ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(321)
●ああ、悲しき子どもの心
虐待されても虐待されても、子どもは「親のそばがいい」と言う。その親しか知らないからだ。
中には親の虐待で明らかに精神そのものが虐待で萎縮してしまっている子どももいる。しかし そういう子どもでも、「お父さんやお母さんのそばにいたい」と言う。ある児童相談所の相談員 は、こう言った。「子どもの心は悲しいですね」と。
J氏という今年50歳になる男性がいる。いつも母親の前ではオドオドし、ハキがない。従順で
静かだが、自分の意思すら母親の、異常なまでの過干渉と過関心でつぶされてしまっている。 何かあるたびに、「お母ちゃんが怒るから……」と言う。母親の意図に反したことは何も言わな い。何もできない。
その一方で、母親の指示がないと、何もしない。何もできない。そういうJ氏でありながら、「お
母ちゃん、お母ちゃん……」と、今年75歳になる母親のあとばかり追いかけている。先日も通 りで見かけると、J氏は、店先の窓ガラスをぞうきんで拭いていた。聞くところによると、その母 親は、自分ではまったく掃除すらしないという。手が汚れる仕事はすべて、J氏の仕事。小さな 店だが、店番はすべてJ氏に任せ、夫をなくしたあと、母親は少なくともこの20年間は、遊んで ばかりいる。
そういうJ氏について、母親は、「あの子は生まれながらに自閉症です」と言う。「先天的なも
ので、私の責任ではない」とか、「私はふつうだったが、Jをああいう子どもにしたのは父親だっ た」とか言う。しかし本当の原因は、その母親自身にあった。それはともかく、母親自身が、自 分の「非」に気づいていないこともさることながら、J氏自身も、そういう母親しか知らないのは、 まさに悲劇としか言いようがない。
J氏の弟は今、名古屋市に住んでいるが、J氏と母親を切り離そうと何度も試みた。それにつ
いては母親が猛烈に反対したが、肝心のJ氏自身がそれに応じなかった。いつものように、「お 母ちゃんが怒るから……」と。
親だから子どもを愛しているはずと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。さらに「親子」と
いう関係だけで、その人間関係を決めてかかるのも、危険なことである。親子といえども、基本 的には人間どうしの人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから……」と、相手をしばる のは、まちがっている。親の立場でいうなら、「親だから……」という立場に甘えて、子どもに何 をしてもよいというわけではない。
子どもの心は、親が考えるよりはるかに「悲しい」。虐待されても虐待されても、子どもは親を
慕う。親は子どもを選べるが、子どもは親を選べないとはよく言われる。そういう子どもの心に 甘えて、好き勝手なことをする親というのは、もう親ではない。ケダモノだ。いや、ケダモノでも そこまではしない。
今日も、あちこちから虐待のレポートが届く。しかしそのたびに子どもの「悲しさ」が私に伝わ
ってくる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(322)
●人格の分離
日本人の子育て法で、最大の問題点は、親は親でひとかたまりの世界をつくり、子どもの世
界を、親の世界から切り離してしまうところにある。つまり子どもは子どもとして位置づけてしま い、その返す刀で、子どもの人格を否定してしまう。
もっと言えば、子どもを、ちょうど動物のペットを育てるかのような育て方をする。その結果、親
にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコールよい子と位置づける。そうでない子どもを、 「鬼っ子」として嫌う。
(例1)ある女性(70歳くらい)は、孫(6歳くらい)に向かってこう言っていた。「オイチイネ(おい
しいね)、オイチイネ(おいしいね)、このイチゴ、オイチイネ(おいしいね)」と。子どもを完全に 子ども扱いしていた。一見、ほほえましい光景に見えるかもしれないが、もしあなたがその孫な ら、何と言うだろうか。「子ども、子どもと、バカにするな」と叫ぶかもしれない。
(例2)ある女性(70歳くらい)は、孫(10歳くらい)に電話をかけて、こう言った。「おばあちゃん
の家に遊びにおいでよ。お小遣いあげるよ。ほしいものを買ってあげるよ」と。最近は、その孫 がその女性にところに遊びにこなくなったらしい。それでその女性は、モノやお金で子どもを釣 ろうとした。が、しかしもしあなたがその孫なら、何と言うだろうか。やはり「子ども、子どもと、バ カにするな」と叫ぶかもしれない。
こういう子どもの人格を無視した子育て法が、この日本では、いまだに堂々とまかりとおって
いる。そしてそれ以上に悲劇的なことに、こうした子育て法が当たり前の子育て法として、だれ も問題にしないでいる。とたえ幼児といっても、人権はある。人格もある。未熟で未経験かもし れないが、それをのぞけばあなたとどこも違いはしない。そういう視点が、日本人の子育て観 にはない。
子どもを子ども扱いするということは、一見、子どもを大切にしているかのように見えるが、そ
の実、子どもの人格や人権をふみにじっている。そしてその結果、全体として、日本独特の子 育て法をつくりあげている。その一つが、「依存心に無頓着な子育て法」ということになるが、こ れについては別のところで考える。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(323)
●伸びる子ども
あなたの子どもは、つぎのどのようだろうか。
( )何か新しいことができるようになるたびに、うれしそうにあなたに報告にくる。
( )平気であなたに言いたいことを言ったり、したりしている。態度も大きい。
( )あなたのいる前で平気で体を休めたり、心を休めたりしている。
( )したいこと、したくないことがはっきりしていて、それを口にしている。
( )喜怒哀楽の情がはっきりしていて、うれしいときには、全身でそれを表現する。
( )笑うときには、大声で笑い、はしゃぐときにも、大声ではしゃいだりしている。
( )やさしくしてあげたりすると、そのやさしさがスーッと心に入っていくのがわかる。
( )ひがんだり、いじけたり、つっぱったり、ひねくれたりすることがない。
( )叱っても、なごやかな雰囲気になる。そのときだけで終わり、あとへ尾を引かない。
( )甘え方が自然で、ときどきそれとなくスキンシップを求めてくる。
( )家族と一緒にいることを好み、何かにつけて親の仕事を手伝いたがる。
( )成長することを楽しみにし、「大きくなったら……」という話をよくする。
( )園や学校、友だちや先生の話を、いつも楽しそうに親に報告する。
( )園や学校からいつも、意気揚々と、何かをやりとげたという様子で帰ってくる。
( )ぬいぐるみを見せたりすると、さもいとおしいといった様子でそれを抱いたりする。
( )ものごとに挑戦的で、「やりたい!」と、おとなのすることを何でも自分でしたがる。
( )言いつけをよく守り、してはいけないことに、ブレーキをかけることができる。
( )ひとりにさせても、あなたの愛情を疑うことなく、平気で遊ぶことができる。
( )あなたから見て、子どもの心の中の状態がつかみやすく、わかりやすい。
( )あなたから見て、あなたは自分の子どもはすばらしく見えるし、自信をもっている。
以上、20問のうち、20問とも(○)であるのが、理想的な親子関係ということになる。もし○
の数が少ないというのであれば、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。あるいはもしあな たの子どもがまだ、0〜2歳であれば、ここに書いたようなことを、3〜4歳にはできるように、 子育ての目標にするとよい。5〜6歳になったとき、全問(○)というのであれば、あなたの子ど もはその後、まちがいなく伸びる。すばらしい子どもになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(324)
●伸ばす子育て
子育てにも、伸ばす子育てと、つぶす子育てがある。伸ばそうとして伸ばすのであれば、問題
はない。つぶす子育ては論外である。問題は、伸ばそうとして、かえって子どもをつぶしてしまう 子育て。これが意外に多い。子育てにまつわる問題は、すべてこの一点に集中する。
その人の子育てをみていると、「かえってこの人は子育てをしないほうがいいのでは」と思うケ
ースがある。たとえば過関心や過干渉など。親が懸命になればなるほど、その鋭い視線が子 どもを萎縮させるというケースがある。しかもそういう状態に子どもを追いやりながらも、「どうし てうちの子は、ハキがないのでしょう」と相談してくる。
あるいは親の過剰期待や、子どもへの過負担から、子どもが無気力状態になるケースもあ
る。小学校の低学年で一度そういった症状を示すと、その後、回復するのはほとんど不可能と さえ言ってよい。しかしそういう状態になってもまだ、親は、「何とかなる」「そんなはずはない」と 無理をする。
で、私が学習に何とか興味をもたせ、何とか方向性をつくったとしても、今度は、「もっと」とか
「さらに」とか言って無理をする。元の木阿弥というのであれば、まだよいほうだ。さらに大きな 悪循環の中で、やがて子どもはにっちもさっちもいかなくなる。神経症が悪化して、情緒障害や 精神障害に進む子どももいる。もうこうなると、打つ手はかぎられてくる。(実際には、打つ手は ほとんどない。)
が、この段階でも、親というのは身勝手なものだ。私が「三か月は何も言わないで、私に任せ
てほしい」と言っても、「うちの子のことは私が一番よく知っている」と言わんばかりに、またまた 無理をする。このタイプの親には、一か月どころか、一週間ですら、長い。がまんできない。「こ のままではますます遅れる」「うちの子はダメになる」と、あれこれしてしまう。そしてそれが最後 の「糸」を切ってしまう。
問題は、どうして親が、かえって子どもをつぶすようなことを、自らがしてしまうかということ。
そして結局は行きつくところまで行かないと、それに気がつかないかないのか。これは子育て にまつわる宿命のようなものだが、私がしていることは、まさにその宿命との戦いであるといっ てもよい。言いかえると、今、日本の子育てはそこまで狂っている。おかしい。そう、その狂い やおかしさに親がいつ気がつくか、だ。それに早く気づく親が、賢い親ということになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(325)
●ずる休みの勧め
「学校は行かねばならないところ」と考えるのは、まちがい。私たち日本人は明治以後、徹底
してそう教育を受けているから、「学校」という言葉に独特の響きを感ずる。先日もテレビを見 ていたら、戦場の跡地でうろうろしている子ども(10歳くらい)に向かって、「学校はどうしている の?」と聞いていたレポーターがいた(アフガニスタンで、02年4月)。
その少し前も、そのシーズンになると、海がめの卵を食用に採取している子どもたちが紹介さ
れていた。南米のある地域の子どもたちだった。その子どもたちに向かっても、レポーターが 「学校は行かなくてもいいの?」(NHKテレビ)と。
日本人は子どもを見れば、すぐ「学校」「学校」と言う。うるさいほど、そう言う。しかしそういう
国民性が、一方で、子どもをもつ親たちをがんじがらめにしている。先日も子どもの不登校で 悩んでいる親が相談にやってきた。そこで私が「学校なんか、行きたくなければ行かなくてもい いのに」と言うと、その親は目を白黒させて驚いていた。「そんなことをすれば休みグセがつき ませんか」とか、「学校の勉強に遅れてしまいます」とか。しかし心配はご無用。
学校へ行くから学力や知力がつくということにもならないし、行かないから学力や知力がつか
ないということもない。さらにその子どもの人間性ということになると、学校はまったく関係ない。 むしろ幼稚園児のほうが、規則やルールをよく守る。正義感も強い。それが中学生や高校生 なると、どこかおかしくなってくる。「スリッパを並べてくれ!」などと頼もうものなら、即座に、「ど うしてぼくがしなければいかんのか!」という声がはね返ってくる。人間性そのものがおかしくな る子どもは、いくらでもいる。
そこでずる休みの勧め。ときどき学校はサボって、家族で旅行すればよい。私たち家族もよく
した。平日にでかけると、たいていどこの遊園地も行楽地もガラあきで、のんびりと旅行するこ とができた。またそういうときこそ、「子どもを教育しているのだ」という充実感を味わうことがで きた。よく「そんなことをすれば、サボりぐせがつきませんか?」と心配する人がいた。が、それ も心配ご無用。たいていその翌日、子どもたちはすがすがしい表情で学校へでかけていった。 ウソだと思うなら、あなたも一度、試してみるとよい。
こういう話を読んで、目を白黒させている人ほど、一度、勇気をだしてサボってみるとよい。あ
なたも明治以後体をがんじがらめにしている束縛の鎖を、少しは解き放つことができるかもし れない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(326)
●コンピュータウィルス
このところ(02年5月)、毎日のようにコンピュータウィルスの攻撃を受けている。一応、二
重、三重のガードをしているから、このガードが破られることはまずない。そのウィルス攻撃を 受けながら、いろいろなことを考える。
よく雑誌などを読むと、いかにも頭だけはキレそうな若者が、したり顔で、ウィルス対策を論じ
ていたりする。しかし私には、そういう男と、どこかの暗い一室でコソコソとウィルスをばらまい て楽しんでいる男(多分?)が区別できない。雑誌に出てくる男に、それほど強い正義感がある とも思えないし、同時にウィルスをばらまいている男が、その男と、そんなに違うとも思えない。 どちらの男も、ほんの少し環境が変わったら、別々の男になっていたかもしれない。人間のも つ正義感などというものは、そういうものだ。
もう一つは、こういうウィルスをつくる能力のある人間は、それなりに頭のよい男なのだろう
が、どうしてそういう能力を、もっと別のことに使わないかという疑問。もっともこの私でも、簡単 なウィルスくらいなら自分でつくることができる。ファイルに自動立ちあげのプログラムを組み込 めばよい。あとはランダムに番地を選んで、適当に自己増殖のプログラムを書き込めばよい。 言語はC言語でもベーシックでもマクロでもよい。私の二男にしても、高校生のとき、すでに自 分でワクチンプログラムを作って、ウィルスを退治していた。だからたいしたことないと言えばた いしたことはないが、それにしても「もったいない」と思う。能力もさることながら、時間が、だ。
つぎに今は、プロバイダーのほうでウィルスチェックをしてくれているので、ウィルスが入った
メールなどは、その段階で削除される。で、そのあと、私のほうに、その旨の連絡が入る。問題 はそのときだ。プロバイダーからの報告には、つぎのようにある。「○○@××からのメール、 件名△△にはウィルスが混入していました……」と。
そこで私は、その相手に対して、その内容を通知すべきかどうか迷う。いや、最初はそのつ
ど、親切心もあって、「貴殿のパソコンはウィルスに汚染されている可能性があります」などと、 返信を打っていた。しかしこのところそれが多くなり、そういう親切がわずらわしくなってきた。
で、最近はプレビュー画面に開く前に、プロバイダーからの報告そのものを削除するようにして
いる。で、ハタと考える。「私もクールになったものだ」と。いや、こうしたクールさは、コンピュー タの世界では常識で、へたな温情(スケベ心)をもつと、命取りにすらなりかねない。(事実、過 去において、何度かそういう経験があるが……。)だから、あやしげなメールは、容赦なく削除 する。しなければならない。そしてそれがどこかで、私が本来もっている、やさしい人間性(?) を削ってしまうように感ずるのだ。あああ……。
このところインターネットをしながら、いろいろと考えさせられる。これもその一つ。
(注:あやしげなメールには、ぜったいに返信をかけてはいけない。
無視して削除すること。
これはこの世界では、常識。
この原稿を書いた時には、まだそれがよくわかっていなかった。)
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(327)
●子どもの世界(1)
子どもを、未熟で未完成、そのうえ幼稚であると、おとなの世界から切り離してしまう。つまり
子どもを一人の人格者として認めるのではなく、不完全な「半人前」な人間として位置づけてし まう。日本の子育ての最大の欠陥は、ここにある。
そのため日本では、親が子どもを育てるときも、その前提として子どもを人間として認めてい
ないから、あたかもペットを育てるかのようにして、子どもを育てる。たとえば親は、まず子ども に対して、目いっぱい、よい思いや楽しい思いをさせる。そしてそのあと、「もっとよい思いや楽 しい思いをしたかったら、親の言うことを聞きなさい。聞けば、もっと楽しいことがある」というよ うなしつけ方をする。
欧米ではこれが逆で、欧米の親たちは、生まれながらにして子どもを一人の人格者として認
める。認めたうえで、「よい思いや楽しい思いをしたかったら、まず苦労をしなさい」と子どもをし つける。その一例として「家事」がある。私がよく知っている、オーストラリアやアメリカの子ども にしても、実によく家事を手伝っている。料理はともかくも、食後のあと片づけは、たいてい子ど もの仕事になっている。
その結果、この日本では、独特の「保護と依存」関係が生まれる。保護はともかくも、問題は
「依存」。あるアメリカ人の教育家は、日本の子育てを批評して、かつてこう言った。「日本人 は、自分の子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無頓着すぎる」と。その教育家の名前 を忘れてしまったのは、たいへん残念だが、そのためこの日本では、親にベタベタと甘える子 どもイコール、かわいい子イコール、よい子とした。
一方、独立心が旺盛で、自立した子どもを、「鬼の子」として嫌う。そしてさらにその結果、この
日本ではいわゆる「恩着せがましい子育て法」が、当たり前になっている。しかも悲劇的なこと に、それがあまりにも当たり前であるため、子どもに対して恩着せがましい子育てをしながら、 それにすら気づかないというケースが多い。
数年前、演歌歌手のI氏が、NHKの「母を語る」というテレビ番組の中で、こう言っていた。
「私は女手一つで育てられました。その母親の恩にこたえようと、東京に出て、歌手になりまし た」と。
私はこのI氏の話を聞きながら、最初は、I氏の母親はすばらしい母親だと思った。しかしその
うち、それは番組が始まってから10分くらいたってからのことだが、「果たしてこのI氏の母親 は、本当にすばらしい母親なのか?」と思うようになった。I氏は半ば涙ながらに、「私は母親に 産んでもらいました。育ててもらいました」とさかんに言っていたが、そう無意識のうちにも思わ せてしまったのは、母親自身ではないかと考えるようになった。母親自身が、子どもに恩を着 せる形で、「産んでやった」「育ててやった」と思わせてしまったのではないか、と。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(328)
●子どもの世界(2)
子どもの依存性は、必ずしも子どもから親への一方的なものではない。親自身にも、「だれ
かに依存したい」という潜在的な願望があるとみる。その願望が姿を変えて、子どもの依存心 に甘くなる。
ある女性(60歳)は、通りで会うと私にこう言った。「息子なんて育てるもんじゃないですね。
息子は横浜の嫁に取られて、今、横浜に住んでいます」と。「親なんてさみしいもんですわ」とも 言った。こうした女性の背景にあるのは、子どもを「モノ」あるいは、「財産」と考える意識であ る。こうした名残は、「嫁にもらう」とか、「嫁にくれてやる」という言い方などに見られる。それは ともかくも、その女性はそのあとこう言った。「息子は小さいときから、かわいがってやったので すがねえ」と。
もっともこの段階で、子どもも親の価値観に同化すれば、何も問題はない。それはそれでうま
くいく。親は子どもに、「産んでやった」「育ててやった」と言う。子どもは子どもで、「産んでいた だきました」「育てていただきました」と言う。そういう親子はうまくいく。しかしいつもいつも子ど もが親の考えに同化するとは限らない。問題はそのときだ。
こうした価値観の違いは、宗教戦争に似た様相をおびることがある。互いに妥協しない。妥協
できない。親子でも価値観が衝突すると、行きつくところまで行く。もっともそこまで至らなくて も、無意識であるにせよ、親の押しつけがましい子育て観は、親子の間にキレツを入れること が多い。ある男性(40歳)はこう言った。「何がいやかといって、おやじに、『お前には大学の学 費だけでも、3000万円もかけたからな』と言われるくらいいやなことはない」と。
つまり依存型の子育てを受けた子どもは、自分が今度は親になったとき、子どもに対して依
存型の子育てをするのみならず、自分自身も子どもに依存するようになる。親が壮年期には、 親自身がもつパワーでそれほど依存心は目立たないが、老年期になると、それが出てくる。冒 頭にあげた女性がその例である。
子どもの自立を考えるなら、同時に親自身も自立しなければならない。子どもに向かって、
「あなたはあなたの人生を生きなさい」と教える前に、親自身も「私は私の人生を生きる」という 姿勢を見せなければならない。わかりやすく言えば、親が自立しないで、どうやって子どもの自 立を求めることができるかということになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(329)
●老いては子に従え
昔から「老いては子に従え」(「老いては則ち子に従う」(龍樹「大智度論」))という。しかし本当
にそうか? この格言を裏から読むと、「老いるまでは、子に従わなくてもよい」という意味にな る。もしそうなら、これほどごう慢な考え方もない。
ある女性(70歳)は、息子(40歳)の通帳から無断で預金を引き出し、それを使ってしまっ
た。そのことが発覚すると、その女性は、「親が先祖を守るために、子どもの貯金を使って何 が悪い」と居なおったという。
問題はそのあとだが、その女性の周囲の人たちの意見は、二つに分かれた。「たとえ親でもま
ちがったことをしたら、子どもに謝るべきだ」という意見と、「親だから子どもに謝る必要はない」 という意見である。このケースで、「老いては子に従え」ということを声高に言う人ほど、後者の 考え方をする。つまり「親には従え」と。
が、この「老いては子に従え」という考え方には、もう一つの問題が隠されている。つまり依存
性の問題である。「子に従う」というのは、まさに「依存性」の表れそのものといってよい。「老い たら子どもにめんどうをみてもらわねばならないから、子どもには従え」という考え方が、その 底流にある。しかし本当にそれでよいのか?
老いても子どもに従う必要はない。親は親で、それこそ死ぬまで前向きに生きればよい。もち
ろん親ががんこになり、自分の考えを子どもに押しつけるのはよくないが、そんなことは親子に 限らず、どんな世界でも常識ではないか。この格言が生まれた背景には、「いつまでも親風(= 親の権威)を吹かすのはよくない。老いたら親風を吹かすのをやめろ」という意味がこめられて いる。
つまり親の権威主義が、その前提にある。となると、もともとこの格言は、権威主義的なものの
考え方が基本になっていることを示す。言いかえると、権威主義的な親子関係を否定する家庭 では、そもそもこの格言は必要ないということになる。
少しまわりくどい言い方になってしまったが、私たちはときとして安易に過去をひきずってしま
うことがある。たとえばこの格言にしても、今でも広く使われている。しかし無意識であるにせ よ、「老いては子に従え」と言いつつ、その一方で、親の権威主義を肯定し、さらにその背後で 過去の封建主義的な体質を引きずってしまう。それがこわい。そこでどうだろう。あえてこう言 いなおしてみたら……。
「老いたら、親は自分の生きザマを確立し、それを子どもに手本として見せよう」と。
ちなみに小学6年生10人に、「親でもまちがったことをしたら、子どもに謝るべきか」と聞いた
ところ、全員が、「当然だ」と答えた。いくらあなたが権威主義者でも、もうこの流れを変えること はできない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(330)
●ノーブレイン
英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。ふつう
「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言葉だと思えばよ い。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方をする。
そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるのではな
いか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタレントたちが、こ れまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思いついたままを口にしている だけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、何も考えていない。脳の表層部分 に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしているだけ。
考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、考えるこ
とにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くような苦痛に似てい る。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感になる。しかしたいていは答 そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが多い。そのためほとんどの人は、無 意識のうちにも、考えることを避けようとする。
言いかえると、「考える人」は、少ない。「考える習慣のある人」と言いかえたほうが正しいかも
しれない。その習慣のある人は少ない。私が何か問いかけても、「そんなめんどうなこと考えた くない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこと、考えるのをやめろ」とか言う人さえいる。
人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でなくなってし
まう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考える」ということには、 そういう意味が含まれる。
ただここで注意しなければならないのは、考えるといっても、(1)その方法と、(2)内容である。
これについてはまた別のところで結論を出すが、私のばあい、自分の考えが、ループ状態 (堂々巡り)にならないように注意している。またそれだけは避けたいと思っている。一度その ループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止してしまう。
それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大きな問題と小さな
問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。ときとしてどうでもよいような問 題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」ということには、そういうさまざまな問題 が隠されてはいる。
しかしやはり「人間は考えるから人間」である。それは人間が人間であることの大前提といって
もよい。つまり「ノーブレイン」であることは、つまりその人間であることの放棄といってもよい。
人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(331)
●プラス型とマイナス型
情緒が不安定な子どもというのは、心がいつも緊張状態にあるのが知られている。その緊張
状態のところに、不安が入り込むと、その不安を解消しようと一挙に緊張状態が高まり、情緒 が不安定になる。
で、そのとき、激怒したり、暴れたりするタイプの子どもと、内閉したりぐずったりするタイプの子
どもがいることがわかる。一見、正反対な症状に見えるが、ともに「不安を解消しようとする動 き」ということで共通点がみられる。それはともかく、私は前者をプラス型、後者をマイナス型と して考えるようにしている。
……というわけで、「プラス型」「マイナス型」という言葉は、私が考えた。この言葉を最初に使
うようになったのは、分離不安の子どもを見ていたときのことである。子どもの世界には、「分 離不安」というよく知られた現象がある。親の姿が見えなくなると興奮状態(あるいは反対に混 乱状態)になったりする。
年長児についていうなら、15〜20人に1人くらいの割で経験する。その子どもを調べていたと
きのことだが、症状が、(1)興奮状態になり、ワーワー叫ぶタイプと、(2)オドオドし混乱状態に なるタイプの子どもがいることがわかった。そのときワーワーと外に向かって叫ぶ子どもを、私 は「プラス型」、内にこもって、混乱状態になる子どもを、「マイナス型」とした。
この分類方法は、使ってみるとたいへん便利なことがわかった。たとえば過干渉児と呼ばれ
るタイプの子どもがいる。親の日常的な過干渉がつづくと、子どもは独特の症状を示すように なるが、このタイプの子どもも、粗放化するプラス型と、内閉するマイナス型に分けて考えるこ とができる。子ども自身の生命力の違いによるものだが、もちろん共通点もある。ともに常識 ハズレになりやすいなど。
ほかにたとえば赤ちゃんがえりをする子どもも、下の子に暴力行為を繰りかえすタイプをプラ
ス型、ネチネチといわゆる赤ちゃんぽくなるタイプをマイナス型と分けることができる。いじめに ついても、攻撃的にいじめるタイプをプラス型、もの隠しをするなど陰湿化するタイプをマイナス 型に分けるなど。
また原因はともあれ、家庭内暴力を起こす子どもをプラス型、引きこもってしまう子どもをマイ
ナス型と考えることもできる。表面的な症状はともかくも、その症状を別とすると、共通点が多 い。またそういう視点で指導を始めると、たいへん指導しやすい。
こうした考え方は、もちろん確立された考え方ではないが、子どもをみるときには、たいへん
役に立つ。あなたも一度、そういう目であなたの子どもを観察してみてはどうだろうか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(332)
●親が子育てで行きづまるとき
ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。
そのまま転載させてもらう。
「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大
切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきまし た。庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、 読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も 部屋も飾ってきました。なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんど うがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、 当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費 ばかり。二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反し て、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最 近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(K県・50 歳の女性)と。
多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談
があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小3男児)は毎日、通信講座のプ リントを3枚学習することにしていますが、2枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、 時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。
もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こ
う言った。「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食 の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。
こうしたケースでは、私は「プリントは2枚で終わればいい」「2時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子 どもが、プリントを3枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「4枚やらせたい」「午後の 授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。「何とか、うちの子をC中学へ。そ れが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合格できそうとわかってくると、今度 は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつど、 子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(333)
●親が子育てでいきづまるとき(2)
前回の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。もっとは っきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望を確か めた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。
「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニ
を飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理 が苦手。息子は出不精」と。この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母 親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか。
一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。その中でも最大のパター
ンは、(1)「子どもの心に耳を傾けない」。「子どものことは私が一番よく知っている」というのを 大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。そして「……のハズ」というハズ論で、子 どもの心を決めてしまう。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「ああすれば子どもは親に感謝する ハズ」と。そのつど子どもの心を確かめるということをしない。ときどき子どもの側から、「N O!」のサインを出しても、そのサインを無視する。あるいは「あんたはまちがっている」と、そ れをはねのけてしまう。
このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けない
から、それがわかる。私「明日の休みはどう過ごしますか?」、母「夫の仕事が休みだから、近 くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」、私「緑花木センター……です か?」、母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから ……」と。あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。息 子は、「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。
親には3つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そして(3)
よき友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかも しれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。
とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。この母親が見せた
「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたし てその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるい は子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべて が集約される。
が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(334)
●マザコン人間
マザコンタイプの男性や女性は、少なくない。昔、冬彦さん(「テレビドラマ『ずっとあなたが好
きだった』の主人公」)という男性のような例は、極端な例だが、しかしそれに似た話はいくらで もある。
総じてみれば、日本人は、マザコン型民族。よい例が、森進一が歌う、『おふくろさん』。世界広
しといえども、大のおとなが夜空を見あげながら、「ママー、ママー」と涙をこぼす民族は、そう はいない。
そのマザコンタイプの人を調べていくと、おもしろいことに気づく。その母親自身は、マザコン
タイプの息子や娘を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。一方、マザコンタイプ の息子や娘は、自分を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。その双方が互い にそう思い込んでいるから、自分たちのおかしさに気づくことは、まずない。
意識のズレというのはそういうものだが、もっとも互いにそれでよいというのなら、私やあなた
のような他人がとやかく言う必要はない。しかし問題は、そういう男性や女性の周囲にいる人 たちである。男性の妻とか、女性の夫とかなど。ある女性は、結婚直後から自分の夫がマザコ ンであることに気づいた。ほとんど数日おきに、夫が実家の母親と連絡を取りあっているという のだ。何かあると、ときには妻であるその女性に話す前に、実家の母親に報告することもある という。
しかし彼女の夫自身は、自分がマザコンだとは思っていない。それとなくその女性が夫に抗議
すると、「親を大切にするのは子の努め」とか、「親子の縁は切れるものではない」と言って、ま ったく取りあおうとしないという。
いわゆる依存型社会では、「依存性」が、さまざまな形にその姿をかえる。ここにあげた「マザ
コン」もその一つ。で、最近気がついたが、マザコンというと、母親と息子の関係だけを想像し がちだが、母親と娘、あるいは父親と娘でも、同じような関係になることがある。そして息子と 同じように、マザコン的であることが、「いい娘」の証(あかし)であると思い込む女性は少なくな い。
このタイプの女性の特徴は、「あばたもエクボ」というか、何があっても、「母はすばらしい」と決
めつけてしまう。ほかの兄弟たちが親を批判しようものなら、「親の悪口は聞きたくない!」と、 それをはげしくはねのけてしまう。ものの考え方が権威主義的で、親を必要以上に美化する一 方、その返す刀で、自分の息子や娘に、それを求める。つぎの問題は、このとき起きる。息子 や娘がそれを受け入れればそれでよいが、そうでないときには、互いがはげしく衝突する。実 際には、息子や娘がそれを受け入れる例は少なくない。こうした基本的な価値観の衝突は、 「キレツ」程度ではすまない。たいていはその段階で、「断絶」する。
マザコン的であることは、決して親孝行ではない。このタイプの男性や女性は、自らのマザコ
ン性を、孝行論でごまかすことが多い。じゅうぶん注意されたい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(335)
●親は絶対か?
あなたが「親は絶対」と思うのは、あなたの勝手だが、それをあなたの子どもに押しつけては
いけない。えてして人間は、自分の潜在的な願望を、ちょうどカガミのように、その反対側に自 分の姿を焼きつけることがある。「親は絶対」と思いながら、その一方で、「子どもにも自分のこ とをそう思ってほしい」という願望を焼きつける。
このタイプの人は、もともと権威主義的なものの考え方をする。「親が絶対」という考え方そのも
のが、権威主義的であると考えてよい。親を必要以上に美化する一方、その親を批判する人 を許さない。自分の子どもでも、それを許さない。子どもが何かを反発しようものなら、「親に向 って、何だ!」となる。
しかし本当に、親は絶対か? 実のところ、私もその「親」になってみて気づいたが、親といっ
ても、中身はボロボロ。他人どころか、自分の子どもにさえ、尊敬されるべき人間とは思ってい ない。
(決して、かっこうつけて言っているのではない。本心でそう思っている。)
だからいつか(今でも)、自分の息子たちが私を美化しようものなら、私はこう言うだろう。「バカ
なことを考えるな。私は私だ。もっと中身を見てくれ」と。いわんや私を権威化し、息子たちに 「父の言うことは絶対正しい」などと言われたら、私が困る。私はいつもこうしてものを書きなが らも、どこか流動的な自分を知る。明日、自分の思想が変わることはないが、10年後にはわ からない。変わるかもしれない。事実、10年前に書いた自分の文を読んでみたとき、「どうして こんなことを考えたのだろう」と思うときがよくある。私はそういう自分をよく知っているから、今 の私が絶対だとは思っていない。
繰り返すが、あなたが「親は絶対」と思うのは、あなたの勝手だが、それをあなたの子どもに
押しつけてはいけない。えてして人間は、自分の考えに溺れるあまり、自分が親であることをよ いことに、子どもを苦しめることがある。「私は親だ」という論理をふりかざし、つまりそれを逆手 にとって子どもを苦しめている親はいくらでもいる。
さらにタチの悪いことに、親が権威主義的であればあるほど、親自身は自分の子どもの心を
見失う。この私ですら権威主義的なものの考え方をする人と出会うと、「説得してやろう」などと いう考えは吹っ飛んでしまう。絶望感すら覚える。互いの間に、あまりにも大きなミゾを感ずる。 親子の関係なら、なおさらである。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前では仮 面をかぶる。そしてその仮面をかぶった分だけ、心が離れる。
つまり親が「私の子は、親思いのいい子だ」と思っているほど、子どもはそうは思っていない。
現に今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父親のようになり たくない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一〇年)。あなたはこの事 実をどう考えるか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(336)
●親孝行論
先日も、「林先生は、親孝行を否定するのか。先祖を大切にするのは、日本人が伝統的にも
つ美徳。評論家として許せない!」と言ってきた女性(36歳)がいた。しかし私は何も、親孝行 を否定しているのではない。私は「子どもは親のめんどうをみるべきだ」式の安易な親子論、さ らには「先祖を祭らない子孫は滅びる」式の安易な先祖論は、人によっては、その人を苦しめ ることにもなるから注意しなさいと言っているのである。
たとえば私は23歳のときから、収入の30〜50%を、実家(岐阜県M市)へ納めてきた。幼稚
園での給料は2万円だった。(大卒の初任給が6万円弱の時代)。そういうときでも、実家に、 毎月3〜5万円。盆暮れには20〜30万円のお金を置いてきた。
長男が生まれたときも、見舞いにきた母に、24万円を渡した(もらったのではない!) 45歳
のときまでそうしてきた。(45歳のときは、仕送り額を毎月10万円にしてもらったが……。)法 事や葬式、香典、税金もすべて私が払ってきた。(すべて!)
実家の家も新築の費用もすべて私が出した。私の時代には、こういうことは当たり前(?)だっ
た。が、その重圧感というのは相当なものだった。だからというわけではないが、私は自分の 息子たちには、そんな思いはさせたくない。どんなに貧乏をしても、息子たちには負担をかけさ せたくない。私はひとりの親として、そう考える。
で、今、日本に出稼ぎにきているフィッリピンの人やタイの人が、日本で稼いで、母国へ仕送
りをしているという話を聞くと、その孝行ぶりをたたえるというよりは、思わず「たいへんだろう な」と思ってしまう。心から同情する。……と、同時に、こうした後進国性は、早く日本から消し たほうがよいと思う。
が、こうした後進国性は、それを支える周囲の文化を改善しないかぎり、なおらない。私とて、
自分で仕送りをしたくてしたというよりは、「子どもが親や先祖のめんどうをみるのは当然」とい う、当時の世論(=常識?)を心のどこかで感じながら、それに従っただけだ。しかしそんな世 論や常識のほうがまちがっている。おかしい。それとも日本の社会は、まだアフリカの何とか部 族の社会と同じレベルとでもいうのだろうか。
ここまでくると、もう宗教戦争のようにすらなる。家や先祖を中心に家族を考えるか、個人を
中心に家族を考えるかの違いといってもよい。この段階ではどちらが正しいとか、まちがってい るとかいうことにはならない。
要はそれぞれの人が、それぞれの家庭で、平和で仲よく、楽しく過ごせればよい。だから私が
ここで書いているようなことに納得できないからといって、私を責めないでほしい。私もあなたの 意見は尊重するし、そのためあなたを責めることはしない。だから私があなたの意見を尊重す るように、あなたも私の意見を尊重してほしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(337)
●子どもを使うということ
忍耐力を養うためには、子どもは使う。ただ、「子どもを使う」といっても、何をどの程度させ
ればよいということではない。子どもを使うということは、家庭の緊張感の中に、子どもを巻き 込むことをいう。たとえばこんなテスト。
あなたの子どもの前で、重い荷物をもって運んでみてほしい。そのときあなたの子どもがそれ
を見て、「ママ手伝ってあげる!」と言って飛んでくればよし。そうでなく、見て見ぬフリをしたり、 テレビゲームに夢中になっているようであれば、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘と みてよい。今は体も小さく、あなたの前でおとなしくしているかもしれないが、やがてあなたの手 に負えなくなる。
昔、幼稚園で、母親たちの何かの集会があったときのこと。やってくる母親たちにスリッパを
出してあげていた子ども(年長男児)がいた。だれかに頼まれたわけではない。で、その子ども は集会が始まると、今度は、炊事室へ行き、炊事室のおばさんに、お茶を出すからお茶をつく ってほしいとまで言ったという。たまたま彼の母親がその場にいたが、その母親は笑いながら、 こう言った。「うちの子はよく気がつくのですよ。先日は何かのセールスの人にまで、お茶を出し ていました」と。
このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。もともと「勉強」には、ある種の苦痛がともなう。そ
の苦痛を乗り越える力が、ここでいう「忍耐力」だからである。その忍耐力があるかないかも、 簡単なテストでわかる。試しに子どもにこう言ってみてほしい。「台所の生ゴミを始末して!」と。 あるいは風呂場の排水口にたまった毛玉でもよい。
そのとき「ハーイ」と言って、手で始末できれば、あなたの子どもはかなり忍耐力のある子ども
とみる。そうでない子どもは、「いやだ」「やりたくない」とか言って逃げる。年齢が大きくなると、 「自分でしな」「どうしてぼくがしなければいかんのか!」と言うようになる。そうなると、このしつ けをするのは、もう手遅れ。
皮肉なことに子どもというのは、使えば使うほど、すばらしい子どもになる。一方、楽をさせれ
ばさせるほど、ドラ息子、ドラ娘になる。そういう意味でも、日本人は、「子どもを大切にする」と いうことが、まだよくわかっていない? さらに「子どもをかわいがる」ということが、まだよくわか っていない? 子どもにベタベタの依存心をもたせながら、それがかわいがることだというふう に誤解している人はいくらでもいる。しかしそうなればなったで、苦労するのは結局は子ども自 身であることを忘れてはいけない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(338)
●三つの失敗
子育てには失敗はつきものとは言うが、その中でもこんな失敗。
ある母親が娘(高校1年)にこう言ったときのこと。その娘はこのところ、何かにつけて母親を無
視するようになった。「あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっ ているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでし ょ。それがわかっているの!」と。それに答えてその娘はこう叫んだ。「いつ、だれがあんたに そんなことをしてくれと頼んだ!」と。これが失敗、その1。
父親がリストラで仕事をなくし、ついで始めた事業も失敗。そこで高校3年生になった娘に、
父親が大学への進学をあきらめてほしいと言ったときのこと。その娘はこう言った。「こうなった のは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、私の学費を用意してよ! 私を大学へやる のは、あんたの役目でしょ」と。
そこで私に相談があったので、その娘を私の家に呼んだ。呼んで、「お父さんのことをわかって
あげようよ」と言うと、その娘はこう言った。「私は小さいときから、さんざん勉強しろ、勉強しろ と言われつづけてきた。中学生になったときも、行きたくもないのに、進学塾へ入れさせられ た。そして点数は何点だった、偏差値はどうだった、順位はどうだったとそんなことばかり。こ の状態は高校へ入ってからも変わらなかった。その私に、『もう勉強しなくていい』って、どういう こと。そんなことを言うの許されるの!」と。これが失敗、その2。
Yさん(女性40歳)には夢があった。長い間看護婦をしていたこともあり、息子を医者にする
のが、夢であり、子育ての目標だった。そこで息子が小さいときから、しっかりとした設計図を もち、子どもの勉強を考えてきた。が、決して楽な道ではなかった。Yさんにしてみれば、明けて も暮れても息子の勉強のことばかり。ときには、「勉強しろ」「うるさい」の取っ組みあいもしたと いう。
が、やがて親子の間には会話がなくなった。しかしそういう状態になりながらも、Yさんは息子に
勉強を強いた。あとになってYさんはこう言う。「息子に嫌われているという思いはどこかにあり ましたが、無事、目標の高校へ入ってくれれば、それで息子も私を許してくれると思っていまし た」と。
で、何とか息子は目的の進学高校に入った。しかしそこでバーントアウト。燃え尽きてしまっ
た。何とか学校へは行くものの、毎日ただぼんやりとした様子で過ごすだけ。私に「家庭教師で も何でもしてほしい。このままでは大学へ行けなくなってしまう」と母親は泣いて頼んだが、程度 ですめばまだよいほうだ。これが失敗、その3。
こうした失敗は、失敗してみて、それが失敗だったと気づく。その前の段階で、その失敗、あ
るいは自分が失敗しつつあると気づく親は、まずいない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(339)
●断絶とは
「形」としての断絶は、たとえば会話をしない、意思の疎通がない、わかりあえないなどがあ
る。「家族」が家族として機能していない状態と考えればよい。家族には助け合い、わかりあ い、教えあい、守りあい、支えあうという5つの機能があるが、断絶状態になると、家族がその 機能を果たさなくなる。
親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触即発。親
が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は親で、「親に向か って、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか! そして一度、こういう状態になると、あとは 底なしの悪循環。親が修復を試みようとすればするほど、子どもはそれに反発し、子どもは親 が望む方向とは別の方向に行ってしまう。
しかし教育的に「断絶」というときは、もっと根源的には、親と子が、人間として認めあわない
状態をいう。たとえば今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は55%もいる。「父 親のようになりたくない」と思っている中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成10年)。
もっともほんの少し前までは、この日本でも、親の権威は絶対で、子どもが親に反論したり、逆
らうなどということは論外だった。今でも子どもに向かって「出て行け!」と叫ぶ親は少なくない が、「家から追い出される」ということは、子どもにとっては恐怖以外の何ものでもなかった。江 戸時代には、「家」に属さないものは無宿と呼ばれ、つかまればそのまま佐渡の金山に送り込 まれたという。その名残がごく最近まで生きていた。いや、今でも、親の権威にしがみついてい る人は少なくない。
日本人は世間体を重んじるあまり、「中身」よりも「外見」を重んじる傾向がある。たとえば子
どもの学歴や出世(この言葉は本当に不愉快だが)を誇る親は多いが、「いい家族」を誇る親 は少ない。中には、「私は嫌われてもかわまない。息子さえいい大学へ入ってくれれば」と、子 どもの受験競争に狂奔する親すらいる。
価値観の違いと言えばそれまでだが、本来なら、外見よりも中身こそ、大切にすべきではない
のか。そしてそういう視点で考えるなら、「断絶」という状態は、まさに家庭教育の大失敗ととら えてよい。言いかえると、家族が助け合い、わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうことこそ が、家庭教育の大目標であり、それができれば、あとの問題はすべてマイナーな問題というこ とになる。そういう意味でも、「親子の断絶」を軽く考えてはいけない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(340)
●親子の断絶の三要素、(1)リズムの乱れ
親子を断絶させる三つの要素に、(1)リズムの乱れ、(2)価値観の衝突、それに(3)相互不
信がある。
まず(1)リズムの乱れ。子育てにはリズムがある。そしてそのリズムは、恐らく母親が子ども
を妊娠したときから始まる。中には胎児が望む前から(望むわけがないが)、おなかにカセット レコーダーを押しつけて、英語だのクラシック音楽を聞かせる母親がいる。さらに子どもが生ま れると、今度は子どもが「ほしい」と求める前に、時計を見ながら、ミルク瓶を無理やり子どもの 口に押し込む親がいる。「もうすぐ3時間50分……おかしいわ。どうしてうちの子、泣かないの かしら……。もう4時間なのに……」と。
そしてさらに子どもが大きくなると、子どもの気持ちを確かめることなく、「ほら、英語教室」
「ほら、算数の教室」とやりだす。このタイプの母親は、「子どものことは私が一番よく知ってい る」とばかり、何でもかんでも、母親が決めてしまう。いわゆる『ハズ論』で子どもの心を考え る。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「こうすれば子どもは感謝するハズ」と。
このタイプの母親は、外から見ると、それがよくわかる。子どものリズムで生活している母親
は、子どもの横か、うしろを歩く。しかしこのタイプの母親は、子どもの前に立ち、子どもの手を ぐいぐいと引きながら歩く。あるいはこんな会話をする。
私、子どもに向かって、「この前の日曜日、どこかへ行ってきたの?」、それを聞いた母親、
会話の中に割り込んできて、「おじいちゃんの家に行ってきたわよね。そうでしょ。だったらそう 言いなさい」、そこで私、再び子どもに向かって、「楽しかった?」と聞くと、母親、また割り込ん できて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、楽しかったと言いなさい」と。
いつも母親のほうがワンテンポ早い。このリズムの乱れが、親子の間にキレツを入れる。そ
してそのキレツが、やがて断絶へとつながっていく。あんたはだれのおかげでピアノがひけるよ うになったか、それがわかっているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連 れていってあげたからでしょ。それがわかっているの!」「いつ、だれがあんたにそんなことをし てくれと頼んだ!」と。
つまりこのタイプの親は、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があっ
た。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小3男児)は毎日、通信講座のプリント を3枚学習することにしていますが、2枚までなら何とかやります。が、3枚目になると、時間ば かりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。
こうしたケースでは、私は「プリントは2枚で終わればいい」と答えるようにしている。仮にこれら
の子どもが、プリントを3枚するようになれば、親は、「四枚やらせたい」と言うようになる。子ど もは、それを知っている。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(341)
●親子の断絶の3要素、(2)価値観の衝突
日本の子育てで最大の問題点は、「依存性」。日本人は子どもに、無意識のうちにも依存性
をもたせ、それが子育ての基本であると考えている。
たとえばこの日本では、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子と
する。一方、独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、昔から「鬼っ子」として嫌う。言う までもなく、依存と自立は、相対立した立場にある。子どもの依存性が強くなればなるほど、子 どもの自立は遅れる。
が、この日本では、「依存すること」そのものが、子育ての一つの価値観になっている。たとえ
ば「親孝行論」。こんな番組があった。数年前だが、NHKの『母を語る』というのだが、その中 で、歌手のI氏が涙ながらに、母への恩を語っていた。「私は女手ひとつで育てられました。そ の母の恩に報いたくて東京へ出て、歌手になりました」と。I氏はさかんに「産んでもらいました」 「育てていただきました」と言っていた。
私はその話を聞いて、最初は、I氏はすばらしい母親をもったのだな、I氏の母親はすばらしい
人だなと思った。しかし10分くらいもすると、大きな疑問が自分の心の中に沸き起こってくるの を感じた。本当にI氏の母親はすばらしい人なのか、と。ひょっとしたらI氏の母親は、I氏を育て ながら、「産んでやった」「育ててやった」と、I氏を無意識のうちにも追いつめたのかもしれな い。そういう例は多い。たとえば窪田聡という人が作詞、作曲した『かあさんの歌』というのがあ る。あの歌の歌詞ほど、ある意味で恩着せがましく、またお涙ちょうだいの歌詞はない?
で、結局はこうした「依存性」の背景にあるのは、子どもを一人の人間としてみるのではなく、
子どもを未熟で未完成な半人前の人間とみる、日本人独特の「子ども観」があると考える。「子 どもは子どもでないか。どうせ一人前に扱うことはできないのだ」と。そしてこういう「甘さ」は、そ のまま子育てに反映される。
子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせることだ。子どもを大切にするという
ことは、子どもに苦労させないことだと考えている人は多い。先日もロープウェイに乗ったとき、 うしろの席に座った60歳くらいの女性が、五歳くらいの孫にこう話していた。「楽チイネ、おば あチャンといっチョ、楽チイネ」と。子どもを子ども扱いすることが、子どもを愛することだと誤解 している人は多い。
そこで価値観の衝突が始まる。たとえば親孝行論にしても、「親孝行は教育の要である。日
本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。しかし現実には、総理府の調査でも、今の若 い人たちで、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えている人は、19%に過ぎない(総理 府、平成九年調査)。
どちらが正しいかという問題ではない。親が一方的に価値観を押しつけても、今の若い人たち
はそれに納得しないだろうということ。そしてそれが、いわゆる価値観の衝突へと進む。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(342)
●親子の断絶の三要素、(3)信頼関係の喪失
子どもをあるがままを受け入れろとはよく言われている。しかし子どもをあるがまま受け入れ
るということは、本当にむずかしい。むずかしいことは、親なら、だれでも知っている。さらに子 どもを信じろとも、よく言われている。しかし子どもを信ずるということはさらにむずかしい。
「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。そうでなければ、そうでない。子どもは
長い時間をかけて、あなたの思いどおりの子どもになる。そういう意味で子どもの心はカガミの ようなものだ。
イギリスの格言にも、「相手は、あなたが相手を思うように、あなたのことを思う」というのがあ
る。たとえばあなたがAさんのことを、「いい人だ」と思っていると、相手も、あなたのことを「いい 人だ」と思っているということ。子どももそうで、「うちの子はいい子だ」と思っていると、子どもも 「うちの親はいい親だ」と思うようになる。そうでなければそうでない。
昔、幼稚園にどうしようもないワル(年中男児)がいた。友だちを泣かせる、ケガをさせるは日
常茶飯事。先生たちも手を焼いていた。が、ある日私がその子どもを見かけると、その子ども が床にはいつくばって絵を描いていた。そして隣の子どもにクレヨンを貸していた。私はすかさ ずその子をほめた。ほめて、「あなたはいい子だなあ。やさしい子だな」と言った。それから数 日後もまた見かけたので、また同じようにほめてやった。「君は、クレヨンを貸していた子だろ。 いい子だなあ」と。それからもその子どもはワルはワルだったが、どういうわけか、私を見かけ ると、そのワルをパッとやめた。私に向かって、「センセ〜!」と言って手を振ったりした。
子どもを伸ばす秘訣は、子どもを信ずること。子どもというのは、(おとなもそうだが)、自分を
信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そういう子どもの性質を利用して、 子どもを前向きに伸ばす。もしあなたが今、「うちの子はどうも心配だ」と思っているなら、今日 からその心をつくりかえる。方法は簡単だ。
最初はウソでもよいから、「うちの子はいい子だ」を繰り返す。子どもに向かっては、「あなたは
すばらしい子だ」「どんどんよくなっている」を繰り返す。これを数か月、あるいは半年とつづけ る。やがてあなたがその言葉を、自然な形で言えるようになったとき、あなたの子どもはその 「いい子」になっている。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(343)
●親子のリズムを取り戻すために(1)
昔、オーストラリアの友人がいつもこう言っていた。親には3つの役目がある。1つ目は親は
子どもの前を歩く。子どものガイドとして。2つ目は子どものうしろを歩く。子どもの保護者(プロ テクター)として。そして3つ目は、子どもの横を歩く。子どもの友として。
日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意だが、横を歩くのが苦手。その理由の一つ
が、日本ではおとなと子どもを分けて考える傾向が強い。おとなはおとなだが、子どもを半人前 の、未熟で、未経験な人間と位置づける。もともと対等ではないという前提で、子どもをみる。
たとえば先日もロープウェイに乗ったときのこと、背中合わせにすわった女性(60歳くらい)
が、5歳くらいの孫に向かってこう話していた。「楽チイネ、楽チイネ、おばあチャンと、イッチョ、 楽チイネ」と。
5歳といえば、人格の形成期に入る。その時期に、こうまで子どもを子ども扱いしてよいもの
か。子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせることではない。同じように子ど もを大切にするということは、子どもを子ども扱いすることではない。子どもを大切にするという ことは、子どもを一人の人格者として尊敬することである。子どもの年齢には関係ない。子ども がたとえ赤ん坊でも、また成人していても、子どもを一人の人間として認める。子育ての基本は ここにあり、すべての子育ては、ここを原点として始まる。
日本には親意識という言葉がある。この親意識には、2つの意味がある。1つは「親としての
自覚」を意味する親意識。これは重要な親意識である。もう1つは、「私は親だ」式に、子どもに 向かって親の権威を押しつける親意識。
この親意識が強ければ強いほど、親は、子どもの横に立つことができなくなる。というのも、も
ともと親意識の根底にあるのは、上下意識。男が上、女が下。夫が上、妻が下。そして親が 上、子が下と。日本人は長い間の、極東の島国という特異な環境で、独特の上下意識を育て た。たとえば英語には、「先輩、後輩」にあたる単語すらない。
あえて言えば、ジュニア、シニアだが、それとて日本で使う意味とはまったく違う。言うまでもな
く、この日本ではたった1年でも先輩は先輩、後輩は後輩という考え方をし、そこに徹底した支 配、従属関係を築く。
が、今、幸か不幸か、(幸なのだろうが……)、この権威主義が急速に崩れつつある。その一
例が、尾崎豊が歌った「卒業」である。あの歌は、CDのジングル版だけでも200万枚(CBSソ ニー広報部)も売れたそうだ。「アルバム版、カセット版も含めると、300万枚以上」ということ だそうだ。
あの歌の中で尾崎は、「しくまれた自由」からの「卒業」を訴えた。私たち団塊の世代(戦後生ま
れ)にとっては、青春時代は、まさに反権力闘争一色だったが、尾崎の世代(今の父親、母親 の世代)には、反世代闘争へとそれが変化していった。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(344)
●親子のリズムを取り戻すために(2)
尾崎豊は「卒業」をとおして、おとなたちの権威を否定した。「先生、あんたもか弱き羊なの
か」と彼は歌った。尾崎のこの歌は、まさにその世代の「俺たちの怒り」を代弁したものだった。 そこで尾崎は、「行儀よく、まじめなんてできやしなかった」と歌い、つづけて「夜の校舎、窓ガラ ス壊して回った」と歌う。
問題はここである。尾崎は権威を破壊した。それはわかる。しかしそれにかわる新しい価値観
をつくることができなかった。そしてそれがそのまま、今の若い父親や母親の混乱の原因とな っていった。
最近、よく家庭における教育力の低下を訴える論調をみかける。しかし実際には、いろいろ
な統計結果をみても、家庭における教育力は低下などしていない。私の世代とくらべるのもヤ ボなことだが、私たちの時代には、親子の触れあいなど、ほとんどなかった。親も自分たちが 食べていくだけで精一杯。家族旅行にしても、私のばあい、小学6年生までにたったの一度し かない。しかし今は違う。日曜日ごとにドライブをする。各地の行楽地は親子連れでいっぱい ……!
教育力が低下したのではなく、親たち自身が、古い価値観を否定し、破壊したものの、それ
にかわる新しい価値観をつくれないでいる。そしてそれが原因で、家庭教育が混乱している。 教育力が低下したのは、あくまでもその結果でしかない。昔は、「親に向かって何だ!」と、親 が一喝すれば、子どもはそれで黙った。しかし今は、違う。親自身がそうであってはいけないと 思っている。その迷いがそのまま、混乱となった。
で、ここで二つの考え方が生まれる。一つは旧来型の「親の権威を取り戻そう」という考え
方。私はこれを復古主義と呼んでいる。もう一つは、「そうであってはいけない。新しい考え方を つくろう」という考え方。私は当然のことながら、後者の考え方を支持する。またそうでなくては いけないと考える。
そこでどうするか? 新しい価値観をつくるためにどうするか? もう答はおわかりかと思う。
基本的には、子どもは生まれながらにして、一人の人間として認める。そして時には、子どもの 前やうしろを歩くことはあっても、しかしそれ以上に、子どもの横を歩く。
子どもに向かって、「〜〜しなさい」と叫んだり、子どもに向かって、「おいチイネ、おいチイネ」と
甘くささやくのではなく、「あなたはどう思うの」「あなたは私に何をしてほしいの」と、子どもの心 を確かめながら行動する。子どもと一緒に歩くときも、務めて子どもの横を歩く。できれば子ど ものうしろを歩く。こうした謙虚な気持ちが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(345)
●価値観の衝突を防ぐにはどうするか(1)
価値観の衝突は、えてして宗教戦争のような様相をおびる。互いに「自分が正しい」と信じて
いるから、その返す刀で、「あなたはまちがっている」とぶつける。互いに容赦しない。親子でも このタイプの衝突は、行きつくところまで行きつく。たとえば「権威主義」を考えてみる。
日本人は本来、権威主義的なものの考え方を好む。よい例が、あの水戸黄門である。三つ
葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すれば、まわりの者が皆頭をさげる。今でもあのド ラマは視聴率を、20%以上稼いでいるというから驚きである。つまり日本人には、あれほど痛 快な番組はない?
しかしこうした権威主義は、欧米では通用しない。あるときオーストラリアの友人が私にこう聞
いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。そのときでも頭をさげるのか」 と。同じような例は、ときとして家庭の中でも起きる。
親をだます子どもがいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。Kさん(70歳)は、息
子が海外へ出張している間に、息子の貯金通帳からお金を引き出し、自分の借金の返済にあ ててしまった。息子がKさんを責めると、Kさんはこう居なおった。
「親が先祖を守るため息子のお金を使って何が悪い」と。
問題はこのあとだ。周囲の人の意見は、まっ二つに分かれた。「たとえ親でも悪いことをした
ら、あやまるべきだ」という意見。もう一つは、「親はどんなことがあっても、子どもに頭をさげる べきではない」という意見。
あなたがどちらの意見であるにせよ、こういうケースでは、その中間の考え方というのは、ほ
とんどない。そして親も子も同じように考えるときには、衝突は起きない。しかし互いの価値観 が対立したとき、それはそのまま衝突となる。
もっともこうしたケースは特殊なもので、そう日常的に起こるものではない。しかしこれだけは
言える。親が権威主義的であればあるほど、「上」のものにとっては、居心地のよい世界かもし れないが、「下」のものにとっては、そうではないということ。
ここにも書いたように、下のものが上のものに同調すれば、それはそれでうまくいくかもしれな
いが、たいていは下のものは、上のものの前で仮面をかぶるようになる。そして仮面をかぶっ た分だけ、上のものは下のものの心がつかめなくなる。つまりその段階で、互いの間にキレツ が入る。そしてそのキレツが長い時間をかけて、断絶となる。
結論から言えば、親の権威主義など、百害あって一利なし。少なくともこれからの考え方では
ない。ちなみに、小学生6年生10人に私がこう聞いてみた。「君たちのお父さんやお母さん が、何かまちがったことをしたとき、お父さんやお母さんは、君たちに謝るべきか。それとも、親 なのだから、謝るべきではないのか」と。すると、全員がすかさず大きな声でこう答えた。「謝る べきだヨ〜」と。これがこの日本の流れであり、もう流れを変えることはできない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(346)
●価値観の衝突を防ぐにはどうするか(2)
依存性には相互作用がある。つまり子どもだけの依存性を問題にしても意味はない。たとえ
ば依存心の強い子どもがいる。何かを食べたいときも、「食べたい」とは言わない。「おなかが すいたア〜(だから何とかしてくれ)」などという。多分、家庭ではそう言えば、まわりのものが何 とかしてくれるのだろう。
同じように園でも、トイレへ行きたいときも、トイレへ行きたいとは言わない。「先生、おしっこオ
〜」などと言う。日本語の特徴ということにもなるが、言いかえると、日本人はそこまで依存性 の強い民族ということにもなる。で、こうした依存性の強い子どもが生まれる背景には、それを 容認する甘い家庭環境がある。
もっと言えば、親自身も、潜在的にだれかに依存したいという願望があり、それが姿を変えて、
子どもの依存心に甘くなる。もっとも親が壮年期にはそれは目立たない。しかし老年になると、 再びそれが現れる。ある女性(65歳)は、自分の息子や娘に電話をかけるたびに、今にも死 にそうな、弱々しい声でこう言う。「お母さんも歳をとったからネエー(だから何とかしろ)」と。
子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。「あなたの人生はあなたのもの
だから、この広い世界を自由に羽ばたきなさい。たった一度しかない人生だから、思う存分、 自分の人生を生きなさい。親孝行……? そんなことを考えなくていい。家の心配……? そ んなこと考えなくていい」と、一度は、子どもの背中を叩いてあげてこそ、親は親としての義務を 果たしたことになる。
親孝行や家の心配を子どもに求めてはいけない。それを期待するのも、強要するのもいけな
い。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をするというのであ れば、それは子どもの問題。子どもの勝手。
……と書くと、こう言う人がいる。「林、君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。日本には
日本独特の美徳というものがある。親孝行もその一つだ」と。
ところがどっこい。こんな調査結果もある。平成6年に総理府がした調査だが、「どんなことを
してでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、23%(3年後の平成9年には19%にまで 低下)しかいない。自由意識の強いフランスでさえ59%。イギリスで46%。あのアメリカでは、 何と63%である。(ほかにフィリッピン81%(11か国中、最高)、韓国67%、タイ59%、ドイツ 38%、スウェーデン37%、日本の若者のうち、66%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答え ている。
これを裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。)欧米の人
ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期にきているとみる べきではないのか。
子どもを自立させたかったら、親自身も自立する。つまり親の自立なくして、子どもの自立は
ないということになる。そしてそのほうが、結局は親子の絆を深める。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(347)
●子どもを信ずるということ(1)
私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐 怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか ……? その方法はあるのか……?
一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。
息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。息子「アメリカで就職したい」、私「いいだろ」、息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカの この地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。結婚式には来てくれるか」、 私「いいだろ」、息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」、私「いいだろ」と。その一つずつの段 階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなか った。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。息子「アメ リカ国籍を取る」、私「……日本人をやめる、ということか……」、息子「そう……」、私「……い いだろ」と。
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には『無条件の愛』という言葉がある。私 が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が 抜けるほど軽くなったのを知った。
「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け 入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由など ない。
一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいで
になりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死 を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができるよう になるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれ を、私に教えてくれた。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(348)
●子どもを信ずるということ(2)
人とのトラブルで私が何かを悩んでいると、オーストラリアの友人は、いつも私にこう言った。
「ヒロシ、許して忘れろ。OK?」と。英語では「Forgive and Forget」と言う。聖書の中の言葉らし いが、それはともかく、私は長い間、この言葉のもつ意味を、心のどこかで考え続けていたよう に思う。「フォ・ギブ(許す)」は、「与える・ため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」 は、「得る・ため」とも訳せる。「では何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか」と。
ある日のこと。自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。ふとこの言葉が、私の頭の中
を横切った。「許して忘れる」と。「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子ど もはお前の子どもではないか。誰の責任でもない、お前自身の責任ではないか」と。とたん、私 はその「何」が、何であるかがわかった。
あなたのまわりには、あなたに許してもらいたい人が、たくさんいる。あなたが許してやれば、
喜ぶ人たちだ。一方、あなたには、許してもらいたい人が、たくさんいる。その人に許してもらえ れば、あなたの心が軽くなる人たちだ。つまり人間関係というのは、総じてみれば、(許す人)と (許される人)の関係で成り立っている。
そこでもし、互いが互いを許し、そしてそれぞれのいやなことを忘れることができたら、この世
の中は何とすばらしい世の中になることか。……と言っても、私のような凡人には、そこまでで きない。できないが、自分の子どもに対してなら、できる。私はいつしか、できの悪い息子たち のことで何か思い悩むたびに、この言葉を心の中で念ずるようになった。「許して忘れる」と。
つまりその「何」についてだが、私はこう解釈した。「人に愛を与えるために許し、人から愛を得
るために忘れる」と。子どもについて言えば、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を 得るために忘れる」と。これは私の勝手な解釈によるものだが、しかし子どもを愛するというこ とは、そういうことではないだろうか。そしてその度量、言いかえると、どこまで子どもを許し、そ してどこまで忘れることができるかによって、親の愛の深さが決まる……。
もちろん「許して忘れる」といっても、子どもを甘やかせということではない。子どもに好き勝手
なことをさせろということでもない。ここでいう「許して忘れる」は、いかにあなたの子どもができ が悪く、またあなたの子どもに問題があるとしても、それをあなた自身のこととして、受け入れ てしまえということ。「たとえ我が子でも許せない」とか、「まだ何とかなるはずだ」と、あなたが考 えている間は、あなたに安穏たる日々はやってこない。
一方、あなたの子どももまた、心を開かない。しかしあなたが子どもを許し、そして忘れてしまえ
ば、あなたの子どもも救われるが、あなたも救われる。何だかこみいった話をしてしまったよう だが、子育てがどこかギクシャクしたら、この言葉を思い出してみてほしい。「許して忘れる」 と。それだけで、あなたはその先に、出口の光を見いだすはずだ。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(349)
●子育ての目標
親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。
が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな る。
「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが 大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま ま、口をつぐんでしまう。
法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたこ とを喜べ、感謝せよ」と。
私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。
子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも 巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。親がせい ぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドアをあけ、部 屋を掃除しておくことでしかない。
私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってく
る。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってく る。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。
今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(1872〜1970)は、こう書き残している。
「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」 と。
こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(350)
●内政不干渉の原則
それぞれの家庭には、外から図り知ることができない複雑な事情がある。一方、私たちはそ
れぞれが家庭をもち、子どもをもち、一つの生活をもっている。しかしそれはあくまでも「一 つ」。その一つを基準にして、他人の家庭をのぞいてはいけない。いわんや批判したり、節介を してはいけない。
それぞれの人は、ぞれぞれに懸命に生きている。あなたがそれらの人を、経済的に援助して
いるとか、社会的にめんどうをみているというのなら話は別だが、そうでなければ、内政干渉は やめたほうがよい。
私にも一人の知人(55歳男性)がいる。実にノー天気な男で、いつも他人の不幸に顔をつっ
こんでは、あれこれ説教しては楽しんでいる。自分では、いっぱしの人生経験者だと思っている らしい。
昔、私が家を新築するときやってきて、コンクリートの基礎を見ながらこう言った。「ここは六畳
間ですかあ。六畳間はせまいから、使いものになりませんね。それに廊下が暗いですよ。日当 たりが悪いから……」と。やがて家が建つとまたやってきて、こう言った。「ここは風当たりが強 いですね。これではいけない。西側に塀をつくるといい。ははは、やっぱり六畳間は使い勝手 が悪いでしょう。それに南側には大きな木を植えるといい」と。
それからも私の家にトラブルが起きるたびに、どこから聞きつけてくるのか、そのつどやって
きてあれこれ説教した。「林君も、郷里にお母さんを残してたいへんですね。子どもが親のめん どうをみるのは当たり前ですから、そろそろ実家へ帰ることも考えなくてはいけませんね」と。
こちらの生活の根幹にかかわるような問題を、ズケズケと平気で言う。で、ある日とうとう私の
ほうがキレた。キレて、「2度と電話をしてこないでほしい」と言い切った。が、そういうノー天気 な人には、こちらの気持ちなどまるでわからない。半年もするとまた電話がかかってきて、「今 度、いっしょに台湾へ行きませんか。安いコースがありますから……」と。
こういう人は例外だとしても、他人の心に無神経な人はいくらでもいる。先日も私にこう言った
元幼稚園教師がいた。「林先生の息子さんは、今どちらの大学に? 先生の息子さんのことで すから、さぞかしいい大学に行っておられることでしょうね」と。思わず「高校は中退で、今は家 でゴロゴロしています」とウソを言いそうになったがやめた。こういうウソは相手を喜ばすだけ だ。
もともとこのタイプの人は、こちらの心配など、何もしていない。いわゆる「アラ(欠点)」をさがし
ては、そのアラをまた別の人に伝えては楽しんでいるだけ。先の知人も、口が軽いことこの上 なし。何かを相談したら最後。その話は一夜のうちに皆に伝わってしまう……。
内政不可侵の原則。それを守るか守らないかは、あなたの勝手だが、これだけは言える。そ
れを守らないと、あなたは確実に嫌われる。
******************09年7月7日(以上)***********
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(351)
●孤独論
私のようにもともと「うつ型気質」の人間にとっては、孤独ほど、恐ろしいものはない。何かの
仕事をやり終え、ほっと気を抜いたようなとき、心も弱くなる。ひとりだけポツンと取り残された ような孤独を覚える。これは私だけが感ずる孤独なのか、それとも人間が等しく感ずる孤独な のかはわからない。
が、いろいろな人の本を読んでも、それほど大きな違いはないように思う。(本当のところは他
人の心の中に入ったことがないので、わからないが……。)で、ときどき一番身近にいる女房 に、「お前はどうなのか」と確かめることがある。もっとも私の女房は、本当にタフで、精神的に も安定している。「私は体は女だけど、心は男よ」とよく言うが、本当にそうだと思う。
一方私は、繊細で、そのつどいろいろなことを考える。ときに考えすぎて、身動きがとれなくなる
こともあるが、私はそういうタイプの人間だ。そういう意味では、精神的にもタフでないし、情緒 も不安定だ。一日のうちにも、周囲の状況に応じて、気分がよく変わる。
で、これから先、どうやってその孤独を処理したらよいのか、ときどき考える。子どもたちはや
がて巣立っていくだろう。女房とて、ひょっとしたら、私より先に死ぬかもしれない。そうなったと き、私はどう過ごせばよいのか。多分そのころは老人ホームかどこかで、のんびりとはいかな いが、まあまあ、そこそこの老人生活を送っているに違いない。
しかしその生活が望ましい生活だとは思っていない。できれば心の許しあえる人と、いつまでも
いつまでも語りあっていたい。死ぬまでというより、夜、床に入ってから、眠るまで、だ。死ぬと きになったら、私はジタバタしたくない。今のところ自信はないが、しかし今はそう思う。
こういうとき何か、信じられる宗教があればよいと思う。実際、アメリカのジムは、敬虔なクリ
スチャンだが、彼は人里離れた牧場で、今は妻だけと暮らしている。ああいう生活を見ると、彼 の宗教が、彼の孤独をやわらげているのではないかと思う。(こういう言い方は失礼な言い方 だが……。)つまり私なら、そのさみしさに、とても耐えられないだろうと思う。
もちろん孤独に勝つ方法もある。夢や希望をもつことだ。それに友情や、少しキザない言い
方かもしれないが、「愛」だって、それがあれば、孤独はやわらぐ。で、そういうものを、総合的 に提供してくれるのが、「家族」ということになる。名誉や地位ではない。肩書きでもない。「家 族」だ。
考えてみれば、私の人生はずっと孤独だった。これからも孤独だろう。だからこそ、私は家族
のありがたみを知っている。つまり私の「家族主義」は、こうした私の心の弱さを補うために生 まれたと言ってもよいのではないか。
さて、皆さんは、今、孤独だろうか。それとも孤独でないだろうか。が、もしあなたが孤独なら、
「孤独なのはあなただけではない」ということだけは、わかってほしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(352)
●子どもとの笑い
いつも深刻な話ばかりなので……。最近経験した楽しい話(?)をいくつか……。
(1)ときどきまったく手をあげようとしない子ども(年中女児)がいる。そこで私が「先生(私)を
好きな子は、手をあげなくていい」と言ったら、その子は何を思ったか、腕組みをして私をにら んだ。「セクハラか?」と思わず後悔したが、そのあと私が「どうして手をあげないの?」と聞く と、「だって、私、先生が好きなんだもん」と。マレにですが、私も子どもに好かれることがある のです。
(2)私が「三匹の魚がいました。そこへまた二匹魚がきました。全部で何匹ですか?」と聞くと、
皆(年長児)が、「五匹!」と答えた。そこで私が電卓を取り出して、「ええと、三足す二で……」 と電卓を叩いていたら、一人の子どもがこう言った。「あんた、それでも本当に先生?」と。
(3)指をしゃぶっている子ども(年中児)がいた。そこで私が、「どうせ指をしゃぶるなら、もっと
かっこよくしゃぶりなよ。おとなのしゃぶり方を教えてあげるよ」と言って、少しばかりキザなしゃ ぶり方(指を横から、顔をななめにしてしゃぶる)を教えてやった。するとその子は、本当にそう いうしゃぶり方をするようになった。私は少しからかってやっただけなのだが……。
(4)私のニックネームは……? 「美男子」「好男子」「長足の二枚目」。あるとき私に「ジジイ
ー」「アホ」と言う子ども(年長児たち)がいたので、こう話してやった。「もっと悪い言葉を教えて やろうか。しかし先生や、お父さんに使ってはダメだ。いいな」と。子どもたちは「使わない、使 わない」と約束したので、こう言ってやった。「ビダンシ」と。それからというもの、子どもたちは 私を見ると、「ビダンシ、ビダンシ」と呼ぶようになった。
(5)算数を教えながら、「○と△の関係は何ですか?」と聞いたら、一人の子ども(小四男児)
が、「三角関係!」と。ドキッとして、「何だ、それは?」と聞くと、「男が二人で、女が一人の関係 だよ」と。すると別の子どもが、「違うよオ〜、女が二人で、男が一人だよオ〜」と。とたん、教室 が収拾がつかなくなってしまった。
私が、「今どきの子どもは、何を考えているんだ!」と叱ると、こんな歌を歌い始めた。「♪今ど
き娘は、一日五食、朝昼三時、夕食深夜……」と。「何だ、その歌は」と聞くと、「先生、こんな歌 も知らないのオ〜、遅れてるウ〜」と。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(353)
●心を開く
何でも言いたいことを言い、したいことをする。悲しいときは悲しいと言う、うれしいときはうれ
しいと言う。泣きたいときは、思いっきり泣くことができる。自分の心をそのままぶつけることが できる。そういう状態を、「心が開いている状態」という。
昔、ある文士たちが集まる集会で、一人の男性(七〇歳)がいきなり私にこう聞いた。「林君、
君のワイフは、君の前で『おなら』を出すかね?」と。驚いて私が、「うちの女房はそういうことは しないです……」とあわてて答えると、そばにいた人たちまで一斉に、「そりゃあ、かわいそう だ。君の奥さんはかわいそうだ」と言った。
子どもでも、親に向かって、「クソじじい」とか、「お前はバカだ」と言う子どもがいる。子どもが
悪い言葉を使うのを容認せよというわけではないが、しかしそういう言葉が使えないほどまで に、子どもを追いつめてはいけない。一応はたしなめながらも、一方で、「うちの子どもは私に 心を開いているのだ」と、それを許す余裕が必要である。子どもの側からみて、「自分はどんな ことをしても、またどんなことを言っても許されるのだ」という絶対的な安心感が、子どもの心を 豊かにする。
そこで大切なことは、心というのは、相手に対して「開く心」と、もう一方で、それを受け止める
「開いた心」がないと、かよいあわないということ。子どもが心を開いたら、同じように親のほうも 心を開く。それはちょうどまさに「開いた心の窓」のようなものだ。どちらか一方が、心の窓を閉 じていたのでは、心を通いあわせることはできない。R氏(四五歳)はこう言う。
「私の母(六五歳)は、今でも私にウソを言います。親のメンツにこだわって、あれこれ世間体
をとりつくろいます。私はいつも本音でぶつかろうとするのですが、いつもその本音が母の心の カベにぶつかって、そこではね返されてしまいます。私もさみしいですが、母もかわいそうな人 です」と。
そこで問題なのは、あなたの子どもはあなたに対して、心を開いているかということ。そして同
じように、あなたはあなたの子どものそういう心を、心を開いて受け止めているかということ。も しあなたの子どもがあなたの前で、よい子ぶったり、あるいは心を隠したり、ウソをついたり、さ らには仮面をかぶっているようなら、子どもを責めるのではなく、あなた自身のことを反省す る。相手の心を開こうと考えるなら、まずあなた自身が心を開いて、相手の心をそのまま受け 入れなければならない。またそれでこそ、親子であり、家族ということになる。
さてその文士の集まりから帰った夜、私は恐る恐る女房にこう言った。「おまえはあまりぼく
の前でおならを出さないけど、出していいよ」と。が、数日後、女房はそれに答えてこう言った。 「それは心を開いているとかいないとかいう問題ではなく、たしなみの問題だと思うわ」と。ま あ、世の中にはいろいろな考え方がある。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(354)
●心を開く(2)
心を開くということは、相手に対しては自分のあるがままをさらけだすこと。一方、相手に対し
ては、相手のすべてを受け入れるということ。少しきわどい話になって恐縮だが、『おなら』があ る。ふつう自分のおならは、気にならない。小学生に聞いても、全員が例外なく、「自分のは、 いいにおいだ」と言う。しかし問題は、自分以外の人のおならだ。
もちろん見知らぬ人のおならは、不愉快だ。いかに相手が美人であり、美男子であっても、そ
れは関係ない。しかしそれが親や兄弟のとなると、多少、感じ方が変わってくる。さらに親しい 友人や、尊敬する人になると変ってくる。昔、恩師のM先生(女性)がこう話してくれた。
「私は女学生のとき、好きな先生がいた。好きで好きでたまらなかった。が、その先生がある
日、私のノートを上からのぞいたとき、ポタリと鼻くそを私の机の上の落した。私はその鼻くそを 見たとき、どういうわけかうれしくてならなかった」と。相手を受け入れるといういことは、そういう ことをいう?
そこで今度は家族について。あなたは自分の夫や妻、さらには子どもをどこまで受け入れて
いるだろうか。またまた『おなら』の話で恐縮なのだが、あなたはあなたの夫や妻がおならを出 したとき、それをどこまで受け入れることができるだろうか。自分のおならのように、「いいにお い」と思うだろうか。それとも他人のおならのように、不愉快だろうか。実のところ、私も女房の おならが許せるようになったのは、結婚してから二〇年近くもたってからだ。自分のにおいのよ うに感ずることができるようになったのは、ごく最近になってからだ。
女房はめったに私の前ではしないが、眠ってしまったあと、ふとんの中でそれを出す。で、若い
ころはふとんの中でそれされると、鼻先だけふとんの中から外へ出し、口で息をしたり、ときに は窓を開け放って、ガスを追い出したりしていた。今も「平気」とまではいかないが、「またやっ たな」という思いながらも、そのまま眠ることができる。
問題はあなたと子ども、である。あなたは子どものすべてを受け入れているだろうか。こういう
とき「べき」という言い方はしたくないが、しかしこれだけは言える。親に受け入れてもらえない 子どもほど、不幸な子どもはいないということ。言いかえると、親にすら心を開いてもらえない子 どもは、自分自身も心を開くことができなくなる。そういう意味で、子どもは心の冷たい子どもに なる。
もう少し正確には、自分の心を防衛するようになり、そのためさまざまな「ゆがみ」を見せるよう
になる。ひがむ、いじける、ねたむ、すねるなど。心のすなおさそのものが、消える。へんに愛 想がよくなることもある。そういう意味で、もしあなたがあなたの子どもに心を閉じているなら、 それは「あるべき」親の姿勢ではない。「努力して」というほど簡単な問題ではないかもしれない が、しかしあなたの子どものためにも努力する。
方法としては、まず子どもを友として受け入れる。つぎにあとは「許して忘れる」。これを日常
的に繰り返す。時間はかかるが、やがてあなたは心を開くことができるようになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(355)
●女性は家の家具?
いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助」程度にしか考えていない男性が多いのは、驚きで
しかない。いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている人が、二割 近くもいる。たとえば国立社会保障人口問題研究所の調査(2000年)によると、「掃除、洗 濯、炊事の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも50%以上。「夫も家事や育児を平 等に負担すべきだ」と答えた女性は、76・7%いる。が、その反面、「反対だ」と答えた女性も2 3・3%もいる。
ここで「平等に負担」の内容だが、外で仕事をしている夫が、時間的に「平等に」家事を負担
することは、不可能である。それは当然だが、しかしこれは意識の問題。夫が「家事を平等に 負担すべき」と考えながら、妻の仕事をみるのと、夫が、「男は仕事さえしていればそれでい い」と考えながら、妻の仕事をみるのとでは、その見方はまるで変わってくる。
今の日本の現状は、男性たちが、あまりにも世の通俗的な常識に甘え、それをよいことに居な
おりすぎている。中には、「女房や子どもを食わせてやっている」とか、「男は家庭の中でデーン と座っていればいい」とか言う人もいる。仕事第一主義が悪いわけではないが、その仕事第一 主義におぼれるあまり、家庭そのものをまったくかえりみない人も多い。
……というようなことを、先日、ある講演会で話したら、その担当者(男性)が講演のあと、私
にこう言った。「このあたりは三世代同居が多いのです。そういうことを先生(私)が言うと、家 族がバラバラになってしまいます。嫁は嫁として、家の中でおとなしくしていてくれなければ、困 るのです」と。
男性の仕事第一主義についても、「農業で疲れきった男が、どうして家事ができますか」とも。
私があきれていると、(黙って聞いていたので、納得したと誤解されたらしい)、こうも言った。 「このあたりの若い母親たちは、家から出て、こうした講演会へ息抜きにきているのです。むず かしい話よりも、はははと笑えるような話をしてください」と。
これには正直言って、あきれた。その男性というのは、まだ30歳そこそこの男性。今の日本
の「流れ」をまったく理解していないばかりか、女性の人権や人格をまったく認めていない。そ の男性は「このあたりは後進国ですから」とさかんに言っていたが、彼自身の考え方のほうが、 よっぽど後進国的だ。
それはともかくも、こんな現状に、世の女性たちが満足するはずがない。夫に不満をもつ妻も
ふえている。厚生省の国立問題研究所が発表した「第2回、全国家庭動向調査」(1998年)に よると、「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、51・7%しかいない。この数値は、前 回1993年のときよりも、約10ポイントも低くなっている(93年度は、60・6%)。「(夫の家事 や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、52・5%もいた。当然だ。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(356)
●わだかまり論
ほとんどの人は、自分の意思で考え、決断し、そして行動していると思っている。しかし実際
には、人は意識として活動する脳の表層部分の、その約20万倍※もの潜在意識によって「動 かされている」。こんなことがあった。
J君(小3)と父親は、「とにかく仲が悪い」という。母親はこう話してくれた。「日曜日にいっしょ
に釣りに行ったとしても、でかけたと思ったら、その行く途中で親子げんかが始まってしまうの です。風呂にもときどきいっしょに入るのですが、しばらくすると、まず息子がワーツと泣き声を あげて風呂から出てくる。そのあと夫の『バカヤロー』という声が聞こえてくるのです」と。
そこでJ君を私のところへ呼んで話を聞くと、J君はこう言った。「パパはぼくが何も悪いことを
していないのに、すぐ怒る」と。そこで別の日、今度は父親に来てもらい話を聞くと、父親は父 親でこう言った。「息子の生意気な態度が許せない」と。父親の話では、J君が人をバカにした ような目つきで、父親を見るというのだ。それを父親は「許せない」と。
そこであれこれ話を聞いても、原因がよくわからなかった。が、それから一時間ほど雑談して
いると、J君の父親はこんなことを言い出した。「そう言えば、私は中学生のとき、いじめにあっ ていた。そのいじめのグループの中心にいた男の目つきが、あの目つきだった」と。J君の父 親は、J君が流し目で父親を見たとき、(それはJ君のクセでもあったのだが)、J君の父親は、 無意識のうちにも自分をいじめた男のめつきを、J君の目つきの中に感じていた。そしてそれ がこれまた無意識のうちに、父親を激怒させていた。
こういうのを日本では、昔から「わだかまり」という。「心のしこり」と言う人もいる。わだかまり
にせよ、しこりにせよ、たいていは無意識の領域に潜み、人をその裏からあやつる。子育ても まさにそうで、私たちは自分で考え、決断し、そして子育てをしていると思い込んでいるが、結 局は自分が受けた子育てを繰り返しているにすぎない。
問題は繰り返すことではなく、その中でも、ここに書いたようなわだかまりが、何らかの形で、
子育てに悪い影響を与えることである。が、これも本当の問題ではない。だれだって、無数の わだかまりをかかえている。わだかまりのない人など、いない。そこで本当の問題は、そういう わだかまりがあることに気づかず、そのわだかまりに振りまわされるまま、同じ失敗を繰り返す ことである。
そこであなたの子育て。もしあなたが自分の子育てで、いつも同じパターンで、同じように失
敗するというのであれば、一度自分の心の中の「わだかまり」を探ってみるとよい。何かあるは ずである。この問題は、まずそのわだかまりに気がつくこと。あとは少し時間がかかるが、それ で問題は解決する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(357)
●お人よしは、命取り?
このところ毎日のように、ウィルス入りのメールが届く。私のばあい、まずプロバイダーが、ウィ
ルス検査をしてくれる。この段階でウィルスが入っていると、そのメールを削除したり修復したり してくれる。(たいていはそのまま削除され、「削除しました」という連絡だけが私に届く。)が、そ れでもすり抜けてくるメールがある。
それについては、今度は私のパソコン自体で検査する。この段階で、ウィルスが混入していれ
ば、同じように削除する。で、それでも安心できない。私はさらにパソコンを使い分ける。あるい はプレウィンドウ画面に表示する前に、(?)と思われるメールは削除するという方法で対処し ている。が、だ。それでもすり抜けてくるメールがある。
私はメールアドレスを公開しているため、(ふつうは、こういう公開はしてはいけない)、悪意を
もった人からの攻撃を受けることがある。つい先日もその攻撃を受けた。あたかも読者からの 質問のような体裁を整えたメールだった。「うむ……?」と迷ったが、うかつにも開いてしまっ た。恐らく市販のウィルス検査ソフトにひかからないように、自分で改変したウィルスだったのだ ろう。とたんパソコンの動きがおかしくなった。もっともそれほど悪質なウィルスではなかったよ うで(?)、簡単な操作で修復できたが、ウィルスによってはシステム全体を破壊されることもあ る。
インターネットの世界では、お人よしは命取りになる。「あやしい」と思ったら、即、削除、また削
除。これしかない。しかし、それは口で言うほど、簡単なことではない。自分の中に本来的にあ る、「人格」、つまり私のばあい、「お人よし」との戦いでもある。「ひょっとしたら子育てで困って いる人からのメールかもしれない」「少し(件名)がおかしいが、まだパソコンになれていない人 からのものかもしれない」と思ってしまう。
そのメールを開いたときもそうだ。そう思って開くと、わけのわからない相談内容。一応子育て
の相談ということになっていたが、どこかトンチンカンな内容だった。「しまった!」と思ったとき には、もう遅かった。
私は改めて、こんなメモをパソコンの上に張りつけた。「あやしげなメールは、即、削除。お人よ
しは命取り」と。しかしそれを張りつけたとき、別のところで、自分の人格がまた一つ削られたよ うな気がした。「私はもともとそんなクールな人間ではないのになあ」と。しかしそうであるからこ そ、また心に誓う。「あやしげなメールは、即、削除」と。そういうことを誓わねばならないところ に、インターネットの問題点が隠されている。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(358)
●子どもの表情
昔から、『子どもの表情は親がつくる』という。事実そのとおりで、表情豊かな親の子どもは、
やはり表情が豊かだ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには悲しそうな顔を する。(ただし親が無表情だからといって、子どもも無表情になるとはかぎらない。)しかしこの 「表情」には、いろいろな問題が隠されている。
その一。今、表情のない子どもがふえている。「幼稚園児でも表情のとぼしい子どもは、全体
の二割前後はいる」と、大阪市にあるI幼稚園のS氏が話してくれた。程度の問題もあり、一概 に何割とは言えないが、多いのは事実。私の実感でも二割という数字は、ほぼ的確ではない かと思っている。ほかの子どもたちがドッと笑うようなときでも、表情を変えない。うれしいときも 悲しいときも、無表情のまま行動する、など。
(最近では、サイレントベービー論を否定する説が優勢になってきた。生まれつきというよりは、
親の拒否的育児姿勢によってそうなると考えるのが常識的になってきた。2009年7月。)
原因のひとつに、乳幼児期からのテレビ漬けの生活が考えられる。そのことはテレビをじっと
見入っている幼児を観察すればわかる。おもしろがっているはずだというときでも、またこわが っているはずだというときでも、ほとんど表情を変えない。保育園や幼稚園へ入ってからもそう で、先生が何かおもしろい話をしても、ほとんど反応を示さない。あたかもテレビでも見ている かのような感じで先生の方をじっと見ている。
このタイプの子どもは、ほかに、吐き出す息が弱く、母音だけで言葉を話すなどの特徴もある。
「私は林です」を、「ああいあ、ああいえう」というような話し方をする。こうした症状が見られた ら、私は親に、「小さいときからテレビばかり見ていましたね」と言うことがある。親は親で、「ど うしてそんなことがわかるのですか?」と驚くが、タネを明かせば、何でもない。が、この問題は それほど深刻に考える必要はない。やがて園や学校生活になれてくると、表情もそれなりに豊 かになってくる。
その二。子どものばあい、とくに警戒しなければならないのは、心(情意)と表情の遊離であ
る。悲しいときにニコニコと笑みを浮かべる、あるいは怒っているはずなのに、無表情のままで ある、など。心(情緒)に何か問題のある子どもは、この遊離現象が現れることが多い。たとえ ばかん黙児や自閉症児と呼ばれる子どもは、柔和な表情を浮かべたまま、心の中ではまった く別のことを考えていたりする。そんなわけで逆に、この遊離が現れたら、かなり深刻な問題と して、子どもの心を考える。
とくに教育の世界では、心と表情の一致する子どもを、「すなおな子ども」という。いやだったら
「いや」と言う。したかったら、「したい」と言う。外から見ても、心のつかみやすい子どもをすな おな子どもという。表情は、それを見分ける大切な手段ということになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(359)
●親しみのもてる子ども
こちらが親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切や、やさしさがそのまま、スーッ
と心の奥深くまで染み込んでいくのがわかる子どもがいる。そういう子どもを、一般に、「親しみ のもてる子ども」という。
一方、そういう親切や、やさしさがどこかではね返されてしまうのを感ずる子どももいる。ものの
考え方が、ひねくれていたりする。私「今日は、いい天気だね」、子「今日は、いい天気ではな い。あそこに雲がある」、私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気では ない」と。
親しみのもてる子どもとそうでない子どもの違いは、要するに心が開いているかどうかという
こと。心が開いている子どもは、当然のことながら、心の交流ができる。その心の交流が、互 いの親近感をます。そうでなければそうでない。
そこであなたとあなたの子どもの関係はどうだろうか。あなたは自分の子どものことを、親し
みのもてる子どもと思っているだろうか。それともどこかわけのわからない子どもと思っている だろうか。こんなチェックテストを用意してみた。
(1)あなたの子どもは、あなたの前で、したいことについて、「したい」と言い、したくないことに
ついては、「いやだ」と、いつもはっきりと言う。言うことができる。
(2)あなたの子どもはあなたに対して、子どもらしい自然な形で、スキンシップを求めてきたり、
甘えるときも、子どもらしい甘え方をしている。甘えることができる。
(3)あなたの子どもが何かを失敗し、それをあなたが注意したり叱ったとき、子どもがなごやか
な言い方で、「ごめんなさい」と言う。またすなおに自分の失敗を認める。
この三つのテストで、「そうだ」と言える子どもは、あなたに対して心が開いているということに
なる。そうであれば問題はないが、そうでなければ、あなたの子どもへの接し方を反省する。 「私は親だ」式の権威主義、ガミガミと価値観を押しつける過干渉、いつもピリピリと子どもを監 視する過関心など。さらに深刻な問題として、あなた自身が子どもに対して心を開いていない ばあいがある。
子どものことで、見え、メンツ、世間体を気にしているようであれば、かなり危険な状態であると
みてよい。さらに子どもに対して、ウソをつく、心をごまかす、かっこうをつけるなどの様子があ れば、さらに危険な状態であるとみてよい。あなたという親が子どもに心を開かないで、どうし て子どもに心を開けということができるのか。
子どもの心が見えなくなったら、子どもの心が閉じていると考える。「うちの子は何を考えてい
るかわからない」「何をしたいのかわからない」「何かを聞いてもグズグズしているだけで、はっ きりしない」など。この状態が長く続くと、親子の関係は必ず断絶する。もしそうなればなった で、それこそ、子育ては大失敗というもの。親しみのもてる子どもを考えるときには、そういう問 題も含まれる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(360)
●被害妄想(心配過剰)
こんな話を聞いたら、あなたはどう思うだろうか。「Aさん(32歳女性)が、子ども(4歳)と道路
を歩いていたときのこと。うしろからきた自転車に、その子どもがはねられてしまった。子ども はひどく頭を打ち、救急車がくるまで意識がなかった。幸いけがは少なくてすんだが、やがて深 刻な後遺症があらわれた。
子どもから集中力がなくなり、こまかい作業ができなくなってしまった。事故のとき、脳のある部
分が酸欠状態になり、それで脳にダメージを与えたらしい。で、その事故から5、6年になる が、その状態はほとんどかわっていない」と。
こういう話を耳にすると、母親たちの反応はいろいろに分かれる。(1)他人の話は他人の話
として、自分の子どもとは切り離すことができるタイプ。(2)「自分の子どもでなくてよかった」と 思い、「自分の子どもだったら、どうしよう」と、あれこれ考えるタイプ。
ふつうは(「ふつう」はという言い方は、適切でないかもしれないが)、(1)のように考える。しか
し心配性の人は、(2)のように考える。考えながら、その心配を、かぎりなく広げていく。「歩道 といっても安全ではない」「うちの子もフラフラと歩くタイプだから心配だ」「道路を歩くときは、う しろも見なくてはいけない」など。
もしあなたがここでいう(2)のタイプなら、子育て全体が、心配過剰になっていないかを反省
する。こうした心配過剰は、えてして妄想性をもちやすく、それが子育てそのものをゆがめるこ とが多い。過保護もそのひとつだが、過干渉、過関心へと進むこともある。
ある母親は、子ども(小四女児)が遠足に行った日、日焼け止めクリームを渡すのを忘れた。
そこで心配になり、そのクリームをわざわざ遠足先まで届けたという。「紫外線に多くあたると、 おとなになってから皮膚ガンになるから」と。また別の母親は、息子(小6)が修学旅行に行って いる間、心配で一睡もできなかったという。「どうして?」と私が聞くと、「あの子が皆にいじめら れているのではないかと心配でなりませんでした」と。
もっともこうした妄想性が自分の範囲でとどまっているなら、まだよい。しかしその妄想性が
他人に向けられると、大きなトラブルの原因となる。ある母親は、自分の息子(中1)が不登校 児になったのは、同級生のB男のせいだと思い込んでいた。そこで毎晩のようにB男の母親に 電話をしていた。いや、電話といっても、ふつうの電話ではない。夜中の2時とか3時。しかもそ の電話が、ときには1時間とか2時間も続いたという。
こうした妄想性は、いわばクセのようなもの。一度クセになると、いつも同じようなパターンで
考えるようになる。どこかでその妄想性を感じたら、できるだけ軽い段階でそれに気づき、そこ でブレーキをかけるようにする。たとえば冒頭の話で、あなたが(2)のように考える傾向があれ ば、「そういうふうに考えるのはふつうでない」とブレーキをかける。
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