ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(281)
●本当の問題
この日本では、一度コースにのってしまえば、役職は向こうからやってくる。そうでない人から
見れば、夢のまた夢のような役職ですら、町内の役職が回ってくるように回ってくる。そしてそ の役職をそれなりにうまくやりこなしていると、いわゆる「出世」できる。こういうのを日本では、 学歴社会という。「学歴」という言い方に問題があるなら、コース社会と言ってもよい。不公平社 会と言ってもよい。
こうして出世(?)した人の中には、もちろん力のある人もいるが、しかし大半は、コースという
「波」に乗っただけとみてよい。つまり「運」。が、問題は、こうしたコースがあることもさることな がら、こうしたコースは、代々、それぞれの人に受け継がれ、それをまたつぎの代に残している ということ。
コースにのるということは、生活が安定するばかりではなく、それ自体、たいへん居心地のよい
世界でもある。地位や名声が高ければ高いほど、あがめたてまつられる。その人が発する一 言一句、一挙一動が注目される。
信じられないような話かもしれないが、こうして出世した人は、講演にしても、1時間で100万
円をくだらない。テレビや雑誌に出るような人だと、もっと高額になる。事実を一つ、書く。もう2 0年ほど前だが、私はいろいろな人のゴーストライターをしていた。書いた本は、10〜20冊は ある。(冊数が不明なのは、半分だけ書いたというのもあるから)。
ほとんどは初版だけで絶版になったが、何冊かは結構売れた。その中でもあるドクターの名前
で書いた1冊だけは、専門書だったが、年間、数10万部も売れた。そのドクターにとっては、 最初で、今にいたるまで最後の本だったが、しかしそのドクターは、私が書いた本をぶらさげて 講演するようになった。そのときの講演料が1日、20万円。大卒の初任給が10万円前後の時 代だった。日本にはこういう社会が、歴然として存在する。
……というような話なら、あなたもどこかで聞いたことがあると思う。しかし本当の問題は、こ
うした不公平社会があるということではない。本当の問題は、そういう社会を容認している「私 たち」自身にある。ひょっとしたら、あなたも、「あわよくばそうなりたいものだ」と思っているかも しれない。
そういう「思い」が、結局はこうした社会を容認し、支えてしまう。が、ここで大きな問題にぶつか
る。では、そういう社会がまったくなくなってしてまったら、それはそれでよいのかという問題で ある。不公平であることそのものが、目標になることがある。社会を動かす原動力になることも ある。
そこで言えることは、不公平なら不公平でもよいが、それが合理的なものであればよいというこ
と。その人の努力や能力が、正当に評価されるなら問題はない。が、いびつな不公平がはびこ ればはびこるほど、他方で、もともと正当に評価されるべき人が正当に評価されなくなってしま う。それこそが本当の問題ということになる。そしてそういう社会がはびこれば、人はまじめに 働くことをやめ、社会そのものが崩壊する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(282)
●見方を変える
中高年の自殺がふえているという。私もその予備軍のようなものだ。ときどき生きていること
そのものが無意味に思えることがある。「死んだら、どんなに楽になるだろう」と。しかしそのた びに、つまりそのあとになって、私がまちがっていたことを知る。
名前は忘れたが、少し前ビデオで見た映画(※)の中に、こんなジョークがあった。
ある男が病院へ来てこう言った。「ドクター、私は頭を押さえても頭が痛い。腹を押させても腹
が痛い。足を押さえても足が痛い。体中、どこを押させても痛い。私は何の病気でしょうか」と。 するとそのドクターは、こう言った。「あなたはどこも悪くない。ただあなたの指が折れているだ けだよ」と。
ほんの少しだけ見方を変えると、ものの考え方も180度変わるということだが、「何もかもダ
メだ」と思うときも、見方を変えると一変する。ダメなのは、私自身ではなく、ものの考え方なの だ。子どもにしてもしかり。勉強はしない。夜な夜なコンビニの前に座り、酒を飲む。タバコを吸 う。叱るどころか、こわくて話をすることもできない。「生きていてくれるだけでもいい」と思うの は、まだよいほうだ。親も追いつめられるところまで追いつめられると、「よそ様に迷惑さえかけ なければ……」と願うようになる。親子でも、どこかで歯車が狂うと、そうなる。
そしてそういうとき親は、深い絶望感にさいなまれる。その子どもを産んだことを後悔する親さ
えいる。が、そういうときでも、ダメなのは子ども自身ではなく、子どもを見る、あなたの見方な のだ。
今、あなたは生きている。子どもは子どもで生きている。この数10億年という歴史の、その
瞬間に、同じく数10億人という人間の、その中で、親として、そして子どもとして、互いに同じ時 代で、同じ場所で、しかももっとも近い人間として生きている! そのすばらしさの前では、どん な問題もささいな問題でしかない。繰り返すが、ダメなのは、あなたの子どもではなく、あなた自 身の見方なのだ。子どもがダメだと思ったら、あなたの見方を変えればよい。それですべての 問題は解決する。
……もっともこういう極端な例は別としても、最後の砦(とりで)の一つとして、こうしたものの
考え方を心の中に用意しておくことは、大切なことだ。私もふと死にたくなるときがある。女房は 「初老成のうつ病よ」と笑うが、そうかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。しかし私は 一方で、こう思う。どうせ一度しかない人生だから、とことん最後まで見てやろうと。そして最後 の最後になったら、この宇宙もろとも、消えればよい、と。
何とも深刻な話になってしまったが、あなたの見方を変える一つのヒントになればうれしい。
※……イラン映画「桜桃の味」
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(283)
●子どものおねしょとストレス
いわゆる生理的ひずみをストレスという。多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが
多い。たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓 がドキドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活 発になる。
が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機
能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康 允氏)という。こうした現象はごく日常的に、子どもの世界でも見られる。
何かのことで緊張したりすると、子どもは汗をかいたり、トイレが近くなったりする。さらにその
緊張感が長くつづくと、脳の機能そのものが乱れ、いわゆる神経症を発症する。ただ子どもの ばあい、この神経症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。
「尿」についても、夜尿(おねしょ)、頻尿(たびたびトイレに行く)、遺尿(尿意がないまま漏らす)
など。私がそれを指摘すると、「うちの子はのんびりしています」と言う親がいるが、日中、明る く伸びやかな子どもでも、夜尿症の子どもはいくらでもいる。(尿をコントロールしているのが、 自律神経。その自律神経が何らかの原因で変調したと考えるとわかりやすい。)同じストレッサ ー(ストレスの原因)を受けても、子どもによっては受け止め方が違うということもある。
しかし考えるべきことは、ストレスではない。そしてそれから受ける生理的変調でもない。(ほ
とんどのドクターは、そういう視点で問題を解決しようとするが……。)大切なことは、仮にそう いうストレスがあったとしても、そのストレスでキズついた心をいやす場所があれば、それで問 題のほとんどは解決するということ。ストレスのない世界はないし、またストレスと無縁であるか らといって、それでよいというのでもない。ある意味で、人は、そして子どもも、そのストレスの 中でもまれながら成長する。で、その結果、言うまでもなく、そのキズついた心をいやす場所 が、「家庭」ということになる。
子どもがここでいうような、「変調」を見せたら、いわば心の黄信号ととらえ、家庭のあり方を
反省する。手綱(たづな)にたとえて言うなら、思い切って、手綱をゆるめる。一番よいのは、子 どもの側から見て、親の視線や存在をまったく意識しなくてすむような家庭環境を用意する。
たいていのばあい、親があれこれ心配するのは、かえって逆効果。子ども自身がだれの目を
感ずることもなく、ひとりでのんびりとくつろげるような家庭環境を用意する。子どものおねしょ についても、そのおねしょをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方そのものを考えなおす。 そしてあとは、「あきらめて、時がくるのを待つ」。それがおねしょに対する、対処法ということに なる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(284)
●男らしさ、女らしさ
男らしさ、女らしさを決めるのが、「アンドロゲン」というホルモンであることは、よく知られてい
る。男性はこのアンドロゲンが多く分泌され、女性には少ない。さらに脳の構造そのものにも、 ある程度の性差があることも知られている。
そのため男は、より男性的な遊びを求め、女はより女性的な遊びを求めるということらしい。
(ここでどういう遊びが男性的で、どういう遊びが男性的でないとは書けない。それ自体が、偏 見を生む。)
男と女というのは、外観ばかりでなく、脳の構造においても、ある程度の違いはあるようだ。た
とえば以前、オーストラリアの友人がこう教えてくれた。その友人には二人の娘がいたのだが、 その娘たち(幼児)が、「いつもピンク色のものばかりほしがる」と。そこでその友人は、「男と女 というのは、生まれながらにして違う部分もあるのではないか」と。
が、それはそれとして、「男らしく」「女らしく」という考え方はまちがっている。またそういう差別
をしてはならない。とくに子どもに対して、「男らしさ」「女らしさ」を強要してはいけない。しかしこ んなことはある。ごく最近、あった事件だ。
私はこの世界へ入ってから、一つだけかたく守っている大鉄則がある。それは男児はからか
っても、女児はからかわない。男児とはふざけて抱いたり、つかまえたりしても、女児には頭や 肩以外は触れないなど。(頭というのはほめるときに、頭をなでるこという。肩というのは、背中 のことだが、姿勢が悪いときなど、肩をぐいともちあげて姿勢をなおすことをいう。)
が、女児の中には、相手から私にスキンシップを求めてくるときがある。体を私にすりよせてく
るのだ。しかしそういうときでも、私はていねいにそれをつき放すようにしている。こういう行為 は誤解を生む。その女の子(小3)もそうだった。何かにつけて私にスキンシップを求めてき た。私がイスに座って休んでいると、平気でそのひざの中に入ってこようとした。しかし私はそ れをいつもかわした。
が、ところが、である。その女の子が学校で、彼女の友だちに、「あのはやしは、私にヘンなこ
とをする」と言いふらしているというのだ。私が彼女を相手にしないのを、どうも彼女は、ゆがん でとらえたようである。しかしこういう噂(うわさ)は決定的にまずい。親に言うべきかどうか、か なり迷った。で、女房に相談すると、「無視しなさい」と。
この問題も、アンドロゲンのなせるわざなのか? 男と女は平等とは言いながら、その間には
微妙なニュアンスの違いがある。それを越えてまで平等とは、私にも言いがたいが、しかしそ の微妙な違いを、決して「すべての違い」にしてはいけない。昔の日本人はそう考えたが、あく までもマイナーな違いでしかない。やがてこの日本でも、「男らしく」「女らしく」と言うだけで、差 別あるいは偏見ととらえるようになるだろう。そういう時代はすぐそこまできている。そういう前 提で、この問題は考えたらよい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(285)
●親子とは
東洋では、「縁」という言葉を使う。「親子の縁」というときの縁である。今でもこの日本では、
その縁という言葉を使って、子どもをしばることがある。
ある男性(45歳)は、母親(76歳)に貯金通帳を預けておいたのだが、その母親は勝手にそ
の通帳からお金を引き出し、全額、自分の借金の返済にあててしまった。その男性(45歳) が、たまたま半年あまり、アメリカへ行っている間のできごとだった。
帰国後それを知ったその男性は、母親に、「親子の縁を切る」と迫ったが、母親はこう言ったと
いう。「親が先祖を守るために、息子の金を使って何が悪い! 親子の縁など切れるものでは ない!」と。しかしその事件があって、その息子は親との縁を切った。10か月近くも苦しんだあ との結果だった。今年50歳になるその男性はこう言う。「母はその10か月の間、ほとぼりを冷 まそうとしたのですが、私のほうはその10か月で心の整理をしました」と。
その男性は、親子であるがゆえに悩んだ。苦しんだ。この事件だけで親子とは何かを定義づ
けることはできないが、しかしこれだけは言える。いろいろな家族がいる。そしてその中身も人 それぞれによって違う。しかし最後の最後に残るのは、純粋な人間関係のみである、と。
あなたが親なら、いつかあなたは自分の子どもを1人の人間としてみるときがくる。一方、あな
たの子どももあなたをいつか、1人の人間としてみるときがくる。そのとき互いにそういう「目」に 耐えられるなら、それでよし。そうでなければ、親子といえども、その関係はこわれる。決して永 遠のものでも、不滅のものでもない。またそういう幻想に甘えてはいけない。そういう意味で、 親が親であるのは、たいへんきびしいことでもある。
とくにこの日本では、親子の関係がどうしてもドロドロしがちである。「ドロドロ」というのは、互
いの「私」が、そのつど入り混じり、どこからどこまでが「私」で、どこからどこまでが「私でない」 のかわからないことをいう。
ここに例としてあげた母親のケースでも、いまだにその母親は息子のその男性に、お金を無心
にきたり、関係を修復しようと、あれこれ食べ物などを送ってくるという。その男性はこうつづけ る。「母は死ぬまで、とぼけるつもりでいるようです。母としてはその方法しかないのでしょうが、 私はもう母から解放されたいのです」と。
親子とは何か。親は子どもをもったときからこの問題を考え始め、そして自分が死ぬまでこ
の問題を考えつづける。たいていの人は、その結論が出る前に、この世を去る。そうそうあの 芥川龍之介は、こう書いている。
「人生の悲劇の第一幕は、親子となったときにはじまってゐる」(「侏儒の言葉」)と。ひとつの
参考にはなる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(286)
●ユニバーサルスタジオ
大阪にユニバーサルスタジオという、巨大な遊園地がある。映画ごとにパビリオンに分かれ
ていて、それぞれが趣向をこらして観客をひきつけている。「ジョーズ」あり、「E.T.」あり、「タ ーミネーター」あり。正直に告白するが、おもしろかった。が、心のどこかで何かしらの疑問を感 じなかったわけではない。
その1つ。私はたまたま愛知万博の名古屋市パビリオンの懇談会のメンバーをしている。パ
ビリオンの理念を話しあう会である。そういう立場上、何としても愛知万博を成功させたい…… という思いはもっている。
しかしあのユニバーサルスタジオを見たとき、その考えは吹っ飛んでしまった。つまり「いまど
き、万博なんて……?」という思いにかられてしまった。仮に成功させるとしたら、少なくともユ ニバーサルスタジオ級でないと、観客は満足しないだろう。となると、そのためにどういう方向 性を出したらいいのか。園内を回りながら、何度もそれを考えたが、回れば回るほど、絶望的 にならざるをえなかった。
つぎに、日本の大都市のど真ん中に、こうまでアメリカナイズされた娯楽施設があってよいも
のかという疑問。私は国粋主義者ではない。ないが、しかしここまで「外国」が堂々と日本の中 に入っているのを見ると、「これでいいのかなあ」と思ってしまう。
当然のことながら、ユニバーサルスタジオで見るかぎり、日本人は身も心も、そして魂までも
が、完全に抜かれてしまっている。アメリカ映画を見て、アメリカ風の食べ物を食べ、これまた アメリカ風のみやげを買う。けばけばしい色の看板、そしてビル。園内を流れる音楽も、これま たロックンロールであったり、ジャズであったりする。こういうのを見て、当のアメリカ人はどう感 ずるだろうか。いや、ほかの国のアジア人でもよい。見ると、韓国や中国、台湾からの観光客 が、何割かがそうであるというぐらい目についた。彼らは日本という国を訪れながら、その日本 でアメリカを見ているのだ!
……こういうとき、あの戦争の話をするのもヤボなことだが、こういう現状を目の当たりにする
と、「いったいあの戦争は何だったのか」と、そこまで考えてしまう。300万人の日本人がその ために死に、同じく300万人の外国人が死んでいる。「これらの人たちは、いったい何のため に死んだのか」と。
女房は「こういうところは楽しめばいいのよ」と言う。私もそう思う。しかし人生も50歳を過ぎる
と、そうは小回りがきかなくなる。脳みそをカラッポにして楽しむというわけにはいかない。とき どきため息をつきながら、私は夕方、ユニバーサルスタジオをあとにした。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(287)
●大声で笑わせる
「笑う」ことにより、心は解放される。しかも大声で笑えば笑うほどよい。「笑う」という行為に
は、不思議な力がある。言いかえると、大声で笑える子どもに心のゆがんだ子どもはまずいな い。
反対に、どこか心がつかめない子どもや、どこか心がゆがんだ子どものばあい、大声で笑わ
せることによって、それがなおることがある。そのため私は教室では、子どもを笑わせることだ けを考えて授業を進める。50分1単位の授業だが、50分間、笑わせつづけることも珍しくな い。もしそれがウソだと思うなら、一度、私の教室へ見学に来てみたらよい。(それにもしここに 書いていることがウソなら、今、私の教室にきている父母の信用を失うことになる。)
笑わせるには、もちろんコツがある。たとえばバカなフリをするときでも、決して演技っぽくして
はいけない。本気で演ずる。本気でドジをする。子どもはこのドジには敏感に反応する。たとえ ば粘土のボール4個と、4本のひごで4角形を作ってみせる。そのとき、空中でそれを作ってみ せると、そのたびに粘土のボールがポトリと下へ落ちてしまい、うまくできない。そこであれこれ 口をつかったりして、苦労してみせる。そのとき私は真剣に四角形を作ろうとするが、うまくでき ない。(できないことはわかっている。)子どもたちは私が失敗するために、腹をかかえてゲラゲ ラと笑う。
「笑われる」ということは、「バカにされた」ということではない。中に、教師というのは、子ども
の前では毅(き)然としていなければならないと説く人もいる。実は私の恩師のM先生(幼稚園 元園長)がそうだった。女性の先生だったが、いつも私にこう教えてくれた。
「子どもの前に立つときは、それなりの覚悟をして立ちなさい」と。そのためM先生のばあい
は、服装の乱れを絶対に許さなかった。先生が子どもたちの前で失敗するなどということも、M 先生についてはありえなかった。M先生は、教師の威厳を何よりも大切にした。
それから30年。私の教え方は、その恩師の教え方からすれば、まったく異端なものになって
しまった。が、それがよいとか悪いとかいう前に、私は今の私の教え方が自分には合ってい る。
実のところ、私自身はそのほうが楽しいのだ。つまり教えることで、私も楽しむ。言いかえると、
先生が楽しまないで、どうして子どもが楽しむことができるのか。それに私はもともとそれほど 威厳のある人間ではない。不完全でボロボロで、そのうえ情緒も不安定。そんな私が偉ぶって も、しかたない。
私は、子どもたちの笑顔と笑い声が、何よりも好きなのだ!
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(288)
●子どもへの禁止命令
「〜〜をしてはダメ」「〜〜はやめなさい」というのを、禁止命令という。この禁止命令が多け
れば多いほど、「育て方」がヘタということになる。イギリスの格言にも、「無能な教師ほど、規 則を好む」というのがある。家庭でいうなら、「無能な親ほど、命令が多い」(失礼!)ということ になる。
私も子どもたちを教えながら、この禁止命令は、できるだけ使わないようにしている。たとえ
ば「立っていてはダメ」というときは、「パンツにウンチがついているなら、立っていていい」。「騒 ぐな」というときは、「ママのオッパイを飲んでいるなら、しゃべっていい」と言うなど。また指しゃ ぶりをしている子どもには、「おいしそうだね。先生にも、その指をしゃぶらせてくれないか?」と 声をかける。禁止命令が多いと、どうしても会話がトゲトゲしくなる。そしてそのトゲトゲしくなっ た分だけ、子どもは心を閉ざす。
一方、ユーモアは、子どもの心を開く。「笑えば伸びる」というのが私の持論だが、それだけで
はない。心を開いた子どもは、前向きに伸びる。
イギリスにも、「楽しく学ぶ子どもは、もっとも学ぶ」(Happy Learners Learn Best)というのがあ
る。心が緊張すると、それだけ大脳の活動が制限されるということか。私は勝手にそう解釈し ているが、そういう意味でも、「緊張」は避けたほうがよい。禁止命令は、どうしてもその緊張感 を生み出す。
一方、これは予断だが、ユーモアの通ずる子どもは、概して伸びる。それだけ思考の融通性
があるということになる。俗にいう、「頭のやわらかい子ども」は、そのユーモアが通ずる。以 前、年長児のクラスで、こんなジョークを言ったことがある。
「アルゼンチンの(サッカーの)サポーターには、女の人はいないんだって」と私が言うと、子ど
もたちが「どうして?」と聞いた。そこで私は、「だってアル・ゼン・チン!、でしょう」と言ったのだ が、言ったあと、「このジュークはまだ無理だったかな」と思った。で、子どもたちを見ると、しか し1人だけ、ニヤニヤと笑っている子どもがいた。それからもう4年になるが、(というのも、この 話は前回のワールドカップのとき、日本対アルゼンチンの試合のときに考えたジョーク)、その 子どもは、今、飛び級で2年上の子どもと一緒に勉強している。反対に、頭のかたい子どもは、 どうしても伸び悩む。
もしあなたに禁止命令が多いなら、一度、あなたの会話術をみがいたほうがよい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(289)
●依存心と自立心
アメリカのテキサス州の田舎町で、迷子になったときのこと。アメリカ人の友人は車をあちこ
ち走らせながら、さかんに道路標識と地図を見比べていた。そういうとき日本人ならすぐ、通り の人に声をかけて、今いる場所を聞く。
そこで私が「どうして通りにいる人に道を聞かないか?」と声をかけたのだが、その友人はけげ
んそうな顔をするだけで、何も言わなかった。で、それが気になっていたので、別のある日、ア メリカの中南部に住む日系人の別の友人にそれを聞くと、こう教えてくれた。「アメリカ人は、人 に頭をさげない。通りを歩いている人に道を聞くのは、危険なことだし、相手もこわがるだろう」 と。つまり「そういう習慣はない」と。
よく英語の教科書に、英語で道を聞くというのがある。「駅へ行く道を教えてください」「駅へ
は、この道をまっすぐ行って、2本目の角を右へ回りなさい」とか。しかしこういう会話というの は、ごく親しい人との間の会話であって、ふつうでは考えられない。
それとも皆さんの中で、いまだかって、アメリカ人に(オーストラリア人でも、イギリス人でもよい
が)、道路で道を聞かれたことがあるだろうか。少なくともアメリカ人は、通りの見知らぬ人に道 など聞かない。彼らはまず地図を手に入れる。そしてその地図を頼りに自分の居場所を知る。 つまりそれだけ自立心が旺盛ということ。そして一方、こういう話を驚いて聞くという私は(日本 人なら皆、そうだが)、それだけ依存心が強いということ。
もっとも私はどちらがいいとか悪いとか言っているのではない。日本は日本だし、アメリカは
アメリカだ。しかし日本から一歩外へ出ると、日本の常識はもう通用しないということ。日本がこ のまま鎖国的に、今のままでよいと言うのならそれはそれで構わないが、そうであってはいけ ないというのなら、日本人も外国の常識に合わせるしかない。あるいは少なくとも、日本の常識 とは違うということを理解しなければならない。こんな話もある。
私の二男フロリダへドライブしたときのこと。きれいな砂浜があったので、つい油断して車を
その中へ入れてしまった。とたん、車は立ち往生。するとどこにいたのか、アメリカ人の学生た ちが数人寄ってきて、「車を出してほしかったら、20ドルよこせ」と。つまりそれが彼らのアルバ イトになっていた。二男は「同じ学生だから」ということで、10ドルにしてもらったというが、こうい うドライさというのは、日本人は理解できないものかもしれない。しかしそれが世界の常識でも ある。
日本人がもつ「依存心」を考えるヒントになればと思い、ここに二つのエピソードをあげた。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(290)
●あるがままを受け入れる
親子にかぎらず、人間関係というのは、相互的なもの。よく「子どもは、あるがままを受け入
れろ」という。それはそうだが、それは口で言うほど、簡単なことではない。簡単なことでないこ とは、親ならだれしも知っている。
で、こう考えたらどうだろうか。「あるがままを受け入れる」ということは、まず自分も、「あるが
ままをさらけ出す」ということ。子どもについていうなら、子どもにはまず、あるがままの自分をさ らけ出す。心を許すということは、そういうことをいう。しかしそうでない親もいる。
Tさん(55歳)は、息子(40歳)に、「子ども(Tさんの孫)の運動会を見にきてほしい」と頼まれ
たとき、「足が痛いから行けない」と言った。しかしそれはウソだった。Tさんは、何か別の理由 があったので、運動会へは行きたくなかった……らしい。それで「足が痛い」と。
この話の中で大切なポイントは、本当のこと(本音)を言えないTさんの心の状態にある。親で
ありながら、子どもに心を許していない。行きたくなかったら、「行きたくない」と言えばよい。し かしTさんは、自分という親をよく見せるために、ウソをついた。つまりその時点で、親子であり ながら心を開いていないことになる。
しかしこういう関係では、子どものほうも心を開くことができない。子どもの側からして、親のあ
るがままを受け入れることができなくなってしまう。そういう状態を一方でつくっておきながら、 「うちの子どもは心を開かない」はないし、そうなればなったで、今度は「どうしても子どものある がままを受け入れることができない」は、ない。
少しこみいった話になってしまったが、親子も、互いに自分をさらけだすことが、互いのきず
なを深めるコツということ。そのために親は親で、子どもは子どもで、自分をさらけだす。美しい ものも、きたないものも、みんな見せあう。また少なくとも、親子はそういう関係でなければなら ない。が、もしそれができないというのであれば、もうすでにその段階で、親子の断絶は始まっ ているということになる。
ただここで注意しなければならないのは、あなたが子どもに自分をさらけ出したからといっ
て、子どももそれに応ずるとはかぎらないということ。ばあいによっては、子どもはあなたに幻 滅し、さらには軽蔑するようになるかもしれない。
しかしそうなったとしても、それはしかたないこと。親子関係もつきつめれば、人間関係。つまり
さらに言いかえると、親になるということは、それだけきびしいことだということ。よく「育自」とい う言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」という人がいる。それはそうだが、しかしそれ をしなければ、結局は子どもにあきられる。よい親子関係をつくりたかったら、さらけ出しても恥 ずかしくないほどに、親自身も一方で自分をみがかねばならない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(291)
●依存性の二つの側面
依存性には、二つの側面がある。(1)相互依存性と、(2)依存性の伝播(連鎖)である。相互
依存性というのは、子どもに依存心をもたせることに無頓着な親というのは、自分自身もまた だれかに依存したいという、潜在的な願望をもっているということ。その潜在的な願望があるた めに、子どもが依存心をもつことにどうしても甘くなる。
つぎに依存性の伝播(連鎖)というのは、こうした依存性は、親から子どもへと伝播しやすいと
いうこと。たとえば親に服従的であった子どもは、自分が親になったとき、こんどはそのまた子 どもに服従を求めるようになりやすいということ。こうして依存性は、親から子へと代々と受け 継がれていく。これを依存性の伝播(連鎖)という。
何ともわかりにくい話になったので、わかりやすい例をあげて考えてみる。
たとえば依存心の強い子どもは、おなかがすいて何かを食べたいときでも、「○○を食べた
い」とは言わない。「おなかがすいたア〜(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。こ うした言い方というのは、子どもだけの問題ではない。その子どもの親自身も、同じような言い 方をする。ある女性(60歳)は、いつも自分の息子(35歳)にこう言っている。「私も歳をとった からねエ〜」と。つまり「歳をとったから、何とかせよ」と。
……こう書くと、「それは日本語の特徴だ」と説明する人もいる。日本人はそもそもはっきりと
言うのを避ける民族だと。しかしこのことを別の角度からみると、日本人には、それほどまでに 依存性が、骨のズイまでしみこんでいるということにもなる。つまり自分たちの依存性が、それ が依存性であることがわからないまで、なれてしまっている、と。
で、ここにも書いたように、こうした依存性は、代々と、親から子どもへと伝えられやすい。1
人の人が、親には服従しながら、自分の子どもには服従を求めていくという二面性は、日常生 活の中でもよく観察される。このタイプの親は、自分の価値観で子どもを判断するため、自分 に対して服従的な子どもを、「できのいい子」と判断する。たとえば親にベタベタと甘え、親の言 いなりになる子どもイコール、かわいい子イコール、「いい子」と、である。
こうして考えてみると、日本では親のことを「保護者」と呼ぶが、この保護者という言葉は、子
育てにおいてはあまりふさわしくない言葉ということにもなる。言うまでもなく、保護と依存はちょ うどペアの関係にある。親の保護意識が強ければ強いほど、それは同時に子どもに依存性に 無頓着になる。
要は子育ての目標をどこに置くかという問題に行き着くが、子どもの自立ということを目標に
するなら、依存心は、親にとっても、子どもにとっても好ましくないものであることは、言うまでも ない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(292)
●赤ちゃん言葉
日本語には幼稚語という言葉がある。たとえば「自動車」を「ブーブー」、「電車」を「ゴーゴー」
と言うなど。「食べ物」を「ウマウマ」、「歩く」を「アンヨ」というのもそれだ。英語にもあるが、その 数は日本語より、はるかに少ない。
こうした幼稚語は、子どもの言葉の発達を遅らせるだけではなく、そこにはもうひとつ深刻な
問題が隠されている。
先日、遊園地へ行ったら、60歳くらいの女性が孫(5歳くらい)をつれて、ロープウェイに乗り
込んできた。私と背中あわせに座ったのだが、その会話を耳にして私は驚いた。その女性の 話し方が、言葉のみならず、発音、言い方まで、幼児のそれだったのだ。「おばーチャンと、ホ レ、ワー、楽チィーネー」と。
この女性は孫を楽しませようとしていたのだろうが、一方で、孫を完全に、「子ども扱い」をし
ているのがわかった。一見ほほえましい光景に見えるかもしれないが、それは同時に、子ども の人格の否定そのものと言ってもよい。もっと言えば、その女性は孫を、不完全な人間と扱う ことによって、子どもに対するおとなの優位性を、徹底的に植えつけている!
それだけその女性の保護意識が強いということになるが、それは同時に、無意識のうちにも孫
に対して、依存心をもたせていることになる。ある女性(63歳)は、最近遊びにこなくなった孫 (小4男児)に対して、電話でこう言った。「おばあちゃんのところへ遊びにおいで。お小づかい をあげるよ。それにほしいものを買ってあげるからね」と。これもその一例ということになる。結 局はその子どもを、一人の人間として認めていない。
欧米では、とくにアングロサクソン系の家庭では、親は子どもが生まれたときから、子どもを
一人の人間として扱う。確かに幼稚語(たとえば「さようなら」を「ターター」と言うなど)はある が、きわめてかぎられた範囲の言葉でしかない。こうした姿勢は、子どもの発育にも大きな影 響を与える。たとえば同じ高校生をみたとき、イギリスの高校生と、日本の高校生は、これが 同じ高校生かと思うほど、人格の完成度が違う。
日本の高校生は、イギリスの高校生とくらべると、どこか幼い。幼稚っぽい。大学生にいたって
は、その差はもっと開く。これは民族性の違いというよりは、育て方の違いそのもの。カナダで 生まれ育った日系人の高校生にしても、日本の高校生より、はるかにおとなっぽい。こうした違 いは、少し外国に住んだ経験のある人なら、だれでも知っていること。その違いを生み出す背 景にあるのが、子どもを子どものときから、子ども扱いして育てる日本型の子育て法にあること は、言うまでもない。
何気なく使う幼稚語だが、その背後には、深刻な問題が隠されている。それがこの文をとお
して、わかってもらえれば幸いである。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(293)
●依存心と人格
依存心が強ければ強いほど、当然のことながら、子どもの自立は遅れる。そしてその分、人
格の「核」形成が遅れる。よく過保護児は子どもっぽいと言われるが、それはそういう理由によ る。
人格というのは、ガケっぷちに立たされるような緊張感があって、はじめて完成する。いわゆ
る温室のようなぬるま湯につかっていては、育たない。そういう意味では、依存心を助長するよ うな甘い環境は、人格形成の大敵と考えてよい。
で、その人格。わかりやすく言えば、「つかみどころ」をいう。「この子どもはこういう子どもだ」
という、「輪郭」と言ってもよい。よきにつけ、悪しきにつけ、人格の完成している子どもは、それ がはっきりしている。そうでない子どもは、どこかネチネチとし、つかみどころがない。「この子 どもは何を考えているのかわからない」といった感じの子どもになる。
そのため教える側からすると、一見おとなしく従順で教えやすくみえるが、実際には教えにく
い。たとえば学習用のプリントを渡したとする。そのとき輪郭のはっきりしている子どもは、「もう やりたくない。今日は疲れた」などと言う。そう言いながら、自分の意思を相手に明確に伝えよ うとする。しかし輪郭のはっきりしない子どもは、黙ってそれに従ったりする。従いながら、どこ かで心をゆがめる。それが教育をむずかしくする。
が、問題は、子どもというより、親にある。設計図の違いといえばそれまでだが、依存心が強
く、従順で服従的な子どもを「いい子」と考える親は多い。つい先日も、私の教室をのぞき、「こ んなヒドイ教室とは思いませんでした」と言った母親がいた。見るとその母親がつれてきた子ど も(小2男児)は、まるでハキがなく、見るからに精神そのものが萎縮しているといったふうだっ た。表情も乏しく、皆がどっと笑うようなときでも、笑うことすらできなかった。
そういう子どもがよい子と信じている母親からみると、ワーワーと自己主張し、言いたいことを
言っている子どもは、「ヒドイ」ということになる。私は思わず、「あなたの子育て観はまちがって いる」と言いかけたが、やめた。親は、結局は自分で失敗してみるまで、それを失敗とは気づ かない。それまでは私のような立場の人間がいくら指導しても、ムダ。しかも私の生徒ならまだ しも、見学に来ただけだ。私にはそれ以上の責任はない。
総じて言えば、日本人は自分の子どもに手をかけすぎ。そうした日本人独特の子育て法が、
日本人の国民性にまで影響を与えている。が、それだけではない。日本人の考え方そのもの にも影響を与えている。その一つが、日本人の「依存心」ということになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(294)
●心の風邪……いかにして「無」になるか
夢や期待がある間は、親も苦しむが、子どもも苦しむ。とくに子どもが「心の風邪」をひいたと
きはそうで、もしそういう状態になったら、親は自分の心を「カラ」にする。またその「カラ」になっ たときから、子どもは立ちなおり始める。親が「こんなはずはない」「まだ何とかなる」と思ってい る間は、子どもは心を開かない。開かない分だけ、立ちなおりが遅れる。
ある高校生(高2女子)はこう言った。「何がつらいかといって、親のつらそうな顔を見るくら
い、つらいものはない」と。彼女は摂食障害と対人恐怖症がこじれて、高校に入学したときか ら、高校には通っていなかった。
こういうケースでも大切なことは、子どもの側からみて、親の存在を感じさせないほどまで、親
が子どもの前で消えることである。「あなたはあなたの人生だから、勝手にしなさい。そのかわ り私は私の人生を勝手に生きるから、じゃましないでね」という親の姿勢が伝わったとき、子ど もの心はゆるむ。こうした心の風邪は、「以前のほうが症状が軽かった」という状態を繰りかえ しながら、症状は悪化する。そして一度こういう状態になると、あとは何をしても裏目、裏目に 出てくる。それを断ち切るためにも、親のほうが心を「カラ」にする。ポイントはいくつかある。
(1)子どもがあなたの前で、心と体を休めるか……今、あなたの子どもは学校から帰ってきた
ようなとき、あなたの目の前で、心と体を休めているだろうか。あるいは休めることができるだ ろうか。もしそうならそれでよし。しかしそうでないなら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよ い。子どもが心の風邪をひいたときもそうで、もしあなたの子どもがあなたの目の前で平気で、 心と体を休めることができるようなら、もうすでに回復期に入ったとみてよい。
(2)症状は一年単位でみる……心の風邪は外からみえないため、親はどうしても軽く考える傾
向がある。「わがまま」とか、「気のせい」とか考える人もいる。しかし症状は一年単位でみる。 月単位ではない。もちろん週単位でもない。親にしてみれば、一週間でも長く感ずるかもしれな いが、いつも「去年とくらべてどうだ」というような見方をする。月単位で改善するなどということ は、ありえない。いわんや週単位で改善するなどということは、絶対にありえない。つまり月単 位で症状が改善しても、また悪化しても、そんなことで一喜一憂しないこと
(3)必ずトンネルから出る……子ども自身の回復力を信じること。心の風邪は、脳の機能の問
題だから、時間をかければ必ずなおる。そしてここが重要だが、必ずいつか、「笑い話」にな る。要はその途中でこじらせないこと。軽い風邪でもこじらせれば、肺炎になる。そんなわけ で、「なおそう」と思うのではなく、「こじらせない」ことこそが、心の風邪に対するもっとも効果的 な対処法ということになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(295)
●自分を知る
教育のすばらしい点は、教育をしながら、つまり子どもを通して、自分を知るところにある。た
とえば私はときどき、自分の幼児期をそのまま思い出させるような子どもに出会うときがある。 「ああ、私が子どものころは、ああだったのだろうな」と。そういう子どもを手がかりに、自分の 過去を知ることがある。
私は子どものころ、毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた(=帰宅拒否?)。
私はよく大泣きして、そのあとよくしゃっくりをしていた(=かんしゃく発作?)。私は今でも靴が 汚れていたりすると、ふと女房に命令して、それを拭かせようとする(=過保護?)。ひとりで山 荘に泊まったりすると、ときどきこわくて眠れないときがある(=分離不安?)、と。
私のいやな面としては、だれかに裏切られそうになると、先にこちらからその人から遠ざけてし
まうことがある。小学五年生のときだが、自分の好意の寄せていた女の子のノートに落書きを して、その女の子を泣かせてしまったことがある。その女の子にフラれる前に、私のほうが先 手を打ったことになる。あるいは学生時代、旅行というと、家から離れて、とにかく遠くへ行きた かったのを覚えている。……などなど。理由はともかくも、私は結構心のゆがんだ子どもだった ようだ。そんなことが子どもを教えながらわかる。
が、ここで話したいことは、このことではない。自分であって自分である部分はともかくも、問題
は自分であって自分でない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気 がつくことがないまま、それに振り回される。よい例が育児放棄であり、虐待だ。このタイプの 親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に 操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかける ことができない。
「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてし
まう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるな ど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。そ れに気づくことが、自分を知る第一歩である。
まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることであ
る。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。そのためにも、一度、自分の中を、冷静に旅 してみるとよい。あなたも本当の「自分自身」に出会うことができるかもしれない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(296)
●親は子で目立つ
よきにつけ、悪しきにつけ、親は子で目立つ。つまり目立つ子どもの親は、目立つ。たとえば
園や学校で、よい意味で目立つ子どもの親は、あれこれ世話役や委員の仕事を任せられる。 そんなわけでもしあなたが、よく何かの世話役や委員の仕事を園や学校から頼まれるとした ら、それはあなたの子どもがよい意味で目立つからと考えてよい。
子どもというのは、家へ帰ってから、園や学校での友だちの話をする。ほかの親たちはそうい
う話をもとにして、あなたのことを知る。もちろん悪い意味で目立つ子どももいる。しかしそうい うばあいは、世話役や委員などの仕事は回ってこない。
一つの基準として、あなたの子どもが、友だち(とくに異性)の誕生会などのパーティによく招か
れるようであれば、あなたの子どもは園や学校で人気者と考えてよい。実際に子どもを招くの は親。その親は日ごろの評判をもとにして、どの子どもを招待するかを決める。同性のとき は、ギリやつきあいで呼ぶことも多いが、異性となると、かなり人気者でないと呼ばない。
一方、嫌われる子どもというのはいる。もう一五年ほど前(一九八五年ころ)の古い調査で恐縮
だが、私が調べたところ、嫌われる子どもというのは、つぎのようなタイプの子どもということが わかった(小学生三〜五年生、二〇人に聞き取り調査)。
(1)いじめっ子、(2)乱暴な子、(3)不潔な子、(4)無口な子。私が「静かな子(無口な子)は、
だれにも迷惑をかけるわけでないから、いいではないのか?」と聞くと、「不気味だからいやだ」 という答がはねかえってきた。親たちの間で嫌われる子どもは、何か問題のある子どもという ことになる。また人気のある子どもは、明るく活発で、運動や学習面で目立つ子どもをいう。や さしい子どもや、おもしろい子どもも、それに含まれる。
先日もある母親がこう相談してきた。「いつも世話役を命じられて困っています」と。で、私は
こう言った。「それはあなたの子どもがいい子だからですよ」と。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(297)
●臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
「臥薪嘗胆」というよく知られた言葉がある。この言葉は「父のカタキを忘れないために、呉王
の子の夫差(ふさ)が薪(まき)の上に寝、一方、それで敗れた越王の勾践(こうせん)が、やは りその悔しさを忘れないために熊のキモをなめた」という故事から生まれた。「目的を遂げるた めに長期にわたって苦労を重ねること」という意味に、広く使われている。しかし私はこの言葉 を別の意味に使っている。
私は若いころからずっと、下積みの生活をしてきた。自分では下積みとは思っていなくても、
世間は私をそういう目で見ていた。私の教育論は、そういう下積みの中から生まれた。言い換 えると、そのときの生活を忘れて、私の教育論はありえない。で、いつも私はそのころの自分を 基準にして、自分の教育論を組み立てている。つまりいつもそのころを思い出しながら、自分 の教育論を書くようにしている。それを思いださせてくれるのが、自転車通勤。
この自転車という乗り物は、道路では、最下層の乗り物である。たとえ私はそう思っていなく
ても、自動車に乗っている人から見ればジャマモノであり、一方、車と接触すれば、それで万事 休す。「命がけ」というのは大げさだが、しかしそれだけに道路では小さくなっていなければなら ない。その上、私が通勤しているY街道は、歩道と言っても、道路のスミにかかれた白線の外 側。側溝のフタの上。電柱や標識と民家の塀の間を、スルリスルリと抜けながら走らなければ ならない。
しかしこれが私の原点である。たとえばどこか大きな会場で講演に行ったりすると、たいてい
はグリーン車を用意してくれ、駅には車が待っていてくれたりする。VIPに扱ってもらうのは、そ れなりに楽しいものだが、しかしそんな生活をときどきでもしていると、いつか自分が自分でなく なってしまう。が、モノを書く人間にとっては、これほど恐ろしいものはない。
私が知っている人の中でも、有名になり、金持ちになり、それに合わせて傲慢になり、自分を
見失ってしまった人はいくらでもいる。そういう人たちの見苦しさを私は知っているから、そうい う人間だけにはなりたくないといつも思っている。仮に私がそういう人間になれば、それは私の 否定ということになる。
もっと言えば、人生の敗北を認めるようなもの。だからそれだけは何としても避けなければなら
ない。そういう自分に戻してくれるのが、自転車通勤ということになる。私は道路のスミを小さく なりながら走ることで、あの下積みの時代の自分を思い出すことができる。つまりそれが私に とっての、「臥薪嘗胆」ということになる。私はときどきタクシーの運転手たちに、「バカヤロー」と 怒鳴られることがある。しかしそのたびに、「ああ、これが私の原点だ」と思いなおすようにして いる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(298)
●親は外に大きく
生きザマにも2種類ある。プラス思考とマイナス思考である。「思考」を「志向」という漢字に変
えてもよい。前向きに生きていくのが、プラス思考。内向きに生きていくのが、マイナス思考とい うことになる。
たとえば人は、一度マイナス思考になると、ものの考え方が保守的になり、過去の栄光にしが
みつくようになる。たとえば退職した人が、現役時代の役職や肩書きにこだわるのがそれ。退 職してからも、「自分は偉かったのだ」という亡霊をひきずって歩く。だれもそんなことを気にし ていないのだが、本人は注目されていると思いこんでいる。思いこみながら、「自分は大切にさ れるべきだ」「自分は皆に尊敬されているのだ」という意識をもつ。学歴や自分の家柄にこだわ る人も同じように考えてよい。
実のところ、子育ても同じように考えてよい。その時点でいつも前向きに子育てをしている人
もいれば、そうでない人もいる。前向きに子育てするのは問題ではないが、問題は内向きにな ったときだ。子どもの成績が気になる。態度も気になる。親どうしのトラブルも絶えない、など。 一度こういう状態に入ると、かなりタフな親でもかなり神経をすり減らす。そしてそれが長く続く と、子育てそのものが袋小路に入ってしまう。そこから抜け出ようともがけばもがくほど、ますま すにっちもさっちもいかなくなってしまう。
こういうときの解決法が、これ。『親は外に大きく』である。子育てを忘れて、外に向かって大
きく羽ばたく。そしてその結果として、子育てから遠ざかる。大きくなる方法はいくらでもある。仕 事でもボランティア活動でも、好きなことをすればよい。要するに身の回りに大きな敵をつくっ て、身近なささいな敵は相手にしないようにする。
私も過去、たとえばあるカルト教団を相手に本を何冊か書いて戦ったことがある。最初はこわ
かったが、しかしそれも終わってみると、いつの間にか、私はこわいもの知らずなっていた。あ るいは私は30歳くらいのときから、あちこちで講演活動をしている。最初のころは、より大きな 講演会場になればなるほど、神経をすり減らしたものだ。数日前から不眠症になってしまった こともある。しかしそれを繰り返すうちに、やはりこわいものがなくなってしまった。人は自らを、 そういう方法で大きくすることができる。
自分がマイナス思考になるのを感じたら、外に向かって大きく羽ばたくとき。それは子どもの
ためでもあるが、結局は自分のためでもある。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(299)
●互いに別世界
世間体や見栄、体裁がいかにくだらないものかは、その世界から離れてみるとよくわかる。し
かしその世界の中にいる人には、それがわからない。それはいわば信仰の世界のようなも の。
その信仰の世界にいる人には、その信仰の世界がすべて。その信仰の世界の外の世界その
ものが信じられない。あるいはその信仰の外の世界が、まったく無意味に見える。が、その信 仰も一度離れてみると、「どうしてあんなものを信じていたのだろう」と思うもの。どんな信仰に も、そういう面がある。「私の信じている信仰だけは違う」と思いたい気持ちはわかるが、現に 今、この日本だけでも約20万団体もの宗教団体があり、それぞれが、「自分たちのこそが絶 対正しい」と言って、しのぎを削っている。20万という数は全国の美容院の数とほぼ同じ。
子育ての世界でも、同じような現象を見ることができる。たとえば自分の子どもが不登校を起
こしたりすると、たいていの親はその世間体の悪さ(何も悪くはないのだが……)、その事実を 必死になって隠そうとする。自分の子育てそのものを否定されたかのように感ずる親も多い。
しかしそういう世界から抜け出て、いつか不登校の子どもと一緒に街の中を歩くことができるよ
うになると、それまでの自分が、限りなく小さく見えてくる。「どうしてあんなことを気にしていたの だろう」と。つまりまったく別の世界に入るわけだが、それがここでいうひとつの信仰から、その 外の世界に出た人の心境に似ている。離れてみると、何でもなかったことに気づく。
ここで大切なことは、二つある。一つは、自分の中の信仰に気づくこと。つぎに大切なことは、
勇気を出してその信仰の世界から遠ざかること。「勇気を出して」というのは、実際、一つの信 仰から離れるということは、勇気がいる。まず心に大きな穴があく。この穴がこわい。それはも のすごい空虚感といってもよい。人によっては、混乱を通り越して、狂乱状態になる。たとえば たいていの宗教では、とくにカルトと呼ばれている宗教ほどそうだが、バチ論をその背後で展 開している。「この信仰をやめたらバチがあたる」と教えている宗教団体は少なくない。だから よけいに、勇気がいる。
同じように、世間体や見栄、体裁の中で生きてきた人も、それらから決別するとき、大きく混
乱する。そういうもので、自分の価値観をつくりあげているからだ。人生の柱にしている人も少 なくない。だから勇気がいる。しかし……。
仮に信仰するとしても、自分の理性まで眠らせてしまってはいけない。何が正しくて、何が正
しくないかを、いつも冷静に判断しなければならない。おかしいものはおかしいと思う、理性まで 眠らせてはいけない。子育てもまさにそうで、私たちは親として子どもを育てるが、そういう冷静 な目は、いつももっていなければならない。でないと、よく信仰者が自分を見失うように、親も子 どもを見失うことになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(300)
●バカなフリをして、子どもを自立させる
私はときどき生徒の前で、バカな教師のフリをして、子どもに自信をもたせ、バカな教師のフ
リをして、子どもの自立をうながすことがある。「こんな先生に習うくらいなら、自分で勉強した ほうがマシ」と子どもが思うようになれば、しめたもの。親もある時期がきたら、そのバカな親に なればよい。
バカなフリをしたからといって、バカにされたということにはならない。日本ではバカの意味
が、どうもまちがって使われている。もっともそれを論じたら、つまり「バカ論」だけで、それこそ 一冊の本になってしまうが、少なくとも、バカというのは、頭ではない。映画『フォレストガンプ』 の中でも、フォレストの母親はこう言っている。「バカなことをする人をバカというのよ。(頭じゃ ないのよ)」と。いわんやフリをするというのは、あくまでもフリであって、そのバカなことをしたこ とにはならない。
子どもというのは、本気で相手にしなければならないときと、本気で相手にしてはいけないと
きがある。本気で相手にしなければならないときは、こちら(親)が、子どもの人格の「核」にふ れるようなときだ。しかし子どもがこちら(親)の人格の「核」にふれるようなときは、本気に相手 にしてはいけない。そういう意味では、親子は対等ではない。
が、バカな親というのは、それがちょうど反対になる。「あなたはダメな子ね」式に、子どもの人
格を平気でキズつけながら(つまり「核」をキズつけながら)、それを茶化してしまう。そして子ど もに「バカ!」と言われたりすると、「親に向かって何よ!」と本気で相手にしてしまう。
言いかえると、賢い親(教師もそうだが)は、子どもの人格にはキズをつけない。そして子ども
が言ったり、したりすることぐらいではキズつかない。「バカ」という言葉を考えるときは、そうい うこともふまえた上で考える。
私もよく生徒たちに、「クソジジイ」とか、「バカ」とか呼ばれる。しかしそういうときは、こう言って
反論する。「私はクソジジイでもバカでもない。私は大クソジジイだ。私は大バカだ。まちがえる な!」と。子どもと接するときは、そういうおおらかさがいつも大切である。
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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(301)
●会話でわかるママ診断
(過干渉ママの会話)私、子ども(年中児)に向かって、「きのうは、どこへ行ったの?」、母、会
話をさえぎりながら、「きのうは、おじいちゃんの家に行ったわよね。そうでしょ」、再び私、子ど もに向かって、「そう、楽しかった?」、母、再び会話をさえぎりながら、「楽しかったわね。そうで しょ。だったら、そう言いなさい」と。
(親意識過剰ママの会話)母、子ども(四歳)に向かって、「楽チィワネエ〜、ママとイッチョで、
楽チィワネエ〜」「おいチィー、おいチィー、このアイチュ、おいチィーネー」と。
(溺愛ママの会話)私、子ども(年長男児)に向かって、「あなたは大きくなったら、何になりたい
のかな?」、母、子どもに向かって、「○○は、おとなになっても、ズ〜と、ママのそばにいるわ よねエ。どこへも行かないわよねエ〜」と。
(過関心ママの会話)母、近所の女性に、「今度英会話教室の先生が、今まではイギリス人だ
ったのですが、アイルランド人に変わったというではありませんか。ヘンなアクセントが身につく のではと、心配です」と。
(権威主義ママの会話)母、子どもに向かって、「親に向かって、何てこと、言うの! 私はあな
たの親よ!」と。
(子ども不信ママの会話)子どもの話になると顔を曇らせて、「もう五歳になるのですがねエ〜。
こんなことでだいじょうぶですかネ〜?」と。……などなど。
会話を聞いていると、その親の子育て観が何となくわかるときがある。もっともここに書いた
ような会話をしたからといって、問題があるというわけではない。人はそれぞれだし、私はもとも とこういうスパイ的な行為は好きではない。ただ職業柄、気になることはたしかだ。(だから電 車などに乗っても、前に親子連れが座ったりすると、席をかわるようにしている。ホント!)
英語国では、親はいつも「あなたは私に何をしてほしいの?」とか、「あなたは何をしたい
の?」とか、子どもに聞いている。こうした会話の違いは、日本を出てみるとよくわかる。どちら がどうということはないが、率直に言えば、日本人の子育て観は、きわめて発展途上国的であ る。教育はともかくも、こと子育てについては、原始的なままと言ってもよい。家庭教育の充実 が叫ばれているが、そもそも家庭教育が何であるか、それすらよくわかっていないのでは… …? 旧態依然の親子観が崩壊し、今、日本は、新しい家庭教育を求めて模索し始めている 段階と言ってもよい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(302)
●家庭教育の過渡期
家庭における教育力が低下したとは、よく言われる。しかし実際には低下などしていない。3
0年前とくらべても、親子のふれあいの密度は、むしろ濃くなっている。教育力が低下したの は、教育力そのものが低下したと考えるのではなく、価値観の変動により、家庭教育そのもの が混乱しているためと考えるほうが正しい。
昔は、親の権力は絶対で、子どもは問答無用式にそれに従った。つまり昔は、そういうのを
「教育力」(?)と言った。しかし権威の崩壊とともに、親の権力も失墜した。と、同時に、家庭の 中の教育力は低下し、その分、混乱した。しかし混乱した本当の原因は、実のところ親の権威 の失墜でもない。混乱した本当の原因は、それにかわる新しい家庭教育観を組み立てられな かった日本人自身にある。家庭における教育力の低下は、あくまでもその症状のひとつにすぎ ない。
そこで教育力そのものの低下にどう対処するかだが、それには二つの考え方がある。ひとつ
は、だからこそ、旧来の家庭観を取り戻そうという考え方。「親の威厳は必要だ」「父親は権威 だ」「父親にとって大切なのは、家庭における存在感だ」と説くのが、それ。もうひとつは、「新し い家庭観、新しい教育観をつくろう」という考え方。どちらが正しいとか正しくないとかいう前に、 こうした混乱は、価値観の転換期によく見られる現象である。たとえば一九七〇年前後のアメ リカ。
戦後、アメリカは、戦勝国という立場で未曾有の経済発展を遂げた。まさにアメリカンドリーム
の時代だった。が、そのアメリカは、あのベトナム戦争で、手痛いつまずきを経験する。そのこ ろアメリカにはヒッピーを中心とする、反戦運動が台頭し、これがアメリカ社会を混乱させた。 旧世代と新世代の対立もそこから生まれた。その状態は、今の日本にたいへんよく似ている。
たとえば私たちが学生時代のころは、安保闘争に代表されるような「反権力」が、いつも大きな
テーマであった。それが、尾崎豊や長渕剛らの時代になると、いつしか若者たちのエネルギー は、「反世代」へとすりかえられていった。この日本でも世代間の闘争がはげしくなった。わかり やすく言えば、若者たちは古い世代の価値観を一方的に否定したものの、新しい価値観をつく りだすことができなかった。まただれもそれを提示することができなかった。ここに「混乱」の最 大の原因がある。
今は、たしかに混乱しているが、新しい家庭教育を確立する前の、その過渡期にあるとみて
よい。あのアメリカでは、こうした混乱は一巡し、いろいろな統計をみても、アメリカの親子は、 日本よりはるかによい関係を築いている。ただひとつ注意したい点は、さきにも書いたように、 こうした混乱を利用して、復古主義的な家庭教育観も一方で力をもち始めているということ。
中には封建時代の武士道や、さらには戦前の教育勅語までもちだす人がいる。しかし私たち
がめざすべきは、混乱の先にある、新しい価値観の創設であって、決して復古主義的な価値 観ではない。前に進んでこそ、道は開ける。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(303)
●数は生活力
計算力は訓練で伸びる。訓練すればするほど、速くなる。同じように、「教科書的な算数」は、
学習によってできるようになる。しかしこれらが本当に「力」なのかということになると、疑わし い。疑わしいことは、きわめてすぐれた子どもに出会うと、わかる。
O君(小3)という子どもがいた。もちろん彼は方程式などというものは知らない。知らないが、
中学で学ぶ一次方程式や連立方程式を使って解くような問題を、自分流のやり方で解いてし まった。たとえば「仕入れ値の30%ましの定価をつけたが、売れなかったので、定価の2割引 で売った。が、それでも80円の利益があった。仕入れ値はいくらか」という問題など。それこそ あっという間に解いてしまった。こういう子どもを「力」のある子どもという。
が、一方、そうでない子どもも多い。同じ小学三年生についていうなら、「10個ずつミカンの
入った箱が、3箱ある。これらのミカンを、6人で分けると、1人分は何個ですか」という問題で も、解けない子どもは、解けない。かなり説明すれば解けるようにはなるが、少し内容を変える と、もう解けなくなってしまう。
「力」がないというよりは、問題を切り刻んでいく思考力そのものが弱い。「そんな問題、どうでも
いい」というような様子を見せて、考えることそのものから逃げてしまう。そんなわけで私は、い つしか、「数は生活力」と思うようになった。「減った、ふえた」「取った、取られた」「得をした、損 をした」という、ごく日常的な体験があって、子どもははじめて「数の力」を伸ばすことができる、 と。こうした体験がないまま、別のところでいくら計算力をみがいても、また教科書を学んでも、 ムダとは言わないが、子どもの「力」にはほとんどならない。
……と書いたが、こんなことはいわば常識だが、こうした常識をねじ曲げた上で、現在の教
育が成り立っているところに、日本の悲劇がある。教育が教育だけでひとり歩きしすぎている。 子どもたちが望みもしないうちから、「ほら、1次方程式だ、2次法手式だ」とやりだすから、話 がおかしくなる。もっといえば、基本的な生活力そのものがないまま、子どもに勉強を押しつけ る……。
ちなみに東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、こんな興味ある調査結果を公表している。
小学6年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、2000年度に30%を超えた(1 977年は13%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低下し、2000年度には 35%弱しかいないそうだ。原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」と は、だれも考えていない。
むずかしい話はさておき、子どもの「算数の力」を考えたら、どこかで子どもの生活力を考えた
らよい。それがやがて子どもを伸ばす、原動力になる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(304)
●風邪薬は予防薬にはならない
風邪薬をいくらのんでも風邪の予防にはならない。同じように、テストをいくらしても、頭がよく
なるということはない。(テストを受ける要領がうまくなり、見かけの点数があがることはある。) 子どもの「力」は、生活の場で、実体験をともなってはじめて、伸びる。言いかえると、生活の場 で、実体験のともなわない知識教育は、ほとんど意味がない。まったくないとは言わないが、し かし苦労の割には身につかない。あまりよいたとえではないかもしれないが、たとえば英語教 育がある。
私は高校生のとき、英語の教師から、「pass(過ぎる)とpurse(サイフ)は発音が違う。よく覚
えておけ」と、教えられたことがある。教師の発音では、どこがどう違うかわからなかった。だか らテスト勉強では、「passは、パース、purseもパース、発音が違う」などと覚えた。今から思う と、何ともイイカゲンな勉強法だが、当時はそれが当たり前だった。で、英語のテストの点はよ かったが、私の話す英語など、まったく役にたたなかった。
こうした「イイカゲン性」は、ほとんどあらゆる勉強に見られる。そのサエたるものが、受験勉
強。先日も中学生(中3男子)が、「長野の高原野菜、浜名湖のウナギ、富山のチューリップ… …」と声を出して覚えていた。そこで私が「高原野菜って、何?」と聞くと、「知らない」と。ついで に私が、「今では浜名湖のウナギはいないぞ。ぜんぶ養殖だし、それにほとんどが中国から輸 入されている」「富山のチューリップより、袋井市にある『ユリの園』のユリのほうが、よっぽどき れいだ」と言うと、その中学生は吐き捨てるようにこう言った。「いちいちうるさいナ〜。いいの、 これで!」と。
ともすれば私たちは子どもに勉強を教えながら、その風邪薬のようなことをしてしまう。またそ
れをもって教育と思いこんでしまう。しかししょせん、風邪薬は風邪薬。たくさんのんだからとい って、風邪の予防にはならない。もちろん健康にもならない。あなたの子どもの勉強も、一度同 じような視点から見つめなおしてみてほしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(305)
●受験の神様?
日本のどこかに「受験の神様」というのが祭ってあるという。その季節になると、多くの親や受
験生が、その神社を訪れるらしい。しかし……。
だいたいにおいて、信者に個人的な利益をもたらす神や仏がいるとしたら、インチキと考えて
よい。いわんやそれで信者を金持ちにしたり、受験に合格させたりしたら、ますますインチキと 考えてよい。
実のところ私も若いころは結構、信仰深い(?)ところがあった。しかしあるとき、『原爆の少
女・サダコ』を読んだときから、自分のために祈ることをやめた。「私より何千倍も真剣に祈っ た人がいる。私より何千倍も神や仏の力を必要とした人がいる」と、そんなふうに考えたら、も う祈れなくなってしまった。「私の願いをかなえてくれるくらいなら、私はいいから、サダコのよう な女性の願いをかなえてやってほしい」とも。
私は「信仰」を否定するものではない。ないが、信仰するとしたら、それは他人のためにする
ものだと思っている。自分のためではない。あくまでも他人のためだ。言いかえると、自分のた めに信仰している間は、それは本当の信仰ではない。それがわからなければ、神や仏の立場 になってみればよい。
……いや、実のところ、教育というのは、宗教と紙一重のところがある。私は神や仏は、もとも
とは教師ではなかったかと思うときがよくあるが、たとえばあなたのところへ一人の受験生がや ってきて、「先生、どうか○○大学に合格させてください」と言ったとしたら、あなたは何と答える だろうか。あるいは「先生、毎晩、あなたの家に向かって、真剣に祈っていますから、どうか願 いをかなえてください」と言ったとしたら、あなたは何と答えるだろうか。きっとあなたはこう言う にちがいない。「バカなことはやめなさい。自分のことは自分でしなさい」と。
もしあなたがその神や仏で、そんなことで受験生の願いをかなえてやったとしたら、その受験
生は、かえってダメになってしまうかもしれない。人間的に堕落してしまうかもしれない。しかし もしあなたのところへ一人の受験生がやってきて、「ぼくはいいから、不幸な○○さんをどうか 合格させてやってください」と祈ったとしたら、あなたは少しは心を動かされるかもしれない。
そこで「他人のために祈る」ということになる。が、結局のところ、だれのために祈ったらよい
のか、私にはわからない。わからないから、祈りようがない。つまり私は祈らない。たとえ私に 生死をさまような大病がふりかかったとしても、私は祈らない。もしそれで私の病気を神や仏が なおしてくれたとしたら、私は反対にその神や仏をうらむ。「そんな力があるなら、どうしてサダ コを救ってやらなかったのだ!」と。
要するに「受験の神様」など、インチキだということ。あんなのに祈っても、気休めにもならな
い。「信仰」という名前すら、泣く。こうしてエッセイにするのもバカらしいが、一度は書いておか ねばならない問題なので、こうして書くことにした。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(306)
●善人と悪人
人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。そういう意味で
善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。私のばあいも、幼稚園で講師にな ったとき、すべてをなくした。母にさえ、「あんたは道を誤ったア〜」と泣きつかれるしまつ。
私は毎晩、自分のアパートへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせねばな
らなかった。ただ私のばあいは、そのときから、自分でもおかしいと思うほど、クソまじめな生き 方をするようになった。酒もタバコもやめた。女遊びもやめた。
もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正直に立
ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命ではない。自分 自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。だから今、そういった自分を振り返ってみると、自 分にはたしかに運命はあった。しかしその運命というのは、あらかじめ決められたものではな く、そのつど運命は、私自身で決めてきた。自分で決めながら、自分の運命をつくってきた。 が、しかし本当にそう言いきってよいものか。
もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今もその運
命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていたことだろう。 自分ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事に悪事を重ねてい るに違いない。が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれない。「そのつど私は私 の運命を、自分で決めてきた」と。……となると、またわからなくなる。果たして今の私は、本当 に私なのか、と。
今も、世間をにぎわすような偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分で偉人に
なったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かされるまま、偉人は 偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。
たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。しかしそれとて考えてみれ
ば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。ふと油断すれば、その ままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。つまりそういう運命に 吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きながら、自分と戦う。……戦ってい る。
私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。みな、ち
ょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。今、善人ぶっているあな ただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなたもその悪人になっている かもしれない。そういうのを運命というのなら、たしかに運命というのはある。何ともわかりにく い話をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無視してほしい。このつづきは、別のとこ ろで考えてみることにする。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(307)
●教育と医学
たとえば一人の子どもがいる。彼は「○○症」と言われる子どもである。そういうとき、つまり
その子どもを見る目は、教育と医学ではまったく違う。まず第一に、教育では子どもを診断し、 ついで診断名をくだすことはしない。またしてはならない。だから「そうではないか?」と思いつ つも、あるいは知っていても知らぬフリをして教育を進める。一方、医学では、まず診断名を確 立し、その上で、「治療」を開始する。
また指導という段階でも、教育と医学とではまったく違うとらえ方をする。たとえばその子ども
が何かと問題を起こして、クラスを混乱させたとしても、教育ではいつも「全体の問題」として、 それを考える。クラスが混乱したら、「混乱したクラス」を問題にする。が、医学では当然のこと ながら、個人を対象に治療をすすめる。
さらに教育では、いつも親や子どもに希望を与えることを大切にする。仮に「たいへんなおり
にくい問題」とわかっていても、「何とかしましょう」と言って、指導を開始する。医学では「治す」 ことを考えるが、教育では、「よりよくする」ことだけを考える。またそれでよしとする。
こうした教育と医学の違いは、そのつど教師ならだれでも経験することである。が、それが原
因で、教師自身が大きなジレンマに陥ることがある。たとえば「先天的な問題」をもった子ども がいる。しかしいくらそうでも、教師は、「先天的」という言葉を使わない。「先天的」という言葉を 使うこと自体、教育の放棄、つまり敗北と考える。が、それを親のほうから指摘してくることがあ る。
「うちの子の問題は、先天的なもので、私の育て方の問題ではありません」と。親としては、精
一杯、自分の育て方についての責任を回避する意味でそう言うのだろうが、しかしそう言われ てしまうと、教師としてはつぎに打つ手がなくなってしまう
さらに知識だけはやたらと豊富で、「遺伝子レベルで、この問題は解明されつつあります」とあ
れこれ説明してくれるが、それで終わらない。つづけてこう言う。「親に責任があるという世間に 偏見の中で苦しんでいる親も多いはず」と。だれも親の責任など追及していないのだが、そう 言う。
教育と医学は、基本的な部分で違う。しかしそれを混同すると、教育そのものが成り立たなく
なる。教育と医学は、いつも分けて考えなければならない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(308)
●意識の違い
意識は脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、仮に自分の意識がズレていても、それに
気づくことは、まずない。とくに教育の世界では、そうだ。
今から30年前、私はオーストラリアの大学で学んでいたときのことだが、向こうの教授たち
は平気で机の上に座っていた。机に足をかけて座っている教授すらいた。今でこそ笑い話だ が、こうした光景は当時の日本の常識では考えられないことだった。
さらにその少し前、東京オリンピックがあった(1964年)。その入場式のときのこと。日本の選
手団は一糸乱れぬ入場行進をして、高い評価(?)を受けた。当時ですら、アメリカの選手団 はバラバラだった。私はそのとき高校生だったが、「アメリカの選手たちはだらしない」と思っ た。しかし……。
一方、10年ほど前だが、こんなこともあった。アメリカ人の女性が私に、「ヒロシ、不気味だっ
た」と言って、こんな話をしてくれた。何でもその女性が海で泳いでいたときのこと。どこかの女 子高校生の一団が、海水浴にきたというのだ。「どうして?」と聞くと、その女性は、「みんな、ブ ルーの水着を着ていた!」と。
つまりその女性は、日本の高校生たちがみな、おそろいのブルーの水着を着ていたことが、不
気味だったというのだ。が、私には、その女性の意識が理解できなかった。「日本ではあたりま えのことだ」とさえ思った。思って、「では、アメリカではどうなのか」と聞くと、こう言った。「アメリ カでは、みんなバラバラの水着を着ている」と。
このアメリカ人の女性の意識については、それからしばらくしてから、理解できるようになっ
た。ある日のこと、当時のマスコミをにぎわしていたO教団という宗教団体があった。その教団 の信者たちが、どこかふつうでない白い衣装を身にまとい、頭にこれまたふつうでない装置 (?)をつけて、道を歩いていた。その様子がテレビで報道されたときのこと。私にはそれがぞ っとするほど不気味に見えた。と、同時に、「ああ、あのときあのアメリカ人の女性が感じた不 気味さというのは、これだったのだ」と思った。
意識というのは、そういうものだ。人にはそれぞれに意識があり、その意識を基準にしてもの
を考える。しかしその意識というのは、決して絶対的なものではない。その人の意識というの は、常に変わるものであり、またそういう前提で自分の意識をとらえる。今、おかしいと思って いることでも、意識が変わると、おかしくなくなる。
反対に、今、おかしくないことでも、意識が変わると、おかしくなる。たとえば今、北朝鮮の人た
ちが、一糸乱れぬマスゲームをしているのを見たりすると、それを美しいと思う前に、心のどこ かで違和感を覚えてしまう。が、もし30年前の私なら、それを美しいと思うかもしれないのだが ……、などなど。
進歩するということは、いつも自分の意識を疑ってみることではないか。言いかえると、自分
の意識を疑わない人には、進歩はない。とくに教育の世界では、そうだ。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(309)
●固い粘土は伸びない
伸びる子どもと伸び悩む子どもの違いといえば、「頭のやわらかさ」。頭のやわらかい子ども
は伸びる。そうでない子どもは伸び悩む。たとえば頭のやわらかい子どもは、多芸多才。趣味 も特技も幅広く、そのつどそれぞれの分野で、自分を楽しませることができる。子どもにいたず らはつきものだが、そのいたずらも、どこかほのぼのとした子どもらしさを覚えるものが多い。 食パンをくりぬいて、トンネルごっこ。スリッパをつなげて、電車ごっこなど。
一方伸び悩む子どもは、融通がきかない。ある子どもとこんな会話をしたことがある。子、「ま
ちがえたところはどうするのですか?」、私、「なおせばいい」、子「消しゴムで消すのですか」、 私「そうだ」、子「きれいに消すのですか」、私「そうだ」と。実際、小学三年生の子どもとした会 話である。
簡単な見分け方としては、ひとりで遊ばせてみるとよい。頭のやわらかい子どもは、身の回り
からつぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。そうでない子どもは、「退屈ウ〜」と か、「もうおうちに帰ろウ〜」とか言ったりする。遊びそのものが限定されている。また同じいた ずらでも、知恵の発達が遅れ気味の子どもは、とんでもないいたずらをすることが多い。
先生のコップに殺虫剤を入れた中学生や、うとうとと居眠りしている先生の顔の下に、シャープ
ペンシルを突きたてた中学生などがいた。その先生はそのため、あやうく失明するところだっ た。幼児でも、コンセントに粘土をつめたり、溶かした絵の具をほかの子どもの頭にかけたりす る子どもがいる。常識によるブレーキが働かないという意味で、心配な子どもということになる。
頭をやわらかくするためには、意外性を大切にする。子どもの側からみて、「あれっ」と思うよ
うな環境をいつも用意する。私も最近、こんな経験をしたことがある。オーストラリア人の夫婦 を、ホームステイさせたときのこと。彼らは朝食に、白いご飯にチョコレートをかけて食べてい た。
それを見たとき、私の頭の中で「知恵の火花」がバチバチと飛ぶのを感じた。それがここでいう
意外性ということになる。言いかえると、単調で変化のない生活は、子どもの知能の大敵と考 える。生活の中に、いつも新しい刺激を用意するのは、子どもを伸ばす秘訣であると同時に、 親の大切な役目ということになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(310)
●世間体
Yさん(84歳女性)という女性がいる。近所では「仏様」と呼ばれている。そのYさんについて、
娘のKさん(60歳)が、こう話してくれた。「いまだにサイフの中には札束を入れて歩くのです よ」と。つまりその札束を、そのつど、これ見よがしに人に見せつけるのだという。「スーパーの レジの女の子にさえそれをするから、お母さん、もうそんなことをやめなさいと言うのですが、も うそれがわかる年齢でもないようです」と。世間体をとりつくろう人は、そこまで神経をつかう。
ちょうどこの話を聞いたとき、北朝鮮では「アリラン」という祭典が催された(02年春)。ずいぶ
んと盛大な祭典だったようだ。その祭典について、読売新聞社の記者が、こんな記事を書いて いる(同年5月2日)。
「(D百貨店では)、記者団の到着とともに明かりがともり、エレベータが動き出した」「取材日程
に組み込まれた庶民用のD百貨店も、衣類、電化製品、缶詰、調味料など品数と種類は多か ったが、ただ購入している人はほとんどみかけなかった」「一方、ピョンヤンのアパートが立ち 並ぶ一角の食料品店で陳列棚にあったのは、惣菜類入っているらしい金属製の容器3つだけ だった」などなど。読売新聞社の記事だから、それ以上のことは書いてなかったが、世間体を とりつくろう(国)は、そこまで神経をつかう。
世間体を気にする人というのは、それだけ自分のない人とみてよい。しかも世間体と自分
は、反比例する。世間体を気にすればするほど、自分がなくなる。先のYさんだが、家計は火 の車だが、冠婚葬祭にだけは惜しみなくお金を使う。法事にしても、たいてい近くの料亭を借り きって催している。が、それだけではない。
本当の悲劇は、世間体を気にする人は、自分がない分だけ、他人に心を許さない。他人どころ
か、身内にすら心を許さない。つまりそれだけ心のさみしい人とみる。たとえば娘のKさんが、Y さんを旅行に連れていったとする。そのときYさんにとって大切なのは、「娘が旅行に連れてい ってくれた」という事実なのだ。自分の仲間たちの間で、「息子や娘の親孝行ぶり」を、自慢す るためである。こう書くと、信じられない人には信じられない話かもしれないが、もともと意識そ のものがズレているから、このタイプの人はそう考える。もっというと、世間体を気にする人は、 そこまで神経をつかう。
さてあの北朝鮮。結局は犠牲になっているのは、その国民だと思うのだが、ある女子工員
(縫製工場従業員の一人)はこう言っている。「もっと生産性をあげ、将軍様(金正日総書記)に 喜びを与えたい(と話した)」(読売新聞)と。これについては、私もコメントを書くわけにはいか ないので、読者の皆さんで考えてみてほしい。人間は教育(?)によって、ここまでつくられる!
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(311)
●心の貧しい人たち
金持ちでも心の豊かな人。金持ちでも心の貧しい人。貧乏でも心の豊かな人がいる。最高級
車を乗り回しながら、ゴミを窓の外にポイと捨てる人は、金持ちでも心の貧しい人。清貧を大切 にしながら、近所の清掃をしている人は、貧乏でも心の豊かな人ということになる。しかし問題 は、貧乏で、心の貧しい人だ。そういう人はいくらでもいる。
ただここで誤解しないでほしいのは、人はすべてここでいう4つのタイプに分けられるというの
ではない。人は、そのつど、いろいろなタイプに変化するということ。あなたや私にしても、心が 豊かな面もあれば、貧しい面もあるということ。さらに金持ちかどうかは、あくまでも相対的なも のでしかない。いくら貧乏といっても、50年ほど前の日本人のような貧乏な人は少ないし、どこ かの貧しい国の人よりは、はるかによい生活をしている人はいくらでもいる。
で、そういう前提で、心の貧しい人を考えるが、そういう人は、実のところ、いくらでもいる。見
栄、メンツ、世間体にこだわる人というのは、それだけで心の貧しい人と言ってよい。このタイ プの人は、いつも他人の目の中で生きているから、ものの価値観や幸福感も、相対的なもの でしかない。自分より不幸な境遇にいる人をさがしだしてきては、そういった人を見くだすことに よって、自分の立場を守ろうとする。だから会話も独特のものとなる。
「あの家の息子さんは、引きこもりなんですってねえ。先生の息子さんでも、そうなるのですね
え」「あの家は昔からの財産家だったのですが、今は見る影もないですねえ」とか。他人の不幸 や失敗が、いつも話のタネとなる。中には一見、同情するフリをしながら、ことさらそれを笑う人 もいる。「かわいそうなものですねえ。人間はああも落ちぶれたくはないものです」と。こういう人 を心の貧しい人という。
つまるところ自分自身や自分の生きざまに、いかに誇りをもつかということだが、心の貧しい
人は、他人の不幸を笑った分だけ、今度は、自分で自分のクビをしめることになる。ある女性 (80歳)は、老人ホームへ入ることを、最後の最後までこばんでいた。理由は簡単だ。その女 性はそれまで、老人ホームへ入る仲間をさんざん笑ってきた。人生の落伍者であるかのように さえ言ったこともある。「あわれなもんだ、あわれなもんだ」と。
学歴や地位、名誉、さらには家柄にこだわるということは、それだけでも自分を小さくする。
が、それだけではすまない。こだわりすぎると、心を貧しくする。「形」を整えようとするあまり、 自分を見失う。B氏(60歳、現在退職中)は、ある日私にこう言った。「ぼくは努力によって、こ こまでの人間になったが、君は実力で、ここまでの人間になったのだねえ」と。自分のことを、 「ここまでの人間」という愚かな人は少ない。B氏は過去の学歴におぼれるあまり、自分を見失 っていた。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(312)
●考える人、考えない人
私が50歳を過ぎたためかもしれない。しかしこの年齢になると、考える人と考えない人が、
はっきりとわかるようになる。考える人は独特の話し方をする。独特の様子を見せる。反対に 考えない人は、独特の話し方をする。独特の様子を見せる。
ただこの時点で大切なことは、考える人からは考えない人がどういうものかはよくわかるが、恐
らく、考えない人からは、考える人がどういう人なのかはわからないだろうということ。それはち ょうど、賢い人からは愚かな人がよくわかるが、愚かな人には、賢い人がどういう人かわからな いのに似ている。(私が、考えない人がよくわかると書いても、私がその賢い人と言っているの ではない。誤解のないように……。)
考えない人というのは、どこかペラペラと調子がよいだけで、話している内容に深みやハバが
ない。何かを問いかけても、表面的な答しか返ってこない。通俗的というか、こちらの予想通り の答であったりする。そういうとき私は、その人の意見の違いに驚くというよりは、互いの間の 「距離」を感じて、思わず身を引いてしまう。「この人からは何も得るものはないぞ」と。
あるいは「この人を説得するのは、不可能だ」とさえ思うときもある。とくに相手が、50歳とか6
0歳の人であったりすると、絶望感すら覚える。先日も私に向かって、「子どもが親のめんどう をみるのは当たり前でしょう」「親なら子どもを愛しているはず」「子どもは親に従って当然」と言 った人がいた。言葉ではそのつど、「そうですね」と返事をしたものの、もうそれ以上、議論する 気にはなれなかった。「どうぞ、ご勝手に」という気分に襲われた。
一方、考える人というのは、何を話しかけても、こちらの言葉が相手の脳の中に深く沈んでい
くのがわかる。それは子どもでもそうで、ひとつの問題を投げかけても、いろいろな方向から考 えようとする。たとえば「人をいじめることは悪いことだよね」と話しかけたとする。するとよく考 える子どもは、そのまま深く黙りこくってしまったりする。あれこれ自分の周囲で起きているいじ めを思い出しているふうでもあるし、自分自身の経験を思い出しているふうでもある。そしてそ の一方で、私がどの程度の答を求めているかをさぐろうとする。
……ということになると、考えるか考えないかは、習慣の違いということになる。能力ではな
い。その習慣の違いが、長い時間をかけて、考える人とそうでない人を分ける。そしてそれが 人生の晩年になると、はっきりとわかるようになる。そしてそのことを裏返すと、人生の晩年に なってから気づいたのでは、もう遅いということ。習慣というのは、一朝一夕にはできるもので はないし、また突然、変えられるものではない。冒頭で「五〇歳」という数字をあげたが、この年 齢というのは、その節目ということになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(313)
●思考回路
東京へ行くことになった。そこで私がまずしたことは、JRの浜松駅に電話をして、発車時刻を
調べること。が、なかなか電話はつながらない。が、そのとき気がついた。今では電話などしな くても、インターネットを使えば、発車時刻など即座にわかる。思考回路というのはそういうもの で、一度、できると、それを改めるのは容易ではない。私は昔から、電車の発車時刻は、電話 をして確かめていた。それが今になっても、つづいている?
実のところ、思考回路には、便利な面もある。人間の行動をパターン化することにより、行動
そのものをスムーズにする。たとえばテーブルの上に置かれた湯飲み茶碗を手にするとき、右 手でとろうか、左手でとろうかなどと考えてからとる人は、いない。自然に右手が出て、そしてい つものように茶碗をもちあげる。しかしその思考回路にハマりすぎると、それ以外の考え方が できなくなってしまう。そういうとき思考回路は、かえって思考のじゃまになる。
が、思考回路があることが問題ではない。問題は、その思考回路が、柔軟なものかどうかと
いうこと。たとえば子どもたちの行動パターンを観察すると、おもしろい連続性を発見すること がある。たとえばポケモンカードがある。年齢的には小学校の低学年児に人気がある。それが 中学年になると遊戯王になり、高学年になると、マジックザギャザリング(通称「マジギャザ」)に なる。より複雑なゲームになるというよりは、子どもたち自身が、ひとつの思考回路にハマって いるといったほうが正しい。
友人関係にせよ、遊び仲間にせよ、さらにはごく日常的な会話にせよ、全体としてひとつの思
考回路となっているから、途中で、それを変えるのは容易なことではない。仮にカードゲームか ら離れて、趣味が読書に向かうとしたら、それまでの環境すべてを変えなければならない。
……と書いて、実はこれはおとなの問題でもある。思考回路というのは、歳をとればとるほど
柔軟性をなくす。冒頭にあげた例がそのひとつ。そこで問題は、いかにして思考回路の柔軟性 を確保するかということ。いろいろな刺激を与えればよいことは、私にもわかるが、体そのもの が新しい刺激を受けつけないということもある。日常的な行動そのものがパターン化されてい る現状で、どうすれば新しい刺激を自分に与えることができるのか。
もっとも私のばあいは、たとえば旅行で、たとえば読書でと、そういったところで刺激を受けるよ
うにしている。が、本当の問題は、このことでもない。本当の問題は、いかにすれば固定した思 考回路をつくらないですむか、だ。あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう 書いている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。
自分の中にひとつの思考回路を感じたら、その思考回路そのものと戦う。そしてそれをつくらな
いようにする。そういうのを自由といい、進歩という。行動面はともかくも、思想面では、思考回 路は、思考そのものの障害となることもある。そういう視点で自分の思考回路をながめる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(314)
●あなたは裁判官
(ケース)Aさん(40歳女性)は、Bさん(45歳女性)を、「いやな人だ」と言う。理由を聞くと、こう
言った。AさんがBさんの家に遊びに行ったときのこと。Bさんの夫が、「食事をしていきなさい」 と誘ったという。そこでAさんが、「食べてきたところです」と言って断ったところ、Bさんの夫がB さんに向かって、「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったという。それに対し て、Bさんが夫に対して、家の奥のほうで、「今、食べてきたと言っておられるじゃない!」と反 論したという。それを聞いて、AさんはBさんに対して不愉快に思ったというのだ。
(考察)まずAさんの言い分。「私の聞こえるところで、Bさんはあんなこと言うべきではない」「B
さんは、夫に従うべきだ」と。Bさんの言い分は聞いていないので、わからないが、Bさんは正直 な人だ。自分を飾ったり、偽ったしないタイプの人だ。だからストレートにAさんの言葉を受けと めた。
一方、Bさんの夫は、昔からの飛騨人。飛騨地方では、「食事をしていかないか?」があいさつ
言葉になっている。しかしそれはあくまでもあいさつ。本気で食事に誘うわけではない。相手が 断るのを前提に、そう言って、食事に誘う。そのとき大切なことは、誘われたほうは、あいまい な断り方をしてはいけない。あいまいな断り方をすると、かえって誘ったほうが困ってしまう。飛 騨地方には昔から、「飛騨の昼茶漬け」という言葉がある。昼食は簡単にすますという習慣で ある。
恐らくAさんは食事を断ったにせよ、どこかあいまいな言い方をしたに違いない。「出してもらえ
るなら、食べてもいい」というような言い方だったかもしれない。それでそういう事件になった?
(判断)このケースを聞いて、まず私が「?」と思ったことは、Bさんの夫が、Bさんに向かって、
「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったところ。そういう習慣のある家庭では 何でもない会話のように聞こえるかもしれないが、少なくとも私はそういう言い方はしない。私な らまず女房に、相談する。そしてその上で、「食事を出してやってくれないか」と聞く。
あるいはどうしてもということであれば、私は自分で用意する。いきなり「すぐ食事の用意をし
ろ」は、ない。つぎに気になったのは、言葉どおりとったBさんに対して、Aさんが不愉快に思っ たところ。Aさんは「妻は夫に従うべきだ」と言う。つまり女性であるAさんが、自ら、「男尊女卑 思想」を受け入れてしまっている! 本来ならそういう傲慢な「男」に対して、女性の立場から反 発しなければならないAさんが、むしろBさんを責めている! 女性は夫の奴隷ではない!
私はAさんの話を聞きながら、「うんうん」と返事するだけで精一杯だった。内心では反発を覚
えながらも、Aさんを説得するのは、不可能だとさえ感じた。基本的な部分で、思想の違いを感 じたからだ。さて、あなたならこのケースをどう考えるだろうか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(315)
●心をゆがめる子ども
これはあくまでも教える側からの見方だが、心をゆがめ始める子どもには、いくつかの特徴
がある。その中でも最大の特徴は、(1)心がつかめなくなるということ。もう少し具体的には、 何を考えているかわからない子どもといった感じになる。
よい子ぶったり、見た目にはよくできた子といった印象を与えることが多い。静かで従順、何を
言いつけても、それに黙って従ったりする。この段階で、多くの先生は、「いい子」というレッテ ルを張ってしまい、子どものもつ問題を見落としてしまう。そしてある日突然、それが大きな問 題になり、「えっ!」と驚く……。不登校がその一例。あとになって「そう言えば……」と思い当た ることもあるにはあるが、それまではたいていの教師はその前兆にすら気づかない。
つぎに(2)「すなおさ」が消える。幼児教育の世界で、「すなおな子ども」というときには、二つ
の意味がある。一つは、心の状態と表情が一致していること。悲しいときには悲しそうな顔をす る。うれしいときにはうれしそうな顔をする、など。が、それが一致しなくなると、いわゆる心と表 情の「遊離」が始まる。不愉快に思っているはずなのに、ニコニコと笑ったりするなど。
もう一つは、「心のゆがみ」がないこと。いじける、ひがむ、つっぱる、ひねくれるなどの心の
ゆがみがない子どもを、すなおな子どもという。心がいつもオープンになっていて、やさしくして あげたり、親切にしてあげると、それがそのままスーッと子どもの心の中にしみこんできくのが わかる。が、心がゆがんでくると、どこかでそのやさしさや親切がねじまげられてしまう。私「こ のお菓子、食べる?」、子、「どうせ宿題をさせたいのでしょう」と。
家庭でも、こうした症状が見られたら、子どもをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方を
かなり真剣に反省する。そしてここが重要だが、子どもの中に心のゆがみを感じたら、「今の 状態をより悪くしないこと」だけを考え、1年単位でその推移を見守ること。あせればあせるほ ど、逆効果で、一度(何かをする)→(ますます症状が悪化する)の悪循環に入ると、あとは底 無しのドロ沼に落ちてしまう。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(316)
●心を開かない子ども
心を開かない子ども……と、書いて、実はあなた自身のこと。あなたはだれかに対して、一人
だけでもよいが、心を開くことができるだろうか。あるいはそういう人がいるだろうか。「心を開 く」ということは、そういう意味でもたいへんむずかしい。
実のところ、この私にしても、「この人だけになら心を開くことができる」と思える人は、ほとんど
いない。どうしても自分をさらけ出すことができない。そのためどうしても自分を作ってしまう。
そこで「本当の自分」とは何かを考えてみる。……この間、10数分の時間が過ぎたが、本当
の自分と言われると、そこでまたハタと困ってしまう。本当の私は、小心者で、小ずるく、無責 任で、冷酷で、自分勝手。そういう自分がつぎつぎと浮かんでくる。しかしそういう自分をさらけ 出すことはできない。だれかと接するときは、どこかでそういう自分と戦わねばならない。ありの ままの自分をさらけ出したら、相手もびっくりするだろう。
ここから先はたいへん不謹慎な話になるが、異性と、裸になってセックスをするときは、ひょっ
としたら、心を開いた状態なのかもしれない。肉体や感情や、それに欲望をさらけ出している と、ついでに心までさらけ出すことになる。もっともその前提として、互いに愛しあっていなけれ ばならない。自分の欲望を満たすために、心を偽るようでは、心をさらけ出したことにはならな い。「私はどうなってもいい」という思いの中で、自分をさらけ出してこそはじめて、心を開いたこ とになる。
……と、書いて、子どもの話にもどる。親子だから、互いに心を開きあっているとは限らな
い。親のほうはともかくも、子どものほうが心を閉ざすケースはいくらでもある。「親がこわかっ た」「親の前にすわると緊張する」「親に会うと疲れる」「実家には帰りたくない」「何か言われる と、反発してしまう」など。
若い母親でも、約3〜4割の人が、そういう悩みをかかえている。子どもの立場でみて、親にど
うしても心を開くことができないというのだ。そこでさらに問題を掘りさげて、あなたという親と、 あなたの子どもの関係はどうかということ。あなたは子どもに心を開いているだろうか。反対に あなたの子どもはあなたに心を開いているだろうか。こういう質問をすると、たいていの人は、 「うちはだいじょうぶ」と言うが、だいじょうぶでないことは、実はあなた自身が一番よく知ってい る。それともあなたは、あなたの親に対して、全幅の心を開いていると自信をもって言えるだろ うか。
「心を開く」ということは、そんな簡単な問題ではない。またそんなふうに簡単に考えてもらって
は困る。私の経験では、生涯、心を開くことができる相手というのは、ほんの数人ではないかと 思う。あるいはもっと少ない……? こちらが心を開いても、相手が開かないとか、その反対の こともある。なかなかうまくいかないのが人間関係だが、それはそのまま親子についても言え る。はたしてあなたは本当にだいじょうぶか?
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(317)
●西郷隆盛が理想の教育者?
ある教育雑誌に、ある県会議員の教育改革論(?)が載っていた。いわく「西郷隆盛(明治維
新の元勲)こそが、私の尊敬する人物。彼の思想にこそ、これからの教育の指針が隠されてい る」(雑誌「K」)と。
いろいろ理由は書かれていたが、私はこういう意見を読むと、生理的な嫌悪感を覚える。イギ
リス人がトラファルガーの海戦(1805年)で勝利を収めた、ネルソン提督をあがめるようなも のだ。気持ちはわからないでもないが、どうしてものの考え方が、こうもうしろ向きなのだろうと さえ思ってしまう。
西郷隆盛が西郷隆盛であったのは、あの時代の人物だったからにほかならない。西郷隆盛を
たたえるということは、あの時代を肯定することにもなる。もちろん歴史は歴史だし、歴史上の 人物は、それなりに評価しなければならない。しかし西郷隆盛に教育論を求めるとは……? 彼は、大久保利通、木戸孝允らと並んで、明治維新の三傑とは言われたが、少なくとも民主主 義のために戦った人物ではない。平和や自由や平等のために戦った人物でもない。わかりや すく言えば、武士階級の権威や権力の温存を求めて戦った人物である。
……というような反論をしても、この日本では意味がない。私のほうが異端児になってしまう。
先日も、「あなたは日本の歴史を否定するのか。それでもあなたは日本人か」と言ってきた人 がいた。
しかし私は何も日本の歴史を否定しているのではない。それに私は上から下まで、完全な日本
人だ。日本の文化や風土、民族はこの上なく愛している。しかしそのことと体制を愛するという ことは別のことである。西郷隆盛にしても、明治から大正、昭和における歴史の教科書の中 で、そのときどきの体制につごうがよいように美化された偉人(?)にすぎない。その結果が、 あの軍国主義であり、さらにその結果があの戦争である。だととするなら、なぜ今、西郷隆盛な のかという疑問を私がもったところで、それは当然のことではないのか。
こうした復古主義は、社会の世相が混乱するたびに姿を現す。今がそうだが、こうした復古主
義がはびこればはびこるほど、「進歩」が停滞する。しかし私たちがすべきことは、「新しい家庭 観」の創設であって、決して復古主義的な家庭観ではない。改革の思想は、いつも混乱の中か ら生まれる。混乱を恐れてはいけない。混乱の中から何かを生み出すという姿勢が、この混乱 を抜け出る唯一の方法である。
……何とも、カタイ話になってしまったが、読者のみなさんも、こうした復古主義にだけはじゅう
ぶん、注意してほしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(318)
●国によって違う職業観
職業観というのは、国によって違う。もう40年も前のことだが、私がメルボルン大学に留学し
ていたときのこと。当時、正規の日本人留学生は私一人だけ。(もう一人Mという女子学生が いたが、彼女は、もともとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。
私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、一通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、「君
を外交官にしたいから、面接に来るように」と。私が喜んで、「外交官ではないか! おめでと う」と言うと、その友人は何を思ったか、その手紙を丸めてポイと捨てた。「アメリカやイギリスな ら行きたいが、99%の国は、行きたくない」と。考えてみればオーストラリアは移民国家。「外 国へ出る」という意識が、日本人のそれとはまったく違っていた。
さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本へ帰った
ら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本では軍隊はあまり人気 がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ入らないのか」と、やんや の非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コー スということになっていた。で、私の番。
私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼくは日本
へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言っていた。が、あ る日、一番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなことを言うのはよせ。日 本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパイズ(軽蔑する)」という言葉 を使った。
当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社マ
ンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかなかった。こ の友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。
さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなたの夫はど
のような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこれだけは言え る。
こうした職業観というのは、決して絶対的なものではないということ。時代によって、それぞれの
国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切なことは、そういうものを 通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるということ。私の母は、私が幼稚園教 師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。「浩ちャー ン、あんたは道を誤ったア〜」と。
母は母の時代の常識にそってそう言っただけだが、その一言が私をどん底に叩き落したこと
は言うまでもない。しかしあなたとあなたの子どもの間では、こういうことはあってはならない。 これからは、もうそういう時代ではない。あってはならない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(319)
●ホームスクール
アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅
で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。
日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年一五%前後の割合でふ え、2001年度末には200万人に達しただろうと言われている。それを指導しているのが、 「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理 念がそこにある。
地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は
世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(L IFレポートより)。
「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を
引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。
「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。 それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政 治を行うための手段として用いられてきている」と。
そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を 破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、 国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事 的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき ではないのか」と(以上、要約)。
日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38 人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(320)
●二番目の子は、親と疎遠?
「3人兄弟の第2子は、両親に電話する回数が少なく、疎遠になりやすいことが東京大学大
学院のアンケート調査でわかった」(読売新聞02年5月)という。
同大学院認知行動科学研究所が、全国の3人兄弟の大学生男女129人に、1か月に何
回、両親に電話するかを聞いたところ、
長子…… 6・9回
第二子……4・6回
末子…… 5・9回と、第二子は明らかに少なかった。
男女別に分けても、傾向は同じだったという。さらにその報告によれば、「出生順位と親子関係
について、1998年にカナダで行われた研究でも、長子や末子にくらべて、中間の子どもは両 親をあまり親しい人物と考えていないという結果が出ている」という。
理由として、「長子は両親が子育てにかける手間を独占できる期間があり、末子も、その後に
弟妹がいないので、親が世話をしやすいため」と分析している。そして「一方、じゅうぶんに手を かけてもらっていない中間の子どもは、両親への親密度を減らす」とも。
……もっとも、こんなことは私たちの世界では常識で、何も「大学院のアンケート調査によれ
ば」と断らなければならないほど、おおげさなものではない。私もすでにあちこちの本の中で、 そう書いてきた。が、問題はその先。
嫉妬による愛情飢餓の状態が、長くつづくと、子どもの心はゆがんでくる。表面的には、愛想
がよくなり、人なつこくなる。しかしその反面、自分の心を防衛する(飾る)ようになり、仮面をか ぶるようになる。よい子ぶったり、優等生になっておとなの関心を自分に引こうとする。
が、さらにその状態が長くつづくと、心の状態と顔の表情が遊離し始め、親から見ても、何を考
えているかわからない子どもといった感じになる。この段階になると、ひがみやすくなる、いじけ やすくなる、ひねくれやすくなる、つっぱりやすくなるなどの、「ゆがみ」が出てくるようになる。タ イプとしては、(1)暴力的、攻撃的になるプラス型と、(2)ジクジクと内へこもるマイナス型に分 けることができる。大切なことはそういう状態になる前に、子ども自身が今、どう状態なのかを 親側が知ることである。ここにも書いたように、それが長くつづけばつづくほど、子どもの心は ゆがむ。
さて、読売新聞はこう結論づけている。「東大とカナダの調査結果は、(中間の子は、両親へ
の親密度を減らすという)学説を裏づけるデータと言えそうだ。同研究室は、『中間の子だけに 特有の性格があることは興味深い。電話以外の行動も調べてみたい』としている」と。
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