」と言ったが、私
以外は、まさにそういう人物ばかりだった。

 そういう人たちの間にすわっていると、おかしな気分に襲われる。第一に、「同じ人間のはず
だが」という思い。つぎに「どこが違うのだろう」という思い。さらに「限りなく自分が小さくなって
いく」という思い。そういう思いが、それぞれの方向からやってきて、頭の中で複雑に交錯する。
が、もうこうなると会議どころではない。「私は今まで何をしてきたのだろう」という悔恨の念すら
襲ってくる。

 が、やがて私は気づいた。たとえば本の数にしても、あるいは私が歩んできた道にしても、私
は何も劣るものではない、と。……と、書くと、「何をうぬぼれたことを!」と思う人がいるかもし
れない。しかしこれだけははっきりと言える。

日本人にはコースがある。そのコースに、それも最初の段階で乗れば、あとは想像以上に楽
な人生を送ることができる。公立大学のばあい、ほうっておいても、助手、講師、助教授、教
授。さらには学部長……と、トコロテン方式で肩書きが待っている。そしてそのあとも、例外なく
天下り先が待っている。あの旧文部省だけでも1800団体近い外郭団体がある。で、その上
で、有名になるかどうかは、まさに紙一重の「運」である。その運に、二つ、三つと恵まれれば、
あとはもう……。これ以上のことを書くと、会議に出た人たちに失礼なので書けないが、この日
本という国は、そういうしくみの中で動いている。

 会議が、3回目、4回目とつづくうちに、私はそれに気づいた。私と彼らの間にあるのは、
「運」だけだ、と。力ではない。「運」だ、と。とたん、私の心の中をスーッと風が通るのを感じた。
私はあやうく、夢の世界に引きずりこまれるところだった。現実を忘れるところだった。「私は
私」という、あの私の哲学を忘れることころだった。これは決して負け惜しみではない。敗北を
認めたということでもない。

 ……が、考えてみれば、こういう世界があるから、結局は学歴社会はなくならない。そのため
の受験競争はなくならないし、教育のひずみもなおらない。だいたいにおいて、講演料が数百
万円なんて、(少しオーバーだろうが)、……? そちらの世界のほうが狂っている! 本当に、
本当に、不思議な世界だった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(265)

●バーチャルリアリティの世界

 先日、日曜日の昼のあるテレビ番組によく出てくる、K氏と会った。たまたま新幹線の駅まで
同行し、プラットホームで別れた。そのときのこと。入ってくる列車、出て行く列車の中で、その
K氏を見ると、みながK氏に手をふるのだ。もちろん見知らぬ人ばかり。「有名になる」というこ
とには恐ろしい力がある。

 で、その瞬間だが、私の中に二つの心が混在するのがわかった。ひとつは「私も有名になっ
てみたいものだな」という思い。もうひとつは、「有名になるというのも、うるさいことだな」という
思い。もっともこうしたタレントのばあいは、有名というより、「顔」そのものが看板のようなもの
だから、有名の意味が多少違うかもしれない。

それはともかくも、「有名人の世界」というのが、まさにバーチャルな世界をいう。しかしそれに
は恐ろしいほどの魅力がある。先日も子どもたち(小学四年生)に、「君たちもテレビに出てみ
たいか」と声をかけると、みないっせいに、こう言った。「出タ〜イ」と。

 バーチャルな世界……それはちょうどゲームの世界のようなもの。ゲームの世界で、得点を
多く取り、勝ったり負けたりしながら、喜んだり悲しんだりする気分に似ている。実体はない。つ
かみどころもない。もちろんテレビに出るというのは、それまでにそれなりの苦労と努力があっ
たのだろうが、しかしそれ以上に苦労と努力している人は、いくらでもいる。どこがどう違うかと
いえば、それは「運」でしかない。その運に、二つ、三つと恵まれた人がこうした「有名人」にな
れる。決して、実力や努力ではない。「運」だ。

 そこで考えてみると、この世界は、まさにバーチャルなものが氾濫しているのがわかる。氾濫
しすぎていて、何がバーチャルで、何がそうでないかがわからなくなってきている。その区別す
らつかない人も多い。いや、この私だって、その「私」を忘れてしまうこともある。「私は私」であ
り、「私はここにいる」のが私なのだが、それを忘れてしまう。あまり偉そうなことは言えない。そ
の証拠が、「私も有名になってみたいものだ」という思い。

少しは生活が楽になるかもしれない。本だって売れるし、その分、より多くの人に私の意見を
聞いてもらうことができる。しかし、それが何だというのか。どこまでいっても、私は私であり、バ
ーチャルな世界があっても、またなくても、私に変わりはないのだ!

 そのK氏と別れて、私は別の新幹線に乗ったが、ものの一〇分もすると、もうひとつの自分に
戻ることができた。そしてそのもうひとつの自分が、「何てバカなことを考えたのだ」と、私を叱っ
た。K氏はK氏、私は私なのだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(266)

●馬に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』という
のがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問
題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように
説明されている。

 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳
辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中に
あるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるとい
う(伊藤正男氏)。

つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されて
いる。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維
持するための機関と考えられていた。)

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮
質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確
ではない」(新井康允氏)ということになる。

脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。いくら
大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十分な結果は
得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』のである。

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあ
いと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り
気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本
実業出版社「脳のしくみ」)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、し
かしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味
で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できな
い」。それだけのことかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(267)

●水槽の中の魚

 水槽で熱帯魚を飼うようになって、もう14年目になる。平成元年に飼い始めたから、14年と
いう数字にはまちがいはない。その熱帯魚たち。ときどきその熱帯魚を見ながら、私はこう考
える。「この魚たちにとっては、この水槽が全世界なのだろうな」「生まれから死ぬまで、一生、
水槽の中に住んでいるから、外の世界を知る由(よし)もない」と。

 考えてみれば、人間の意思も似たようなものだ。たとえば「自由」にしても、自由な世界を知っ
てはじめて、不自由な世界がどういうものかがわかる。たとえば江戸時代という時代。あの時
代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であった。

それは客観的にみれば事実なのだが、ではその時代に住んだ人がそう感じていたかどうかは
疑わしい。あの時代の人は、徹底した鎖国制度のもと、外国へ出るということすら許されなかっ
た。だから外の世界など、知る由もなかった。それはちょうど、今の北朝鮮の人たちのようなも
のではないか。日本という外の世界からみると、ずいぶんと窮屈な感じがするが、では当の北
朝鮮の人たちがそう感じているかどうかは、疑わしい。彼らは彼らで、結構自分たちの国は自
由な国だと思っているかも知れない。聞くところによると、首都のピョンヤンに住めるのは、ごく
一部のエリートだけという話だ。それに旅行すら自由にできなという話も聞いている。

 が、だからといって、日本が自由の国だとか、また日本人がもっている意識は、グローバルな
意味で、世界の標準だと思うのは危険なことである。ひょっとしたら私たち日本人とて、水槽の
中の熱帯魚と同じかもしれない。そういう例は、実は教育の世界には多い。

たとえば私が、三井物産という会社をやめ、結果的に幼稚園の講師になったとき、みなは、
「はやしは頭が狂った」と笑った。母まで、電話口でオイオイと泣き崩れてしまった。しかしそん
な中でも、私を支えてくれたのが、オーストラリアの友人たちだった。「ヒロシ、すばらしい選択
だ!」と。こうした意識の違いというのは、それがない人には理解できないものであり、それが
ある人には、外で呼吸をするくらい当たり前のことなのだ。

そういう意味でも、意識の違いというのは恐ろしい。たとえば今の「私」ですら、ひょっとしたら私
という範囲の中だけで「私」なのかもしれない。ほんの少し意識が変われば、私は私でなくなっ
てしまう可能性だってある。絶対的に正しいものなどというのは、ないということか?

 今日も水槽の中の熱帯魚を見ながら、私はそんなことを考えた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(268)

●人間は動物

 このところおかしな現象が身のまわりで起きている。たとえばレストランで食事をしたとする。
そこで人々が食事をしている人を見ていると、そういう人たちが人間というより、動物に見えてく
るのだ。みながみなではないが、しかし10人もいると、そのうち7〜8人が、そう見えてくる。
(だからといってそういう人たちをバカにしているというのではない。誤解がないように!)

「食べる」という、動物全体に共通する行為を見ていることもある。それはあるが、しかしそのと
きだ。私は人間は動物と同じと感ずると同時に、動物も人間と同じと感ずる。どちらでもよい
が、人間と動物を区別するものが何なのか、それがその瞬間わからなくなる。(だからといって
人間が愚かだと言っているのでもない。誤解がないように。)

 たとえばきのうも、ななめ向こうの席で、ひとりスポーツウェアの中学生が食事をしていた。弟
らしき子どももその横にいたが、その弟はよく見えなかった。反対側に父親もいた。私がその
中学生が気になったのは、ハンバーグののった皿に、直接口をつけ、フォークでその料理をガ
ツガツと口の中にかき込んでいたからだ。(欧米の習慣では、皿に口をつけて食べるのは、最
悪のマナーということになっている。実際にはそういう食べ方をする人はいない。)

で、その様子を観察すると、食事を楽しむというよりは、まさに胃袋にモノを詰め込んでいると
いったふう。しかも目つきが死んだ魚のようで、その上表情がなく、正直言って、不気味だっ
た。

 私が女房に、「人間が万物の霊長だというのは、ウソだね」と話すと、女房もそれに同意し
た。いや、人間が動物的であることが悪いのではない。人間も一度、自分たちは動物であると
いう視点で、見なおす必要があるということ。人間だけが特別の存在であると考えるほうがお
かしい。

つまりその上で、教育がどうあるべきかを考えるということ。よく「日本の教育は子どもに考える
ことを教えない」という。しかし日本に住んでいると、それがよくわからない。「考える」という言葉
の意味すら、よくわかっていないのでは? 人間が人間なのは、考えるからであって、言いかえ
ると、考えなければ、人間は人間としての価値をなくす。日本の教育には、そういう基本的な視
点が欠けている。

 ……話が脱線したが、こんな格言もある。「思考はヒゲのようなものである。成長するまでは
生えない」(ヴォルテール「断片」)と。教育にも限界があるということか。あるいはひょっとした
ら、何もしないことが教育になるのかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(269)

●学力の低下が心配?

 2002年3月末の読売新聞社の調査によれば、小中学校の教科内容が削減されることに対
して、67%もの人がそれに反対していることがわかった。「新学習指導要領、削減反対6
7%、完全学校週5日制、反対60%(賛成36%)」など。

とくに教科内容の削減については、小学校高学年児をもつ親の71%が、また中学生をもつ親
の73%が反対していることがわかった。

で、問題はその理由だが、トップは、「学力が低下する」。これが69%。小学校の高学年児を
もつ親の76%、中学生をもつ親の74%が、そう答えている。読売新聞は「学力低下に対する
危機感をもっているため」と分析しているが、本当にそうか。これらの親たちは、本当に「学力
が低下する」ことを心配しているのか。

 実は、これらの親たちが、学力の低下を心配しているというのは、ウソ。まったくのウソ。これ
らの親たちが心配していることは、「学力の低下」ではなく、「自分の子どもが受験競争で不利
になる」ことを心配しているのだ。簡単に「3割削減」というが、3割といえば、6年掛ける0.3
で、約1.8年分ということになる。

わかりやすく言えば、小学校の6年間のうち、約2年分が削減されるということ。これからは今
まで小学4年で勉強していたことを、6年ですることになる。私立小学校や中学校は「削減しな
い」と言っているから、この差は大きい。受験ということになったら、公立学校へ通っている子ど
もは、絶対に不利である。親たちが心配している点は、すべてこの一点に集中する。

 今、日本の教育はにっちもさっちも、たちゆかなくなってきている。中学1年生で、私の推計で
も、掛け算の九九がまだじゅうぶんでない子どもが、20%弱もいる(推計……というのも、掛け
算の九九は言えても、瞬間に「サンパ?」と聞かれても答えられない子どもも多い。ほとんど九
九を言えない子どももいれば、ところどころあやしい子どももいる。調査をするにも、基準の設
定がむずかしい。)

週刊ポスト誌(02年4月12日号によれば、小学校の6年生で、「九九のできない子ども」は、
「2〜3割はいる」)ということだそうだ。全体として、約20%の中学生は、掛け算の九九すら満
足にできないとみてよい。そういう子どもが、一方で、1次方程式だの2次方程式だのを学んで
いるおかしさを、あなたは想像できるだろうか。ともかくも、「3割削減」は、こうした現状の中か
ら生まれた。

 しかし本当の問題は、このことではない。本当の問題は、「なぜ親たちが心配するか」というこ
と。もっと言えば、受験勉強の深層部分にメスを入れないかぎり、この問題は解決しない。

なぜ親たちは、自分の子どもが受験競争で不利になることを心配するか、である。それは当然
のことながら、「受験」という制度が、この日本では人間選別の手段として使われているからに
ほかならない。さらに言えば、この日本には、受験で得をする人、損をする人、それがはっきり
としている。そういう不公平社会があることこそが問題なのだ。そこにメスを入れないかぎり、こ
の問題は解決しない。絶対に解決しない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(270)

●ぬり絵

 以前、一時期、ぬり絵が子どもたちの世界から消えたことがある。中に「子どもたちをぬり絵
というワクの中に閉じ込めてはいけない」などと、とんでもないことを言う教育家も現れたりし
た。しかしぬり絵には、すばらしい効果が、いくつかある。

(1)運筆能力を養う……手でペンや鉛筆をもって絵や文字をかくという能力は、いわば特殊な
能力である。ある程度の指導と訓練があってはじめて、それができるようになる。しかもその時
期は、かなりはやい時期で、年中児(五歳児)になるころには、すでにその能力は定着する。だ
から子どもにペンをもたせるようになったら、ぬり絵をすることをすすめる。子どもはこまかいと
ころを、縦線、横線、あるいは円い線を使いながら塗りつぶすことを覚える。文字の学習に入
る前に、ぬり絵をするとよい。

(2)色彩感覚……たとえば白黒の線だけでかいた、森や家や川のある絵をわたし、子どもに
色をぬらせてみてほしい。色彩感覚が豊かな子どもは、色づかいが自然で、おとなが見てもほ
っとするような色づかいで色をぬる。そうでない子どもは、たとえば紫色の空、茶色の川、黒い
家など、どこかぞっとするような色をぬる。(緑の木を茶色にぬったりすれば、色覚障害が疑わ
れるが……。)その色彩感覚も、ぬり絵で養うことができる。

いくつかの注意点もある。そのひとつは、常識の押しつけをしないということ。「髪の毛は黒でし
ょ!」「川は青でしょ!」式の押しつけは禁物。またこの時期、子どもは周期的に自分の好きな
色をつかうことが多い。ある時期は青ばかりで。それが終わると今度は紫ばかりで、というよう
に。よくある現象なので、あまり神経質になる必要はない。

幼児心理学の世界では、色づかいによって幼児の心理を判断するという方法もある。私は30
年間、この問題を考えてきたが、結論は、「?」。中にもっともらしい解説をつける人もいるが、
私はいつも「?」マークをつけている。それはちょうど、「赤い服の人は情熱的で、青い服の人
は心が冷たい」と判断するようなものだ。

服の色などというのは、そのときの気分で決まる。幼児の心理は、もっと別の方法でさぐるべき
ではないのか。またそのほうが、正確に判断することができる。ただこういうことは言える。子ど
もというのは、心理的に大きく変化するとき、ついで色好みが変化することもある。しかしこの
ばあいも、子どもが思春期になってからのことで、幼児にあてはめることはできない。
(注)色覚障害者……男児に多く見られる劣性遺伝で、黄色人種は男性の5%、女性は0.
2%。(白人は8%、黒人は1%)と言われている。つまり、日本人男性の5%、男性の人口が5
123万人(95年調べ)なので、その5%=約256万人が、色覚障害者ということになる(厚生
労働省「手引き」より)。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(271)

●早期教育と先取り教育

 よく誤解されるが、早期教育が悪いのではない。悪いのは「やり方」である。たとえば極端な
例として、胎教がある。まだおなかの中にいる赤ちゃんに、何らかの教育をほどこすというのが
胎教だが、胎教そのものよりも、悪いのは、そうした母親の姿勢そのもの。まだ子どもが望み
もしないうちから(望むわけがないが……)、親が勝手に教育を始める。子どもの意思など、ま
ったく無視。

こういうリズムは一度できると、それがずっと子育てのリズムになってしまう。それが悪い。まだ
子どもが興味をもたないうちから、ほら数だ、ほら文字だとやりだす。最近はやっている英語教
育もそうだ。こうしたやり方は、子どもに害になることはあっても、プラスになることは何もない。

 またたいていの親は、小学校でするような勉強を、先取りして教えるのを早期教育と誤解して
いる。年中児に漢字を教えたり、掛け算の九九を覚えさせたりするなど。もっとも漢字をテーマ
にすることは悪いことではない。漢字を複雑な図形ととらえると、漢字はおもしろいテーマとな
る。それをつかった応用はいくらでもできる。私もよく子どもたちの前で、漢字を見せるが、漢
字を教えるのではなく、漢字のおもしろさを教える。

ここに先取り教育と、早期教育の違いがある。ただこの日本では、「知識や知恵をつけさせる
のが教育」ということになっている。そして早期教育とは、知識や知恵をつけさせることだと多く
の親は思っている。これは誤解というよりも、世界の常識からは大きくかけ離れている。

 幼児教育が大学教育より重要であり、奥が深いことは、私にはわかる。それを認めるかどう
かは、幼児教育への理解の深さにもよる。たいていの人は、幼児イコール幼稚、さらに幼稚な
教育をするのが、幼児教育と思い込んでいる。しかしこれは誤解である。……というようなこと
を書いてもしかたないが、その幼児教育をすることは、これは早期教育でも、先取り教育でも
ない。

この時期、人間の方向性が決まる。その方向性を決めるのが、幼児教育ということになる。そ
の幼児教育が必要か必要でないかということになれば、そういった議論をすること自体、バカ
げている。

 こみいった話になったが、幼児の教育を考えるときは、早期教育、先取り教育、それに幼児
教育の3つは、分けて考えるとよい。混同すればするほど、子どもの教育が見えなくなる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(272)

●知恵の発達のバロメーター

 幼児というのは、そのときどきにおいて、ちょうど昆虫が脱皮するように成長する。精神の発
達だけではない。知恵の発達もそうだ。たとえば4歳以前の子どもは、文字にほとんど興味を
示さない。ところが満4・5歳(=4歳6か月)を過ぎることから、急速に文字に興味を示し始め
る。(だからといって四歳以前の子どもに、文字学習が無駄であると言っているのではない。四
歳以前は、たとえば親が本を読んであげるなどの、読み聞かせが大切。そういう下地があって
はじめて、子どもはやがて文字に興味をもつようになる。)

この時期、子どもは文字をまねて書くようになるが、もちろん文字の「形」にはなっていない。ク
ルクルと丸を描いたり、それを重ねたような図形を描いたりする。この時期をうまくとらえると、
子どもは文字に興味をもつようになり、ついで自分でも文字を書きはじめる。コツは、あれこれ
ルール(形や書き順など)はうるさく言わないこと。文字を書く楽しみを何よりも大切にする。

 ……というように、幼児は段階的な発達をするが、そこでひとつの基準として、つぎのように
考えるとよい。

 形……三角と四角を組み合わせたような図形を子どもに見せ、それを別の紙に書き写させ
てみる。形の弁別ができない子どもが、三角とも四角ともわからないグニャグニャの形を描く。
しかし四歳前後から、形の弁別ができるようになり、何となく三角、何となく四角というような図
形を描けるようになる。

 数字……ほとんどの子どもは、数字から文字の世界に入る。最初は、「1」「2」など。自分の
名前を書こうとする子どももいる。そのとき同時に、子どもは1から10までを数えるようになり、
少しの指導で30までなら数えることができるようになる。年中児の終わりで30まで、年長児の
終わりで100までを目標にするとよい。「多い、少ない」「ふえた、減った」の感覚から、「得をし
た、損をした」も理解できるようになる。

 ただ文字といっても「8」「9」は、幼児にはたいへんむずかしい。年長児でも正しく書ける子ど
もは、全体の60〜70%とみる。

 ひらがな、カタカナ……年長児(満六歳児)の約80%弱(夏休みの段階)が、ほぼ自由にひ
らがなを読み書きできる。しかし一方で、文字に対して恐怖心をもつ子どもも、この時期急増す
る。家庭での無理な学習が原因と考えてよい。それはともかくも、この時期までに子どもは、と
くに教えなくても、いつの間にかひらがなを読めるようになった、というふうにして文字を読み書
きできるようになる。

 これはあくまでもひとつの目安であり、個人差もある。大切なことは子どものリズムをうまくつ
かみ、無理をしないこと。そのリズムにうまくのれば、子どもは伸びやかに成長するし、そうでな
ければそうでない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(273)

●遠慮

 以前『遠慮は黄信号』という格言を考えた。子どもの中にその遠慮を感じたら、親子関係は
かなり危険な状態にあると判断してよい。

 ふつう、満ち足りた家庭環境の中で、親の濃厚な愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、
見るからにどっしりとしている。態度も大きく、ときにふてぶてしくさえ見える。反対にそうでない
子どもはどこか、コセコセしている。よく誤解されるが、だれにでも愛嬌がよいとか、愛想がよ
いとかいうのは、子どもの世界ではあまり好ましいことではない。

このタイプの子どもは、そういう形で相手の心に取り入ろうとする。しかし本当のところは心を
許していない。気を抜かない。だから子ども自身も疲れるが、つきあうほうも疲れる。

 遠慮するというのは、その心を許さない状態と考えてよい。もっとも他人との関係なら、ある
程度の遠慮はつきものだし、むしろ遠慮なくわがもの顔でふるまうほうが問題となることもあ
る。たとえば多動児(AD・HD児)の特徴のひとつとして、無遠慮、無警戒がある。しかし本来心
を許すべき相手に心を許さないとか、許せないとかいうのは、それ自体がたいへんなストレスと
なってかえってくる。

親子とて例外ではない。「実家の親に会うだけで、神経がすり減る」「正月に実家に向かうだけ
で言いようのない緊張感に襲われる」などと言った母親がいた。

 そこであなたとあなたの子どもの関係はどうか冷静に判断してみてほしい。あなたの子ども
はあなたの前で態度も大きく、図々しいだろうか。あなたのいる前で、平気で好き勝手なことを
しているだろうか。ときに体を休め、ときにあなたに甘えてくるだろうか。もしそうならそれでよ
し。しかしどこかあなたの目を気にしたり、あなたの機嫌をうかがうようなところがあれば、あな
たは今の子育てをかなり反省したほうがよい。今は、一見、何ごともなくうまくいっているように
見えるかもしれないが、やがてあなたとあなたの子どもの間に、大きなキレツが入る。そしてそ
れが断絶につながるかもしれない。

 ただしこの問題は、あなたはそれに気づいたとしても、解決するのに、半年とか一年とか、長
い時間がかかる。子どもの年齢が大きければ、もっとかかる。そういう前提で、あなたの子育
てのあり方を反省する。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(274)

●追えば追うほど、心を削る

 私に月謝袋を渡すとき、爪先でポンとはじいて、「おい、あんた、あんたのほしいのはこれだ
ろ」と言った高校生がいた。市内でも1番という進学高校に通う子どもだった。私が黙っている
と、「とっておきな」と。私は生涯において、3度、生徒を殴ったことがある。そのときがそのうち
の一度になった。

 父親はそのときある教育団体の職員をしていた。母親は結婚するまで、中学校の教師をして
いた。教育熱心な家庭だったが、どこかでその歯車がズレたらしい。その原因がすべて受験競
争にあるとは言えないが、受験競争に関係ないとはもっと言えない。その子どもも、小さいとき
から「勉強づけの生活」をしてきた。

 受験教育の弊害をあげたらきりがないが、そのうちのひとつが、子どもから温かい人間的な
心を奪うこと。『追えば追うほど、心を削る』という格言を私は考えたが、子どもを受験で追えば
追うほど、子どもから温かいぬくもりが消える。ものの考え方が功利的、打算的になる。勝っ
た、負けたという計算だけが頭の中を支配する。

そういう状態になると、「教育」という言葉は、もう通用しない。指導だ。教育ではなく、指導とい
うことになる。「どうすればよい点を取れるか」「どうすればよい(?)大学へ入れるか」と。

 この日本では、受験競争は避けて通れない道かもしれないが、子どもに受験勉強をさせると
きのは、一方で子どもの心をケアすることを忘れてはならない。でないと、結局はそのツケは私
たち自身が払うことになる。少し前だが、私にこう言った市の職員がいた。

彼はその市の市役所でも部長職にあったが、いわく、「はやしさん、このH市は工員の町だよ。
工員というのはね、お金をもつと働かなくなるよ。工員には金をもたせてはいけないよ。だから
たくさん遊ぶところをつくって、もっているお金を吐き出させるのだよ」と。もし日本中がそんなエ
リートばかりになったら、この国はいったいどうなるのだろうか。

 で、先の高校生だが、その直後、父親と母親につれられて謝罪にきた。結果的にみれば、そ
れがよかった。その子どもはその事件を契機に、みちがえるほど人が変わった。礼儀正しくな
り、ものごしもやわらかくなった。私の教室(教室といっても、3〜4人の小さな教室だが……)
へは、高校3年の終わりまできてくれたが、その分、私との人間関係も太くなった。今でもとき
どき消息を聞くが、現在は埼玉県で高校の教師をしているという。きっとすばらしい教師をして
いることと思う。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(275)

●遅れたら、「核」づくり

 ときとして子どもは、学校の勉強に遅れることがある。(「遅れる」という言い方は、本当に不
愉快だが……。)それはちょっとした油断でそうなるが、そうなったときの鉄則が、これ。「核」を
つくる。

 たとえば算数の力が遅れたとする。たとえば小1で足し算、引き算につまづいて、子どもが自
信をなくしたようなとき。そういうときは、つぎに学ぶ掛け算なら掛け算を、前もって徹底的に教
える。あれこれ全体に教えるのではなく、掛け算なら掛け算を、「これなら人には絶対負けな
い」という状態にする。つまり立ちなおりのきっかけをつくる。私はこれを「核づくり」と呼んでい
る。

 これは一例だが、この方法は、子どもが何かでつまづいたとき、いろいろに応用できる。どこ
かに書いた「一芸論」もそうだが、反対に子どもをオールマイティにしようとすると、失敗する。さ
らに言いかえると、子どもがつまづくというのは、そもそも親側に問題があるとみる。親が子ど
もをオールマイティにしようとして、結局は子どもを袋小路に追い込んでしまう。

年長児を過ぎるころから、子どもにも得意、不得意ができてくる。できて当たり前。この当たり
前のことがわからない。算数も、英語も、その上、体操も、音楽も……とやりだす。こうした無
理が、……というより、飽食的な子育て観が子どものやる気をつぶす。そして子どもはあちこち
で、同時多発的につまづき始める。わかりやすく言えば、「二兎を追うもの、一兎も得られず」と
いうことだが、そういうときは、「一兎」に的をしぼる。算数も国語もと考えるのではなく、まず算
数なら算数だけとする。その算数の中でも、掛け算なら掛け算だけとする。

子どもというのはおもしろいもので、得意な一教科が沈みはじめると、ほかの教科全体も沈み
はじめる。が、一教科だけがぐんぐんと伸び始めると、ほかの教科もそれにつられて伸びると
いうことがよくある。ほかの教科をとくに勉強しなかったとか、したというわけでもないのに、そう
なる。たとえば英語だけがぐんぐんと伸び始めると、数学をとくに勉強したわけでもないのに、
数学も伸び始めるなど。私はこれを「相乗効果」と呼んでいるが、

こうした現象は子どもの世界では珍しいことではない。そういうことも考えながら、「核」づくりを
大切にする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(276)

●子どもの理性

 「理性」とは、善と悪を両方に置き、その善悪の判断に従って冷静に考えたり行動したりする
感覚のことを、理性という。簡単に言えば、「バランス感覚」ということになる。このバランス感覚
に欠けると、子どもは極端なものの考え方をするようになる。

 「地球の人口は多すぎるから、核兵器か何かで、人口の半分を殺せばいい」と言った男子高
校生がいた。あるいは「私は結婚して、早く未亡人になって、黒い喪服を着てみたい」と言った
女子高校生がいた。そういうようなものの考え方をして、みじんも恥じなくなる。

 子どもの理性は、かなり早い時期にできる。年長児の段階では、かなり決まっている。たとえ
ば「ブランコを横取りされました。あなたはどうしますか」という問題を出したとき、バランス感覚
のすぐれている子どもは、「順番を待ってもらう」とか、「先生に言いつける」とか言う。しかし中
には、「そういうヤツはぶん殴ってやる」とか言う子どもがいる。そこで私が「どうして?」と聞く
と、「どうせ、そういうヤツは口で言っても、わからネエ」と。

 このバランス感覚は、静かで穏やかな家庭環境ではぐくまれる。もちろん愛情も大切だが、
それ以上に大切なのは、子ども自身が静かに考えて行動する環境があるかどうか、だ。神経
質な過関心、威圧的な過干渉、さらには家庭騒動や家庭崩壊などがあると、子どもは心の落
ち着きをなくし、ついでそのバランス感覚をなくす。さらにたとえば極端に甘い父親、極端にき
びしい父親が同居するようなばあいにも、子どもはこのバランス感覚をなくすこともある。J君
(中一)がそうだった。

ある日私にこう言った。「先生、おれの親父ね、毎晩ひとりでこっそりと、エロビデオ、見てるん
だよ。先生も見てるのか?」と。言ってよいことと悪いことの区別すらつかない。昔からの裕福
な家庭で、外見からは問題があるようには見えなかった。しかしいろいろ話を聞くと、家庭をか
えりみない父親、教育熱心な母親、それにデレデレに甘い祖父母と同居していることがわかっ
た。つまりJ君の家庭では、J君に対してそれぞれがてんでバラバラな接し方をしていた。それ
が原因だった。

 理性のこわいところは、それは一度破壊されると、以後、修復がたいへんむずかしくなるとい
うこと。その後の経験で、理性的な判断力が育つことはあるかもしれないが、それは古いキズ
の上にかさぶたができるようなものではないか。さらに幼児期に一度心がすさむと、それをな
おすのは、不可能とさえ言える。要はそういう状態にまで子どもを追いつめないということ。幼
児期に一度キズついた心は、顔についたキズのようで、消えることはない。

 ついでに一言。理性はつくるのに、数年かかるが、こわすのは、半日でよい。それくらいデリ
ケートなものであることを忘れてはならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(277)

●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。たとえばアメリ
カ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻先を指さす。
(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)そこで調べてみると、小学生の全員は、自分
の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさす。しかし年中児になると、それが乱れる。
つまりこの部分については、子どもは年中児から年長児にかけて、いつの間にか、教えられな
くても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解される
が、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。ど
れくらいの割合かと言われれば、1対100、あるいは1対1000、さらにはもっと多いかしれな
い。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして
教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもというのは、「教え
ることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの教育にとって
重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子
どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでも
ない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識
をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。先日も中学生たちに、
「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士になるという夢をもったらどう
か」と言ったときのこと。全員(10人)がこう言った。「どうせ、なれないもんね」と。「夢をもて」と
教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしまう。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そし
て子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それ
を少しだけここで考えてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(278)

●親のうしろ姿

 生活のために苦労している親の姿。子育てのために苦労している親の姿。そういうのを日本
では、「親のうしろ姿」という。そしてそのうしろ姿を、子どもに見せることを、この日本では美徳
のように考えている人がいる。しかしこれはまちがい。

親が見せたくなくても見せてしまうのが、親のうしろ姿。子どもが見たくなくても見てしまうのが、
親のうしろ姿。親のうしろ姿というのはそういうものだが、しかし中には、うしろ姿を見せなが
ら、親の恩(?)を押し売りする人がいる。「産んでやった」「育ててやった」と。一方、子どもは
子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまう。

 子育ての目標は、子どもを自立させること。そして親は、一度は子どもに対して、「あなたの
人生はあなたのものだから、思う存分、あなたの人生を生きなさい」と肩を叩いてあげてこそ、
親の義務を果たしたことになる。安易な孝行論や、「家」制度で、子どもをしばってはいけない。
いわんやそれを子どもに求めたり、強制してはいけない。

子どもの人生は、あくまでも子どもの人生。もちろん子どもがおとなになって、そのあと親のめ
んどうをみるとか、家の心配をするというのであれば、それはあくまでも子どもの勝手。子ども
の問題。

 日本の親たちは子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無頓着。たとえば日本では親
にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコールよい子とする。そして独立心が旺盛で、
親になつかない(?)子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

そのため日本の親は子どもを育てるとき、ちょうど、飼い犬を手なずけるかのようにして、子ど
もを育てる。エサを見せてはひっこめ、また見せてはひっこめる。それでもそのエサをねだった
ら、ころあいを見はかりながら、おもむろに、つまり恩着せがましくエサを与えるというように、で
ある。結果、子どもは親なしでは生きていかれないということを、徹底的に教え込まれる。そし
てそれがやがて、ここでいう依存心へなっていく。

 よく日本は依存型社会だと言われる。「生きるのは私」と考えるよりも先に、「人に何とかして
もらおう」とか、「人が何とかしてくれるだろう」と考える。どこかでいつも他人に甘えるような生き
方をする。あるいは集団にならないと、力が発揮できない。日本はこのままでよいという人に
は、私は何も言わないが、子育ての目標は、子どもを自立させること。そういう視点に立つな
ら、親のうしろ姿は見せない。親は親で、どこまでも気高く生きる。それが結局は、長い目で見
て、親と子どものきずなを深めることになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(279)

●おどしは理性の敵

 子どもをわざと不安にさせる。わざと孤立させる。あるいはおどす。日本人には日本人独特
の子育て法というのがある。

15年ほど前だが、私はT教授が書いた本を読んで、体中が怒りで震えたことがある。当時(今
も?)、日本を代表する教育評論家だった。いわく、「親子のきずなを深めるためには、遊園地
などで子どもをわざと迷子にしてみればよい」と。

とんでもない教育法である。当時の日本人は、この程度の教育論(失礼!)を読んで納得した
かもしれないが、それにしてもお粗末。もしあとで「わざと」であったことを子どもが知ったら、そ
の時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。いや、そういう卑怯なやり方ができるという
こと自体、その人の人間性そのものを疑ってよい。親は子どもには、どこまでも誠実でなけれ
ばならない。たとえ子どもが親を裏切ったとしても、親は子どもに誠実でなければならない。そ
れがまた親の親としての愛の深さを決める。

話を戻すが、こうした方法は、子育てでは邪道。手っ取りばやく子どもをしつけるには、それな
りの効果があるが、長い目で見れば、逆効果。よくある例が、デパートなどで泣き叫ぶ子どもに
向かって、「あなたを置いてきますからね」とか、「あんたを捨てますからね」と言う親がいる。親
としては軽いおどしのつもりで言うかもしれないが、子どもはそれを本気にしてますます大声で
泣き叫ぶ……。

そういうとき子どもは、わかっていて泣き叫ぶのではない。恐怖心にかられて泣き叫ぶ。だから
しつけとしての効果はまったくないばかりか、ばあいによっては、子どもの理性そのものを破壊
する。

 そこで「おどしは、理性の敵」を覚えておく。おどしが日常化すればするほど、子どもから、静
かに善悪を判断するというバランス感覚が消える。ものの考え方が極端になったり、先鋭化し
たりする。いや、その前に、おどさなければ子どもがあなたの言うことを聞かないというのであ
れば、もうすでにあなたと子どもの関係は、かなり危険な常態にあるとみてよい。やがてあなた
の子どもは、あなたの手に負えなくなる。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(280)

●未来を楽しみにさせる

 子どもを伸ばす秘訣の一つは、いつも「未来を楽しみにさせる」こと。明日は今日よりよくなる
という希望が、子どもを伸ばす。そのために子どもには、いつも前向き(プラス)の暗示をかけ
る。「あなたは去年よりすばらしい子になった」「来年はもっとすばらしい子になる」と。

 前向きに伸びている子どもは表情も生き生きとしていて、明るい。何か新しいことができるよ
うになるたびに、親に向かって、「見て!」「見て!」と言い寄ってくる。そうでない子どもは暗
い。そこでテスト。あなたの子どもはつぎのうちのどちらだろうか。

何か新しいことをやってみないと提案したとき、(1)「やる」とか「やりたい」と言って、すぐくいつ
いてくる。(2)「いやだ」とか「やりたくない」とか言って、すぐ逃げ腰になる。その中間もあるだろ
うが、もしあなたの子どもが(1)のようなら、よし。(2)のようなら、あなたの子育てをかなり反
省したほうがよい。その一つの方法に、あなたの心を作り変えるというのがある。

 「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。ウソではいけない。親子というのはそ
ういうもので、長い時間をかけて、あなたの心はそっくりそのままあなたの子どもに伝わる。そ
こでもしあなたが「うちの子は何をしても心配だ」と思っているなら、こうする。「あなたはいい子
だ」を口グセにする。子どもの顔を見たら、そう言う。最初はどこかぎこちなく、とまどいを覚え
るかもしれないが、あなたがその言葉を自然に言えるようになったとき、あなたの子どももまた
その「いい子」になっている。

 話が少しそれるが、以前、「小学校へ行きたくない」という園児が続出したことがある。理由を
聞くと、「花子さんがいるから」と。『学校の怪談』に出てくる花子さんのことだった。おとなは興
味本位にこういうテレビ番組をつくるかもしれないが、子どもに与える影響を、少しは考えてほ
しい。幼児期には、こういうことはあってはならない。




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