ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(361)
●心のキズ
私の父はふだんは、学者肌の、もの静かな人だった。しかし酒を飲むと、人が変わった。今
でいう、アルコール依存症だったのか? 3〜4日ごとに酒を飲んでは、家の中で暴れた。大声 を出して母を殴ったり、蹴ったりしたこともある。あるいは用意してあった食事をすべて、ひっく り返したこともある。
私と六歳年上の姉は、そのたびに2階の奥にある物干し台に身を潜め、私は「姉ちゃん、こわ
いよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と泣いた。
何らかの恐怖体験が、心のキズとなる。そしてそのキズは、皮膚についた切りキズのように、
一度つくと、消えることはない。そしてそのキズは、何らかの形で、その人に影響を与える。 が、問題は、キズがあるということではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振り回さ れることである。
たとえば私は子どものころから、夜がこわかった。今でも精神状態が不安定になると、夜がこ
わくて、ひとりで寝られない。あるいは岐阜の実家へ帰るのが、今でも苦痛でならない。帰ると 決めると、その数日前から何とも言えない憂うつ感に襲われる。しかしそういう自分の理由が、 長い間わからなかった。
もう少し若いころは、そういう自分を心のどこかで感じながらも、気力でカバーしてしまった。
が、50歳も過ぎるころになると、自分の姿がよく見えてくる。見えてくると同時に、「なぜ、自分 がそうなのか」ということがわかってくる。
私は子どものころ、夜がくるのがこわかった。「今夜も父は酒を飲んでくるのだろうか」と、そ
んなことを心配していた。また私の家庭はそんなわけで、「家庭」としての機能を果たしていな かった。家族がいっしょにお茶を飲むなどという雰囲気は、どこにもなかった。だから私はいつ も、さみしい気持ちを紛らわすため、祖父のふとんの中や、母のふとんの中で寝た。それに私 は中学生のとき、猛烈に勉強したが、勉強が好きだからしたわけではない。母に、「勉強しなけ れば、自転車屋を継げ」といつも、おどされていたからだ。つまりそういう「過去」が、今の私を つくった。
よく「子どもの心にキズをつけてしまったようだ。心のキズは消えるか」という質問を受ける。
が、キズなどというのは、消えない。消えるものではない。恐らく死ぬまで残る。ただこういうこと は言える。心のキズは、なおそうと思わないこと。忘れること。それに触れないようにすること。 さらに同じようなキズは、繰り返しつくらないこと。つくればつくるほど、かさぶたをめくるようにし て、キズ口は深くなる。
私のばあいも、あの恐怖体験が一度だけだったら、こうまで苦しまなかっただろうと思う。しかし
父は、先にも書いたように、3〜4日ごとに酒を飲んで暴れた。だから54歳になった今でも、そ のときの体験が、フラッシュバックとなって私を襲うことがある。「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃ ん、こわいよオ」と体を震わせて、ふとんの中で泣くことがある。54歳になった今でも、だ。心の キズというのは、そういうものだ。決して安易に考えてはいけない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(362)
●「親だから」という論理
先日テレビを見ていたら、一人の経営者(55歳くらい)が、30歳前後の若者を叱責している
場面があった。30歳くらいの若者が、「親を好きになれない」と言ったことに対して、その経営 者が、「親を好きでないというのは、何ということだ! お前は産んでもらったあと、だれに言葉 を習った! (その恩を忘れるな!)」と。それに対して、その若者は額から汗をタラタラと流す だけで、何も答えられなかった(02年5月)。
私はその経営者の、そういう言い方は卑怯だと思う。強い立場のものが、一方的に弱い立場
のものを、一見正論風の暴論をもってたたみかける。もしこれが正論だとするなら、子どもは 親を嫌ってはいけないのかということになる。親子も、つきつめれば一対一の人間関係。昔の 人は、「親子の縁は切れない」と言ったが、親子の縁でも切れるときには切れる。
切れないと思っているのは、親だけで、また親はその幻想の上に安住してしまい、子どもの心
を見失うケースはいくらでもある。仕事第一主義の夫が、妻に向かって、「お前はだれのおか げでメシを食っていかれるか、それがわかっているか」と言うのと同じ。たしかにそうかもしれな いが、夫がそれを口にしたら、おしまい。親についていうなら、子どもを育て、子どもに言葉を 教えるのは、親として当たり前のことではないか。
日本人ほど、「親意識」の強い民族は、そうはいない。たとえば「親に向かって何だ」という言
い方にしても、英語には、そういう言い方そのものがない。仮に翻訳しても、まったく別のニュア ンスになってしまう。少なくとも英語国では、子どもといえども、生まれながらにして対等の人間 としてみる。
それに子育てというのは、親から子への一方的なものではない。親自身も、子育てをすること
により、育てられる。無数のドラマもそこから生まれる。人生そのものがうるおい豊かなものに なる。私は今、3人の息子たちの子育てをほぼ終えつつあるが、私は「育ててやった」という意 識はほとんどない。息子たちに向かって、「いろいろ楽しい思い出をありがとう」と言うことはあ っても、「育ててやった」と親の恩を押し売りするようなことは絶対にない。そういう気持ちはどこ にもないと言えばウソだが、しかしそれを口にしたら、おしまい。親として、おしまい。
私は子どもたちからの恩返しなど、はじめから期待していない。少なくとも私は自分の息子た
ちには、意識したわけではないが、無条件で接してきた。むしろこうして子育ても終わりに近づ くと、できの悪い父親であったことを、わびたい気持ちのほうが強くなってくる。いわんや、「親 孝行」とは? 自分の息子たちが私に孝行などしてくれなくても、私は一向に構わない。「そん なヒマがあったら、前向きに生きろ」といつも、息子たちにはそう教えている。この私自身が、そ の重圧感で苦しんだからだ。
私はそんなわけで、先の経営者の意見には、生理的な嫌悪感を覚えた。ぞっとするような嫌
悪感だ。しばらく胸クソの悪さを消すのに苦労した。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(363)
●親孝行否定論者?
私はよく親孝行否定論者と誤解される。ときどきEメールでも、そう書いてくる人がいる。しか
し事実は逆で、私は24歳のときから、収入の約50〜30%を、岐阜の実家に仕送りしてきた。 45歳のときまでそれを続けた。記憶にあるかぎりでは、少なくとも27歳のときから、実家での 冠婚葬祭、法事の費用、改築の費用なども、すべて負担してきた。
田舎のことで、そういう行事だけはことさら派手にする。法事にしても、たいてい料亭を借りきっ
てする。私には決して楽な額ではなかった。そのつどいつも、貯金通帳はカラになった。
私がなぜそうしたかということだが、だれかが私に命令したというわけではない。私は「子が
親のめんどうをみるのは当たり前」「子が家の心配をするのは当たり前」という、当時の世間的 な常識(?)を心のどこかで感じたからこそ、それをしてきた。しかしそれはものすごい重圧感 だった。
女房はただの一度も不平や不満を漏らさなかったが、経済的負担感も、相当なものだった。私
はそういう重圧感なり負担感を知っているからこそ、自分の息子たちには、そういう思いをさせ たくない。だから私は自分の息子たちに、あえて言う。「親孝行? ……そんなバカなことは考 えなくていい。家の心配? ……そんなバカなことは考えなくていい。お前たちはお前たちで、 自分の人生を思いっきり、前向きに生きろ。たった一度しかない人生だから、思う存分生きろ」 と。
子どもが親や家のために犠牲になるのは、決して美徳ではない。もしそれが美徳なら、子ど
もは子どもで自分の人生を犠牲にすることになり、それがまた順送りに繰り返され、結局はど の世代も、自分の人生をつかめなくなってしまう。いや、あなたはひょっとしたら、親や家のた めに犠牲になっているかもしれない。しかしあなたはそれを、あなたの子どもに求めてはいけ ない。強要してはいけない。親子といえども、人間関係が基本。その人間関係の中から、自然 に互いの尊敬心が生まれ、その上で、子どもが親の心配をしたり、家のめんどうをみるという のであれば、それはまた別の問題。
もっといえば、あくまでも子どもの問題。子どもの勝手。親に孝行しないからとか、家のめんどう
をみないからといって、その子どもを責めてはいけない。それぞれの親子や家庭には、あなた がいくら知恵をふりしぼっても、理解できない複雑な事情が潜んでいる。たとえばE氏(58歳)。 E氏はこのところ父の世話を疎遠にしているが、それについて親類の叔父や叔母たちに、電話 で「子が親のめんどうをみるのは当たり前だろ」と、説教されている。
E氏はこう言う。「私は父の子ではないのです。祖父と母の間に生まれた、不倫の子なんです。
私の家庭にはそういう複雑ないきさつがあるのです。しかしそういう話を、親類の人に話せます か。父もまだ生きていますから」と。
安易な親孝行論は、その人を苦しめることもある。この結論は、今でも一歩も譲る気はない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(364)
●安易な常識論で苦しむ人
日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだから故
郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめんどうをみる のはあたりまえ」など。
しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるいはそういう常識にしばら
れて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の子どもを気が合わないと 感じている母親は、7%もいることがわかっている(東京都精神医学総合研究所の調査、200 0年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと思うが、兄と接していると苦痛で ならない」とか。
故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正月に
帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「どうして自分の 子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに「自分の故郷でしょう」 「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦しめることになる。
たまたまあなたが心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準にして、他
人の過去をみてはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、それぞれに 過去を引きずって生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引きずっている人もい る。またそういう人のほうが、多い。
K市に住むYさん(38歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、Yさんをも
うけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、そこで虐待を 受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のときに家出。そのころ には母の居場所もわからなかったという。Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸福 な生活を送っています」(手紙)ということだが、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが想 像できる、その範囲をはるかに超えている。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事を してよいかわからなかった。
「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくない。そこで大切なことは、日
本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要があるということ。そしてその上で、何 が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考えてみる必要がある。
安易に、つまり何も考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危険なこと
でもある。とくにこの日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」を親や子どもに押し つける傾向が強い。こうした方法は、一見便利なようだが、それに頼ると、その実、ものの本質 を見失うことにもなりかねない。
「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。また人間そのも
のをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれからの子育ての基 本である。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(365)
●アメリカ論
よく私の「家族主義」について、つぎのように攻撃してくる人がいる。「林君は、家族主義を口
にするが、アメリカのほうが離婚率が高いではないか」「アメリカでは、夫婦でも裁判ザタになっ ているケースが、日本とは比較にならないほど、多いではないか」と。
これについて反論。離婚率が高いから、家族が破壊されているとはかぎらない。低いから家
族がしっかりしているということにもならない。たまたま日本の離婚率が低いのは、それだけ女 性ががまんしているからにほかならない。社会的、経済的地位も、まだ低い。男尊女卑思想も まだ残っている。たとえばオーストラリアあたりで、夫が妻に、「おい、お茶!」などと言おうもの なら、それだけで即、離婚。実際にはそういう会話をする夫はいない。ウソだと思ったら、近くに いるオーストラリア人に聞いてみることだ。
つぎに裁判だが、たしかに多い。しかしそれは日本とアメリカの制度の違いによる。アメリカ
には、それこそ地区ごとに、「コートハウス」と呼ばれる仲裁裁判所がある。人口数万の小さな 町にさえ、ある。そんなわけで、近隣で何かもめごとがあると、彼らはすぐ「では、判事に判断し てもらおうではないか」と、裁判所へでかけていく。こういう気安さ、気軽さがベースになっている から、夫婦であっても、裁判所へ出向く率は日本より、はるかに高い。
さらにアメリカから伝えられる凶悪事件を例にあげて、アメリカ社会は崩壊していると主張し
ている人もいる。しかしアメリカと言っても広い。あのテキサス州だけでも、日本の2倍の広さが ある。カルフォニア州だけでも、ほぼ日本の広さがある。一方、アメリカ人の目から見ると、日 本も東南アジアも区別できない。区別されない。インドネシアで暴動が起きると、アメリカ人は、 日本もそれに巻き込まれていると思う。
同じようにカルフォニア州の一都市で何か事件が起きたとしても、決して、アメリカ全土で起き
ているわけではない。先日もアメリカへ行ったら、知人のF氏(アメリカ人)はこう言った。「日本 人はハリウッドをアメリカだと思い込んでいるのでは」と。そして「ハリウッド映画だけを見て、そ れがアメリカと思ってほしくない」とも。
たしかにアメリカも多くの問題をかかえている。それは事実だが、しかしこれだけは忘れては
いけない。アメリカには「アメリカ人」と呼ばれるアメリカ人はいないということ。それは東京には 「東京人」と呼ばれる東京人はいないのと同じ。
先のテキサス州では、人口の40%がヒスパニックが占めている。もちろん中国系、日系など
のアジア人も多い。白人ばかりがアメリカ人ではないことは、常識だ。そういう他民族が集合し て、「アメリカ人」というアメリカ人をつくっている。単一民族しか知らない日本人とでは、そもそ も「国民」意識そのものがちがう。言いかえると、日本人対アメリカ人というように、そもそも対 等に考えることすら正しくない。
冒頭の問題は、そういう前提で考えなければならない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(366)
●「日本の教育はバカげている」・日本の常識、世界の標準?
『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。向こうでは家族ぐるみの交際がふ つうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなこ とをすれば、それだけで離婚事由になる。
困るのは『忠臣蔵』。ボスが罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。しか
し問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」 と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」と いうことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加 えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。
まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の 庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君 を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。
要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え るのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につ けるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力 主義。
日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特
にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。日本では、静かで従順な生徒がよい 生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質問する生徒がよい生徒ということにな っている。日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エデュケ ーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。
同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明 したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が 組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ い学校という」と。
日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(367)
●家族のつながりを守る法
2000年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約3年間、アメリカ国務省のスポー
クスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけに、退任を決 意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。
一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われ
た」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(53歳)だ。いわく「東京から名古屋 への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざまな苦痛を受け た」と。単身赴任は、6年間も続いた。
日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿題があ
る」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめ られた部分も多い。今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫 は、いくらでもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。 「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、周囲に いた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。
さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決
を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。 つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、であ る。
ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてル ービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。
日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカ
では学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親 はそのほうが子どものためになると判断する。
が、日本ではそうではない。軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。こう
した「違い」が積もりに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。言 いかえると、日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(368)
●事例(1)……心を解き放て!
今どき「先祖だ」「家だ」などと言っている人の気がしれない。……と書くのは、簡単だ。またこ
う書いたからといって、その先祖や家にしばられて苦しんでいる人には、みじんも助けにならな い。Yさん(45歳女性)がそうだ。盆になると、位牌だけでも300個近く並ぶ旧家にYさんは嫁 いだ。何でも後醍醐天皇の時代からの旧家だそうだ。で、今は、70歳になる祖父母、Yさん夫 婦、それに一男一女の三世代同居。正確には同じ敷地内に、別棟をもうけて同居している。 が、そのことが問題ではない。
祖母はともかくも、祖父とYさん夫婦との間にはほとんど会話がない。Yさんはこう言う。「同居
といっても形だけ。私たち夫婦は、共働きで外に出ています」と。しかし問題はこのことではな い。「毎月、しきたり、しきたりで、その行事ばかりに追われています。手を抜くと祖父の機嫌が 悪くなるし、そうかといって家計を考えると、祖父の言うとおりにはできないのです」と。
しかしこれも問題ではない。Yさんにとって最大の問題は、そういう家系だから、「嫁」というのは
家政婦。「孫」というのとは、跡取り程度にしか考えてもらえないということらしい。「盆暮れにな ると、叔父、叔母、それに甥や姪、さらにはその子どもたちまでやってきて、我が家はてんやわ んやになります。私など、その間、横になって休むこともできません」と。たまたま息子(中3)の できがよかったからよいようなものの、祖父はいつもYさんにこう言っているそうだ。「うちは本 家だから、孫にはA高校以上の学校に入ってもらわねば困る」と。
Yさんは、努めて家にはいないようにしているという。何か会合があると、何だかんだと口実を
つくってはでかけているという。それについても祖父はあれこれ言うらしい。しかし「そういうこと でもしなければ、気がヘンになります」とYさんは言う。
一度、たまたま祖父だけが家に残り、そのときYさんが食事の用意をするのを忘れてしまったと
いう事件があった。「事件」というのもおおげさに聞こえるかもしれないが、それはまさに事件だ った。激怒した祖父は、Yさんの夫を電話で呼びつけ、夫に電気釜を投げつけたという。「お前 ら、先祖を、何だと思っている!」と。
こういう話を聞いていると、こちらまで何かしら気がヘンになる。無数のクサリが体中に巻き
ついてくるような不快感だ。話を聞いている私ですらそうなのだから、Yさんの苦痛は相当なも のだ。で、私はこう思う。日本はその経済力で、たしかに先進国の仲間入りはしたが、その中 身は、アフリカかどこかの地方の、○○民族とそれほど違わないのでは、と。
もちろん伝統や文化はあるだろう。それはそれとして大切にしなければならないが、しかし今は
もう、そういうものを個人に押しつける時代ではない。「こういう伝統がある」と話すのは、その 人の勝手だが、それを受け継ぐかどうかは、あくまでもつぎの世代の問題ということになる。私 たちはその世界まで、立ち入ることはできない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(368)
●事例(2)……心を解き放て!
今、人知れず、家庭内宗教戦争を繰り返している家庭は多い。たいていは夫が知らない間
に、妻がどこかのカルト教団に入信してしまうというケース。しかし一度こうなると、夫婦関係は 崩壊する。価値観の衝突というのはそういうもので、互いに妥協しない。実際、妻に向かって 「お前はだれの女房だ!」と叫んだ夫すらいた。その妻が明けても暮れても、「K先生、K先生」 と言い出したからだ。夫(41歳)はこう言う。
「ふだんはいい女房だと思うのですが、基本的なところではわかりあえません。人生論や哲学
的な話になると、『何を言ってるの』というような態度をして、私を無視します」と。では、どうする か?
宗教にもいろいろある。しかしその中でも、カルトと呼ばれる宗教には、いくつかの特徴があ
る。
排他性(他の思想を否定する)、情報の遮断性(他の思想を遮断する)、組織信仰化(個人より
も組織の力を重要視する)、迷信性(外から見ると?と思うようなことを信ずる)、利益論とバチ 論(信ずれば得をし、離れるとバチが当ると教える)など。巨大視化(自説を正当化するため、 ささいな事例をことさらおおげさにとらえる)を指摘する学者もいる。
信仰のし方としては、催眠性(呪文を繰り返させ、思考能力を奪う)、反復性(皆がよってたか
って同じことを口にする)、隔離性(ほかの世界から隔離する)、布教の義務化(布教すればす るほど利益があると教える)、献金の奨励(結局は金儲け?)、妄想性と攻撃性(自分たちを批 判する人や団体をことさらおおげさに取りあげ、攻撃する)など。
その結果、カルトやその信者は、一般社会から遊離し、ときに反社会的な行動をとることがあ
る。極端なケースでは、ミイラ化した死体を、「まだ生きている」と主張した団体、毒ガスや毒薬 を製造していた団体、さらに足の裏をみて、その人の運命や健康状態がわかると主張した団 体などがあった。
人はそれぞれ、何かを求めて信仰する。しかしここで大切なことは、いくらその信仰を否定し
ても、その信仰とともに生きてきた人たち、なかんずくそのドラマまでは否定してはいけないと いうこと。みな、それぞぞれの立場で、懸命に生きている。その懸命さを少しでも感じたら、そ れについては謙虚でなければならない。「あなたはまちがっている」と言う必要はないし、また 言ってはならない。私たちがせいぜいできることといえば、その人の立場になって、その人の 悲しみや苦しみを共有することでしかない。
冒頭のケースでも、妻が何かの宗教団体に身を寄せたからといって、その妻を責めても意味
はない。なぜ、妻がその宗教に身を寄せねばならなかったのかというところまで考えてはじめ て、この問題は解決する。「妻が勝手に入信したことにより、夫婦関係が破壊された」と言う人 もいるが、妻が入信したとき、すでにそのとき夫婦は崩壊状態にあったとみる。そんなわけで 夫が信仰に反対すればするほど、夫婦関係はさらに崩壊する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(370)
●後手、後手の日本の教育改革
約60%の中学生は、「勉強で苦労するくらいなら、部活を一生懸命して、推薦で高校へ入っ
たほうが楽」と考えている。また同じく約60%の中学生は、「進学校へ入ると勉強でしぼられる ので、進学校ではない高校に入り、のんびりと好きなことをしたい」と考えている。(静岡県では 高校入試が、入試選抜の要になっている。これらの数字は、中学校の校長たちのほぼ一致し た見方と考えてよい。)
こうした傾向は進学高校でもみられる。以前は勉強がよくでき、テストの点が高い子どもほ
ど、周囲のものに尊敬され、クラスのリーダーになった。が、今は、ちがう。ある日私が中間層 にいる子どもたちに、「君たちもがんばって、(そういう成績優秀な連中を)負かしてみろ」と言っ たときのこと。全員(7人)がこう言った。「ぼくらはあんなヘンなヤツとはちがう」と。勉強がよく できる子どもを、「ヘンなヤツ」というのだ。
夢があるとかないとかいうことになれば、今の中高校生たちは、本当に夢がない。また別の
日、中学生たち(7人)に、「君たちもがんばって宇宙飛行士になってみろ。宇宙飛行士のMさ んも、そう言っているぞ」と言うと、とたん、みながこう言った。「どうせ、なれないもんネ〜」と。
こうした現実を、一体今の親たちは、どれだけ知っているだろうか。いや、すでに親たち自身
も同じように考えているのかもしれない。こうした傾向はすでに20年以上も前からみられたこと であり、今に始まったことではない。ひょっとしたら中学生や高校生をもつ親の何割かも、ここ にあげた中高校生のように考えているかもしれない。「どうせ勉強なんかしてもムダ」とか、「勉 強ができたところで、それがどうなのか」と。さらに今の親たちの世代は、長渕剛や尾崎豊の世 代。「学校」に対するアレルギー反応が強い世代とみてよい。「学校」と聞いただけで、拒絶反 応を示す親はいくらでもいる。
問題は、なぜ日本がこうなってしまったかということよりも、こうした変化に、日本の教育が対
応しきれていないということ。いまだに旧態依然の教育制度と教育観を背負ったまま、それを 親や子どもたちに押しつけようとしている。「改革」といっても、マイナーチェンジばかり。とても 抜本的とはいいがたいものばかり。すべてが後手、後手に回って、教育そのものがあたふたと しているといった感じになっている。
こうした問題に対処するには、私は教育の自由化しかない。たとえば基礎的な学習は学校
で、それ以外の学習はクラブで、というように分業する。学校は午前中で終わり、午後はそれ ぞれの子どもはクラブに通う。学校内部にクラブがあっても、かまわない。先生がクラブの指導 をしても、かまわない。各種スポーツクラブのほか、釣りクラブ、演劇クラブなど、さまざまなクラ ブが考えられる。月謝はドイツ並みに、1000円程度にする。方法はいくらでもある。
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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(371)
●知識と思考は別
パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、 別のことである。たとえばこんな会話。
A「昼に何を食べる?」、B「スパゲティはどう?」、A「いいね。どこの店にする?」、B「今度でき
た、角の店はどう?」、A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしい と話していたな」と。
この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し ているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の 九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはな らない。算数ができるということにはならない。
考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他 人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私 が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう 言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。
人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。ある朝幼稚園へ行 くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、 「石の赤ちゃんをさがしている」と。
その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為
かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、 パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。
多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから 考えるという習慣を奪ってしまう。
もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。いくら知識があって
も、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪しも関係ない。映画 『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のことを、 バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでく る。私はそれを心配する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(372)
●日本の教育の欠陥
日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。
さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。つまり日本の教育
は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子どもをつくるのが基 本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になっている。
戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日
本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。
ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自
分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断 のできる人間を育てなければ、2050年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・98年) と警告している(田丸先生指摘)。
夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と して外に取り出しているにすぎない。一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考え ていない。
思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本
当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのた め考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること 自体を避けようとする。
ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。私にとって生きるというこ とは、考えること。考えるということは、書くこと。
モンテーニュ(フランスの哲学者、1533〜92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書
いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そ ういう意味も含まれる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(373)
●攻撃的に生きる人、防衛的に生きる人
ほぼ30年ぶりにS氏と会った。会って食事をした。が、どこをどうつついても、A氏から、その
30年間に蓄積されたはずの年輪が伝わってこない。会話そのものがかみあわない。話が表 面的な部分で流れていくといった感じ。そこで話を聞くと、こうだ。
毎日仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。読むのはスポーツ新聞だけ。休みは、
晴れていたらもっぱら釣り。雨が降っていれば、ただひたすらパチンコ、と。「パチンコでは半日 で五万円くらい稼ぐときもある」そうだ。しかしS氏のばあい、そういう日常が積み重なって、今 のS氏をつくった。(つくったと言えるものは何もないが……失礼!)
こうした方向性は、実は幼児期にできる。幼児でも、何か新しい提案をするたびに、「やりた
い!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になって「やりたくない」とか「つまらない」と言う 子どもがいる。フロイトという学者は、それを「自我論」を使って説明した。自我の強弱が、人間 の方向性を決めるのだ、と。たとえば……。
自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、も
のの考え方が現実的(頼れるのは自分という考え方をする)で、創造的(将来に向かって展望 をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動 できる。
反対に自我の弱い子どもは、物事に対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよく口
にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、占いや手相にこ る)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くなる。たとえ ばほしいものがあると、それにブレーキをかけられない、など。
一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛(おうせい)で何かにつけ、前向きに伸びていく。 反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているか分 からない子どもといった感じになる。
その道のプロなら、子どもを見ただけで、その子どもの方向性を見抜くことができる。私だっ
てできる。しかし20年、30年とたつと、その方向性はだれの目から見てもわかるようになる。 それが「結果」として表れてくるからだ。
先のS氏にしても、(S氏自身にはそれがわからないかもしれないが)、今のS氏は、この30年
間の生きざまの結果でしかない。攻撃的に生きる人と、防衛的に生きる人とでは、自ずと結果 はちがってくる。
帰り際、S氏は笑顔だけは昔のままで、「また会いましょう。おもしろい話を聞かせてください」
と言ったが、私は「はあ」と言っただけで、何も答えることができなかった。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(374)
●思考のメカニズム
古来中国では、人間の思考作用をつぎのように分けて考える(はやし浩司著「目で見る漢方
診断」「霊枢本神篇」飛鳥新社)。
意……「何かをしたい」という意欲
志……その意欲に方向性をもたせる力
思……思考作用、考える力
慮……深く考え、あれこれと配慮する力
智……考えをまとめ、思想にする力
最近の大脳生理学でも、つぎのようなことがわかってきた。人間の大脳は、さまざまな部分が
それぞれ仕事を分担し、有機的に機能しあいながら人間の精神活動を構成しているというの だ(伊藤正男氏)。たとえば……。
大脳連合野の新・新皮質……思考をつかさどる
扁桃体……思考の結果に対して、満足、不満足の価値判断をする
帯状回……思考の動機づけをつかさどる
海馬……新・新皮質で考え出したアイディアをバックアップして記憶する
これら扁桃体、帯状回、海馬は、大脳の中でも「辺縁系」と呼ばれる、新皮質とは区別される
古いシステムと考えられてきた。しかし実際には、これら古いシステムが、人間の思考作用を コントロールしているというのだ。まだ研究が始まったばかりなので、この段階で結論を出すの は危険だが、しかしこの発想は、先の漢方で考える思考作用と共通している。あえて結びつけ ると、つぎのようになる。
大脳皮質では、言語機能、情報の分析と順序推理(以上、左脳)、空間認知、図形認知、情
報の総合的、感覚的処理(以上、右脳)などの活動をつかさどる(新井康允氏)。これは漢方で いう、「思」「慮」にあたる。
で、この「思」「慮」と並行しながら、それを満足に思ったり、不満足に思ったりしながら、人間の
思考をコントロールするのが扁桃体ということになる。
もちろんいくら頭がよくても、やる気がなければどうしようもない。その動機づけを決めるのが、
帯状回ということになる。これは漢方でいうところの「意」「志」にあたる。日本語でも「思慮深い 人」というときは、ただ単に知恵や知識が豊富な人というよりは、ものごとを深く考える人のこと をいう。
が、考えろといっても、考えられるものではないし、考えるといっても、方向性が大切である。そ
れぞれが扁桃体・帯状回・海馬の働きによって、やがて「智」へとつながっていくというわけであ る。
どこかこじつけのような感じがしないでもないが、要するに人間の精神活動も、肉体活動の一
部としてみる点では、漢方も、最近の大脳生理学も一致している。人間の精神活動(漢方では 「神」)を理解するための一つの参考的意見になればうれしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(375)
●考えることを放棄する子どもたち
「考える力」は、能力ではなく、習慣である。もちろん「考える深さ」は、その人の能力によると
ころが大きい。が、しかし能力があるから考える力があるとか、能力がないから考える力がな いということにはならない。もちろん年齢にも関係ない。子どもでも、考える力のある子どもはい る。おとなでも考える力のないおとなはいる。
こんなことがあった。幼児クラスで、私が「リンゴが三個と、二個でいくつかな?」と聞いたとき
のこと。子どもたち(年中児)は、「五個!」と答えた。そこで私が電卓をもってきて、「ええと、三 個と二個で……。ええと……」と計算してみせたら、一人女の子が、私をじっとにらんでこう言っ た。「あんた、それでも先生?」と。私はその女の子の目の中に、まさに「考える力」を見た。
一方、夜の番組をにぎわすバラエティ番組がある。実に軽薄そうなタレントが、これまた軽薄
なことをペラペラと口にしては、ギュアーギャアーと騒いでいる。一見考えてものをしゃべってい るかのように見えるが、その実、彼らは何も考えていない。脳の、きわめて表層部分に飛来す る情報を、そのつど適当に加工して、それを口にしているだけ。まれに気のきいたことを言うこ ともあるが、それはたまたま暗記しているだけ。
あるいは他人の言ったことを受け売りしているだけ。そういうときその人が考えているかどうか
は、目つきをみればわかる。目つきそのものが、興奮状態になって、どこかフワフワした感じに なる。(だからといって、そういうタレントたちが軽薄だというのではない。そういう番組がつまら ないと言っているのでもない。)
そこで子どもの問題。この日本では、「考える教育」というのが、いままであまりにもなおざり
にされてきた。あるいはほとんど、してこなかった? 日本では伝統的に、「できるようにするこ と」に、教育の主眼が置かれてきた。学校の先生も、「わかったか?」「ではつぎ!」と授業を進 める。(アメリカでは、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と言って、授業を進める。)親は親 で、子どもを学校に送りだすとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言う。(アメリカでは、「先生 によく質問するのですよ」と言う。)
その結果、もの知りで、先生が教えたことを教えたとおりにできる子どもを、「よくできる子」と評
価する。そしてそういう子どもほど、受験体制の中をスイスイと泳いでいく。しかしこんなのは教 育ではない。指導だ。つまり日本の教育の最大の悲劇は、こうした指導を教育と思い込んでし まったところにある。
大切なことは、考えること。子どもに考える習慣を身につけさせること。そして「考える子ども」
を、正しく評価すること。そういうしくみをつくること。それがこれからの教育ということになる。ま たそうでなければならない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(376)
●子どもを一人の人間としてみる
子どもを一人の人間としてみるかどうか。その違いは、子育てのし方そのものの違いとなって
あらわれる。
子どもを半人前の、つまり未熟で未完成な人間とみる人……子どもに対する親意識が強くな
り、命令口調が多くなる。反対に、子どもを甘やかす、子どもに楽をさせることが、親の愛と誤 解する。子どもの人格を無視する。ある女性(六五歳)は孫(五歳)にこう言っていた。
「おばあちゃんが、このお菓子を買ってあげたとわかると、パパやママに叱られるから、パパや
ママには内緒だよ」と。あるいは最近遊びにこなくなった孫(小四女児)に、こう電話していた女 性もいた。「遊びにおいでよ。お小遣いもあげるし、ほしいものを買ってあげるから」と。
子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間、もっといえば一人の人格者と認める
こと。たしかに子どもは未熟で未完成だが、それを除けば、おとなとどこも違はない。そういう 視点で、子どもをみる。育てる。
こうした見方の違いは、あらゆる面に影響を与える。ここでいう命令は、そのまま命令と服従
の関係になる。命令が多くなればなるほど、子どもは服従的になり、その服従的になった分だ け、子どもの自立は遅れる。また甘やかしはそのまま、子どもをスポイルする。日本的に言え ば、子どもをドラ息子、ドラ娘にする。が、それだけではない。
子どもを子どもあつかいすればするほど、その分、人格の核形成が遅れる。「この子はこういう
子だ」というつかみどろころのことを、「核」というが、そのつかみどころ.がわかりにくくなる。教 える側からすると、「何を考えているかわからない子」という感じになる。そして全体として幼児 性が持続し、いつまでもどこか幼稚ぽくなる。わかりやすく言えば、おとなになりきれないまま、 おとなになる。
このことはたとえば同年齢の高校生をくらべてみるとわかる。たとえばフランス人の高校生と、
日本人の高校生は、まるでおとなと子どもほどの違いがある。
昔から日本では、「女、子ども」という言い方をして、女性と子どもは別格にあつかってきた。
「別格」と言えば、聞こえはよいが実際には、人格を否定してきた。女性は戦後、その地位を確 立したが、子どもだけはそのまま取り残された。が、問題はここで終わるわけではない。こうし て子どもあつかいを受けた子どもも、やがておとなになり、親になる。そして今度は自分が受け た子育てと同じことを、つぎの世代で繰り返す。こうしていつまでも世代連鎖はつづく……。
この連鎖を断ち切るかどうかは、つまるところそれぞれの親の問題ということになる。もっと
言えば、切るかどうかはあなたの問題。今のままでよいと思うなら、それはそれでよいし、そう であってはいけないと思うなら、切ればよい。しかしこれだけは言える。日本型の子育て観は、 決して世界の標準ではないということ。少なくとも、子どもを自立させるという意味では、いろい ろと問題がある。それがわかってほしかった。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(377)
●親像
子育てが、どこかぎこちない。どこか不自然。子どもに甘い。子どもにきびしい。子どもに冷
淡。子どもが好きになれない。子育てがわずらわしい。子育てがわからない……。
このタイプの親は、不幸にして不幸な家庭に育ち、いわゆる親像がじゅうぶんに入っていない
人とみる。
つまりその親像がないため、「自然な形での子育て」ができない。「いい家庭をつくろう」「いい親
でいよう」という気負いが強く、そのため親も疲れるが、子どもも疲れる。そしてその結果、子育 てで失敗しやすい。
しかし問題は、不幸にして不幸な家庭に育ったことではない。満足な家庭で育った人のほう
が少ない。問題は、そういう過去に気づかず、その過去にひきずられるまま、同じ失敗を繰り 返すこと。たとえば暴力がある。子どもに暴力をふるう人というのは、自分自身も親から暴力を 受けたケースが多い。これを世代連鎖とか世代伝播(でんぱ)という。そういう意味で、子育てと いうのは、親から子どもへと代々、繰り返される。
そこで大切なことは、こうした自分の子育てのどこかに何か問題を感じたら、その原因を自分
の中にさがしてみること。何かあるはずである。ある母親は、自分が中学生になるころから、自 分の母親を否定しつづけてきた。父親も「いやらしい」とか、「汚い」とか言って遠ざけてきた。
また別の母親は、まだ三歳のときに母親と死別し、父親だけの手で育てられてきた。そういう
過去が、その母親をして、今の母親をつくった。このタイプの母親は決まってこう言う。「子育て のし方がわかりません」と。
が、自分の過去に気づくと、その段階で、失敗が止まる。自分自身を客観的に見つめること
がでるようになるからだ。実は私自身も、不幸にして不幸な家庭に生まれ育った。気負いが強 いか弱いかと言われれば、ここに書いたように、気負いばかりが強く、子育てをしながらも、い つも心のどこかに戸惑いを感じていた。しかしいつか自分自身の過去を知ることにより、自分 をコントロールできるようになった。「ああ、今、私は子どもに心を許していないぞ」「ああ、今の 自分は子どもを受け入れていないぞ」と。
「簡単になおる」という問題ではないが、あとは時間が解決してくれる。繰り返すが、まずいの
は、そういう自分自身の過去に気づかないまま、その過去に振りまわされることである。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(378)
●家庭は心いやす場所
子どもの世界は、(1)家庭を中心とする第一世界、(2)園や学校を中心とする第二世界、そ
して(3)友人たちとの交友関係を中心とする第三世界に分類される。(このほか、ゲームの世 界を中心とする、第四世界もあるが、これについては、今回は考えない。)
第二世界や第三世界が大きくなるにつれて、第一世界は相対的に小さくなり、同時に家庭
は、(しつけの場)から、(心をいやすいこいの場)へと変化する。また変化しなければならな い。その変化に責任をもつのは親だが、親がそれに対応できないと、子どもは第二世界や第 三世界で疲れた心を、いやすことができなくなる。
その結果、子どもは独特の症状を示すようになる。それらを段階的に示すと、つぎのようにな
る。(あくまでも一つの目安として……。)
(第一段階)親のいないところで体や心を休めようとする。親の姿が見えると、どこかへ身を隠
す。会話が減り、親からみて、「何を考えているかわからない」とか、あるいは反対に「グズグズ してはっきりしない」とかいうような様子になる。
(第二段階)帰宅拒否(意識的なものというよりは、無意識に拒否するようになる。たとえば園
や学校からの帰り道、回り道をするとか、寄り道をするなど)、外出、徘徊がふえる。心はいつ も緊張状態にあって、ささいなことで突発的に激怒したりする。あるいは反対に自分の部屋に 引きこもるような様子を見せる。
(第三段階)年齢が小さい子どもは家出(このタイプの子どもの家出は、もてるものをできるだ
けもって、家から一方向に遠ざかろうとする。これに対して目的のある家出は、その目的にか なったものをもって家出するので、区別できる)、年齢が大きい子どもは無断外泊、など。
最後の段階になると、子どもにいろいろな症状があらわれてくる。いろいろな神経症のほか、
子どもによっては何らかの情緒障害など。そして一度そういう状態になると、(親がますます無 理になおそうとする)→(子どもの症状がひどくなる)の悪循環の中で、加速度的に症状が重く なる。
要はこうならないように、(1)家庭は心をいやす場であることを大切にし、(2)子ども自身の
「逃げ場」を大切にする。ここでい逃げ場というのは、たいへいは自分の部屋ということになる が、その子ども部屋は、神聖不可侵の場と心得る。子どもがその逃げ場へ入ったら、親はそ の逃げ場へは入ってはいけない。いわんや追いつめて、子どもを叱ったり、説教してはいけな い。子どもが心をいやし、子どものほうから出てくるまで親は待つ。そういう姿勢が子どもの心 を守る。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(379)
●家族の悪口は言わない
ある母親は娘(小四)に、いつもこう言っていた。「お父さんは、ただの倉庫番よ。お父さんの
給料が少ないから、お母さん、苦労しているのよ」と。「お父さんは大学を出てないから、苦労し てるのよ。あなたはお父さんのような苦労をしないでね」と言った母親もいた。
母親は、自分の子どもを味方にしたり、自分の夢や希望をかなえてもらいため、そう言ってい
たのだろうが、そういう言い方をすると、娘は父親の言うことは聞かなくなるばかりか、それ以 上に母親の言うことを聞かなくなる。仮にそのとき、娘が同情したり、納得するフリを見せたとし ても、それはあくまでもフリ。夫婦が一枚岩でも子育てがむずかしい時代に、こういう状態で、 どうして満足な子育てができるというのか。
たとえそうであっても、母親は子どもの前では、父親を立てる。決して封建的なことを言ってい
るのではない。互いに高めあって、つまり高度な次元で尊敬しあってはじめて、「平等」が成り 立つ。こういうケースでも、母親は子どもにはこう言う。「お父さんは、私たちのためにがんばっ ていてくれるのよ」とか、「お母さんはお父さんの考え方が好きよ。会社でもみんなに尊敬され ているのよ」と。
同じように、学校の先生についても、悪口を言ってはいけない。子どもが何か、悪口を言って
も、相づちを打ってもいけない。「あなたたちが悪いからでしょ」と言って、はねのける。あなた が学校の先生の悪口を言うと、その言葉はどんな形であれ、(あるいは子どもの態度をとおし て)、先生に伝わる。教育は人間関係で決まる。そういう話が先生に伝わると、先生は確実に やる気をなくす。そればかりではない。子ども自身が、先生に従わなくなる。そうなればなったと き、教育は崩壊する。
親にせよ、先生にせよ、悪口は、それを言えば言うほど、その人を見苦しくする。子育てにつ
いて言えば、マイナスになることはあっても、プラスになることは何もない。とくに子どもの前で は、だれの悪口にせよ、言わないことこそ、賢明。子どもの前では、その人のよい面だけを見 て、それをほめるようにする。そういう姿勢が、他方で子どもを伸ばす。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(380)
●子育てのコツ(1)
子どもの運動能力は、敏捷(びんしょう)性で決まる。敏捷性があれば、ほぼどのスポーツも
できるようになる。反対にその敏捷性がないと、努力の割には、スポーツはうまくならない。で、 その敏捷性を育てるには、子どもは、はだしにして育てる。
反対に、靴下に分厚い靴底の靴をはかせて、どうやって敏捷性を育てるというのか。それがわ
からなければ、分厚い手袋をはめて、パソコンのキーボードやピアノの鍵盤をたたいてみれば よい。しかもその時期というのは、〇〜二歳までに決まる。ある子ども(男児)は二歳のときに は、うしろむきにスキップして走ることができた。お母さんに秘訣を聞くと、「うちの子は雨の日 でもはだしで遊んでいます」ということだった。
子どもの国語力は、母親が決める。もっと正確には、母親の会話能力が決める。将来、国語
が得意な子どもにしたかったら、「ほら、バス、バス、靴は?」という言い方ではなく、「もうすぐ バスがきます。あなたは靴をはいて、外でバスを待ちます」と、正しい言い方で言い切ってあげ る。こうした日常的な会話が、子どもの国語力の基礎となる。
その時期も、やはり〇〜二歳が重要。この時期、できるだけ赤ちゃん言葉を避け、できるだけ
豊かな言葉で話しかける。たとえば夕日を見ても、「きれい、きれい」だけではなく、「すばらしい ね。感動的だね。ロマンチックだね」などと、いろいろな言い方で言いかえてみる、など。
心のやさしい子どもにしたかったら、心豊かで、穏やかな家庭環境を大切にする。子どもは
絶対的な安心感(つまり子どもの側からみて、疑いをいだかない安心感)の中で、心をはぐく む。『慈愛は母のひざに始まる』と言ったのは※だが、全幅の信頼感と、全幅の愛情に包まれ て育った子どもは、話していても、ほっとするようなぬくもりを覚える。心が開いているから、親 切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切ややさしさが、そのまま子どもの心にしみこ んでいくのがわかる。あとは会話の中で、だれかを喜ばすことを教えていけばよい。
たとえば買い物に行っても、「これがあるとパパは、きっと喜ぶわね」「これを買ってあげるけ
ど、半分はお姉さんに分けてあげようね」と。やさしい子どもというのは、自然な形で、だれかを 喜ばすことができる子どものことをいう。
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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(381)
●子育てのコツ(2)
もう一五年ほど前のことだが、「サイエンス」という雑誌に、「ガムをかむと頭がよくなる」という
研究論文が発表された。ガムをかむことにより、脳への血行が刺激され、ついで脳の活動が 活発になる。その結果、頭がよくなるというものだった。
素人の私が考えても、合理性のある内容だった。そこでこの話を懇談会の席ですると、数人の
母親が、「では……」と言って、毎日子どもにガムをかませるようになった。
その結果だが、A君(ガムをかみ始めたのは年中児のとき)は、小学三年生になるころには、
本当に頭がよくなってしまった。もう一人そういう男の子もいたが、この方法は、どこかボンヤリ していて、ものごとに対する反応の鈍い子どもに有効である。(こう断言するのは危険なことか もしれないが、A君について言えば、年中児のときには、まるで反応がなく、一〇人中でも最下 位をフラフラしているような子どもだった。その子どもが小学三年になるころには、反対に、一 〇人中でも、最上位になるほど反応が鋭くなった。)
計算力は、訓練で伸びる。訓練すればするほど、計算は速くなる。で、その計算力を伸ばす
カギが、「早数え」。言いかえると、幼児期は、この早数えの練習をするとよい。たとえば手をパ ンパンと叩いて、それを数えさせるなど。
少し練習すると、一〇秒前後の間に、三〇くらいまでのものを数えることができるようになる。
最初は「ひとつ、ふたつ……」と数えていた子どもが、「イチ、ニイ……」、さらに「イ、ニ……」と 進み、やがて「ピッ、ピッ……」と信号化して数えることができるようになる。こうなると、「2+3」 の問題も、「ピッ、ピッと、ピッ、ピッ、ピッで5!」と計算できるようになる。反対に早数えが苦手 な子どもに、足し算や引き算を教えても、苦労の割には計算は速くならない。
少し暑くなると、体をくねくねさせ、座っているだけでもたいへんと思われる子どもがでてくる。
中には机の上のぺたんと体をふせてしまう子どももいる。そういう子どもを見ると、親は、「どう してうちの子は、ああも行儀が悪いのでしょうか」と言う。そして子どもに向かっては、「もっと行 儀よくしなさい」と叱る。しかしこれは行儀の問題ではない。このタイプの子どもは、まずカルシ ウム不足を疑ってみる。
筋肉の緊張を保つのが、カルシウムイオンである。たとえば指を動かすとき、脳の指令を受
けて、指の神経はカルシウムイオンを放出する。このカルシウムイオンが、筋肉を動かす。(実 際にはもう少し複雑なメカニズムでだが、簡単に言えばそういうことになる。)が、このカリシウ ムイオンが不足すると、筋肉が緊張を保つことができなくなり、ついで姿勢が悪くなる。
もしあなたの子どもにそのような症状が出ていたら、(1)骨っぽい食生活にこころがけ、(2)カ
ルシウムの大敵であるリン酸食品を減らし、(3)白砂糖の多い、甘い食生活を改める。子ども によっては、数日から一週間のうちに、みちがえるほど姿勢がよくなる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(382)
●子育てのコツ(3)
子どもの運筆能力は、丸(○)を描かせてみればわかる。運筆能力のある子どもは、スムー
ズなきれいな丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近い、ぎこちない丸を描く。
ちなみに縦線を描くときときと、横線を描くときは、手や指、手首の動きはまったく違う。幼児は
縦線が苦手で、かつ曲線となると、かなり練習をしないと描けない。
その運筆能力を養うには、ぬり絵が最適。こまかい部分を、縦線、横線、曲線をまじえなが
ら、ていねいにぬるように指導する。この運筆能力のあるなしは、満四〜五歳前後にはわかる ようになる。この時期の訓練を大切にする。それ以後は、書きグセが定着してしまい、なおす のがむずかしくなる。
母性(父性でもよい)のあるなしは、ぬいぐるみの人形を、そっと手渡してみるとわかる。母性
が育っている子どもは、そのぬいぐるみを、さもいとおしいといった様子で、じょうずに抱く。中 には頬をすりよせたり、赤ちゃんの世話をするような様子を見せる子どももいる。
しかし母性の育っていない子どもは、ぬいぐるみを見せても反応を示さないばかりか、中には
投げて遊んだり、足でキックしたりする子どももいる。全体の約八〇%が、ぬいぐるみに温かい 反応を示し、約二〇%が反応を示さないことがわかっている(年長児〜小学三年生)。
ぬいぐるみには不思議な力がある。もし「うちの子は心配だ」と思っているなら、一度、ぬいぐ
るみを与えてみるとよい。コツは、一度子どもの前で、大切そうにそのぬいぐるみの世話をす る様子を見せてから渡すこと。あるいは世話のし方を教えるとよい。まずいのは買ってきたま ま、袋に入れてポイと渡すこと。ちなみに約八〇%の子どもが、日常的にぬいぐるみと遊び、そ のうち約半数が、「ぬいぐるみ大好き!」と答えている。
子どもの知的好奇心を伸ばすためには、「アレッ!」と思う意外性を多くする。「マンネリ化し
た単調な生活は、知的好奇心の敵」と思うこと。決してお金をかけrということではない。意外性 は、日常生活のほんのささいなところにある。ある母親は、おもちゃのトラックの上に、お寿司 を並べた。また別の母親は、毎日違った弁当を、子どものために用意した。
私も以前、オーストラリアの友人がホームステイしたとき、彼らが白いご飯の上に、ココアとミル
クをかけて食べているのをみて、心底驚いたことがある。こうした意外性が、子どもの知的好 奇心を刺激する。
なお最近よく右脳教育が話題になるが、一方で、頭の中でイメージが乱舞してしまい、ものご
とを論理的かつ分析的に考えられない子どもがふえていることを忘れてはならない。「テレビな どの映像文化が過剰なまでに子どもの世界を包んでいる今、あえて右脳教育は必要ないので はないか」(九州T氏)という疑問も多く出されている。私もこの意見には賛成である。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(383)
●子育てに溺れる親たち
テレビのクイズ番組。テーマは、どこかの国の料理道具。それをことさらおおげさに取り上げ
て、ああでもない、こうでもないという議論がつづく。ヒマつぶしには、それなりにおもしろいが、 そういう情報がいったい、何の役にたつというのだろうか。……と考えるのは、ヤボなことだ。 が、幼児教育にも、同じような側面がある。
二〇〇二年の五月。私の手元にはいくつかの女性雑誌がある。その中からいくつかの記事
を拾ってみると……。「私は冷え性です。おむつをかえるとき、子どもがかわいそうです。どうす れば手を温めることができますか」「階段をおりるとき、三歳の子どもは、一段ごとすわりながら おります。手すりを使っておりるようにさせるには、どうすればいいでしょうか」「遊戯会で、親子 のきずなを深めるビデオのとり方を教えて」と。
こうした情報は、一見役にたつかのようにみえるが、その実、へたをすると、情報の洪水に巻
き込まれてしまい、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。それはちょうど中華料理と和 食とイタリア料理をミキサーにかけて、ぐちゃぐちゃにしてしまうようなものだ。が、それではすま ない。こうした情報に溺れると、思考能力そのものが停止する。一見考えているようだが、その つど情報に引きまわされ、自分がどこへ向かっているのかさえわからなくなってしまう。まさに 「溺れた状態」になる。
そこで子育てをするときには、いつも目標を定め、方向性をもたせる。「形」をつくれとか、「設
計図」をつくれというのではない。いつも自分の子育てを高い視点からみおろし、自分が今、ど こにいるかを知る。それはちょうど、旅をするときの地図のようなものだ。それがないと、迷子 になるばかりか、子育てそのものが袋小路に入ってしまう。たとえば不登校の問題。
たいていの親は自分の子どもが不登校児になったりすると、狂乱状態になる。その気持ちは
わからないでもないが、今、アメリカだけでも、ホームスクーラー(学校へ行かないで、家庭で学 習する子ども)が二〇〇万人を超えたとされる。ドイツやイタリアではクラブ制度(日本でいえば 各種おけいこ塾)が、学校教育と同じ、あるいはそれ以上に整備されている。カナダもオースト ラリアもそうだ。
さらにアメリカでは、学校の設立そのものが自由化され、バウチャースクール、チャータースク
ールなどもある。「不登校を悪」と決めてかかること自体、時代遅れ。時代錯誤。国際常識には ずれている。だからといって不登校を支持するわけではないが、しかしそういう視点でみると、 不登校に対する見方も変わってくる。高い視点でものを考えるというのはそういうことをいう。ま たそういう視点があると、少なくとも、「狂乱状態」にはならないですむ。
テレビのクイズ番組を見ながら、あなたも一度、ここに書いたようなことを考えてみてほしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(384)
●今を生きる子育て論
英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結 局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま せん」と教えている。
たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入 るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。
こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう
愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分 のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっている から、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わってい た……」と。
ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校 生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて 疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論の ある人もいるかもしれない。
しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であっ
て、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一 杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同 じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども 時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。
もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちに は、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとか らついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人 生は、見苦しくなる」と。
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車 をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常 会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その 違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか…… と、私は心配する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(385)
●今を生きる子育て論(2)
仕事をしているときは、休みの日のことばかり。それはわかる。しかしこのタイプの人は、休
みになると、今度は仕事のことしか考えない。だから休みの日を、休みの日として休むことがで きない。もともと「今」を生きるという姿勢そのものがない。いつも「今」を未来のために犠牲に するという生き方をする。しかしこういう生き方は、すでに子どものときから始まり、そして老人 になってからもつづく。
A氏(五八歳)は、いつもこう言っている。「私は退職したら、女房とシベリア鉄道に乗り、モス
クワまで行く」と。しかし私は、A氏は、退職してからも、モスクワまでは行かないだろうと思う。 仮に行ったとしても、その道中では、帰国後の心配ばかりするに違いない。「今を生きる」という 生きザマにせよ、「未来のために今を犠牲にする」という生きザマにせよ、それはまさに「生き ザマ」の問題であって、そんなに簡単に変えられるものではない。
A氏について言うなら、今まで、「未来のために今を犠牲にする」という生き方を日常的にしてき
た。そのA氏が退職したとたん、その生きザマを変えて、「今を生きる」などということは、できる はずもない。
……そこで私たち自身はどうなのかという問題にぶつかる。私たちは本当に「今」を生きてい
るだろうか。あるいはあなたの子どもでもよい。私たちは自分の子どもに、「今を大切にしろ」と 教えているだろうか。子どもたちはそれにこたえて、今を大切に生きているだろうか。ある母親 はこう言った。
「日曜日などに子どもが家でゴロゴロしていると、つい、『宿題はやったの?』、『今度のテストは
だいじょうぶなの?』と言ってしまう」と。親として子どもの「明日」を心配してそう言うが、こうした 言い方は、少しずつだが、しかし確実に積み重なって、その子どもの生きザマをつくる。子ども 自身もいつか、「休むのは、仕事のため」と考えるようになる。
当然のことだが、人生には限りがある。しかしいつか突然、その人生が終わるわけではな
い。健康も少しずつむしばまれ、気力も弱くなる。先のA氏にしても、定年後があるとは限らな い。この私にしても、五〇歳をすぎるころから、ガクンと気力が落ちたように思う。何かにつけて 新しいことをするのが、おっくうになってきた。
日本人は戦後、ある意味で、「今をがむしゃらに犠牲にして」生きてきた。会社人間、企業戦
士という言葉もそこから生まれ、それがまたもてはやされた。そういう親たちが、第二世代をつ くり、今、第三世代をつくりつつある。こうした生きザマに疑問をもつ人もふえてはきたが、しか し一方で、その生きザマを引きずっている人も多い。
仕事第一主義が悪いというわけではないが、今でも「仕事」を理由に、平気で家族を犠牲にし、
人生そのものまで犠牲にしている人も多い。仕事は大切なものだが、「何のために仕事をする のか」という原点を忘れると、人生そのものまで棒に振ってしまうことになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(386)
●飼い犬について
私の事務所から白い三階建てのビルが見える。ある資産家の自宅らしいが、その二階の一
室は犬専用の部屋になっている。ときおり大きな犬が、顔だけを外に出して、通りを行きかう人 をながめている。が、夏場になると、恐らく一日中クーラーをかけっぱなしにしているのだろう。 窓は閉じられ、外に顔を出すこともない。
一方、私の家では、二匹の犬は、庭で放し飼いにしている。庭の広さは、畑も含めて、ちょう
ど一〇〇坪。周囲は小さな森に囲まれ、犬たちにはそれほど悪い環境ではない。しかしそんな 私でも、ときどき犬たちに申し訳なく思うときがある。とくに一匹はポインターで、走るために生 まれてきたような犬だ。そんな犬が、思う存分走ることもできないでいる。女房はときどきこう言 う。「こんなところに飼われるために生まれてきた犬ではないのにね」と。
どちらの犬が幸せで、どちらの犬がそうでないかということを言っているのではない。私はそ
のビルに住む犬や、自分の家の犬を思い浮かべながら、一方で、人間の子どもはどうなのか と考える。先日、大阪へ行ってきたが、帰るとき、ちょうど帰校時の男子高校生たちと電車に乗 りあわせた。どの高校生も、それがファッションと言わんばかりに、だらしないかっこうをしてい た。そのうち何人かは携帯電話を手にもって、だれかと連絡をとりあっていた。窓の外はビル またビル。おとなたちはじっと目を閉じたり、下を向いたりして、何かに耐えているといったふう だった。
と、そのとき、一人の高校生が携帯電話のメールを読みながら、隣の席に座っている高校生に
こう言った。「チッ、おい、お前、マージャン、来れるか?」と。話の内容からすると、一人メンバ ーが何かの用事で欠けたらしい。隣の高校生はそれに対して断ることもできないといったふう に、元気のない声で「うん」と答えていた。が、それは何とも言われないほど退廃的な光景だっ た。
犬にとっても、人間にとっても、あるべき環境とは何か。またどういう環境こそが、犬や人間に
はふさわしいのか。ビルに住む犬も、私の庭に住む犬も、(相対的には、私の家の犬のほうが 幸せということになるのかもしれないが)、犬にとっては、不幸といってもよい環境かもしれな い。同じように、大阪で見かけた高校生にとっても、不幸といってもよい環境かもしれない。
その証拠というわけではないが、私が大阪で見た高校生は、どの高校生も、死んだ魚の目の
ような目つきをしていた。あたりをキョロキョロと見まわしながら、若い女性を見つけると、そち らにドロリとした鉛色の視線を投げかけていた。
……と考えて、「私はどうなのか」という問題にぶつかる。私はこの時代に、この国に生まれ
た。歴史の中でも、世界の中でも、これほど恵まれた時代はない。文句をつけるほうがおかし い。しかしそうであるにもかかわらず、心の充足感がないのはなぜか。どこか私自身がビルに 住む犬のような気がする。私の家の庭に住む犬のような気がする。あるいは大阪でみかけた 高校生のような気がする。どうしてか? どうしてなのか?
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(387)
●今を生きる子育て論(3)
頭からちょうちんをぶらさげて、キンキラ金の化粧をすることを、個性とは言わない。個性とは
バイタリティ。「私は私」という生きざまを貫くバイタリティをいう。結果としてその人は自分流の 生きざまを作るが、それはあくまでも結果。私の友人のことを書く。
私はある時期、二人の仲間と、ある財界人のブレーンとして働いたことがある。一人はAK
氏。日韓ユネスコ交換学生の一年、先輩。もう一人はピーター氏。メルボルン大学時代の一 年、後輩。私たちは札幌オリンピック(七二年)のあとの、国家プロジェクトの企画を任された。 が、ニクソンショックで計画はとん挫。私たちは散り散りになったが、それから二〇年後。AK氏 は四〇歳そこそこの若さで、日本ペプシコの副社長に就任。
またピーター氏は、オーストラリアで「BT」という宝石加工販売会社を起こし、やはり四〇歳そ
こそこの若さで、巨億の財を築いた。オーストラリア政府から、取り扱い高ナンバーワンで、表 彰されている。
三〇年前の当時を思い出して、彼らが特別の人間であったかどうかと言われても、私はそう
は思わない。見た感じでも、ごくふつうの青年だった。しいて言えば、彼らはいつも何かの目標 をもっていたし、その目標に向かってつき進む、強烈なバイタリティをもっていた。
AK氏は副社長になったあと、あのマイケル・ジャクソンを販売促進のために日本へ連れてき
た。ピーター氏は稼ぐだけ稼いだあと、会社を売り払い、今はシドニー郊外で、悠々自適の隠 居生活をしている。生きざまを見たばあい、私は彼らほど個性的な生き方をしている人を、ほ かに知らない。が、問題がないわけではない。
実は私のことだが、この私とて、当時は彼らに勝るとも劣らないほどの、バイタリティをもって
いた。が、結果としてみると、彼ら二人は個性の花を開かせることができたが、私はできなかっ た。理由は簡単だ。AK氏は、その後、外資系の会社を渡り歩いた。ピーター氏は、オーストラ リアへ帰った。つまり彼らの周囲には、彼らのバイタリティを受け入れる環境があった。
しかし私にはなかった。私が「幼稚園の教師になる」と告げたとき、母は電話口の向こうで、泣
き崩れてしまった。学生時代の友人(?)たちは、「あのはやしは頭がおかしい」と笑った。高校 時代の担任まで、同窓会で会うと、「お前だけはわけのわからない人生を送っているな」と、冷 ややかに言ってのけた。
世間は、「個性を伸ばせ」という。しかし個性とは何か、まず第一に、それがわかっていない。
次に個性をもった人間を、受け入れる度量も、ない。この三〇年間で日本もかなり変わった が、しかし欧米とくらべると、貧弱だ。いまだに肩書き社会に出世主義。それに権威主義がハ バをきかせている。組織に属さず、肩書きもない人間は、この日本では相手にされない。い や、その前に排斥されてしまう。
そんなわけで、個性を伸ばすということは、教育だけの問題ではない。せいぜい教育でできる
ことといえば、バイタリティを大切にすること。繰り返すが、その後、その子どもがどんな「人」に なるかは、子ども自身の問題であって、教育の問題ではない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(388)
●今を生きる子育て論(4)「子どもたちへ」
見てごらん、やさしくゆれる緑の木々
感じてごらん、肌をさする初夏のそよ風
聞いてごらん、楽しく遊ぶ小鳥のさえずり
それが「今」なんだよ
明日があるって?
昨日があるって?
本当かな?
本当にあるのかな?
あるというのなら、どこにあるのかな?
「明日」というクサリを解き放ってみようよ
「昨日」というクサリを解き放ってみようよ
解き放って、「今」を懸命に生きてみようよ
「明日」がなくても、悲しむことはないよ
「昨日」がどんなものであっても、嘆くことはないよ
明日がどんなものであれ、今の君は、今の君
昨日がどんなものであれ、今の君は、今の君
大きく息を吸って
目をしっかりと開いて
地面を強く足でたたいて
「今」を懸命に生きてみようよ
結果など、気にすることはないよ
結果はかならずあとからついてくる
心も体も、あとからついてくる
だからね、「今」を大切に生きようよ
ただひたすら自分に誠実に
ただひたすら自分に正直に
ただひたすら自分に素直に
だってね、今、ぼくたちはこうして生きているのだから……
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(389)
●心の貧しい若者たち
こんなバラエティ番組があった。
若いカップルのうち、男が携帯電話をテーブルに置いたまま、席を離れる。時間は一〇分だ
が、その間に相手の女性が、それを盗み見するかどうかを確かめるという番組である。喫茶店 かどこかの一室だが、あちこちに隠しカメラがセットしてあり、女性の行動はもちろん、さらにど こを盗み見しているかまでわかるようになっていた(〇二年五月)。
何とも低俗きわまりない番組だが、それ以上に、司会の男といい、出てくる男女といい、こうし
てコメントするのも、なさけないほど低劣な出演者だった。一片の知性も理性も感じなかった。 それはともかく、案の定というか、その番組で顔を出した女性の全員が、その盗み見をしてい た。中には何のためらいもなく、平気で盗み見している女性もいた。結論は、「あなたの恋人 も、あなたの携帯電話を盗み見している」(レポーター)ということだった。
その番組を見終わったあと、私は何とも言われない不快感に襲われた。「人を信じろ」という内
容の番組ならともかく、「人を疑え」という内容の番組だった。こういう番組が、何の恥じらいも 抵抗もなく、テレビという最新機器を使って、全国に垂れ流される恐ろしさ。この浜松でも、地方 都市の悲しさというか、「東京から来た」というだけで、何でもありがたがる。地方都市の地方に 住む人が、その地方をバカにしているから話にならない。あるいは地方の価値を認めていな い。タレントの世界には、こんな隠語がある。「東京で有名になって、地方で稼げ」と。
話はそれたが、私はその番組を見ながら、「時間をムダにしたくない」という思いから、こんな
ことを考えた。
一般論から言えば、「誠実さのない人」「道徳心や倫理観に欠ける人」は、心の貧しい幼少期
を過ごしたとみてよい。犬でも、愛犬家のもとで手厚い愛情を受けて育った犬ほど、忠誠心が 強くなる。態度も大きく、どっしりとした落ち着きがある。そうでない犬は、忠誠心も弱い。だれ にでもヘラヘラとシッポを振る。
同じように、こういう番組の中で、平気で相手の携帯電話を盗み見する女性というのは、それ
だけ心の貧しい家庭環境で育った女性とみてよい。そういう意味では、かわいそうな女性という ことになる。生まれながらにして、「人を疑う」という姿勢が身についている。一見美しいファッシ ョンに身を包んでいたが、その目つきには醜悪さが満ちあふれていた。いや、もう一歩踏み込 むと、こんなことも言える。
ああいう番組をプロデュースすることができる人間もまた、心のさみしい人たちだということ。
恐らく受験戦争だけを勝ち抜いて、テレビ局という花形企業に就職したのだろう。頭はキレる が、心を育てることができなかった……? 日本の思想や文化をリードしているという誇りも自 負心もない。ただただ「これでいいのか?」という疑問ばかりが残る、あと味の悪い番組だっ た。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(390)
●子どもを伸ばす会話術
●「立派な人になれ」ではなく、「尊敬される人になれ」と言う。(価値観を変える)
●「社会で役立つ人になれ」ではなく、「家族を大切にしようね」と言う。
●「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質問するの
ですよ」と言う。(親の指示に具体性をもたせる)
●「こんな点でどうするの!」ではなく、「どこをどうまちがえたか、あとで話してね」と言う。
●「がんばれ!」ではなく、「気を楽にしてね」と言う。(苦しんでいる子どもに、「がんばれ」は禁
句)
●「あとかたづけをしなさい」ではなく、「あと始末をしなさい」と言う。(あと片づけとあと始末は、
基本的に違う)
●「〜〜を片づけなさい」ではなく、「遊ぶときはおもちゃは一つよ」と言う。
●「〜〜しなさい」ではなく、「〜〜してほしいが、してくれる?」と言う。(命令はできるだけ避け
る)
●「友だちと仲よくしなさい」ではなく、「(具体的に)これを○○君にもっていってあげてね。きっ
と喜ぶわ」と言う。
●「(学校で)しっかりと勉強するのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話
をしたか、あとでママに教えてね」と言う。
●「はやく〜〜しなさい」ではなく、「この前より、はやくできるようになったわね」と言う。
●「どうしてこんなことをするの!」ではなく、「こんなことをするなんて、あなたらしくないね」と言
う。
●「あなたはダメな子ね」ではなく、「あなたはこの前より、いい子になったね」と言う。(前向き
のプラスの暗示をかける)
●「あなたは〜〜ができないわね」ではなく、「〜〜がうまくできるようになったわね」と言う。(欠
点を積極的にほめる)
親の会話力が、子どもを伸ばす。(もちろんつぶすこともある。)ほかにもたとえば直接話法で
はなく、間接話法で。英語の文法の話ではない。たとえば「あなたはいい子だね」と言うのは、 直接話法。「幼稚園の先生が、あなたはいい子だったと言っていたよ」というのは、間接話法な ど。
あるいは会話を丸くしたり、ときにはユーモアをまぜる。たとえば指しゃぶりしている子どもに
は、「おいしそうな指だね。ママにもなめさせてね」とか、「おとなの指しゃぶりのし方を教えてあ げようか」などと言う。コツは、あからさまな命令や禁止命令は避けるようにすること。何か子ど もに命令しそうになったら、ほかに言い方はないかを考えてみるとよい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(391)
●仲間に入れない子ども
小学生の低学年児でも、仲間がワイワイ騒いでいるとき、その輪に入ることができず、その
周囲で静かにしている子どもは、一〇人の中に二人はいる。適当に相づちを打ったり、軽く反 応することはあっても、自分から話題を投げかけたり、話してかけていくことはない。
対人恐怖症とか、性格的に萎縮しているといったふうでもない。で、よく観察すると、いくつかの
特徴があるのがわかる。そのひとつが、自分の周囲を小さくすることで、防衛線をはるというこ と。静かにおとなしくすることによって、自分に話題の火の粉がかからないようにしているのが わかる。そこでさらに観察してみると、こんなことがわかる。
心はいつも緊張していて、その緊張をほぐすことができない。もっと心を開けばよいのにと思
うが、その前の段階で、心をふさいでしまう。だからといって社会性がまったくないわけではな い。別の集団や、あるいは小人数の気を許した仲間の間では、結構騒いだりすることができ る。一方、情緒の何らかの障害があるとき、たとえばここにあげた対人恐怖症の子どものばあ いは、集団がかわっても心を開くことができない。
そこでこの段階で、二つの仮説が考えられる。ひとつは、このタイプの子どもを、軽い情緒障
害と位置づける考え方。もうひとつは、まったく別の症状と位置づける考え方。心の緊張感がと れないというのは、情緒障害児に共通してみられる症状で、それが「障害」と呼べるほども重く ないと考えることには合理性がある。実際のところ、かん黙児が、自分の周囲に防衛線を張 り、他者の侵入を許さないという症状と、どこか似ている。
また「まったく別の症状」と位置づけるのは、言うまでもなく、それが「問題だ」と言えるほどの
問題ではないことによる。このタイプの子どもはどこにでもいるし、またいたところでどうというこ とはない。ただ親の中には、「どうしてうちの子は、みんなの輪の中に入っていけないのでしょう か」と相談してくるケースは多い。また集団の中では精神的に疲労しやすく、その分、家へ帰っ てからなどに、親の前では乱暴な言葉をつかったり、ぐずったりすることはある。が、その程 度。集団から離れると、このタイプの子どもは再び自分の世界に戻ることができる。
……というように子どもの心の世界は、複雑で、それだけにまだ未解明の部分が多い。だか
ら「おもしろい」というのは不謹慎な言い方になるかもしれないが、「さらに調べてみよう」という 気にはなる。そういう意味では心がひかれる。
ついでながら、この問題について言うなら、集団になじめないからといって、おおげさに考える
必要はない。だれしも得意、不得意というのはある。集団の中でワイワイ騒ぐから、それでよい ということにはならない。騒げないからいけないということにもならない。そういう視点で、自分 の子どもは自分の子どもと割り切ることも、大切である。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(392)
●ある母親の相談から
こんな手紙を受け取った。手紙というより、ある団体が集めた、相談用紙だった。そのひと
つ。
「年中の男のです。ひらがなの書き順がめちゃめちゃ。なおしてあげようとすると、大声で泣
いて暴れて抵抗します。それに手と足の指の爪をかむクセがどうしてもなおりません。何かあ ると、やたらと『頭が痛い』と言い、『じゃあ、病院へ行こうか』と声をかけると、『いい』と言いま す。
おかげで私は毎日、子どもを怒ってばかり。親が怒りすぎるのは、どうしたらよいでしょうか。こ
のところ、私の言うことなど何も聞いてくれません。気にくわないことがあると、手当たり次第に ものを投げつけたりします」と。
順に考えれば、(1)大声で泣いて暴れるのは、かんしゃく発作。(2)手と足の指の爪をかむ
のは、神経症による代償行為。(3)「頭が痛い」というのは、本当に痛ければ、やはり神経症、 もしくは何らかの恐怖症の初期症状。(4)親が怒ってばかりいるのは、家庭教育そのものが、 すでに危険な状態に入っている。(5)「私の言うことは何も聞いてくれない」というのは、親子断 絶の初期症状などなど。(6)書き順を教えるのが、文字教育と思い込みすぎている点も、気に なる。
こういう指導法は、子どもを文字嫌いにする。さらには国語嫌いにする。エビでタイをつる前
に、エビを食べてしまうような指導法といってもよい。この時期大切なことは、文字は楽しい、本 はおもしろいという前向きな姿勢を育てること。トメ、ハネ、ハライをうるさく言い過ぎると、子ど もは文字に対して恐怖心をもつことすらある。ちなみに年中児で、「名前を書いてごらん」と指 示すると、約二〇%の子どもが、顔を曇らせ、体をこわばらせることがわかっている。中には 涙ぐむ子どもすらいる。一度、こうなると、以後、文字(本や国語)が好きになるということは、ま ずない。
が、それ以上に気になるのは、この母親は、子どものリズムというものが、まったくわかって
いない。いつも「自分が正しい」という大前提で、自分の子育て法を子どもに押しつけている。 子どもは子どもで、親にあたふたと引っ張りまわされているだけ。親子の間に、こういう不協和 音が流れると、あとはそれが底なしの悪循環となって、家庭教育は完全に崩壊する。あと数年 もすれば、体格も大きくなり、親の手には負えなくなる。子どもは「ウッセエ、このババア、サッ サと、小づかい、よこせ!」と、言うようになるかもしれない。
こういうケースでは、(1)〜(6)の症状は、いわば表面的な症状。基本的には、母親が子ども
のリズムで生活していない。言いかえると、これらの問題を解決しようとするなら、まず子ども のリズムで生活すること。親意識が強ければ、それを改める。さらに母親自身に何か大きなわ だかまりがあるのかもしれない。あればそれが何であるかを知る。子どもをなおそうと思うので はなく、自分自身をなおす。あとは少し時間がかかるが、それでなおる。年中児といえば、なお すための、そのギリギリの年齢とみてよい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(393)
●親をなおす、子をなおす
子どもに何か問題があると、ほとんどの親は子どもをなおそうとする。「うちの子はハキがあ
りません」「うちの子は消極的です」「うちの子は内弁慶です」「うちの子は勉強をしたがりませ ん」「うちの子は乱暴です」などなど。もちろん情緒障害児や精神障害児と呼ばれる子どもは別 だが、こうしたケースでは、子どもをなおそうと思わないこと。まず親自身が自らをなおす。こん なケースがある。
その母親の子ども(小五女児)が、親のはげしい過干渉と過負担から、ある日突然、無気力
症候群におちいり、そのまま学校へ行かなくなってしまった。私にあれこれ相談があったが、そ の一方で、その母親は中二の息子の受験競争に狂奔していた。その相談があった夜も、「こ れから息子を塾へ迎えにいかねばなりませんから」と、あわただしく私の家から出ていった。 「兄は別」と考えているようだったが、その兄だって妹のようになる確率はきわめて高い。
さらに親というのは身勝手なもの(失礼!)。少しよくなると、「もっと」とか、「さらに」とか言い
出す。やっと長い不登校から抜け出し、何とか学校へ行くようになった子ども(小二男児)がい た。そんなある日、居間で新聞を読んでいると、母親から電話がかかってきた。てっきり礼の電 話だと思って受話器をとると、母親はこう言った。
「何とか午前中は授業を受けるようになったのですが、どうしても給食はいやだと言って、給食
を食べようとしません。学校から電話がかかってきて、今は、保健室にいるそうです。何とか給 食を食べるようにさせたいのですが……」と。
もっとも子どものことがよくわかっていてくれるなら、私も救われる。しかし実際には、子ども
のことがまったくわかっていない親も多い。以前、場面かん黙児の子ども(年中男児)がいた。 ふとしたきっかけで、貝殻を閉ざすように、かん黙してしまう。たまたま母親が参観にきていた ので、子どもの問題点に気づいてもらおうと、その子どもがかん黙する姿を、それとなく見ても らった。
が、その夜、母親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。「あなたはうちの息子を萎縮させて
しまった。あんな子どもにしてしまったのは、あなたのせいだ。どうしてくれる!」と。
子どもの問題という言葉はよく聞かれる。しかし実際には、子どもの問題イコール、親の問題
である。これはもう三〇年以上も子どもの問題にかかわってきた「私」の結論ととらえてもらって よい。少なくとも、子どもだけを見ていたのでは、子どもの問題は解決しない。
(私は過去三〇年以上、無数の子育て相談に応じてきたが、こうした子育て相談で、だれから
も、一円の報酬も受けたことはない。受け取ったこともない。念のため。)
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(394)
皆さんからの質問
Q:どうして受験競争はなくならないのか?
A:歴然とした不公平社会があるから。この日本、学歴で得をする人は、死ぬまで得をする。そ
うでない人は、死ぬまで損をする.この不公平社会があるかぎり、受験競争はつづく。
Q:受験勉強が日本人の学力をあげているのではないのか。
A:受験勉強をして学力をあげているのは、ほんの一〇〜一五%の子どもたちだけ。残りの子
どもたちが、どんどんギブアップしていくので、全体を平均化すると、日本の子どもの学力はか えって低い。
Q:こうした現状を打開するためには、どうすればよいのか?
A:子どもの多様性にあわせて、教育を多様化する。しかしそれを中央の文部科学省だけでコ
ントロールするのは、不可能。教育の自由化は、地方の行政単位、さらには規制をゆるめ、学 校単位に任せればよい。
Q:多様化といっても、学校だけで応ずるのには限度があるのでは?
A:YES! ドイツやイタリア、カナダのようにクラブ制度を充実させればよい。これらの国で
は、クラブが学校教育と同じくらい充実し、重要な比重を占めている。
Q:月謝はどうするのか?
A:たとえばドイツでは、子ども一人当り、一律、二三〇ドイツマルク(約一万五〇〇〇円・月)
支払われている。この「子どもマネー」は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われて いる。親たちはこのお金を月謝にあてている。月謝はどのクラブも一〇〇〇円程度。学校の中 にもクラブはある。
Q:たとえば小学校での英語教育はどう考えたらいいのか?
A:英語を学びたい子どもがいる。学びたくない子どももいる。学ばせたい親がいる。学ばせた
くない親もいる。北海道から沖縄まで、みな、同じ教育という発想が、もう前近代的。学校では 基礎教科だけを教え、あとは民間に任せればよい。英語クラブだけではなく、中国語クラブが あってもよい。フランス語クラブやドイツ語クラブもあってもよい。
Q:教科書はどうすればいいのか?
A:検定制度をもうけているのは、先進国の中では日本だけ。「テキスト」と名称を変え、学校ご
との判断に任せればよい。
Q:そんなことをすれば、教育がバラバラになってしまうのでは?
A:それこそまさに全体主義的な考え方。アメリカもドイツもフランスもカナダも、そしてオースト
ラリアも、バラバラにはなっていない!
Q:あなたがそんなことを浜松市という地方都市で叫んでも、意味がないのでは?
A:そう、まったくその通り。こういうのを「犬の遠吠え」という。日本は奈良時代の昔から中央集
権国家。だから、地方の声など、まったく意味がない。ワオー、ワオー!
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(395)
●問題のある子ども
問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。学校の先生や、みなに、迷惑をかけ
ているのではという思いが、自分を小さくする。よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での 講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そういう親ほど、出てこない」という意見を聞く。
教える側の意見としては、そのとおりだが、しかし実際には、行きたくても行けない。恥ずかし
いという思いもあるが、それ以上に、白い視線にさらされるのは、つらい。それに「あなたの子 ではないか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。たしかに自分の子どもは、自 分の子どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。そんなわけで、たまたまあなた の子育てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人の子育てをとやかく言ってはい けない。
日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。目が上ばかり向いている。たとえばマスコ
ミの世界。私は昔、K社という出版社で仕事をしていたことがある。あのK社の社員は、地位や 肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのようにあつかった。電 話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。
相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりにいたしま
す」と言い、つづいてそうでない(私のような)人間であったりすると、「あのね、あんた、そうは 言ってもねエ……」と。それこそただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態 度を切りかえていた。その無意識であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといって もよい。
イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。私の立場
でいうなら、『子育て論は、子育てで失敗した人に聞け』ということになる。実際、私にとって役 にたつ話は、子育てで失敗した人の話。スイスイと受験戦争を勝ち抜いていった子どもの話な ど、ほとんど役にたたない。
が、一般の親たちは、成功者の話だけを一方的に聞き、その話をもとに自分の子育てを組み
たてようとする。たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべったときのことなど考えな い。すべったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺症が残るなどということ は考えない。この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。
問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、も
っと簡単なこと。しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。あるいは 自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。聖書にもこんな言葉がある。「慈悲深い 人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろう」(Matthew5-9)と。
この言葉を裏から読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分が笑われる」というこ
とになる。そういう意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に自分を置く。そういう 視点が、いつかあなたの子育てを救うことになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(396)
●弱者の立場で考える
学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えて いた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコース があり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれ を、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。
宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること ができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放 課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。
日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱 者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできや しなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。
実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスター
が、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけて いるテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつ けられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学 校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。
もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思
いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。
この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたもの も含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たち の、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(397)
●日本の武士道を説く人たち
江戸時代に山鹿素行という人物が、「武教小学」という本を書いた。これは朱子の「小学」を
模範として、武士の子弟のしつけ教育を目的として書かれた本である。
内容は、(1)夙起夜寝、(2)燕居、(3)言語応退、(4)行往坐臥、(5)衣食居、(6)財宝器物、
(7)飲食色欲、(8)放鷹狩猟、(9)興受、(10)子孫教戒の一〇章からなっている。この目録 からもわかるように、この本は行儀作法など日常や健康への心がまえを説いたものだと思え ばよい。またここでいう小学というのは、内篇と外篇の分かれ、内篇は、(1)立教、(2)明倫、 (3)敬身、(4)稽古の四巻、また外篇は、(5)嘉言、(6)善行の、計六巻から成り立っている。 その中の一節を、とりあげてみる。
「横渠張先生いわく、小児を教ふるには、
まず、安祥恭敬ならしむるを要す。
今世、学講せず、男女幼より便ち、
驕惰に懐了し、長ずるに至りて益々狂狼なり、
ただ未だすべて子弟のことを
なさざるがために、すなわち、その親において、
己の物我ありて肯て屈下せず、病根常にあり」(「嘉言」)と。
わかりやすく言うと、「横渠張先生がいわれるには、子どもを教育しようとしたら、まず人に対
して従順に、人をつつしみ敬うことを教える。が、最近は、学問もせず、男の子も女の子も、幼 いころから怠惰で、歳をとるにつれて、ますます狂暴になっていく。こうした子弟の教育をしない ことにあわせて、つまり親自身も我欲が強く、頭をさげることをしないところに、問題の原因が ある」と。(何とも意味不明な難解な文章なので、訳は適当につけた。)
この教育書について、私はあえてここでは何もコメントをつけない。ただこういうことは言え
る。「意識」というのは、いいかげんなものだということ。私はこの山鹿素行の「武教小学」を読 んでいたとき、それなりに説得力があるのに驚いた。「正しい」とか、「まちがっている」とかいう ことではなく、「住み心地の違い」のようなものだ。日本の家もスペインの家も、住んでみると、 それなりに住み心地は悪くない。家の形や間取り、使い勝手はまったく違うはずなのに、しばら く住んでみると、それがわからなくなる。
意識も同じようなもので、少しだけ自分の視点を変えてもると、山鹿素行の「武教小学」も、そ
れなりに「おもしろい」ということ。
あとは読者のみなさんの判断に任せる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(398)
●アメリカの家族主義、そして日本
一九七〇年はじめ、アメリカは、ベトナム戦争でつまずく。それは戦後、アメリカがはじめて経
験した手痛い「つまずき」でもあった。が、話したいことはこのことではない。そのつまずきと平 行して、あのヒッピー運動に代表される「カウンター・カルチャ」の時代をアメリカは迎えることに なる。「アメリカン・ドリーム」の酔いからさめると同時に、それまでの価値観が、ことごとく否定さ れ始めた。
離婚率の増加、同性愛、未婚の母、麻薬、性道徳の乱れなど。まさにアメリカは混乱の時期を
迎えたわけだが、ここでアメリカは二つの道に分かれた。一つは、新しい価値観の創造、もう 一つは、古きよき家族主義の復活である。前者はともかくも、後者は、ベンジャミン・フランクリ ンの家族主義に代表されるものの考え方で、それ以前からアメリカ人の精神的バックボーンに もなっていた。
そのためこの家族主義は割とすんなりとアメリカ人に支持された。たとえばそれを受けてアメリ
カのクリントン大統領は、「強い家族をもてば、アメリカはより強くなる」(金沢学生新聞社説指 摘)と述べている。
で、それから約三〇年。日本は、ちょうど三〇年遅れで、アメリカのあとを追いかけている。
平成元年とともに始まった大不況とともに、日本は、前後はじめて「つまずき」を経験したが、そ れはベトナム戦争で敗北したころのアメリカそのものと言ってよい。
エリート社会の崩壊、既存価値観の否定、さらに家族の崩壊と離婚率の増加などなど。教育そ
のものもデッドロック(暗礁)に乗りあげた。ただこの時点で、アメリカと日本の違いは、アメリカ は社会そのものを自由化競争の波の中に置くことで、民間活力を最大限利用したということ。 一方、日本は、明治以来の官僚機構の中で、いわば「コップの中の改革」をめざしたというこ と。たとえば教育にしても、アメリカでは学校の設立そのものも、自由化した。
一方、日本では、少子化などを理由に、設立の認可基準をさらに強化した。この違いがやがて
どう出るかは、もう少し時間の流れをみなければわからないが、ここでアメリカと同じように、日 本も二つの道を歩み始めたというのは、たいへんおもしろい。一つは、新しい価値観の創造。 もう一つは、古きよき時代(?)への復活である。
ただしその内容は、アメリカと正反対である。日本でいう新しい価値観の創造は、いわゆる家
族主義の台頭であり、一方、古きよき時代への復活は、旧来型の封建意識へもどることを意 味する。これは極端な例だが、日本の教育者の中には、「武士道こそ、日本古来の文化」と称 して、家庭教育そのものを、その「文化」に復帰させようという動きすらある。
これからの日本がどの道を進むかは、実際のところ私にはわからない。しかしこれだけは言
える。世界には「世界の流れ」というものがある。そしてその流れは、「グローバル化」をめざし てつき進んでいる。その流れは、もうだれにも変えることはできない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(399)
●悪玉親意識
親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自
分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、これまた二種類あ る。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。
非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値
観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子 どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。
これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその
「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、た いていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言 い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」と言う。
さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」とい
う)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いなが ら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。「あなたを育てるためにママ は苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにするのが前者。クリスマスなどに 豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとするのが後者ということにな る。
以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生の
方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後者 ということになる。
これらを表にしたのがつぎである。
親意識 善玉親意識
悪玉親意識 非依存型親意識
依存型親意識 押しつけ型親意識
コビ売り型親意識
子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それ
は当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあな たの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、お もしろいのでは……。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(400)
●講演について
私は昨夜、ふとんの中で、女房とこんな話をした。「講演なんかして、何になるのだろう?」と。
すると女房は、「ボランティア活動と考えればいいのでは……」と。私は一度はそれに納得した が、このところ疲れを感ずることも多くなった。
よく誤解されるが、聴衆が二〇人の会場で講演するのも、五〇〇人の会場で講演するのも、
疲れる度合いは同じである。またいくら講演料が安くても、また高くても、私のばあいは、手を 抜かない。講演を聞きにきてくれる人とは、その時点で一対一の関係になる。人数が少ないか ら、あるいは講演料が安いからという理由で、いいかげんな講演をすることは許されない。… …しない。
では、何のために講演をするのか? 私のばあい講演をしても、地位(もとからない)、肩書
き(これもない)、収入(収入を考えたら、とてもできない)のメリットは、ほとんど、ない。あるとす れば名誉ということになる。しかし名誉などというのは、あとからやってくるもの(あるいはやって こないかもしれない)で、名誉のために講演するというもの、おかしな話だ。で、私はこんなふう に考えた。
私は「考えること」イコール、「人生」だと思っている。そのために毎日、こうしてものを考えて
いる。それは前にも書いたが、未踏の荒野を歩くことに似ている。毎日が新しい発見の連続で あり、またひとつの発見をすると、さらにその向こうに新しい荒野があるのを知る。で、私にとっ ての生きがいは、その荒野を歩くことだ。それはそれだが、今度は歩いたからどうなのかという 問題が出てくる。私だけが知った荒野は、はたして私だけのものにしてよいかという問題であ る。
だいたいにおいてものを書くというのは、その先で、読んでくれる人がいるかもしれないという
期待があるからだ。実際には、自分の考えをまとめるために書くのだが、文字にするというの には、そういう意味が含まれる。
で、私が考えたことや、私が知ったことが、だれかの役にたてればそれでよいのでは……と。
あまりむずかしく考える必要はない。役にたてばそれでよい。役にたたなければそれでもよい。 判断するのは、会場に来てくれた人だ。私ではない。私が私であるように、人はそれぞれだ。 ……となると、またわからなくなってしまう。私は何のために講演をしているのか、と。
「自分の考えを他人に聞いてもらえるというのは、最高のぜいたくよ」と女房。
「それはわかっている」と、私。
「今、やるべきことをやればいいのよ」と女房。
「それもわかっている」と、私。
ただこの夏からは、講演の回数を、月三回程度におさえることにした。月四回となると、それ
だけで休日がなくなってしまう。私のばあいは、退職金も年金も、天下り先もない。収入は収入 で、別に稼がねばならない。講演で疲れて仕事ができなくなるというのは、たいへんつらい。そ う言い終わると、女房は「そうね」と言って、電気を消した。
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